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ThinkとActの間のゆらぎについて

未唯へ。昨日の駅伝見学とエコット訪問で、皆が駅伝とキャンドルナイトに燃えているのを、見ていました。そういう自分を見ているもう一人の自分、つまり、μを意識していました。「見るだけ」というのは、参画型社会ではとかく否定的に見られます。だけど、サファイア循環での「Think」と「Act」の関係で見ると面白いことが分かります。

駅伝の状況は室長が最初に考えたことと合っているのか? エコットの現状はNPOが考えたり、市民会議で議論されたこととあっているのか? 駅伝の方は体育会系だから、その時に盛り上がればOKでしょう。楽しければ、主旨をあまり考えなくても、楽しい思い出になります。

エコットの方はそうはいきません。市民参画という大きな目標があります。自分たちで盛り上がってきている、忙しくなってきている、子供たちが参加しているだけではすみません。市民会議のときに、理念分科会、広報分科会、運営分科会を設けたのは、それが市民参画で必要だと考えたからです。市役所が考えたレベルに対しては「いい按配」になっているかもしれません。彼らがコントロールできる範囲での変化にとどまっているのは確かです。

このように、ThinkしたものをActしようとすると、ドンドン中身が変わっていきます。トロッキーのThinkに対して、スターリンのActのように、石原莞爾のThinkに対して、東条英機のActのように。毛沢東のように、最初にThinkしたことに対して、後半のActで農民を裏切るようになるように。

このThinkとActの間の揺らぎは「偶然」に大いに支配されます。偶然に身を任せるしかない世界ですが、Actした後でも、常にThinkを意識しないといけません。循環のなかのどの位置にあるのかということから、元々の「思い」が何であったのか、起こった事項に対して、Thinkに戻ろうとしているのか、新しいThinkに向かおうとしているのかを常に見ていくことが必要です。私の「見るだけ」を、そのポジションに持っていこうと思います。

「Think」と「Act」は、ローカルとグローバルと共に、サファイア循環の構成要素です。偶然でのThinkとActの揺らぎを見ながら、ローカル⇒グローバル、グローバル⇒ローカルをまずは、見ているだけにしましょう。私が行動するのは、最後の最後です。(最終兵器μ)
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