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未唯への手紙

未唯への手紙

カント倫理学の定言命法

2011年01月16日 | 2.数学
『はじめての政治哲学』より

カントは、行為の道徳的判定に際して、行為を引き起こす意志自体が何を目的とするかという形ではなくて、いかに意志するかという形で問われなければならないといいます。

つまり、「もし~を欲するならば、~せよ」というように、あらかじめ設定された何らかの目的を前提とし、その目的を実現するために必要な手段としての行為を命ずる「仮言命法」ではだめだというのです。仮言命法は功利主義と同じで、人間の理性を目的を得るための道具に既めてしまうからです。

お金をもらえるから人を助ける、表彰されて新聞にも載るから人を助けるというのでは、自分をそうした目的のための道具にしてしまうことになります。そうならないようにカントが要求するのは、たんに「~せよ」という定言命法にほかなりません。定言命法は、行為以外のいかなる目的をも前提せず、行為そのものを無条件に命ずるのです。

この定言命法を法則化したのが、「汝の意志の格率(基準)が、常に普遍的な立法の原則に合致するように行為せよ」というものです。つまり、万人に当てはめても矛盾が生じないような原則にのみ従いなさいということです。困っている人がいたらとにかく助けよという命令を万人が実行したとしても、何ら矛盾が生じることはありません。

しかし、この法則は格率の「形式」が普遍的か否かを判定するだけの原理であって、格率の実質や中身にはかかわりません。たとえば、いくら万人が納得しており、矛盾が生じないとしても、奴隷制が許されていいとは思えないでしょう。したがって、この法則だけでは必ずしも道徳的な意味で妥当な結論を導くとは限らないのです。

そこでカントは、もう一つの法則を付け加えます。それは、「汝の人格やほかのあらゆる人の人格のうちにある人間性を、いつも同時に目的として扱い、決してたんに手段としてのみ扱わないように行為せよ」というものです。カントは行為の道徳性の実質的な根拠を、個々の人間の人格の尊厳性に求めたのです。カントは人格の尊厳性を絶対的な価値として据えているといえます。

では、なぜ人格は絶対的な価値を有するといえるのでしょうか。それは人間が理性という合理的推論能力を備えた素晴らしい存在だからにほかなりません。たんに欲求や傾向性によって行為へと促されるだけではなく、理性によって自らの意志を自由に規定することができるという点に、カントは人間の尊厳の根拠を見出したといえます。

功利主義(前節)の最後のところで、イケニエをなくすための方法について問いかけましたが、カントの定言命法は、ストレートにその問いに答えてくれているのではないでしょうか。

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