『南ヨーロッパ』より ギリシャ ⇒ テッサロニキから寝台特急でイスタンブールに行く予定であったが、ギリシャ国鉄のストのためにバスに変更。そのために、駆け足でスタバに寄っただけで通り過ぎてしまった。マケドニアを味わいたかった。
二つの主要都市を結ぶ軸は、1922年以降ギリシャ国家の中心軸となった。「大構想」を放棄し、また小アジアからの難民を収容する必要性などに迫られ、ギリシャはエーゲ海北部の諸地方を優先するに至った。当時、道路交通輸送は、沿岸輸送や鉄道に比べ重要性が低かった。沿岸輸送はアテネ・テッサロニキ間の連絡を保証してきたし、それは19世紀に艦砲射撃を避けるために海岸からかなり離れたところに敷設された、曲がりくねった鉄道網も同様であった。この路線は延長され、さまざまな土木工事が施された。それはまさに第二次大戦中ギリシャの抗独レジスタンスにとっての、達成が切に望まれる目標となっていた。
アテネ・テッサロニキ軸の一方の突端であるマケドニアの交差点テッサロニキは、ヨーロッパという観点でみるとき、おそらくギリシャの最も重要な一地点であるだろう。これはヴァルダール川(ギリシャ人たちがアクシオスと呼ぶ)が形づくる谷から地中海への出口にあたっている。しかしこの交差点の運命はあまりにもしばしば歴史上の難問題にさらされることになった。それほど古い時代に遡るまでもなく、テッサロニキはその人口の多さと活発な経済活動によって、18~19世紀においては他の追随を許さないヨーロッパ側トルコの中心都市であった。それは中央ヨーロッパの国々から地中海東部への出口の中で最も重要な地点の一つであり、イスタンブールからとてもアクセスしやすい中継点であった。漸進的に発展した鉄道網によってテッサロニキはベオグラードに(1888年)、ビトラに(1893年)、またイスタンブールに(1896年)につながれていた。スエズ運河の開通はこれら鉄道網にさらなる価値を与えていた。将来テッサロニキを所有することは、ヨーロッパ側トルコの分配を巡って競合していたセルビア人、ブルガリア人、ギリシャ人にとって主要な争点になっていた。1878年のサン・ステファノ条約によれば、ブルガリア人たちがそれを最も手に入れやすい立場にあった。
バルカン戦争、第一次大戦、1922年のギリシャの小アジア遠征の結果、ギリシャはマケドニア南部全域、トラキア西部を奪回し、一方ブルガリアとの、また旧ユーゴスラビアとの国境は、とりわけ1945年以降ますます通行困難になっていった。それ以後、条約が旧ユーゴスラビアの人々にテッサロニキの自由港の使用を認めているにもかかわらず、この都市はもはやほとんど国際的な役割を果たさなくなった。ブルガリアと旧ユーゴスラビアは自国の港を優先させ、テッサロニキからとりわけ旧ユーゴスラビア領マケドニアに広がる後背地の多くの部分を取り上げることになった。テッサロニキから分断された[マケドニア国の]ビトラの街は、この国粋主義的政策による被害を大いに被った。しかし、1960年以降状況は改善された。この時点で旧ユーゴスラビアはその主要幹線道路の建設を終え、近東へ向けてのトラック輸送が展開されていた。この好機を最初に掴んだ港はヴォロスで、フェリーの航路を就航させ、テッサロニキはこれに続いた。ヴァルダール河谷にあるエヴゾニの国境検問所では、ギリシャ国境のすべての検問所を通過するトラックの交通量の全体の3分の2の通行が記録されている(1983年には16万5000台の総交通量に対し10万5000台)。
他方、ギリシャを訪れる観光客の一部は旧ユーゴスラビアのルートを経て、テッサロニキに辿りつく。先に触れたエヴソニの検問所では、外国からの観光目的での交通量の3分の2が記録される(1983年には53万5000台の総交通量に対し36万2000台)。さらに興味深いのは、大部分がセルビアやマケドニアからの多くの旧ユーゴスラビアの旅行者が、夏季に沿岸部保養地に住み、そしてその際テッサロニキやギリシャ領マケドニアの諸都市へ食料などの調達にやってくることである。そこには長期的展望に立てば興味深い連帯のはじまりが観察される。何十年来隔てられてきた諸民族たちが、互いに共有し合っているものを発見するのだ。また反対に、週末になれば観光バスに乗ったテッサロニキのギリシャ人たちがノソフィア、スコピエベオグラード、またブカレストにまで小旅行に出かけるのが見受けられる。1、2世紀前まで盛んだった交流が再生せんばかりとなっている。しかしながら、ヨーロッパ諸都市との航空網を組織し、テッサロニキに国際見本市を築こうとする努力が払われているものの、テッサロニキにとっては外国からの刺激よりもギリシャ北部との直接的関係のほうが、目下のところより重要性をもっている。
