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フッサールがソルボンヌ大学デカルト記念講堂で講演する

『フッサール心理学宣言』より ここで念のため、現象学超入門

ここまで読んで来て、似たような話を聞いたことがあるぞ、と思う読者もいることだろう。そう、一七世紀フランスの哲学者で数学者ルネ・デカルトの、方法的懐疑だ。デカルトは、あらゆる学問にとっての確実な基礎を見出すために、まず一切の知識という知識を疑った。当時の学問的知識はもとよりのこと、この世界が存在するということも、世界は夢かもしれないし悪魔に送りつけられた幻覚かもしれないから疑わしい。自分自身が存在することだって疑わしいではないか。そのように懐疑を重ねていった果てに、デカルトは、疑っているということだけは疑えないことに気づいた。

目の前の花瓶が存在することは疑える。けれども、花瓶の実在を疑っていることだけは疑えない。疑うとは、つまり、思うことの一種である。花瓶の存在について私がいろいろと思っていることだけは、疑いなく確実なのである。そして、私が思うということが確実なら、私が存在することもまた、確実である。我思う故に我あり。そうだ、これをこそ最初に与えられた確実な知識として、あらゆる知識の出発点、あらゆる学の第一原理とした。

これが、デカルトの主著『省察』にある有名な方法的懐疑の話である。

フッサールの現象学的還元の目的もデカルトと同一である。後期の主著『デカルト的省察』を読めば一目瞭然だ。

フライブルク大学を退官して翌年、七〇歳になったフッサールは、パリ・ソルボンヌ大学のデカルト記念講堂において「超越論的現象学入門」という題で講演を行った。その折の原稿を元にして、一九三一年、若きレヴィナスらを訳者としてフランス語版で出版されたのが『デカルト的省察』である。それは次のような一節で始まっている。ここフランスの知の学問にもっとも由緒あるこの場所で、超越論的現象学〔と私が呼ぶ哲学〕について語ることができるのを、私はたいへん嬉しく思うが、それには特別な理由がある。と言うのも、フランスの偉大な思想家ルネーデカルトは、その省察によって超越論的現象学に新たな刺激を与え、すでに生まれつつあった現象学が超越論哲学という新しい形態へと変革を遂げるよう、直接働きかけたからである。したがって、たとえ超越論的現象学が、まさにデカルト的な動機を徹底して展開するために、デカルト哲学のよく知られている学説全体をほとんど拒否せざるをえないことになろうとも、この超越論的現象学を新デカルト主義と呼ぶことができる。(浜渦辰二訳、岩波書店、二〇〇一、一七頁。なお、邦訳は、生前は出版されなかったドイツ語増補版に基づいている) 

フッサールの現象学も、まさにデカルト的な動機、あらゆる知識の確実な根拠の探求という動機に導かれているのである。ちなみに、現象学的還元については、フッサール中期の主著『イデーンー』(一九一三) に詳しいが、詳しすぎてひどく分かりにくくなってしまっている。そこで本章では、講演をもとにしているだけあって読みやすいこの『デカルト的省察』と、後に出てくる『ブリタニカ草稿』に依拠したことをことわっておきたい。

それにしても、この冒頭の一節もけっして分かりやすくはない。まず、フッサールは自分の現象学を超越論的現象学と呼んでいるのだが、「超越」というと日本語では、現世を超越した気高い境地といった宗教的超自然的イメージがあるうえに、「論」がつくからますます物々しく響く。心理学の本ではまず絶対使えない言葉だ。

超越論とはもともとカント哲学に由来する語なのであるが、哲学史の話はひとまず置いて、わたしなりに噛み砕いて説明しよう。まず「論」のつく以前の「超越的」をドイツ語辞書で引いてみると、①経験(知覚) できる範囲を越えた、とあり、その後に《哲》超越的な、《俗》超自然的な、とある。日本語の語感としてはこの「超自然的な」に近いわけだが、やはり、経験もしくは知覚できる範囲を越えた、という意味が妥当だろう。

生命発生以前の宇宙は、私たちに直接経験される可能性がないという意味で、まさに超越的世界である。そんな極端な例を出さなくても、テーブルの上の花瓶もまた、目に見えない裏側という、知覚できる範囲を越えた「超越的」側面によって初めて「実在する」という意味が与えられる。そもそも、私は目をつぶっても、それどころか私が死んでも、世界は存在し続けていると信じているのだから、超越的世界の実在を信じていることになる。そこで、これに「論」を付けて「超越論的」とすると、そのような超越的存在についての信念に、根拠は、妥当性はあるのか、そのような知識はいかにして得られるのかといった、超越的存在をめぐる論という意味になる。

フッサールは、自分の哲学を超越論的現象学と呼んだ。それは、「テーブルの上の花瓶の、今、知覚している面という現象」を徹底的に反省することによって、その現象の構造の内部に、裏側を備えた超越的存在としての花瓶を、誰も見ていなくとも存在している花瓶という客観的実在を、私が信じている根拠を見出すという課題が、最初のテーマになるからにほかならない。
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