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原発「神話」を問う

『崩れた原発「経済神話」』より

人口は増えたのか

 人口が10年間で倍近くに増える--。柏崎市がこんなぶ(口倍増構想〃を打ち出したのは、日本が戦後初のマイナス成長となった1974年のことだった。当時の人口は約8万人。市がこの年に発表した「長期発展計画」の基本構想では、1985年度の人口が最大で14万6千人に増えると推計した。

 1974年は、1年前の石油危機が国内経済に影を落とし、高度経済成長が終わったとされる年でもある。新潟県の長期展望では、柏崎市の推計とは逆に、柏崎市を中心とする広域圏「柏崎圏域」の人口は1985年に向かって暫減すると見込んでいた。市が強気の推計を出した理由は何か。

  「原発の設置を前提にした計画だった」

 そう明かすのは柏崎市の元収入役、田中哲男さん(82)だ。1980年代、市企画調整課長として長期発展計画の策定を担ったこともある。市がこの計画を策定していた1970年代前半、柏崎刈羽原発の立地計画は着々と進み、原発に対する期待感は強かった。ただ、田中さんは言う。

  「現実の人口推移からは出るはずのない数字だ。しかし、原発が来て産業が振興し、雇用も所得も増えると見込んだ」

 現実は違った。原発建設期の1987年から5年半、柏崎市長として原発財源を活用した都市基盤整備に力を入れてきた飯塚正さん(87)も現実とのギャップに戸惑う。

  「思ったほど人口は増えなかった。産業も全然。どういうわけか(期待とは)みんな逆さまになった」

 こう自宅の一室でつぶやいた。飯塚さんが指摘する通り、2005年に合併した旧西山町、旧高柳町を除く旧柏崎市域の人口は2015年12月末、1974年以降で初めて8万人台を割り込んだ。これは、原発建設前の水準に戻ったことを意味する。将来の見通しはもっと厳しい。合併した地域を含めた現市域の人口は約8万7千人だが、柏崎市はこれが2060年には4万2千人台にまで落ち込むと推計する。

 原発立地によるプラス効果がなかったわけではなさそうだ。1978年から1997年までの原発建設期、柏崎市はほとんどの年で転入者数が転出者数を上回る「転入超過」たった。三条、新発田の両市はこの期間、転出者数の方が上回っている。原発建設の作業員が流入するという柏崎市の特殊事情の影響とみられる。

 ただ、柏崎市も柏崎刈羽原発の全7基完成を翌年に控えた1996年以降は、転出者数の方が多い状態が続いている。結果として、柏崎市(合併地域を含む)の人口総数は1975年~2015年で7・O%減少した。同時期に県全体では2・3%減、三条市で3・6%減、新発田市は微増だった。原発が立地したにもかかわらず、柏崎の減り方は激しかった。

 地域経済を人口の観点から研究する日本総合研究所主席研究員、藻谷浩介さん(51)はこう指摘する。

  「データを見れば原発があることだけでは転入者の数が増える要因は見当たらない。人口増加に貢献していない」

雇用は生まれたか

 原発が地域に多くの雇用をもたらすと信じている人は少なくない。実際はどうか。

 柏崎刈羽原発の建設は1978年に始まった。新潟日報社は、柏崎市の1972~2012年の40年間にわたる民間事業所の従業者数(臨時雇用を含む)を調べた。三条、新発田の両市と比べると、3市とも推移がほぼ同じという興味深い結果が浮かび上がった。しかも、1978~1997年の原発建設期も柏崎市に際だった仲びはなかった。

  「原発がない他の市と同じ歩みになるなんて……」

 新潟日報社がまとめた統計データを見た元柏崎市長の西川正純さん(72)は一瞬、絶句した後につぶやいた。原発建設が続く1992年から3期12年、市長を務めた西川さんは全国で初めて使用済み核燃料税を導入するなど、原発行政に詳しい。原発に出勤する作業員が原発の門の前に長い車列をつくっているのを見て、原発が地元の雇用を支えていると実感していたという。それを否定するようなデータを前に、西川さんは何度も首をひねりながら「加工されていないデータだけに、反論する根拠を見つけるのが難しい」と認めた。

 ただ、原発が一定の雇用を生むことは確かだ。原発構内には東電社員約1千人が常駐する。これに構内で働く作業員の数が加わる。東電によると、2016年1月現在の作業員数は約5600人だった。そのうち柏崎市内在住者は約4割の2400人強だという。

 しかし、このすべてが柏崎市内に生まれた雇用とはいえない。東電社員をはじめ、県外から一時的に住所を移した人が含まれるとみられるからだ。新潟日報社は柏崎刈羽原発構内に事務所を構え、原発の作業を請け負う会社を中心に、地元採用者数を聞いた。本社が東京でも「従業員の多くが地元採用」と話す社は複数あった。

 東電から空調設備工事などを受注する清田工業(東京)の柏崎事業所所長、川口卓也さん(46)も「常駐者8人のうち5、6人は柏崎市と(隣接する)長岡市の出身」と話した。一方、回答拒否や、「分からない」という社も多く、実態は不透明な部分がある。

 そもそも原発構内の作業員数は、その月に構内で働くための登録をした人数でしかない。登録者の中には、構内の勤務先に毎日のように通う人もいる一方、構外の企業に勤め、原発で仕事があるときにだけ入構するケースも相当数あるとみられる。こうした従業員は普段、原発とは関係のない仕事をしており、原発立地によって生まれた雇用とは言い切れない。

 原発内の仕事が増えても、地元の新規雇用に直結しないことを示すデータもある。

 2007年7月、柏崎市沖の海底を震源とする最大震度6強の中越沖地震が発生した。柏崎刈羽原発構内の道路や建物も大きな被害に遭った。その復旧工事によって、2009年には原発構内の作業員数が月8千人を超えた。建設期をしのぐ水準だ。原発が順調に稼働していた2006年は月4千人ほどだった。中越沖地震での被災によって原発構内の作業員が4千人も増えたことになる。しかし、柏崎市の民間従業者数をみると、2006年に比べて2009年は約700人の増加にとどまった。

 データが物語るのは、東電が公表する原発構内の作業員数が、地元で生まれた雇用を正確に反映していないということだ。原発と地域経済の関係を研究する京都大大学院の岡田知弘教授(61)=地域経済学=も、原発の構内作業員数が月単位で大きく増減している実態から「正社員などの安定的な雇用を生む効果はない」と分析する。さらに、原発という産業が抱える根本的な問題を指摘する。

  「原発は装置型産業で、装置を造ってしまえば、その後は保守管理に関する雇用しか生まれない。原発の誘致で地域経済が活性化するというのは幻想だ」
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