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日清・日露戦争の意義

『日清・日露戦争と写真報道』より

日清戦争の意義

 日清戦争は、朝鮮において劣勢にあった日本が、甲午農民戦争(東学党の乱)をきっかけに、朝鮮の覇権をかけて清国に仕かけた戦争である。甲午農民戦争は、朝鮮で起こった反政府運動であるが、明治二七年(一八九四)六月、この騒乱を鎮圧するために、日清両国は出兵する。その後、東学党と朝鮮政府は和解するが、日本は朝鮮に「改革」をつきつけて居座り、七月二三日、王宮占拠事件(日朝戦争)を起こして親日派政権を樹立する。朝鮮国王に清国軍駆逐援助の命を出させた日本は、本格的に清国との戦争に入る。

 日清両国の宣戦布告は八月一日だが、それに先立つ七月二五日の豊島沖海戦で武力衝突は始まっており、この日から下関講和条約が締結される明治二八年四月一七日までが、狭義の日清戦争である。下関条約では、遼東半島と台湾の割譲が決まったが、遼東半島については、露・独・仏による干渉を受けて返還することとなる(三国干渉)。また、台湾においては住民による激しい抵抗を受け、過酷な戦いが行われた(台湾占領戦争)。一一月一八日に「全島平定宣言」が出されるが、その後も抵抗運動は続いた。朝鮮でも日本に対する抵抗運動は続けられた。明治二七年六月五日に結成された大本営は、二九年四月一日をもってようやく解散する。

 日本は日清戦争を、朝鮮を助けて、朝鮮の「独立」を妨害する清国を討伐する戦争と位置付け、新聞や知識人は〃文明と野蛮の戦争こと喧伝した。が、真の目的は朝鮮における勢力の拡大であった。ところが、三国干渉により日本の威信は失墜し、朝鮮宮廷は勢力を伸ばしてきたロシアと結ぶようになる。そのため、日本は清国より強大なロシアと対決しなければならなくなった。一方、弱体化を露呈した清国においては、ドイツの膠州湾租借、ロシアの遼東半島租借、イギリスの揚子江沿岸地域における権益設定など、列強が分割に乗り出し、利権争いが本格化する。日清戦争は、東アジアに帝国主義を呼び込み、新たな緊張を作り出したのである。

日露戦争と国際社会

 日本は日清戦争以前からロシアに脅威を感じていたが、義和団事件に乗じてのロシアの満州占領は、その危機感をいっそう強めさせた。日本の為政者たちは、ロシアが満州を足がかりに韓国を手中に収めれば、日本そのものの存亡も危ういと考えていた。ロシア軍が鴨緑江西岸に進出し、韓国北部をうかがう動きを見せる中、ロシアヘの対策が急がれた。

 一方イギリスは、清国だけでなく中近東・インドにおいても、南下政策を進めるロシアと対立していた。そのため、「極東の憲兵」日本と結ぶことでロシアを牽制し、清国における自国の権益を保持しようとした。思惑の一致した日英両国は、明治三五年(一九〇二)一月に日英同盟を結ぶ。同条約でイギリスは、偉国における日本の特殊権益を認めたが、しかし、当然のことながら、日英同盟は日露の対立を先鋭化させた。日露双方に戦争を回避しようとする勢力もあったが、強硬派が次第に勢力を強め、明治三七年二月八日開戦となる。

 日露戦争においては、武力で戦ったのは日露両国であったが、列強各国がそれぞれの事情から両国を支えていた。満州の門戸開放・機会均等を唱えるアメリカは、日英に肩入れし、露仏同盟を結ぶフランスは、ロシアを支援した。ドイツは親露的であったが、露仏同盟を分断したいという思惑があり、両陣営を視野に入れて動いていた。それゆえに日露戦争の戦況は、世界中で報道された。列強各国が日露戦争をいかに報道したのかは、山田朗『世界史の中の日露戦争』(『戦争の日本史』二〇、吉川弘文館、二〇〇九年)に詳しいが、その報道は外債の募集にも大きな影響を与えた。戦艦や兵器も欧米各国で製造されたものが使われていたが、報道戦・経済戦においても、列強各国が深く関わっていたのである。

 日本は、各戦闘においては勝利を収めながらも、国力の限界に達しており、明治三八年六月、アメリカに講和の調停を要請する。これを受けたアメリカが講和を呼びかけ、九月五日ポーツマス条約が結ばれる。周知のように、賠償金も領土も獲得できなかったことに憤激した民衆によって、日比谷焼打事件が起こされたが、韓国に対する日本の支配権を口シアに認めさせることには成功していた。つまり、戦争の最大の目的は達成されていたわけである。さらに、満州からの両国の撤兵と、ロシアが清国から得た遼東半島の租借権および東清鉄道南部支線(長春-旅順間)の譲渡も認めさせた。日本は列強の了解の下、韓国を保護国とし、南満州の経営に乗り出す。列強の仲間入りを果たした帝国日本は、これらの地を足がかりに、さらなる膨張を図っていく。
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コメント
 
 
 
旅順にて (μ)
2012-07-09 22:42:55
旅順へ向かう道にはポツリポツリと小さな家が建っていた。
ロシアと日本が勝手に中国の土地で戦争して、覇権を争った。
土地の人の思いを感じた。
その後、大学教授が旅順に行ったことを中国人にはなしたところ、憤慨された、という話を聞いた。
旅順はたぶーですね。
 
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