未唯への手紙
未唯への手紙
「決定できない」日本の民主主義論
『「統治」を創造する』より 「市民社会」未成熟論
しばしば、日本社会では政治的問題を自らの問題として自発的にコミットしようとする態度が欠けている、と言われてきた。すなわち、「市民社会」という政治空間が日本には存在しないという言説が日本の言論界では多く流通していた。
たしかに、欧米における政治と日常の近さは極めて高い。たとえば、近年日本でも注目されているアメリカ発のSNSサイト「フェイスブックを見ると、西洋における日常に入り込んだ政治性を垣間見ることができる。というのも、フェイスブックでは個人のプロフィールに自らの政治観を記入する欄が設けられているのだが、アメリカの人々のプロフィール画面を見ると「共和党」や「民主党」、「保守」「自由主義」というように自らの政治観を表明している人をよく目にする。フランスにおけるデモの多さも、もはや常識の部類に入るだろう。このように、日常生活と政治の距離が近ければ、OGというツールの威力を余すことなく発揮されるに違いない。
一方、ではなぜ、日本に市民社会が定着しなかったのだろうか。この問題については、社会思想史からの説明や日本文化論、カルチュラルースタディーズといったさまざまな視点からその回答が試みられている。本稿でこの点を詳らかにすることはできないが、議論を進めて、日本に西洋のような市民社会を根付かせるということを考えると、おそらく次の二つの道が考えられる。
ひとつは、大衆とは異なる一部のエリートによる民主主義である。豊富な専門知識を持ち、公共性の観点に立って物事を考えることができるエリート市民が社会を回すべきである、という立場だ。この考えに従えば、多くの市民は「選挙」の時のみ政治に参加すればよい。
もうひとつが、「啓蒙」である。啓蒙とは、「光を当てること」を意味する。先入観や因習に囚われている未成熟な人々を知識やリテラシーという「光」をあてることで成熟した市民へと成長させること、さまざまな教育によって自ら考えることのできる市民を作り出すことを啓蒙と呼ぶ。
「啓蒙とは何か」については、まさに「啓蒙とは何か」という論文を書いている哲学者カントが以下のように定義している。啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。
カントによれば、啓蒙とは「未成年の状態」にある人間がその状態から脱することである。つまり、自らの理性を用いることができる「大人」になることを意味する。カントは、多くの人間が子供の状態のままでいることにしがみつき、大人になるうとしないことを見抜いていた。だが、なぜ人間は「未成年の状態」にとどまろうとするのか。なぜ、「大人」になろうとしないのか。カントが言うには、「未成年の状態」は端的に言って「楽なことだから」である。ほとんどの人間は、自然においてはすでに成年に達していて(自然にょる成年)、他人の指導を求める年齢ではなくなっているというのに、死ぬまで他人の指示を仰ぎたいと思っているのである。また他方ではあつかましくも他人の後見人と僣称したがる人々も後を絶たない。その原因は人間の怠慢と臆病にある。というのも、未成年の状態にとどまっているのは、なんとも楽なことだからだ。わたしは、自分の理性を働かせる代わりに書物に頼り、良心を働かせる代わりに牧師に頼り、自分で食事を節制する代わりに医者に食餌療法を処方してもらう。そうすれば自分であれこれ考える必要はなくなるというものだ。お金さえ払えば、考える必要などはない。考えるという面倒な仕事は、他人がひきうけてくれるからだ。
カントが定義した「大人/子供」の区別を用いて、社会を判断すれば、その社会に啓蒙な必要かどうか、すなわち「成熟した市民社会」ができているかそうではないかがわかる。
戦後に展開された市民社会論の失敗、挫折は七〇年の学生運動の終焉によって決定的なものとされた。この失敗に対する無反省な思考が山脇の議論には散見される。確かに、未来のことはわからない。同じ帰結が再び起きるという保証もない。だが、わたしたちには違う道はないのだろうか。その別なる突破口を探していくことも重要である。
