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未唯への手紙

未唯への手紙

知は所有できない 共有できるのみ

2023年12月21日 | 6.本
 知は所有できない 共有できるのみ 有限な存在者は考えることでつながっていく
 本のあり方を考えるということは 知のあり方を 考えること 知は個に対して分化し 統合する 本はコンテンツとしてはあまりにも固まりすぎている 分化しやすく 統合しやすい形に持っていく vFlatに本の進化形を感じた #vFlat
 テレビで政治資金の話をしている 全然 アタマに入ってこない 「政治」を「サービス」にしたら ことの重大さを理解できた #政治とはサービスである
 てれぱんの中の「乃木坂が好きなおじさん」とは私です #池田瑛紗
 奥さんへの買い物依頼
卵パック       199
お茶 148
ムヒS          598
三ツ矢サイダー          138
ししゃも        278
ホットケーキミックス     298
豚小間         356
チキンライス  298

『読書原論』

2023年11月18日 | 6.本
『読書原論』21世紀の読書=忘れる読書

  • 読んだ本は「全部忘れてもいい

10本を読むとは何だ?


「門前の小僧習わぬお経を読む。」と「師の芸を盗む。」は、真逆のように思える。前者は受動的、後者は能動的だ。だが、ともに「見よう見まね」=「真似び」=「学び」であることにちがいはない。「まる暗記模倣」である。

評論家の山本七平(1920~91)は、すでに少年期に、聖書と論語を(ほとんど)まる暗記した、と記している。山本だけではない。「師」の内村鑑三(1861-1930)も、聖書と論語孔子)を自家薬籠中のものに(master)していた。この洋の東西を分かつ二冊の本に習う(=倣う)のは、なにも二人だけの特性ではない。明治や大正生まれの「教養」の見本であったといっていい。ただし、「論語読みの論語知らず。」も多かった。「聖書読みの聖書知らず。」も例外ではなかった。つまりは「棒暗記」の類である。

「暗記」(memorywork)を非難したいのではない。「知」の大部分は「記憶」として蓄積され、再利用される。「本」とは、素気なくいえば、「素材」すなわち何に書かれるかは別として、記憶の「体外装置」なのだ。人は、自分の「脳内」(記憶の体内装置)に記憶できないものを、「脳外」に溜める(プールする)。石、レンガ、木片、紙等々、記憶装置は雑多だが、その主力は、二〇〇〇年来、ずっと「紙」(paper)だった。紙の集積=「本冊」である。

記憶装置

ところが、20世紀に、人類史、とりわけ人類の知的歴史をひっくり返す、一大変化が生じた。わたしたちはその「大転換」期を生きているのだ。まず、このことを銘記してほしい。

一九七〇年以降に生まれた人の多くは、魚が水の中を泳ぐように、この新潮流のなかをらくらくと泳いでいる。戦中(1942年)に生まれたわたしなどは、遅ればせながら、この大転換期の「尻尾」にようやくとりつくことはできたが、すでにして息も切れ切れである。

新型の「記憶装置」が登場した。データ・命令などの情報を、記憶し、必要に応じて随時、瞬時に、量の大小を問わず、取り出すことができるようにした、電子計算機=コンピュー装置である。

この記憶装置の「情報量」は、理論的には、無限大まで拡充可能である。たとえば、大英博物館から分離独立した大英図書館は、現在(21世紀はじめ)、八〇〇万冊を優に超える(紙の蔵書をもち、書架を横に並べると一四〇キロメータになるといわれる。だが、その蔵書を電子化すれば、USBメモリィ一本に収納可能になる。

つまり20世紀後半に実用化された「電子書」は、「記憶」そのものの概念を変えた、といっていい。極端にいえば、つまりは「理論」的にいえば、「記憶」でより重要なのは、「外部装置」の充実だということになった。脳=内部装置で問われるのは、「索引」力、必要なものを外部装置から「引き出す」能力である、ということになる。

