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メディアと小規模のコミュニティ

『メディア文化研究への招待』より メディアが先か、文化・社会が先か? 国民的メディアの衰退--商業化・断片化・グローバリゼーション ⇒ 乃木坂をコミュニティと見た時に、46時間TVなどを新しいメディアと位置づけたい。

メディアと小規模のコミュニティとは互いに相容れないとする議論の紹介から、この章ははじまった。しかし、前者が後者の発展と強化に貢献しうるいくつもの方法を、われわれは明らかにした。

この議論により、メディアは一様なものではなく、いくつものタイプに分かれ、それぞれがアイデンティティやコミュニティの類型にさまざまな意味を持つことが示された。マスメディアによるネガティブな報道が周縁的コミュニティの抵抗と結束を惹起する一方で、ローカルないしニッチ・メディア内のポジティブで内輪の語り口が、アイディアや交流や集団的アイデンティティの共有スベースを用意する。また、草の根的ないしDIYメディアの広がりは、オンラインでもオフラインでも、場合によってはコミュニティを土台から構築し促進する。たとえ他の場合には結びつきがいくぶん弱い人間関係を築くことがあるとしても、である。

しかしながら、われわれが検討したさまざまなメディアコミュニティの本質と意義のレベルに関する大事な議論は、未解決のままである。性的マイノリティ集団のアイデンティティと結束の強さは、多くの人が認めるところであろう。第10章で見たエスニックマイノリティ集団と同様に、彼/彼女らは主要なメディアから排除・非難されがちであり、ニッチで草の根的なコミュニケーションに依存している。だが、これが特定の趣味や商品選択を軸に据えた集団の構成となると、事情はそう明快ではなくなってくる。極端なまでのスポーツ狂、SFファン、若者向けの音楽シーンは、実体を伴ったコミュニティを本当に形成しているのだろうか。それともそうした集団は、あまりに結びつきが弱く、パラパラで、一時的なものであって、実体を伴っているとはとても言えたものではないのだろうか。その答は、コミュニティをまずどのように定義するかにかかっている。

テンニースやレッドフィールドのように従来の定義を真剣に捉える者にとって、コミュニティとは相互依存を強いられた状況にのみ現実的に存在する、長期にわたる共生とかかわり合いを意味する。純正で濃密なゴミュニティの有機的な強さは、人びとに生まれつき備わっていて選択の余地のない、所与の要因を反映したものと考えられる(最もわかりやすいのは地理的な孤立であるが、社会階層・エスニシティ・宗教的伝統によるものもある)。

この観点からすると、メディアは距離の制約を取り除き、人びとが社会や文化をまたがってさまざまな選択をできるようにしたことで、自分たちがつながる相手やモノを決めるという〈選択〉を持ち込んだのである。そして、そうした選択の幅は、メディアと消費文化の普及によって飛躍的に大きくなった。

そのせいもあって、地域性、社会階層、宗教、その他もろもろのコミュニテイの基盤は、われわれの生活を形成する度合いの点では役割が小さくなったと考えられる。その結果、個々人は確たる結びつきを喪失し、自分の選択によって自らのアイデンティティを形作るものとされる。ジグムント・バウマンは、なにかに所属したいという燃えるような欲求が、人びとをしてあらゆる種類の象徴や組織に自らを帰属せしめる、と考えた。その多くが、メディアやポピュラーカルチャーに関係するものなのである。われわれは、自分が生まれ落ちた地域や階層や宗教によって定義されるのではなく、ホラー映画ファン、ゴルフファン、ゲームのプレイヤー、セレブ・ウォッチャーとして自分をアイデンティファイすることを自ら選択するのである。

〈個人化理論〉の観点からすると、こうしたメディアや消費に関係したアイデンティティは選択されるものであるから、選ばれない可能性も同じくらいある。したがって、コミュニティに対するわれわれのかかわりも、常に「じゃあまたね」といった性質のものとなる。人びとは、特定のなにかに入れ込んだ形で自らを帰属させるのではなく、部分的・一時的な帰属をしたり離脱したりを繰り返す、と考えられる。そうした集団は、コミュニティの特徴である、互いに対する感情や責任の揺るぎない強さを示すこともない。集団自体が移ろいやすく、皮相なのである。そうした集団は、(テンニースがゲマインシャフトを定義した際に考えたような)各成員の個人的利害より集団が優先するという状態とはかけ離れており、集団から集団へと流れゆく移り気な個人に隷属する。この観点からすると、メディアが広範で包括的であればあるほど、また選択の幅が大きければ大きいほど、〈個人化された〉社会(すなわち、安定して実体を伴ったコミュニティではなく、いくっものかかわりの間を浮遊する個々人を中心とした社会)にメディアは資することになる。

こうした見方が示唆するものはなにか。それは、地域メディア、専門誌、二ッチなテレビ放送、DIYファンジン、対象を限定したインターネットサービスには、その見かけほどの実体やかかわりが欠如している、ということである。意のままにそれらに参加したり離れたりできるということで、それらはコミュニティではなく、個人の便宜で集まった烏合の衆となるのである。

しかし、こうしたコミュニティに関する絶対的な予見をとる必要はないのかもしれない。相互依存や孤立を強いられた結果による100%の自足と参加こそが、コミュニティと呼ばれるにふさわしい条件だと主張したとしたら、懐古趣味に陥る危険を冒すことにもなる。また、現代の集団内にも、明確にして重要な共同体的特徴が存在することを見落としかねない。さらにそうした集団を促進するメディアの役割を理解する機会を逸してしまいかねない。

確かに選択という側面があろうし、必ずしも生涯にわたるものであったり排他的であったりするとは限らない。だが、相当数の小規模な社会集団が、強い帰属意識、独自の価値観と慣習、内部の濃密なコミュニケーションを示し続けている。過去の理想化された基準に適合しないからといって、こうした集団の意義を見過ごすのは慎みたい。その共同体的特徴の規模と性質や、さまざまなメディアがコミュニティ発展のために果たす役割を注視していきたい。
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