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未唯への手紙

未唯への手紙

アレクサンドロスの遠征

2017年12月23日 | 4.歴史
『アレキサンドロス大王 東征路の謎を解く』より アレクサンドロスの遠征を追う

前三三四年

 アレクサンドロスが東方遠征に出発したのは前三三四年の春のことである。本国を発ったマケドニア軍は、アンフィポリスでギリシア同盟軍と合流し、二〇日後にケルソネソス半島のセストスに到着した。本隊は副将パルメニオソのもと、ヘレスポソトス(現ダーダネルス海峡)を船で渡り、アレクサンドロスは少数の部隊を率いてトロイヘ上陸した。こうして全軍は無事にアジアヘ渡り、二年前フィリッポス二世によって派遣されていた一万の先発部隊と合流して、遠征軍は総勢四万七一〇〇となった。

 マケドニア軍を待ちうけたのは、小アジアの総督たちが指揮するペルシア騎兵の大軍である。ペルシア軍は一万の騎兵部隊をグラニコス川の右岸に並べ、ギリシア人傭兵五〇〇〇は後方の丘に置いた。マケドニア軍は先手をとって川を渡り、激戦の末にペルシア軍は敗走した(グラニコスの会戦)。ギリシア人傭兵は降伏を申し出たが、アレクサンドロスはこれを拒否、三〇〇〇人を殺戮した上、捕虜は本国に送り返して強制労働につかせた。

 マケドニア軍はまっすぐ南下して、かつてのリュディア王国の首都サルディスに到達した。ここは属州リュディアの首都で、小アジアにおけるペルシア支配の拠点であり、首都スーサに至る「王の道」の起点でもあった。市民代表はマケドニア軍に都市を明げ渡し、城砦守備隊のペルシア人隊長も城砦と財貨を譲り渡した。

 港湾都市ミレトスでは、ロドス出身のギリシア人メムノンとペルシア人指揮官たちが傭兵部隊をもって抵抗した。しかしマケドニア艦隊がペルシア艦隊に先んじて港を確保したためミレトスは陥落、メムノンらは属州カリアの首都ハリカルナッソス(現ボドルム)へ移った。マケドニア軍は攻城兵器を駆使してハリカルナッソスを包囲攻撃、メムノンらは寵城は不可能と判断し、都市に火を放って退去した。一部の部隊は城砦に立てこもった。

 ミレトス陥落後、アレクサンドロスは艦隊を解散した。その理由は「陸から海を制する」との方針を採ったことにある。陸上で優位にある以上、沿岸諸都市を占領すればペルシア艦隊は港を失い、乗組員も食料も補給できずに解体すると考えたのである。それゆえ冬の間に沿岸地方を制圧しておく必要がある。まず小アジア南西部の沿岸地方を制圧し、北上して大フリュギア地方へ入り、首都ゴルディオンで冬を越した。ゴルディオンは「王の道」が通り、ダーダネルス海峡方面を経由する補給路の要をなす。こうして遠征一年目で、マケドニア軍は小アジアの西半分を占領した。

前三三三年

 春になると、指揮官メムノンが傭兵部隊と三〇〇隻のペルシア艦隊を率いて現れた。彼はキオス島およびレスボス島の大半を奪還し、豊富な資金で多くのギリシア人を味方につけた。これを見て、エーゲ海中部のキクラデス諸島も彼に使節を派遣した。

 大王の冬営地ゴルディオンにはパルメニオンの別動隊が合流し、本国からの増援軍も到着した。エーゲ海の情勢を知ったアレクサンドロスは、海軍の再建を命じた。遠征軍は七月頃に進発してアンキュラ(現アンカラ)を通過、南に転じてキリキア地方へ向かった。その途中、メムノンがレスボス島で突然病死したとの報告が届く。最強の敵が姿を消したのだ。だが後任のペルシア人指揮官は海上作戦を継続し、レスボス全体を制圧したばかりか、キオス、ミレトスといった大陸側のギリシア諸都市をも奪い返した。ハリカルナッソスの城砦に立てこもったペルシア軍も、カリア地方の諸都市を奪回した。さらにスパルタ王アギスは反乱を計画し、ペルシア側と秘かに連絡をとっていた。エーゲ海の制海権の行方は依然として不透明であった。

 マケドニア軍はタウロス山中のキリキア門を通過し、八月末から九月初め頃、タルソスに到着した。ところがアレクサンドロスが水浴後に高熱を発し、人事不省に陥った。一命は取りとめたが、回復まで二ヵ月近くも病床に臥せってしまった。

 一方、ペルシア王ダレイオス三世はバビロンに大軍勢を集め、八月末にバビロンを出発、一〇月下旬、アマノス山脈の東に広がる大平原に到着した。ここなら大規模な兵力を展開でき、少数のマケドニア軍に対して優位に立てる。キリキア地方沿岸へはアマノス山脈の北または南の峠を越えて五日の行程で、マケドニア軍がどちらの峠から進出して来ても対応できた。

