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未唯への手紙

未唯への手紙

ベラルーシとバルト三国の関係

2017年10月14日 | 4.歴史
『ベラルーシを知るための50章』より 首都ミンスクの歴史と現在 ★戦災から甦った英雄都市★ チェルノブイリ原発事故 ★ベラルーシ国土の22%が汚染地域★ ⇒ ヨーロッパ縦断の旅ではヘルシンキ~バルト三国からポーランドに抜けるにはベラルーシを通ることになる

世界的な美人の名産地 ★シャラポワを産んだ美女大国★

 ベラルーシは美人の産地で知られる。何故美女が多いのかについては諸説あるが、ロシアとヨーロッパの間に挟まれながらも、タタールやモンゴルなどほかの民族との混血が少ないため、スラヴ民族のなかでもとりわけ美人が多いといわれている。反対に山がなく平坦な土地のため、昔から人の移動が頻繁で混血が多く、だから美人が多いという説もある。

 ペラルーシの女性の特徴をいえば、透き通るような白い肌、目を見張るような金髪、青い瞳にすらっと伸びた足である。アジア人が持っていないモノをすべて持っている。決して、そういう人ばかりと言うわけではないが、街中を歩いていると、モデルかと見間違えてしまうほど美しい体形の女性を見かけることがある。一瞬人形かと見間違えてしまうほど整った顔や大きな瞳の女性もいる。

 同時に「性格美人」であることが多い。筆者は2006年から2008年にかけて首都のミンスクに駐在した。ベラルーシの女性を一言でいえば、穏やかでまじめ。ロシア人と比べて余計なひと言がないという印象がある。仕事への態度も勤勉で、ロシア人よりも親しみやすく、付き合いやすかったというのが正直な感想である。

 ベラルーシ人は、ロシア人などの近隣諸民族に比べ、物静かで温厚である。また、歴史上まとまった国家としての経験がなく、常に強大な周辺諸国の支配に置かれてきたこともあり、国民の間に民族意識や国家意識が希薄なことも特徴的である。1991年末の独立も、決してベラルーシ国民が自ら勝ち取ったものではなく、むしろ民族的な自意識の希薄なベラルーシ人にとっては、ソ連という有無を言わせない絶対的な枠組みの方が、ずっと居心地の良いものだった。第二次世界大戦で住民の四分の一を失い、1986年のチェルノブイリ原発事故では最大の被害を受けた。こうした、苦難に満ちた歴史が、ロシア人ウクライナ人などの同じスラヴ民族に比べて従順で忍耐強いとされるベラルーシ人の国民性に影響しているといわれている。

 現地の女性も、自分たちの容姿がいいのを知っている。ベラルーシの女性が美人であることは、ルカシェンコ大統領自身が認める事実となっており、政府高官から一般市民まで誰もが遠慮することなく堂々と自慢する。政府関係の会議に出席した際、会議後に180センチくらいの長身の美しい女性のファッションショーがあったのには驚いた。ベラルーシ人と雑談していると、いつの間にか美しい女性の話題になっていることがあるほどだ。それを横で聞いている女性は嫌な顔一つしない。自分たちの美しさを自覚していることにはかならないが、あまりいい気持ちではない。

 そんなベラルーシ美人の秘密は、食文化にあるのかもしれない。ベラルーシ料理の特徴と言えば、ジャガイモを多く使うこと。生のジャガイモをすりおろし、少しの小麦粉と塩で混ぜ、多めの油で焼く「ドラニキ」というパンケーキをよく食べる。ジャガイモにはカリウムやビタミンCが豊富に含まれる。ビタミンCはミカンに匹敵するほど含まれており、美容に良いとされる。

 美人をつくる要素は一つではない。遺伝、生活環境、幼少期の教育などいろんな要素が複雑に絡み合って、しかも一朝一夕にできるものではなく時間をかけて、世界で一つの自分らしい美しさにつながる。

