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市民にたいする戦争 根なし草にする

『ヨーロッパの内戦』より 市民にたいする戦争

二つの世界戦争は内戦の特徴を帯びるが、それはまずこれが全面戦争として行なわれたからである。一九一五年に現われたこの語は、あらゆる西欧言語で急速に一般化し、二〇年後、ドイツの将軍エーリヒ・ルーデンドルフの同音異義名の著作によって認知された。全面戦争は定義からして古典的な境界を越えて、伝統的に軍事的領域から除かれていた市民社会の場に侵入した。そうなると、もうたんに前線だけでなく、後方でも戦うことになる。潜水艦は戦いを海中に持ち込み、空爆は都市を襲った。大陸全体が軍事作戦の舞台になった。市民は戦争に巻き込まれ、軍隊のために生産し、敵の爆弾の標的にもなった。かくして、戦争は「生存競争」に変わり、ルーデンドルフからすると、そのため、それが真の「道徳的正当化」となる。第一次世界大戦で、経済は戦争経済に変わり、「自由放任」の自由主義的公準を再検討に付した。労働者は後方の活動的「労働民兵」となり、女性は、徴兵された男に代わって、祖国への義務の名において大挙して生産活動に入った。文化はプロパガンダに変わり、メディアは検閲に付され、写真報道や映画はュニオン・サクレ[神聖同盟。祖国防衛のための一種の大同団結]を守るため政府の管理下に置かれた。政府は宣伝情報事務局を創設し、イギリスの歴史家J・アーノルド・トインビーやイタリアのジョアッキーノ・ヴォルペのような知識人が「軍服」で勤務していた。一七九二年から、戦争の論理は国家総動員の論理である。「yuニオン・サクレ」は「十字軍理念の世俗化の試み」にすぎない、とジョン・ホーンは強調している。しかし、一九一四年は戦争の「国有化(総国民化)」、つまりたんに王朝だけでなく国民の問題であることにおいて、また軍事が市民的領域に伝染することにおいて敷居を越えた。この意味において、全面戦争は大陸全体に内戦(市民戦争)として課される。それはこれが、同じ共同体、同じ国家に属する敵対勢力を対立させるからではなく、関係諸国すべての市民社会に深く影響するからである。それゆえ、アレクサンドル・コイレは近代戦争を、その国家にもたらす社会的・経済的・政治的・人口的大変動のため「一種の革命」と見ていたのである。

以前あった戦闘員と市民の規範的区別を壊したのは、近代的な破壊手段の性質そのものである。一九一四年、中欧帝国は経済封鎖に見舞われ、紛争末期に多数のドイツ市民の命を奪うことになるが、その数は推計により異なり、四二四、〇〇〇~八〇〇、〇〇〇人である。前線に近い都市はすぐ軍事的標的になる。そして猛烈に爆撃されるか、ときには破壊される。それは、一九二四年、エルンスト・フリードリヒが小冊子『戦争には戦争だ!』で、多くの詳細な事実で示しているとおりである。占領地域の住民はしばしば義務労働を強いられるが、他方、敵対国の国民は潜在的な「第五列(スパイ)」と見なされ、望まざる外国人として拘禁される。かくして、フランス、ベルギー、ハプスブルク帝国のガリツィアにおいて、占領軍による住民の強制移送の最初の形態を見ることになる。市民にたいする戦争は「その目標が戦場の戦争とは異なる本物の戦争である」、とステファーヌ・オドワン=ルゾーとアネット・ベッケールは強調している。戦争が終わると、誰も、ヨーロッパ社会がどの程度このとてつもないトラウマに揺さぶられたか、無視することはできなかった。すなわち、ひと世代が塹壕で倒れ、国民は貧困化し、国家は借金を背負い、貴族的エリートは失墜し、外交・交易関係は断たれ、政治制度は大きく揺さぶられ、既存体制は反乱運動で異議を申し立てられたのである。

衰退しつつあるオスマン帝国下で、トルコ政府が「スパイ」行為をした廉で百万人以上のアルメニア人を虐殺したのは、こうした戦争の風土においてである。長い迫害の歴史は、トルコ民族主義を急進化し、外来少数民族への敵意を絶滅の企てに変えた全面戦争の文脈において、悲劇的なエピローグを迎えた。アルメニア人は、キリスト教徒として敵ロシアの同盟者であり、ロシア皇帝軍の共同国籍の徴募兵の連帯者であることを咎められたのである。この二十世紀最初のジェノサイドの形と手段は古風だが、その実行は一般化した暴力と全面戦争がもたらした大量死への慣れという危機的文脈から生じた。オスマン帝国内での社会的・経済的・文化的役割のため、アルメニア人は青年トルコ党が推進する民族的均質化過程の大きな障害となっていた。それは近代的民族主義の名において行なわれた最初のジェノサイドであり、多民族から成る旧帝国に代わって出現した西欧型の国民国家の出生証明書なのである。