しばしば、日本社会では政治的問題を自らの問題として自発的にコミットしようとする態度が欠けている、と言われてきた。すなわち、「市民社会」という政治空間が日本には存在しないという言説が日本の言論界では多く流通していた。
たしかに、欧米における政治と日常の近さは極めて高い。たとえば、近年日本でも注目されているアメリカ発のSNSサイト「フェイスブックを見ると、西洋における日常に入り込んだ政治性を垣間見ることができる。というのも、フェイスブックでは個人のプロフィールに自らの政治観を記入する欄が設けられているのだが、アメリカの人々のプロフィール画面を見ると「共和党」や「民主党」、「保守」「自由主義」というように自らの政治観を表明している人をよく目にする。フランスにおけるデモの多さも、もはや常識の部類に入るだろう。このように、日常生活と政治の距離が近ければ、OGというツールの威力を余すことなく発揮されるに違いない。
一方、ではなぜ、日本に市民社会が定着しなかったのだろうか。この問題については、社会思想史からの説明や日本文化論、カルチュラルースタディーズといったさまざまな視点からその回答が試みられている。本稿でこの点を詳らかにすることはできないが、議論を進めて、日本に西洋のような市民社会を根付かせるということを考えると、おそらく次の二つの道が考えられる。
ひとつは、大衆とは異なる一部のエリートによる民主主義である。豊富な専門知識を持ち、公共性の観点に立って物事を考えることができるエリート市民が社会を回すべきである、という立場だ。この考えに従えば、多くの市民は「選挙」の時のみ政治に参加すればよい。
もうひとつが、「啓蒙」である。啓蒙とは、「光を当てること」を意味する。先入観や因習に囚われている未成熟な人々を知識やリテラシーという「光」をあてることで成熟した市民へと成長させること、さまざまな教育によって自ら考えることのできる市民を作り出すことを啓蒙と呼ぶ。
「啓蒙とは何か」については、まさに「啓蒙とは何か」という論文を書いている哲学者カントが以下のように定義している。啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。
カントによれば、啓蒙とは「未成年の状態」にある人間がその状態から脱することである。つまり、自らの理性を用いることができる「大人」になることを意味する。カントは、多くの人間が子供の状態のままでいることにしがみつき、大人になるうとしないことを見抜いていた。だが、なぜ人間は「未成年の状態」にとどまろうとするのか。なぜ、「大人」になろうとしないのか。カントが言うには、「未成年の状態」は端的に言って「楽なことだから」である。ほとんどの人間は、自然においてはすでに成年に達していて(自然にょる成年)、他人の指導を求める年齢ではなくなっているというのに、死ぬまで他人の指示を仰ぎたいと思っているのである。また他方ではあつかましくも他人の後見人と僣称したがる人々も後を絶たない。その原因は人間の怠慢と臆病にある。というのも、未成年の状態にとどまっているのは、なんとも楽なことだからだ。わたしは、自分の理性を働かせる代わりに書物に頼り、良心を働かせる代わりに牧師に頼り、自分で食事を節制する代わりに医者に食餌療法を処方してもらう。そうすれば自分であれこれ考える必要はなくなるというものだ。お金さえ払えば、考える必要などはない。考えるという面倒な仕事は、他人がひきうけてくれるからだ。
カントが定義した「大人/子供」の区別を用いて、社会を判断すれば、その社会に啓蒙な必要かどうか、すなわち「成熟した市民社会」ができているかそうではないかがわかる。
戦後に展開された市民社会論の失敗、挫折は七〇年の学生運動の終焉によって決定的なものとされた。この失敗に対する無反省な思考が山脇の議論には散見される。確かに、未来のことはわからない。同じ帰結が再び起きるという保証もない。だが、わたしたちには違う道はないのだろうか。その別なる突破口を探していくことも重要である。
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