 どこの国の女性とも同じくベラルーシの一般女性も綺麗になる努力をしている。お肌に問題があれば、美容皮膚科に行きプロの診断を仰ぐ。ミンスクには美容皮膚科や美容サロンが多くて驚いた。

 ベラルーシの美人で一番に思いつくのは、プロテニス選手のマリア・シャラポヴァである(日本では「シャラポヮ」という表記が一般的)。彼女の両親はベラルーシ南部のゴメリ州の出身で、チェルノブイリ原発事故でロシアのシベリア地方に移住した。シャラポヴァはその翌年に生まれた。彼女のすらっとした体形、整った顔、明るい髪の毛は典型的なベラルーシ美人である。

 美人過ぎるムエタイ選手として有名なのがエカテリーナ・ヴァンダリエヴァ。彼女はミンスクで活動している現役選手で、世界チャンピオンに輝いたことも。強いだけではなく、その美貌からモデルもこなす才色兼備な女性である。

 モデルでは、ターニャ・ディアヒレヴァ、オルガ・シェレール、カトシア・ジンガレヴィチなどが有名である。プラグやH&Mなど世界的有名ファッションブランドのモデルとして活躍する一方、世界的なショーに出演し続けている。

 ベラルーシの女性の体形は頭が小さくて、すらっと背が高く凹凸があまりないモデル体型で、ロシア人やウクライナ人に比べ体の凹凸が少ない。また、真面目に働く性格なので、柔らかい物腰や話し方から、より美人に映るのかもしれない。

 ベラルーシに美人が多いことを象徴するのは、モデルとして海外で働いた経験があるベラルーシ人女性と知り合う、または何らかの形で関わる確率が極めて高いことである。

 駐在中に知り合ったユーリヤさんは15歳からパリでモデルをしていた。17歳に拒食症になりモデルをやめたそうだが、栗色の髪の毛でこれまた美しく性格が明るくて元気。身長は180センチ近くあった。普通の女性とまったく変わらず、悩んだり、ダイエットしたり、彼氏がいないと言ってパーティーに出かけたりしていた。

 ミンスクで通訳の仕事をしている女性も元モデルだった。背が高くこげ茶色のロングストレートヘアーで、とにかく背が高くスタイルの良い女性だった。知り合いの外交官の女性も元モデルで、美しい金髪の華奢な典型的な女性であった。

 このように、そこら中にモデルまたは元モデルがいるのがベラルーシ。嫌でもモデル大国で、美人の産地だと気づかされる。

 ミンスクにはモデル養成学校、通称「美の国民学校」がある。海外で活躍するトップモデルを多く輩出している。学校は、「若い世代の審美的育成と調和のとれた人格形成を育てる」ことを目指して、1996年にルカシェンコ大統領の命令により設立された。モデルコースのほか、スタイルコース、ビューティーコース、さらにはスタイリストやメイクアップアーティストになるためのコースなどがある。また、エージェントとしてモデルをテレビCM、広告、カタログ、イベント、雑誌、映画などの出演に派遣している。

 たとえば、モデルコースの場合、13~16歳を対象に週2回のレッスンがある。期間は9ヵ月間。レッスンではウォーキング、セルフプロモーション、ポージング、ヘアメイク、ファッションスタイリングなどモデルとしての実践的なスキルを身につける。レッスンの終わりには終了証明書がもらえる。優秀な生徒は上級コースに進み、トップモデルになるためのスキルを身につけるという。

 毎年行われる「ミス・ベラルーシ」のコンテストには、スーパーモデル級の美女が参加する。まさに美の競演である。国民的行事の一つであり、コンテストの模様はテレビで全国に生中継される。

 世間が言うように、確かにベラルーシの女性に美しい人は多い。だが、それは単なる見た目の評価である。外見的な美しさというのははかないものである。彼女たちがそれだけでなく、豊かな知性に裏づけされた内面美を兼ね備えている点にも注目してみてほしい。

