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アレントの両義性「アレント産業」

『政治の理論』より アレントの両義性

アレントの両義性

「思想の冷戦体制」

 ハンナ・アレントはよく知られているように、第二次世界大戦期、台頭するナチス・ドイツの脅威に追われて、ョーロッパ大陸からアメリカ合衆国に逃れてきたュダヤ系の亡命知識人の一人である。彼女は出世作『全体主義の起源』の上梓以降、アメリカを中心とする西側自由主義圏と、ソ連・中国を中心とする東側社会主義圏とが対峙する「冷たい戦争(冷戦)」期の西側世界において、独自の存在感を放つ政治思想家として広く読まれてきたが、とりわけ注目されるようになったのはその死後しばらくを経てから、特に八○年代末以降、ソ連・東欧社会主義圏が崩壊し、冷戦が終焉してからのことである。九〇年代以降の政治学、哲学界隈での「アレント産業」の隆盛は、冷戦の終焉、旧社会主義圏の崩壊によって、それまでは西側世界の資本主義経済、自由民主主義政治に対する批判理論の屋台骨として重要な役割を果たしていたマルクス主義思想が、深刻なダメージを受けてしまったことと無関係ではない。

 アレントは『全体主義の起源』において、イタリアのファシズム、ドイツのナチズム、そしてソ連のスターリニズムを含めた、全体主義の運動・政治体制を、単なる異常な逸脱現象としてではなく、西洋の思想・政治的伝統の自然な、ありうべき帰結として理解することをはっきりと要求していた。またこれに関連して、カール・マルクスとマルクス主義を西洋政治思想の伝統の中に--もちろん「マルクス主義」を標榜する党派の自己理解とは全く別の仕方でー適切に位置づけるという作業にも、『人間の条件』、『革命について』などで先鞭をつけていた。つまりアレントは、「思想の冷戦体制」とでも呼ぶべきものから、早い時期からはっきりと距離をとっていた。

 「思想の冷戦体制」とここで乱暴に呼ぶのは、以下のような気詰まりなシチュエーションのことだ。たとえばあなたが、西側世界において主導的な政治・経済両面のリベラリズム--その何たるかについては、前章で素描したとおりである。すなわち、社会契約論をベースとした立憲的自由民主主義政治と、スミス的経済学をバックボーンとする市場経済体制へのコミットメント--を批判したとしよう。そうするとあなたは非常に高い確率で、マルクス主義者、ないしはそのシンパ扱いされてしまう。実際、マルクス主義のドクトリンよりも体系的で説得力を持ったリベラリズム批判が他になかなか見当たらない--そうではないリベラリズム批判は、「昔は良かった」式の復古主義、反動思想。になることが非常に多い--ので、リベラリズム批判者の多くは、たとえいやいやながらであっても、マルクス主義の方へと引き寄せられる。何と言ってもマルクス主義こそが、自由な市場経済--マルクス主義風に言えば資本主義経済が、社会経済的な不平等を解消できず、それがひいては政治的な平等をも掘り崩して、民主主義を空洞化させてしまう、という危険を、的確に指摘してきたからだ。

異様な政治思想

 しかしもちろん、特にスターリン批判以降の時代であれば、そして西側世界に住んでいれば、「マルクス=レーニン主義」を体制の指導原理とする「現存した社会主義」の、個人の自由が大幅に制限された世界--そして後には、相対的に貧しい世界であったことも判明した--に住むのは、多くの人が御免蒙るだろう。つまりスターリン批判以降、マルクス主義は資本主義体制の批判の論理としては鋭利でも、それにとって代わりうる社会体制の構想の論理としては、あてにならないのではないが、という深刻な疑惑が生じたのである。それでも、西側世界にも存在する様々な不正や社会問題を批判する際に、マルクスとマルクス主義はとても有用な手掛かりになってくれるから、マルクス主義シンパは、「マルクス=レーュン主義」は拒絶できても、ご本尊マルクスと総体としてのマルクス主義はなかなか拒絶できない。それでも、そうやってマルクス主義シンパをやめずにいると、外野からは

  「おまえはソ連の肩を持つのか!」

 といった言いがかりが絶えず飛んでくる。その一方で「正統派」の、ソ連や共産中国を支持したり、あるいは各国の共産党のメンバーだったりする人々からは、

  「おまえらはニセ左翼だ! おまえらは利敵行為をしている裏切り者だ!」

 と批判される。右からも左からも罵られ、いいことがない。

 そしてもちろんその一方で、もしあなたが、

  「おかしいのはマルクス=レーニン主義だけじゃない。「レーニン、スターリソ、ロシア人どもがマルクスとマルクス主義を歪曲したのが悪い、あんなのは真のマルクス主義ではない」などと一部のマルクス主義シンパが言いつのるのは、気持ちはわかるが後ろ向きの言い訳に過ぎない。マルクス主義には、もとから、それこそマルクスの頃から、どこかとても不健全なところがあったんだ」

 などとはっきり言ってしまうと、今度はマルクス主義シンパ(はもちろん、ソ連や中国をストレートに支持する人々も含めて)から「それではあんたは、西側世界を支持するんだな、肯定するんだな!」と批判されてしまう。たとえあなたが「資本主義経済や議会制民主主義には深刻な欠点がある」と主張していてもだ。その一方であなたは、あなたが腹の底ではひどく嫌っているはずの、おめでたい自由市場礼賛論者たちから秋波を送られてしまうかもしれない。

