『戦闘技術の歴史5東洋編』より
チンギスの帝国計画は、途方もない夢のようにも思われた。なんといっても、総人口三〇〇万にも満たないモンゴルが、五三〇〇万もの人口を有し、そのうち少なくとも五〇万人の兵が初期の小銃などの近代兵器を装備しているという、先進的な巨大帝国を征服しようというのである。
さらに金の皇帝世宗(位一一六一~八九年)は、モンゴル領内のかなり深いところに五〇〇〇キロメートルに及ぶ木製の砦や矢来、掘割を築き、満洲の防衛のためにも同様の第二の防衛線を築いていた。わずか九万五〇〇〇のモンゴル軍騎兵が、これほど堅固な防禦をどのように突破しようというのだろうか。
モンゴル軍の強みの一つは、チンギス白身が優れた司令官であり、組織者であり、訓練指導者であったうえ、スベエテイ(一一七六~一二四八年)やムカリ(一一七〇~一二二三年)など、優秀な指揮官が彼を補佐していたことである。チンギスが次々と敵を制圧しようとしたのは、部族同盟を維持するために勝ちつづける必要があったためだった。領土を拡大し、征服し、支配せよ、さもなければ死が待つのみ。これがモンゴル帝国のモットーだった。
もう一つの強みは、モンゴル人白身にあった。一六歳から六〇歳までの男子全員が従軍できる状態にあったのである。冷たく乏しい食料に慣れており、どのような天候でも悪路でも馬を乗りこなすことのできるモンゴル人は、生まれながらの戦士であった。彼らの戦闘技術は、年に二度行われる大ハンの狩猟(ジェルゲ、すなわち巻狩り)によって試された。この狩猟では、大きく弧を描きながら獲物を駆り立て、次第に範囲を狭めながら獲物を集め、最終的に谷間や峡谷に追い込む。そこで大ハンが殺戮開始の合図として最初の矢を撃ち込む。巻狩りはやがて行われる戦闘の、あらゆる軍事行動の手本としても役に立っていたのだ。
モンゴル人兵士は、他のどの軍の兵士よりも遠く長い距離を、馬を駆って走りつづけることができた。雑穀や乾燥させた凝乳、塩漬け乾燥肉、そしてクミス(発酵させた馬の乳)など、貧しい遊牧民の食事でも生きていくことができた。非常の際には馬の首の血管を切り開き、その血をすすった。幼いころから馬に乗り、弓矢を使い、さらにこの二つを同時に行うという最も難しい訓練を積み重ねていた。
モンゴル人が持つ唯一の「秘密」兵器は、遊牧民の合成弓だった。柔軟性のある木材で作られ、力のかかる部分は膠で補強され、角度のついた「耳」はより高い効果をあげるために骨で補強されていた。モンゴルの弓は飛距離も張力も、有名なイギリスのロングボウの二倍(一〇〇ポンドから一五〇ポンド)あり、弾道も低く、発射時の復元力も安定していた。経験豊富な騎射兵が接近戦で用いた場合、この弓は破壊的な威力を発揮した。
モンゴル軍の騎射兵には、いくつかの機能があった。偵察、斥候、波状攻撃、さらには機動砲兵隊の役割も果たした。各兵士は長射程と短射程の弓を二、三本持ち、戦闘中に矢を切らさぬように、三〇本の矢を収めた矢筒を三つ装備していた。行軍の際には、常に十分な休息を取った馬に騎乗できるよう、重騎兵はおのおの馬を二、三頭連れていた。
矢筒に収められた矢も、モンゴル軍を勝利に導く重要な武器の一つだった。赤くなるまで熱したのちに塩水につけて鍛えた鉄製の鏃が、すべての矢につけられていた。このような製法で作られた矢は、甲冑さえも貫き通すことができた。至近距離では鏃の幅が広い矢を、遠距離では鏃が小さくて短い矢を用いるのが最も効果的だった。もう一つの改良点は、弓弦をより強く引き絞るために、親指に板指(金属製の輪)をはめたことである。
騎射兵は敵と接近戦を繰り広げることをまったく想定しておらず、その代わりに絶えず矢の雨を降らせることで敵を悩ませ、足止めさせた。接近戦は、薄板を層状に重ねたラメールーアーマーを着て槍で武装した重騎兵に託されていた。彼らの甲冑は、軽金属や硬革に黒い樹脂の「漆」をかけた板で作られていた。また、馬にも同様の馬甲が着せられていた。各騎兵は金属製の小さな兜をかぶり、投げ縄、鋭いトルコ風の短剣か刀、鋼鉄の穂と敵を落馬させるためのひっかけ鈎がついた長い槍で武装していた。また、接近戦で敵の頭めがけて振り下ろす梶棒も持っていた。
騎兵以上に優れていたのは彼らの馬で、大きさと外見を除けば非常に優秀だった。体高わずか一三〇センチから一四〇センチと小柄な、現代のポニーにも似た草原馬あるいは蒙古馬は、驚異的なスタミナと移動距離を誇り、極めて乏しい食料でも生き延びることができた。このような馬にまたがったモンゴル兵は、二日間で最大二一○キロメートルを移動できたうえ、厳しい行軍の末に戦闘で勝利を収めることもできたのである。