ベラルーシとバルト三国の関係 ★リトアニアとの関係が特に密接★

 リトアニア

  エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国のなかで、ベラルーシとの関係が深いのが、何と言ってもリトアニアである。ペラルーシとリトアニアは、679キロメートルもの国境線を共有する隣国同士である。両国の祖先は、リトアニア大公国、ポーランド・リトアニア共和国の下で、数百年間も運命を共にしてきた。近代に入って、ベラルーシの民族主義運動の揺藍の地となってきたのは、現リトアニアの首都ヴィルニュスであった。ロシア革命後の1919年には、約7ヵ月と短命ながら、両国共同の「リトベル共和国」が設置されていたこともある。

  ちなみに、2012年にベラルーシ国民にアンケー卜調査を行い、「ベラルーシ国家のルーツはどこにあると思うか?」と尋ねたところ、44・8%がリトアニア大公国と回答している。また、2013年には大公国のヴィタウタス大公を主人公とするバレエ作品が発表され、ペラルーシ・ボリショイ劇場のレパートリーに加えられた。リトアニア国民が意に介するとは思えないが、ベラルーシの愛国者たちはリトアニア大公国を、自らの黄金時代と捉えているのである。

  1991年暮れにソ連邦が崩壊すると、ベラルーシとリトアニアはすぐにお互いの独立を承認し、外交関係を樹立した。相互に大使館を開設しているのはもちろん、リトアニアの側はベラルーシのグロドノに総領事館も置いている。

  ただ、ベラルーシが民主化の面で課題を抱え、EUと政治的に対立していることが、ベラルーシ・リトアニア関係にも影を落としている。ペラルーシ・ナショナリズムにとって聖地とも言えるヴィルニュスは、今日では国際的なベラルーシ民主化支援の重要な拠点になっている。そうしたことから、アレクサンドル・ルカシェンコ・ベラルーシ大統領には、リトアニアを敵視する傾向があった。2005年には、親米派のアダムクス・リトアニア大統領がドイツ紙とのインタビューで、ルカシェンコ大統領のベラルーシ軍がリトアニアに侵略してくる恐れが否定できない旨述べて、物議を醸したことがあった。アダムクス大統領が2009年7月に退任すると、ようやく二国間関係が改善に向かい、2009年9月にはルカシェンコ大統領のリトアニア訪問も実現した。

  ベラルーシ・リトアニア関係で、重大な対立点となっているのが、原子力の問題である。対ベラルーシ国境に近いリトアニアのイグナリナ原発は、2009年末までに全面的に運転を停止した。しかし、リトアニア側は放射性廃棄物の保存施設を、対ベラルーシ国境からわずか700メートルの場所に建設しようとしている(国境の向こうにはベラルーシ切っての景勝地、ブラスラフ諸湖国立公園が広がっている)。これに反発したベラルーシ側が、対リトアニア国境の近くに大規模な養豚場を建設するという、謎の報復行為に出る場面もあった。なお、リトアニアがイグナリナ原発の跡地に新たにヴィサギナス原発を建設する計画があるが、国民投票で否決されたこともあり、実現が不透明となっている。一方、べラルーシは現在、同国初となる原発を北部のオストロヴェツ町に建設中であり、これが対リトアニア国境から30キロメートルしか離れていないとして、逆にリトアニア側が抗議の声を上げている。ベラルーシ・リトアニアとも、嫌悪施設を両国国境に沿って配置し合うという、嫌がらせの応酬のようなことが続いている。

  両国間では、相互の少数民族問題は、あまり目立たない。すなわち、2009年のベラルーシの国勢調査によれば、ベラルーシには5000人あまりのリトアニア系住民しか暮らしておらず、全人口に占める割合はO・05%である。ちなみに、リトアニア系が多く住むのは、リトアニアと隣接したオストロヴェツ地区で、同地区の人口の約4%がリトアニア系となっている。一方、2011年のリトアニアの国勢調査によれば、3・6万人程度のベラルーシ系住民が確認されており、全人口の1・2%に相当する。