 アレクサンドロスはようやく一〇月に病から回復した。まずパルメニオンの部隊がイッソス湾沿岸地方を制圧し、海沿いに南下してシリア門と呼ばれる峠を手に入れた。アレクサンドロス自身は沿岸諸都市を獲得したのち、イッソスから海沿いに南下して、ミュリアンドロスに至る。アマノス山脈南側のシリア門でペルシア軍を待ち受けるつもりであった。ところが意外にもペルシア軍が北から現れ、イッソスを占領したとの報告が入る。翌朝直ちに北上すると、ペルシア軍はピナロス川(現パヤス川)の北側に布陣していた。海と山の間隔は二・五キロで、大軍を展開するには狭すぎる。この狭さが勝敗を分けた。

 戦闘が始まると、マケドニアの近衛歩兵部隊、次いで騎兵部隊が川を渡り、ペルシア軍の左翼を攻撃して崩す。それからアレクサンドロスは、全騎兵と共にダレイオス三世めがけて突進した。ダレイオスの周囲で激戦が交わされ、まもなく彼は戦車で逃走した。中央部ではペルシア側のギリシア人傭兵が頑強に戦い、海側でもペルシア騎兵の大部隊がマケドニア軍左翼を圧迫したが、いずれも撃退され、ペルシア軍は総崩れとなった(イッソスの会戦)。ダレイオスは夜通し走り続げてユーフラテス川を越え、バビロンヘ帰還した。

 戦闘後、ダレイオスの財宝三〇〇〇タラントンが捕獲された。戦場に取り残された彼の母・妻・三人の子供たちは捕虜となった。ダレイオスは非戦闘員や軍資金・調度品をあらかじめダマスカスに送っていたが、こちらにはパルメニオンが派遣され、貴族の女性だちと大量の財貨を捕獲した。アレクサンドロスが財政難を脱することができたのは、これら戦利品のおかげである。

 イッソスの会戦後、アレクサンドロスは直ちに南下してフェニキア地方へ入った。フェニキア諸都市はキプロス人と共にペルシア海軍の主力をなしていたが、ほとんどの王は艦隊を率いてエーゲ海にあり、本国には不在だった。このため諸都市は次々と城門を開いて降伏する。しかしテュロスだけは臣従を拒否した。

前三三二年

 テュロスを放置するわけにはいかなかった。これからペルシア帝国の心臓部へ侵攻するには、エーゲ海を含む東地中海を我が物とし、背後の安全を確保せねばならない。それゆえ強力な海軍を有するテュロスを何としても制圧する必要がある。こうして前三三二年一月から丸七ヵ月に及ぶ大包囲戦が始まった。

 テュロスは大陸から約八○○メートルの海に浮かぶ、鉄壁の海上要塞都市である。マケドニア軍はまず大陸側から島に向けて突堤を築き、その先端に攻城兵器を牽き出して島を攻撃した。その後、エーゲ海にあったフェニキア艦隊八○隻とキプロス艦隊一二〇隻が臣従した。陸から海を制するという戦略が見事に効を奏したのだ。こうしてテュロスは海上から完全に封鎖された。それから島の南側で城壁を突破し、兵士たちが二斉に市内へなだれ込んだ。捕虜は三万人に及んだ。

 九月、アレクサンドロスはエジプトに進路をとった。途中には要衝の町ガザがあり、ペルシア人でアィスが龍城していたが、ニカ月の包囲戦の末にこれを陥落させた。

 一二月にエジプトの東の防衛拠点ペルシオンに着いた。総督代行のペルシア人マザケスは軍隊を持っておらず、無抵抗でペルシオンを明け渡した。エジプトは前四〇四年に独立を回復して以来、何度もペルシア軍の攻撃を退けたが、前三四三年に再び服属させられた。それゆえエジプト人はアレクサソドロスを解放者として歓迎し、エジプトは無血で平定された。大王は古都メンフィスで聖牛アピスに犠牲を捧げ、事実上のエジプト王=ファラオとなった。ナイルデルタの西端カノボスは、地中海とマレオティス湖に挟まれ、涼風の吹く健康的な土地だった。彼はここが都市建設に最適な場所であることを見抜き、自ら図面を引く。アレクサンドリア、のちにヘレニズム世界最大と謳われた都市の誕生である。この時までにエーゲ海の島々はすべてマケドュア海軍が奪回し、今や東地中海は完全に「マケドュアの海」となった。

前三三一年

 二月、アレクサンドロスはリビア砂漠を越えてシーワ・オアシスを訪れ、エジプトの最高神アモンの神殿で神託を受けた。ギリシア人はアモンをゼウスと同一視しており、大王ぱ神託によって自分が神の子であることが証明されたとの公式発表を流した。これは大王神格化への第一歩である。四月七日にアレクサンドリアの起工式を行い、六月にメンフィスを発つ。タプサコスでユーフラテス川を渡ってから、メソポタミア北部の山沿いを東へ行進した。

 ダレイオス三世も決戦に向げてバビロンを進発、アルベラを本拠地とし、そこから北へ九〇キロのガウガメラの大平原を戦場に定めた。すでに帝国東方からは、バクトリア人をはじめ最強の騎兵部隊を召集していた。マケドュア歩兵の長槍に対抗するため槍を長めに改良、騎兵と戦車のために土地を入念に整地するなど、ダレイオスは万全の準備を整えていた。