 --このようなとても鬱陶しい雰囲気から、アレントはきっぱりと距離を置いた。自由市場体制や議会制民主主義を批判したからと言って、マルクス主義者になる必要などないし、逆もまたしかり。まただからと言って市民革命の意義を否定する、復古的反動主義者になることもない。今日であればいかにも当たり前に見えるこうしたスタンスを、それがまだひどく取りにくかった一九五〇年代、六〇年代において、アレントは決然としてとった。そのような彼女の思想が、社会主義の崩壊後に改めて注目されることになったのは、没後十余年を経ていたとはいえ、自然なことだったと言えよう。

 しかしながらアレントの政治思想は、同時代においてはもちろんずいぷんと異彩を放っていたではあろうが、先に触れたようにブームを経た今日でもなお、極めて異様なものに見える。アレント研究が「産業」と呼びたくなるほどに隆盛している理由は、それがまさに「冷戦以後」の時代の要請に応えているように見える一方で、何とも謎めいて理解し難い側面を未だに持っているという両義性にあるのだろう。

西洋古典古代と政治思想の正統

 アレントが「政治」を考える際のパラダイム--お手本、基準点、参照枠組みは、西洋にとっての古典古代、つまりはアテナイを頂点とするギリシアのポリスの民主政と、共和政期のローマである。そこでは政治とは、公的領域と私的領域の厳然たる区別を前提として、私有財産としての家--オイコス、レス・プリヴァータを基盤として、他人による支配から独立した自由人が、公の--開かれた場所としてのポリス、レス・プブリカにおいて他の自由人と交わり、対立し、あるいは協働すること、として理解されている。

 もちろんこうした理解自体は、まさに「西洋政治思想の正統」を継いでいる。マキアヴエ″リを頂点とするいわゆるルネサンスの政治思想も、ギリシア、ローマの法と政治をパラダイムとする、市民たちの共和国を構想するものであった。しかしながらアレントは、ルネサンスの共和主義者、人文主義者たちについてはともかく、更にそのルネサンスの流れを汲むはずの近代の立憲主義とリベラリズムに対しては、奇妙なまでに冷淡である。

 ルネサンスから更にホッブズ、口ック、ルソーらの契約論を立憲主義の基礎として理解し、更にその延長線上にジョン・スチュアート・ミルの議会制論を経由して、現代リベラル・デモクラシーヘとまっすぐな線を引く、という歴史観は、大学教養レベルの政治思想の教科書においては十分に生き延びている。現代の議会制民主主義を、まさに古典古代以来の西洋政治思想の正嫡と見なすこの歴史観それ自体は、もちろん現代の先進諸国のリベラル・デモクラシーを、かつて話題になったフランシス・フクヤマの言葉を借りれば「歴史の終わり」、ラスト・リゾートと見なすそのあまりのおめでたさゆえに、多くの批判に晒されてきた。ただし、その強力な批判者であったマルクス主義の後退以降、リベラルこアモクラシーは「欠点は多々あれども他に積極的な代替案が見当たらない」ものとして、消極的にではあれそれでも強力な支持を得るようになってしまっている。リベラル・デモクラシーヘの批判は、もはやその揚棄や超克のためにではなく、もっぱらその修正と洗練のためになされるかのごとくである。それゆえこの歴史観も、相対的に訴求力を強めている。その意味でもこの史観は「西洋政治思想の正統」なのである。前章で瞥見したような現代のリベラリズムは、結局はこうした史観を前提としている。

 だがアレントは、こうした史観にはくみしない。やや先取りして言えば、アレントはリベラリズムとマルクス主義の対立を、所詮は同じ地平の上でのものと見なしている。そしてこの伝統は、古典古代からルネサンスヘと、更にはアメリカ合衆国憲法を経て、第一世界大戦期、ロシア革命初期の本来の意味での「ソヴィエト」あるいはドイツ革命における「レーテ」といった草の根の評議会へと流れ込む、(あえて名づけるなら)共和主義の伝統からは決定的にずれている、と考えている。

 だが、あえて近代リベラリズムと切断した形での古典古代的な共和主義を模範とするとは、どういうことだろうか? たとえば既に見たとおり、近代的な社会契約論においては、契約に参加する人民は実力行使にょる自力救済の権利を封印し、それをすべて主権者、統治権力に信託する。そこでは正当に実力を行使しうるのは統治権力だけである。しかしながら古典古代の共和主義においては、人々は自分の身と財産を基本的には自力で守るとされる。政治的共同体としての国家の業務の眼目は、人々が個人で(というより自分の家の子郎党を動員して)なしうる範囲を超えた共同事業にあって、人民それぞれの権利の保障にはない。

 仮にアレントが非常に強い意味で、古典古代的共和主義を政治のパラダイムとしているのであれば、上記のごとき武力、実力行使の問題についてはどう考えているのだろうか? この武力の問題をさておいても、こうした共和主義はともすれば、普通のヨーロッパの反動のごとき、中世的封建秩序やカトリック教権主義への回帰どころか、更に極端な、古典古代への回帰を促す超保守主義になってしまうのではないだろうか?

 もちろんよくよく見ていけば、アレントの議論は単純な「古典古代への回帰」論などではない(そうでなければ今日まで読み継がれるわけもない)。しかしアレントのリベラリズム批判は、それこそリベラリズム的な、常識的発想とかなりずれているために、大きな構図の中で理解していかなければならない。
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