  ペラルーシ側の貿易統計によれば、2015年のベラルーシとリトアニアの輸出入総額は12億4180万ドルだった。リトアニアはベラルーシの貿易相手国として第8位であり、全体の2・2%のシェアを占めていた。また、2015年初頭現在で、リトアニアのベラルーシに対する投資残高は1億9001万ドルであり、これは投資国として第9位で、全体の2・9%だった。2015年末時点で、ペラルーシには、リトアニア資本が投資した企業が627社登録されていた。ペラルーシは主要輸出商品である石油製品やカリ肥料の海外向け船積みを主にリトアニアのクライペーダ港で行っており、翻ってクライペーダ港にとってもベラルーシは上得意の荷主となっている。

  実は、ヴィルニュスを中心とするリトアニアは、ベラルーシ国民の買物ツアーの行き先として、人気がある。ベラルーシの首都ミンスクから、リトアニアのヴィルニュスまでは、直線距離でわずか170キロメートル。ベラルーシ国民にとって、最も近い欧州の都市がヴィルニュスであり、良い品が揃っている割には、今のところ物価が安い。ヴィルニュスの大型店などでは、売上の10~15%はベラルーシのお客さんとされ、30%ほどに及ぶところもあると言われていた。しかし、最近になってヴィルニュスヘの買い物ツアーは下火になりつつあるようだ。在ベラルーシ・リトアニア大使館は以前、『リトアニアヘー:ショッピング・休暇・ビジネス』と題する雑誌まで定期発行してベラルーシ客の誘致に努めていたが(画像参照)、同誌もすでに廃刊になっている。

 ラトビア

  ペラルーシとラトビアの国境線は、173キロメートルである。両国は1993年に相互に大使館を開設し、またベラルーシはラトビアのダウガフピルスに、ラトビアはベラルーシのヴィテプスクに総領事館を置いている。2011年現在、ラトビアには約7万人の民族的なベラルーシ人が住んでおり、同国人口の3・3%を占め、ラトビア人、ロシア人に次ぐ第3のエスニックグループとなっている。特に、対ベラルーシ国境から近いラトビア南東部のラトガレ地方は、歴史的にロシア人・ペラルーシ人が多く暮らしてきた土地である。その中心都市のダウガフピルスは、1920年まではドヴィンスクの名で呼ばれていたところで、ペラルーシ人にとっては縁の深い街だ。一方、2009年のベラルーシの国勢調査によれば、同国に住む民族的なラトビア人は1549人にすぎず、全人口に占める比率はわずかO・02%となっている。

  ベラルーシの貿易統計によれば、2015年のベラルーシの輸出入総額に占めるラトビアのシェアは1・2%であり、ベラルーシにとってラトビアは第10位の貿易相手国だった。ベラルーシ企業は、リトアニアの港湾と並んで、ラトビアの港湾(具体的にはリガ自由港)も輸出入の窓口として活用しており、鉄道および港湾の貨物輸送がベラルーシ・ラトビア経済関係の柱になっている。

 エストニア

  ペラルーシとエストニアは、地理的には近いものの、国境を接していないので、二国間関係はあまり発展していない。エストニアがベラルーシに大使館を開設したのは2009年、ペラルーシがエストニアに大使館を開設したのが2010年と、かなり遅かった。十数年前にはベラルーシのミンスクとエストニアのタリンの間に直行便が飛んでいたが、筆者がその便を利用した時には乗客が筆者丁人だけで、驚いたものである。当然赤字路線だったはずで、その後その直行便は廃止されてしまった。

  ベラルーシの貿易統計によれば、2015年のベラルーシの輸出入総額に占めるエストニアのシェアはO・2%に留まり、ベラルーシにとってエストニアは第45位の貿易相手国にすぎなかった。最近になって、ベラルーシとEU全般の関係が改善され始めたことを反映し、ようやくベラルーシ・エストニア間でも経済協力の機運が生じているようだ。

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