マイ索引

特に重要なのは、「今ここでわたしが必要とする情報」を「わたしの外部装置」から適切に「引き出す能力(脳力)」なのだ。もちろん、辞書やデジタル図書、その他さまざまな文献も不可欠だ。しかし、それらを参照するためには、何が、そのどの点が必要なのか、を感知・覚知していなければならない。マイ・センサー(脳)が的確かつ鋭利でなければならない。

とりわけ有効なのは、情報収集したものを、外部装置にメモし、利用・再利用することだ。わたしの経験でいえば、自分が読み・書きしたものを、外部装置にメモし、自在に利用・再利用(=引用)することだ。

たとえば、「方法論」である。

読書万般に通じるような「方法論」などはない。これがわたしの考え方(方法)だ。だが、マルクス(主義)の方法論=哲学は、「弁証法的唯物論と史的唯物論」である。それは「ソ連共産党小史」(1938)第四章に、スターリンが書いたとされる)文書で、すでに「提示」されている。それを、読み、理解し、活用せよ。「暗唱」せよ。「拳拳服膺」せよ、終わり。

これが一九五〇年代まで、知識人層においても、おおいに通用した。

この「方法論」を「鵜呑み」にせず、異議を唱えると、反共・反党・腐敗=ブルジョア分子である、と攻撃された。ことはマルクス主義関連にかかわらない。文学畑でも同じで、伊藤整の「氾濫」(1958)などは、売れる作家が書いたので)「大衆が読む」小説」、性が「氾濫」するエロ小説、とジャンル分けされた。おそまつな文学「鑑賞」の方法論だが、こちらはなかなか手強い。

ようやく三〇代のなかばだった。万般に通じる「方法論」(哲学)などない、と覚ることができた。でも「わたしの流儀」程度のものはないだろうか、と探していたときだ。「文学研究に体系も方法論もあり得ない」と喝破した、谷沢永一『牙ある蟻』(1978)にであった。

《文学研究は技術をもってする作業なのだ。文学研究の精髄は技術なのだ。自然科学も人文科学も、技術の行使であることに変わりはない。対象の差に応じて、用いる技術に違いがあるだけだ。・・・・・。文学研究の技術は、博覧と精査によってしか身につけ得ないのに、技術とは別個な念力競べを妄想する怠慢が、方法論や体系などという架空の大樹の陰に思う(41)

これはどんな「研究」にも通じる提言だ。「技術」だ。それを磨くには、「博覧」(wellread)と「精査」(closeexamination)、広く、深くものごとを見・知ること、これ以外にない、といっている。

ただし、21世紀である。20世紀までとちがって、比較すれば、内部装置の記憶より、外部装置の記憶のほうが、圧倒的に大きくなった。しかも、外部装置のメモリーを超速で検索・活用可能になった。問題は、「記憶量」ではなく「記憶索引力」になったということだ。

たとえば、「方法論」とあれば、すぐに、『牙ある蟻』の「引用箇所」をすらすらと再現する暗記力ではなく、同書のその箇所にたどり着く「勘」(=「短絡」力)、とりわけ「索引」力である。記憶力の「種別」が変わったのだ。

読んだ本は「全部」忘れたほうがいい

司馬遼太郎「伝説」

司馬遼太郎にはいくつかの「伝説」がある。あくまでも伝説である。真偽のほどはわからない、真っ赤な嘘のような話であるとともに、わたしには核心を射ぬいている話としか思えない。

少年期、授業に出ず、大阪の市立(御蔵跡)図書館に通い、全冊読破した。

大阪外大の蒙古語科に入り、「辞書」なしでモンゴル語を習得し、「辞書」をもたずに小説を、それも「梟の城」を書いた。

読む速度が想像を絶した。速度は、見開き二頁を写真機のシャッターを切る速さで読み(とり)、およそ一冊を一五分以内で読み終わり、しかもその内容の核心を語ることができた。

