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空海と現代

『空海を読み解き事典』より

空海が誕生したころの日本では、国家の支援をもとに建立された奈良の寺々を拠点に、中国からもたらされた経典の研究が行われていた。とにかく仏教の知識を吸収することを優先する時代であり、難解な教学をしっかり理解し受けとめることが、僧侶に課せられた仕事であった。そのため、人々の救済を行う宗教活動はどうしても不十分となり、仏教はまだ、救いを求める人々の生きる支えとはなっていなかった。

奈良仏教と呼ばれるこのような学問仏教に対し、社会の要請に応えようとして実践する僧たちもいた。山岳修行者と呼ばれる僧たちである。彼らは山岳に分け入り、深い宗教体験を得ようと修行実践に励んでいた。山岳修行で得た呪力を駆使し、無病息災などの現世利益を願う人々に、福徳を与えようとしたのである。しかし彼らには大きな課題があった。それは、彼らに確立した教学がなかったことである。

こうしたなか、新たな仏教の必要性を感じ取った空海は、唐に渡って密教を学び、日本に密教を伝えた。密教はまたたく間に日本に広がり、平安時代の仏教は真言教学として体系化され、密教一色に染められていった。

密教普及の原動力となった教学が、空海の提示した曼荼羅理論であった。曼荼羅とは、言葉にできない悟りの世界を図像に表したものである。曼荼羅は、大日如来を中心として、その周囲に如来・菩薩・明王・ヒンズー教の神など、あらゆる存在が描かれる。これらは異質な存在がそれぞれ個性を主張しつつ、互いに関わり合いながら、全体として調和している。

曼荼羅理論は、総合的な視点から個と全体との関係性を示したもので、「個性を尊重し調和をはかる」ことを意図している。つまり曼荼羅理論自体が、当時の日本にあった信仰や思想のすべてを包み込んで位置づける、柔軟な論理構造を有していた。つまり、曼荼羅理論であればこそ、奈良仏教の様々な教学をはじめ、山岳修行者の実践や、日本の神々の信仰、あるいは儒教や道教までも包含し、これらを体系的、有機的に結びつけることができたのである。この曼荼羅理論は、明治維新まで続いた仏と神との連携をはかる神仏習合の歴史をも支えてきたのである。

空海の著作『十住心論』は、様々な人間のありようを総合的な視点から考察している。ここでは、当時の代表的な思想を十段階に分け、密教以外の諸宗教を顕教ととらえ、密教とは区別する。しかし、それは他宗教を批判し自らを高く評価することではない。すべては大日如来の働きであり、顕教もまたその働きの一つとして曼荼羅の一員とし、密教のうちに取り込むのである。

曼荼羅理論は、すべてをやみくもに統合するわけではなく、そこには共通した理念が必要である。自分の考えを押しつけることではなく、個々の存在意義を尊重しつつ、全体を見据え、思考するところに特徴がある。だからこそ曼荼羅思想は、神と仏という異教の者同士であっても、争うことなく和合連携するのである。

空海は、曼荼羅理論をもって諸思想を包含し、体系化し、人々に和合連携の大切さを説き、これを日本人の精神の支柱とすることをはかった。日本人の精神性は、こうした和合連携の思想のもとに高められてきたのである。

このような精神の根源をたどれば、遠く「縁起の法」に行き着く。「縁起の法」は自己を主張するのではなく、他者を尊重する教えである。つまり差異をあげつらうよりは、共通点を探ることを大切にする考えである。そしてこの理念を、総合的な視点から組み立てたものが、空海が主張する曼荼羅理論である。

人間はだれも一人で生きていくことはできない。私たちを取り巻く環境がある限り、他者との関係性を否定することはできないのである。私たちは常に、ある関係性のなかに生きており、その意味では曼荼羅に似た世界のなかにいると考えられる。家庭には家庭の、国には国の、世界には世界の、曼荼羅的宇宙が広がっている。しかしそれを曼荼羅と称するには、そこに共通の理念がなければならない。曼荼羅の理念は、他を優先する心、すなわち「慈悲」にほかならない。

今や世界はいよいよ狭くなってきている。世界には多くの民族があり、宗教がある。それぞれの違いは個性であり、それぞれに存在意義がある。そこに共通の理念を持つことができれば、曼荼羅が成立するのである。

空海が望んだのは、多くの人々がともに幸福に生きる曼荼羅世界の実現であったのではないかと、私は考えている。
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