同じような論理は、戦争末期、中央ヨーロッパとバルカン半島で起こった民族浄化大作戦にも働いている。これは、ハンナ・アーレントが『全体主義の起源』において示しているように、市民権や諸権利のない新しい範躊の人間を生み出した。難民と無国籍者である。一九一四年以前のヨーロッパの秩序が誇りにできた正当性は国民的ではなく、例外を除いて、王朝的、帝国的であった。その崩壊から立ち現われた国家の正当性は、とくに中央ヨーロッパでは、住民の宗教的・民族的・言語的・文化的増蝸に呼応するどころではなかった。国民国家モデルを軸とした新しい政治制度のなかで位置を見出せない少数民族は多かった。古い国際関係機構の分裂が戦後の危機を拡大し、内戦と革命の爆発的混淆を招いた。宗教戦争時代の先人、たとえばプロテスタントのヨーロッパに受け入れられたユグノーとちがって、二十世紀の無国籍者は孤立していた。一九一九年以降、中欧帝国の解体を是認する講和条約の帰結のひとつは、ほぼ一千万人の強制移動である。約百万のドイツ人が旧プロイセン帝国から奪われた領土(ポズナニ、ポンメラニ、高地シュレージェン)から追放されるか、内戦にさらされたバルト諸国から逃げ、二〇〇万のポーランド人が生地の外に新たにつくられた国家の境界内に移動、送還された。旧ロシア帝国の内戦は二〇〇万人以上のロシア人とウクライナ人の大移動を引き起こした。ルーマニア、チェコスログァキア、ユーゴスラヴィアに倣って、ハンガリーはハプスブルク帝国の解体から生まれた国から数十万の自国民を受け入れたが、他方、多数が内戦のためブダペストを離れ、その第一波はベーラークンの共産主義者から逃げ、第二波はホルティ元帥の抑圧を免れようとするものだった。住民の交叉した移動と強制大移動は旧オスマン帝国でもやはり重要だった。ローザンヌ条約(一九二三年)〔旧戦勝国とトルコ共和国のあぃだで締結された講和条約〕はトルコに住む二〇〇万人以上の正教徒のギリシア人とギリシアに住む四〇万のトルコ人の追放を定めている。ギリシアは難民に侵入され、以後人口の四分の一を占め、アテネとテッサロニキは人口が二倍になった。ヌイイー条約(一九二三年)〔パリ郊外のヌィィーで戦勝国とプルガリァのあぃだで締結された講和条約〕によって、五二、〇〇〇人がブルガリアからギリシアに移り、三万人が逆のコースをたどった。

ジェノサイドの生残りの三〇万人以上のアルメニア人は戦後トルコから出た。ドイツが始めて、次にソヴィエト・ロシアが白軍移民にたいして行なったように、多数の難民が出身国から国籍を剥奪されたので、一九二一年、国際連盟は難民高等弁務官事務所を創設し、ノルウェー人フリチョフ・ナンセンを長として、無国籍者に必要な書類を交付したが、とくにロシア人とアルメニア人がその恩恵にあずかった。この大量の故国喪失者に、一九三三年からはナチ・ドイツを逃れるユダヤ人が加わり、やがてオーストリアとチェコスロヴァキアのユダヤ人がつづき、その総数は、第二次世界大戦には約四五万人に達した。一九三九年、ほぼ同数のスペイン共和派がフランス国境を越えた。この大変動は、国境の再編で政治的対決と内戦の結果を承認したヨーロッパの危機の所産であった。

ハンナ・アーレントにとって、無国籍者の出現、この法的な認知・保護のない個人は近代性の逆説を示すものであった。彼らは啓蒙主義の哲学が公準とした抽象的な人間性を体現し、また同時に、「アウトロー」でもあるが、それは彼らが法に反したからではなく、たんに彼らを市民として認めうるいかなる法もないからである。「法の道具としての国家から国民の道具としての国家への変化」は無国籍者がたんに祖国を失っただけでなく、新しい祖国をもつことができなくなるという、前代未聞の状況を生み出した、と彼女は述べている。「数十万の無国籍者の到来によって国民国家にもたらされた最初の重大な侵害は、保護権、かつて国際関係の領域で人権の象徴として現われた唯一の権利が破棄されたことである」。それは、歴史の皮肉からか、エドマンド・バークのような保守派を正しいとするような状況である。一七九〇年から、彼は啓蒙哲学が説いた人間性という普遍的概念を意味のない抽象観念として批判し、これにたいして、「イギリス人の権利」、すなわち、英国貴族に代々遺産として伝わった具体的な特権を対置しな。政治的権利を奪われたので人間社会から追放された「アウトロー」として、無国籍者はしばしば収容所に拘禁された。またアーレントはこうつづけている。政治的共同体、より正確には国家という実体に属さないで存在することを唯一の欠陥とする、この人間集団の拘禁は、一九三〇年代のヨーロッパにおいて、この「余分な」存在をナチの絶滅収容所に送るというプロセスの第一歩であった。「ガス室を稼働させる前に、ナチは問題を綿密に検討し、いかなる国もこうした人びとを引き受けるつもりがないことを発見して大満足だった。知っておかねばならないのは、完全な権利剥奪の状況が、生存権が問題にされる前に生まれたことである」。

無国籍者の運命に関するこのアーレントの考察は、第一次世界大戦とヨーロッパの瓦解から生まれた文脈におけるュダヤ人ジェノサイドの前提を見定めている。しかしまた、歴史の舞台にこの大量の無国籍者が突然出現したことには、ヨーロッパの内戦の前兆がある。政治的共同体から追放されたアウトローとして、無国籍者は内戦における敵といくつかの特徴を共有するが、ただしそれは、戦闘員ではなく、保護のないアウトローという身分のため、彼らは先験的に犠牲者の役割を強いられるという違いを除いてである。それゆえ、彼らは、一九一四年から始まるヨーロッパの危機の象徴的存在となるのである。
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