モンゴルの騎馬隊は大ハンの親衛隊であるケシクを中心に構成されていた。二一〇六年以前には一五〇〇人だったケシクは、一二二七年のチンギスの死亡時には軍全体が九万五〇〇〇人から一三万五〇〇〇人に拡大していたのに合わせ、一万人に増加していた。彼らは皆トウメン(万人隊)や軍の指揮官候補であり、戦闘の流れを一転させる役目を担うことも多かった。ケシク内の規律は非常に厳格で、脱走、不服従、任務中の居眠りなどは即刻処刑されることもあった。
その他の部隊は十進法に沿って組織されており、アルバン(十人隊)を軍における兵士にとっての「家族」のような単位と位置づけ、一〇個のアルバンでジャウン(百人隊)、ス‥)個のジャウンでミンガン(千人隊)という、戦闘の基本単位となる部隊を形成した。ミンガンが一〇個集まったものがトウメン(万人隊)という師団となり、トウメンが二、三個集まったものが軍団となった。
モンゴル軍は、前方に重騎兵隊二個、後方に軽騎兵隊三個の、合計五個のミンガンから成る部隊で戦闘に備えた。騎射兵は重騎兵の隊列の隙間に配備され、敵に激しい矢の雨を浴びせる。それと同時に、敵の両側面から掃蕩攻撃を加えるトウルーマと呼ばれる戦法も行う。白黒の信号旗で統制されたこの展開は、不気味なほどの静寂の中で完璧に遂行され、戦闘開始の合図である巨大なナカラ(ラクダで運ばねばならないほど重い陣太鼓)がうち鳴らされた。
その合図とともに、モンゴル軍はオオカミのごとく雄叫びを上げながら攻撃を開始し、混乱し、傷つき、弱った敵に矢や投げ槍の雨を降らせた。敵は巻狩りのときと同じようにモンゴル軍の術中にはまった。モンゴル軍はどうぞ逃げてくださいとばかりに後方に逃げ道を残しておくが、この「逃げ道」が実は、モンゴル軍が仕掛けたもう一つの恐ろしい戦略上の罠なのだ。敵に逃げるチャンスを与えることで全面衝突を回避することができ、敗走する敵を何百キロメートルにわたって何日も、ときには何週間も追撃し、壊滅させることができたのである。
チンギスの帝国計画は、途方もない夢のようにも思われた。なんといっても、総人口三〇〇万にも満たないモンゴルが、五三〇〇万もの人口を有し、そのうち少なくとも五〇万人の兵が初期の小銃などの近代兵器を装備しているという、先進的な巨大帝国を征服しようというのである。
さらに金の皇帝世宗(位一一六一~八九年)は、モンゴル領内のかなり深いところに五〇〇〇キロメートルに及ぶ木製の砦や矢来、掘割を築き、満洲の防衛のためにも同様の第二の防衛線を築いていた。わずか九万五〇〇〇のモンゴル軍騎兵が、これほど堅固な防禦をどのように突破しようというのだろうか。
モンゴル軍の強みの一つは、チンギス白身が優れた司令官であり、組織者であり、訓練指導者であったうえ、スベエテイ(一一七六~一二四八年)やムカリ(一一七〇~一二二三年)など、優秀な指揮官が彼を補佐していたことである。チンギスが次々と敵を制圧しようとしたのは、部族同盟を維持するために勝ちつづける必要があったためだった。領土を拡大し、征服し、支配せよ、さもなければ死が待つのみ。これがモンゴル帝国のモットーだった。
もう一つの強みは、モンゴル人白身にあった。一六歳から六〇歳までの男子全員が従軍できる状態にあったのである。冷たく乏しい食料に慣れており、どのような天候でも悪路でも馬を乗りこなすことのできるモンゴル人は、生まれながらの戦士であった。彼らの戦闘技術は、年に二度行われる大ハンの狩猟(ジェルゲ、すなわち巻狩り)によって試された。この狩猟では、大きく弧を描きながら獲物を駆り立て、次第に範囲を狭めながら獲物を集め、最終的に谷間や峡谷に追い込む。そこで大ハンが殺戮開始の合図として最初の矢を撃ち込む。巻狩りはやがて行われる戦闘の、あらゆる軍事行動の手本としても役に立っていたのだ。
モンゴル人兵士は、他のどの軍の兵士よりも遠く長い距離を、馬を駆って走りつづけることができた。雑穀や乾燥させた凝乳、塩漬け乾燥肉、そしてクミス(発酵させた馬の乳)など、貧しい遊牧民の食事でも生きていくことができた。非常の際には馬の首の血管を切り開き、その血をすすった。幼いころから馬に乗り、弓矢を使い、さらにこの二つを同時に行うという最も難しい訓練を積み重ねていた。