 会戦は一〇月一日に行われた。緒戦でマケドニア軍右翼の騎兵がペルシア軍左翼の騎兵と交戦する。そしてペルシア左翼の戦列に切れ目が生じたのを見るや、アレクサンドロスは騎兵と近衛歩兵、さらに密集歩兵の右側の部隊でもって巨大な襖形隊形を作り、自ら先頭に立ち中央部めがけて突進した。ダレイオスは退却し、その後右翼のペルシア騎兵も敗走に転じた。アレクサンドロスはダレイオスを追撃したが捕獲はならず、翌日アルペラに到着して、財貨をすべて接収した。ダレイオスは首都エクバタナに落ち延びた(ガウガメラの会戦)。

 ガウガメラから南下して、一〇月二〇日、アレクサンドロスはメソポタミア最大の古都バビロンヘ到着した。マケドニア軍が接近すると、総督マザイオスと住民代表が大王を出迎え、都市と財貨を引き渡した。住民たちの大歓迎の中で華麗な入城行進が行われ、アレクサンドロスは伝統に従って主神マルドゥクに犠牲を捧げた。またマザイオスをバビロニア総督に任命したが、これはペルシア人貴族を高官に登用した最初の事例である。広大なペルシア帝国の領域を治めるには、旧支配層との協調が不可欠だったのだ。

 一一月二五日頃、マケドニア軍はバビロンを発ち、一二月一五日、スーサに到着した。スシアナ総督アブリテスは都市と財貨を譲渡し、スーサも無血で開城した。

 一二月末、アレクサンドロスはスーサを出発し、真冬のザグロス山脈を踏破してペルセポリスヘ向かった。本書の主題はまさにここから始まる。途中には二つの溢路があり、マケドニア軍の侵攻を阻止すべく、まずウクシオイ人が、次いで総督アリオバルザネスが大軍を率いて布陣していた。ケドニア軍はスーサ進発後、いかなる経路をたどってペルセポリスヘ到着したのか。その経路はアカイメネス朝の「王の道」といかなる関係があるのか。ペルシア門はどこにあり、マケドニア軍はどのようにしてこれを突破したのか。総督アリオバルザネスはいかなる戦略を立てていたのか。本書の主要部は、これらの問題の究明にあてられる。

前三三〇年

 ザグロス山脈の南東部、パールサ地方(現ファールス州)は、古代ペルシア王国発祥の地である。ペルセポリスの都は、前五一〇年代にダレイオス一世が建設に着手した。アパダーナ(謁見殿)、玉座の間(百柱殿)などの宮殿群は、「諸王の王」たるペルシア大王の権威と威信を象徴し、ペルシア人の精神的な支柱ともなった。

 スーサを出発したアレクサンドロスは、山地ウクシオイ人を制圧してからペルシア門を突破し、一月末、遂にペルセポリスを占領した。そして宮殿を除く居住区域で兵士の略奪を許した。ようやく略奪の機会を得た兵士たちは欲望を作裂させ、都市は強欲の犠牲に供された。ペルシアヘの報復という大義名分は、こうして十全に果たされたのである。宮殿に収められた莫大な財宝もすべて接収された。マケドニア軍のペルセポリス滞在は四ヵ月の長きに及んだ。冬の間、ペルセポリスからザグロス山脈の東側を通って現エスファハーンに至る道は氷に閉ざされる。それゆえダレイオス追撃には春の終わりを待たねばならなかったのである。ギリシアでは前年の夏にスパルタ王アギスが反乱を起こしたが、アテネなど他の有力諸市は同調せず、この年の春、本国の代理統治者アンティパトロスによって鎮圧された。

 五月下旬、出発を前にしてアレクサンドロスは宮殿に火を放った。ペルセポリス炎上は東方遠征における最も劇的にして最も謎めいた事件である。大王伝の多くは、アレクサンドロスが宴会で酪酎し、アテネ出身の遊女タイスにそそのかされて衝動的に火をつけたと伝える。しかし発掘報告書によれば、アパダーナの大広間は可燃物が床一面に敷き詰められてムラなく燃えていた上、アパダーナと玉座の間で大半の柱が壊されていた。このように放火は意図的・計画的になされたのである。

 アレクサンドロスはあらかじめ宮殿から金銀の塊や貴金属製品を接収しておき、エクバタナヘ運ぶ準備をした。五月末、彼は兵士たちに一日だけ宮殿の略奪を許し、その翌日に放火した。それからマケドニア軍はペルセポリスを発ち、ダレイオス三世の滞在するエクバタナに向かって進軍を開始した。六月中旬、ダレイオスは東へ向けて逃走し、これを知ったアレクサンドロスは全力で彼を追撃する。逃走中にダレイオスは側近によって捕縛され、大王が追いつく直前に最期を遂げた。逃走と追撃はいかなる経路でなされたのか、ダレイオス終焉の地はどこか。これか本書第六章の主題である。

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