二つの主要都市を結ぶ軸は、1922年以降ギリシャ国家の中心軸となった。「大構想」を放棄し、また小アジアからの難民を収容する必要性などに迫られ、ギリシャはエーゲ海北部の諸地方を優先するに至った。当時、道路交通輸送は、沿岸輸送や鉄道に比べ重要性が低かった。沿岸輸送はアテネ・テッサロニキ間の連絡を保証してきたし、それは19世紀に艦砲射撃を避けるために海岸からかなり離れたところに敷設された、曲がりくねった鉄道網も同様であった。この路線は延長され、さまざまな土木工事が施された。それはまさに第二次大戦中ギリシャの抗独レジスタンスにとっての、達成が切に望まれる目標となっていた。
アテネ・テッサロニキ軸の一方の突端であるマケドニアの交差点テッサロニキは、ヨーロッパという観点でみるとき、おそらくギリシャの最も重要な一地点であるだろう。これはヴァルダール川(ギリシャ人たちがアクシオスと呼ぶ)が形づくる谷から地中海への出口にあたっている。しかしこの交差点の運命はあまりにもしばしば歴史上の難問題にさらされることになった。それほど古い時代に遡るまでもなく、テッサロニキはその人口の多さと活発な経済活動によって、18~19世紀においては他の追随を許さないヨーロッパ側トルコの中心都市であった。それは中央ヨーロッパの国々から地中海東部への出口の中で最も重要な地点の一つであり、イスタンブールからとてもアクセスしやすい中継点であった。漸進的に発展した鉄道網によってテッサロニキはベオグラードに(1888年)、ビトラに(1893年)、またイスタンブールに(1896年)につながれていた。スエズ運河の開通はこれら鉄道網にさらなる価値を与えていた。将来テッサロニキを所有することは、ヨーロッパ側トルコの分配を巡って競合していたセルビア人、ブルガリア人、ギリシャ人にとって主要な争点になっていた。1878年のサン・ステファノ条約によれば、ブルガリア人たちがそれを最も手に入れやすい立場にあった。
バルカン戦争、第一次大戦、1922年のギリシャの小アジア遠征の結果、ギリシャはマケドニア南部全域、トラキア西部を奪回し、一方ブルガリアとの、また旧ユーゴスラビアとの国境は、とりわけ1945年以降ますます通行困難になっていった。それ以後、条約が旧ユーゴスラビアの人々にテッサロニキの自由港の使用を認めているにもかかわらず、この都市はもはやほとんど国際的な役割を果たさなくなった。ブルガリアと旧ユーゴスラビアは自国の港を優先させ、テッサロニキからとりわけ旧ユーゴスラビア領マケドニアに広がる後背地の多くの部分を取り上げることになった。テッサロニキから分断された[マケドニア国の]ビトラの街は、この国粋主義的政策による被害を大いに被った。しかし、1960年以降状況は改善された。この時点で旧ユーゴスラビアはその主要幹線道路の建設を終え、近東へ向けてのトラック輸送が展開されていた。この好機を最初に掴んだ港はヴォロスで、フェリーの航路を就航させ、テッサロニキはこれに続いた。ヴァルダール河谷にあるエヴゾニの国境検問所では、ギリシャ国境のすべての検問所を通過するトラックの交通量の全体の3分の2の通行が記録されている(1983年には16万5000台の総交通量に対し10万5000台)。
他方、ギリシャを訪れる観光客の一部は旧ユーゴスラビアのルートを経て、テッサロニキに辿りつく。先に触れたエヴソニの検問所では、外国からの観光目的での交通量の3分の2が記録される(1983年には53万5000台の総交通量に対し36万2000台)。さらに興味深いのは、大部分がセルビアやマケドニアからの多くの旧ユーゴスラビアの旅行者が、夏季に沿岸部保養地に住み、そしてその際テッサロニキやギリシャ領マケドニアの諸都市へ食料などの調達にやってくることである。そこには長期的展望に立てば興味深い連帯のはじまりが観察される。何十年来隔てられてきた諸民族たちが、互いに共有し合っているものを発見するのだ。また反対に、週末になれば観光バスに乗ったテッサロニキのギリシャ人たちがノソフィア、スコピエベオグラード、またブカレストにまで小旅行に出かけるのが見受けられる。1、2世紀前まで盛んだった交流が再生せんばかりとなっている。しかしながら、ヨーロッパ諸都市との航空網を組織し、テッサロニキに国際見本市を築こうとする努力が払われているものの、テッサロニキにとっては外国からの刺激よりもギリシャ北部との直接的関係のほうが、目下のところより重要性をもっている。
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