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『ハリー・ポッター』の生みの親--J・K・ローリング

『イギリス文学を旅する60章』より 『ハリー・ポッター』の生みの親--J・K・ローリング

魔法使いの少年が主人公の冒険ファンタジー小説『(リー・ポッター』第1巻が世に出たのは1997年のことであった。全7巻のこのシリーズは2007年、全世界で同時発売された最終巻『ハリー・ポッターと死の秘宝』をもって完結したが、その問、世界中に爆発的なブームを巻き起こした。当時シングル・マザーで失意のどん底にいた口ーリングが、いくつもの出版社に断られた末、ようやく刊行された初版部数はごくわずかであった。しかし、出版されると瞬く間に部数をのばしてベストセラー・リストの卜ップに登りつめ、2002年半ばまでには総売り上げ部数、1億5000万部を超え、約50の言語に翻訳されるほどの世界的な超ベストセラーとなった。名立たる文学賞を総なめにし、数々の名誉と巨万の富を手にしたローリングにとって、その輝かしい成功は衝撃的でさえあったが、そこに至るまでに彼女が辿った人生の道のりは決して平坦なも―

J・K・ローリングは1965年、イングランド西部地方のイェートで生まれた。2歳下の妹が一人いる。両親の出会いの場は、主人公、ハリー・ポッターがホグワーツ魔法魔術学校へと旅立った、あのロンドンのキングズ・クロス駅であった。二人はスコットランドヘ行く列車の中で語り合い、ともに20歳で新生活に踏み出した。

父ピーターは当時、航空機エンジンを製造していたブリストル・シダリー(1971年にロールスロイス社と合併)の工場で働いており、両親ともに読書好きであった。家にはいつも多くの本が溢れ、彼女は読書家の母が読み聞かせてくれる数々の童話に親しみながら育った。そして5~6歳の頃には「ウサギ」を主人公にした物語を創って妹ダイアンに話して聞かせるなど、幼い頃から既にファンタジー作家の片鱗を見せていた。

やがて、ローリング9歳の頃、一家はウェールズの小さな村、タッツヒルヘと引っ越す。そこは風光明媚なワイ渓谷にあり、もと王室御料林であった広大なディーンの森に隣接していた。彼女はよく妹と連れ立って、その鬱蒼とした深い森やワイ川の周辺を探索したという。少し足をのばした所には有名なティンターン修道院の神秘的な廃墟やチェプストー城などもあり、その地域一帯は自然だけでなく神話と伝説の宝庫でもあった。そうした環境は彼女の想像力を育み、小説に描かれた「禁じられた森」や妖精たちを生み出す豊かな源泉になっていたかもしれない。

ハリーの親友、才媛ハーマイオニーのモデルはローリング自身だが、彼女も意欲的な勉強家であった。また、幅広い読書家でもあり、ワイディーンの公立中等学校卒業時には、首席のヘッドガールにも選ばれている。そして、この頃、彼女の人生に大きな影響を与える人々との出会いもあった。一人は教育熱心で高潔なフェミニストの英語教師、ルーシー・シェパード先生。彼女が唯一尊敬している恩師で、先生からの手紙は今も宝物として大切にしているという。もう一人はローリングの人生を決定づけた『令嬢ジェシカの反逆』(1960)の著者、ジェシカ・ミットフォード(1917~96)であった。14歳の時、この自伝を読んだローリングはジェシカの生き方に感動し、著作を読了、自分の娘にもジェシカと名付けた。

ジェシカ・ミットフォードはイギリス貴族出身で、チャーチルの甥と駆け落ちをしてスペイン市民戦争に身を投じた活動家であった。夫は第二次世界大戦で戦死。彼女は後に再婚し、アメリカで社会の不正や腐敗、業界の醜聞等を暴くジャーナリストとして活躍した。マッカーシズムに反対し、公民権運動にも加わった。ローリングは彼女の社会に義的な政治理念や、幾多の困雌にもめげない強い意志と自立した生き方を心から尊敬していた。ローリングがフェミニズムや人権思想に目覚めるきっかけは、こうした人々との出会いにあったと思われる。彼女が大学卒業後に就職した先が、人権擁護団体のアムネスティ・インターナショナルであったこと、また第4巻で、ハーマイオニーが親友ハリーとロンを巻き込んで、権利擁護のため、しもべ妖精福祉振興協会を発足させるなどの背景にも、ミットフォードヘの共感が窺えよう。ちなみに、ハーマイオニー・グレンジャーの「ハーマイオニー」とは、シェイクスピアの『冬物語』に登場する最後に蘇る悲劇の王妃の名で、季節神話のデメテルになぞらえられるなど、象徴的解釈をされることが多いが、デメテルとは女性支配の時代を象徴する神でもある。また、「グレンジャー」は、アメリカ19世紀末の農民による「グレンジャー運動」から採られたようである。

ローリングの学校時代は、ロンのモデルとなる親友、ショーン・ハリスとの出会いもあったが、一方、母アンの難病による闘病生活が始まった時期でもあった。彼女が15歳の時、母は多発性硬化症と診断され、10年間の闘病の末、45歳で亡くなった。彼女にとって母の死は耐え難いものであったが、挫折と苦悩の日々は続いた。

目指したオックスフォード大学受験で不合格となり(背景には、女性や階級による差別等が取り沙汰され、2000年にはィギリスの新聞各紙がこうした問題を報じた)、エクセター大学に進学。卒業後、ロンドン等で働いた後、1991年、英語を教えるためにポルトガルヘ渡り、翌年ジャーナリストの男性と結婚した。1年後に長女ジェシカが誕生するが、夫のDVもあり、結婚は破綻。母の死後、父は早々と再婚し、彼女の孤独感は深まった。その後、娘と共にエディンバラに住む妹の近くに身を寄せ、一時、生活保護を受けながら執筆生活を送った。この頃、精神的に追いつめられた彼女はうつ病にかかり、自殺を考えたこともあるという。

ローリングはその後2001年に再婚し、現在3児の母となって、シングル・ペアレントや難病患者のための慈善活動にも積極的に取り組んでいる。2016年、19年後の8番目の物語として発表された舞台脚本「ハリー・ポッターと呪いの子』では、ハーマイオニーは2児の母で、魔法大臣となって登場する。王が不在と思われる魔法界では、事実上、魔法省という政府のもとで、魔法大臣、ハーマイオニーが何らかの元首とも解釈される。非魔法族で、且つ女性という二重に不安定な存在として生きてきたハーマイオニーには、逆境を乗り越えたローリングの熱い思いと希望が託されているのかもしれない。
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