モンゴル人が持つ唯一の「秘密」兵器は、遊牧民の合成弓だった。柔軟性のある木材で作られ、力のかかる部分は膠で補強され、角度のついた「耳」はより高い効果をあげるために骨で補強されていた。モンゴルの弓は飛距離も張力も、有名なイギリスのロングボウの二倍(一〇〇ポンドから一五〇ポンド)あり、弾道も低く、発射時の復元力も安定していた。経験豊富な騎射兵が接近戦で用いた場合、この弓は破壊的な威力を発揮した。
モンゴル軍の騎射兵には、いくつかの機能があった。偵察、斥候、波状攻撃、さらには機動砲兵隊の役割も果たした。各兵士は長射程と短射程の弓を二、三本持ち、戦闘中に矢を切らさぬように、三〇本の矢を収めた矢筒を三つ装備していた。行軍の際には、常に十分な休息を取った馬に騎乗できるよう、重騎兵はおのおの馬を二、三頭連れていた。
矢筒に収められた矢も、モンゴル軍を勝利に導く重要な武器の一つだった。赤くなるまで熱したのちに塩水につけて鍛えた鉄製の鏃が、すべての矢につけられていた。このような製法で作られた矢は、甲冑さえも貫き通すことができた。至近距離では鏃の幅が広い矢を、遠距離では鏃が小さくて短い矢を用いるのが最も効果的だった。もう一つの改良点は、弓弦をより強く引き絞るために、親指に板指(金属製の輪)をはめたことである。
騎射兵は敵と接近戦を繰り広げることをまったく想定しておらず、その代わりに絶えず矢の雨を降らせることで敵を悩ませ、足止めさせた。接近戦は、薄板を層状に重ねたラメールーアーマーを着て槍で武装した重騎兵に託されていた。彼らの甲冑は、軽金属や硬革に黒い樹脂の「漆」をかけた板で作られていた。また、馬にも同様の馬甲が着せられていた。各騎兵は金属製の小さな兜をかぶり、投げ縄、鋭いトルコ風の短剣か刀、鋼鉄の穂と敵を落馬させるためのひっかけ鈎がついた長い槍で武装していた。また、接近戦で敵の頭めがけて振り下ろす梶棒も持っていた。
騎兵以上に優れていたのは彼らの馬で、大きさと外見を除けば非常に優秀だった。体高わずか一三〇センチから一四〇センチと小柄な、現代のポニーにも似た草原馬あるいは蒙古馬は、驚異的なスタミナと移動距離を誇り、極めて乏しい食料でも生き延びることができた。このような馬にまたがったモンゴル兵は、二日間で最大二一○キロメートルを移動できたうえ、厳しい行軍の末に戦闘で勝利を収めることもできたのである。
モンゴルの騎馬隊は大ハンの親衛隊であるケシクを中心に構成されていた。二一〇六年以前には一五〇〇人だったケシクは、一二二七年のチンギスの死亡時には軍全体が九万五〇〇〇人から一三万五〇〇〇人に拡大していたのに合わせ、一万人に増加していた。彼らは皆トウメン(万人隊)や軍の指揮官候補であり、戦闘の流れを一転させる役目を担うことも多かった。ケシク内の規律は非常に厳格で、脱走、不服従、任務中の居眠りなどは即刻処刑されることもあった。
その他の部隊は十進法に沿って組織されており、アルバン(十人隊)を軍における兵士にとっての「家族」のような単位と位置づけ、一〇個のアルバンでジャウン(百人隊)、ス‥)個のジャウンでミンガン(千人隊)という、戦闘の基本単位となる部隊を形成した。ミンガンが一〇個集まったものがトウメン(万人隊)という師団となり、トウメンが二、三個集まったものが軍団となった。
モンゴル軍は、前方に重騎兵隊二個、後方に軽騎兵隊三個の、合計五個のミンガンから成る部隊で戦闘に備えた。騎射兵は重騎兵の隊列の隙間に配備され、敵に激しい矢の雨を浴びせる。それと同時に、敵の両側面から掃蕩攻撃を加えるトウルーマと呼ばれる戦法も行う。白黒の信号旗で統制されたこの展開は、不気味なほどの静寂の中で完璧に遂行され、戦闘開始の合図である巨大なナカラ(ラクダで運ばねばならないほど重い陣太鼓)がうち鳴らされた。
その合図とともに、モンゴル軍はオオカミのごとく雄叫びを上げながら攻撃を開始し、混乱し、傷つき、弱った敵に矢や投げ槍の雨を降らせた。敵は巻狩りのときと同じようにモンゴル軍の術中にはまった。モンゴル軍はどうぞ逃げてくださいとばかりに後方に逃げ道を残しておくが、この「逃げ道」が実は、モンゴル軍が仕掛けたもう一つの恐ろしい戦略上の罠なのだ。敵に逃げるチャンスを与えることで全面衝突を回避することができ、敗走する敵を何百キロメートルにわたって何日も、ときには何週間も追撃し、壊滅させることができたのである。
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