ほとんどノートもメモをとらず、「記憶」だけで、あの膨大な量のしかも複雑な歴史小説をすらすらと書いた。

「おそらく」、などとわたしがいうのもおこがましいが、歴代の日本人で最も多くの書を読んだのは、司馬遼太郎ではなかろうか。もう一人わたしが知っているかぎりでは、谷沢永一だろう。その谷沢がこれまたとんでもない記憶力の人であった。あるとき、

「読んだ本を忘れることができない。〔脳内に溜まりすぎて、出て行かず、ストレスが溜まり、鬱が嵩じる。〕

というようなことを漏らした。読み過ぎ、記憶しすぎて、もはや読めない、書けない、頭が受けつけない、という最大スランプ(最長鬱病)のときであった。ただし、話す(出す)ほうは支障なかった。この期間、谷沢は、「語り下ろし」と「対論」で凌いだ。

「忘れる」能力

だが、司馬も、そして谷沢も、特大の記憶力の持ち主だが、むしろ驚くべきは、忘れることの「名人」といっていいのではないだろうか。わたしにはそう思える。

司馬と同じように、「写真機」のような複写(再現=記憶)力をもった人をもう一人知っている。弁護士である。ただし、この人、再現したものをきれいさっぱり忘れることもできる。まるでフィルムを抜くと、真っ白、それで終わり、というようなのだ。

対して司馬の場合、フィルムが消えても、いわば「写真」に類するものが残る。書いたもの、膨大な小説、エッセイ、紀行文等々である。くわえてDVD(映像)だ。いつまでも残り、いつでも再現可能になる作品群だ。

司馬が、驚くべき記憶力を発揮できたのは、写真機のような複写能力をもっていたからではないだろう。驚くべきは、その「記憶」(=複写)力を、「創作」(=生産)力に転化できたことにあるのではないだろうか)。

司馬は、一九五九年、文壇デビュー作「梟の城」を書きあげ、六〇年直木賞をえて以降、一九九六年の死までおよそ三五年、一度もスランプ期をもたずに、書きそして書き続けることができたのは、文才があったからだが、読んで、書いて、読んだものを忘れることをやめなかったからである(と思える)。

谷沢も、膨大な作品(生産物)を残した。しかし、その膨大な「脳内蓄積物」(記憶量)を作品に十分転化(消化)することはできなかったのではないだろうか)。ゆえに、インプットとアウトプットのバランスがとれず、鬱(未消化物)が嵩じた。そう、わたしには、思える。

忘れる理由

長いあいだ教師をやってきた。ときに、ゼミ生に「どんな本が好きか?」と聞くことがあった。一冊、多くて数冊あげる子が、たまにいた。「どんなところがよかったか?」と聞くと、ほとんどは「憶えていない。忘れた。」と答える。それほどに「本」は(わたしのゼミ生には)読まれない。

じゃあ、学生は本を読まないのか?まったくそんなことはない。「覚える」ほどには読まない、といいたくなるが、正確には、「本」を買わない(ような)のだ。「新聞」を読まないのではなく、新聞を買って読まないのである。よく聞くと、買いたいものが本以外にある、というのだ。紙の新聞(さらには「本」)は読まないが、スマホやパソコン等で、Web(サービス)版を、必要があれば「読む」「見る」)そうだ。

わたしは、新聞はいまでも中央新聞と地方新聞を一紙ずつとっている。といっても、ともに数百万部の発行数だ。その他はウェブ版で済ませている。多くは「速報」版だ。そして、新聞記事は「すぐ」忘れる。なぜか?「再読」しない、する必要を感じないからだ。時局的な連載コラムを新聞や雑誌に書いていたときは、一週間分の新聞紙(五~六紙)を、処分できなかった。重要不可欠と思える記事は、切り抜きした。「仕事」に必要だ、と考えたからだ。しかし、コラムを書いてしまったら、新聞本体も、切り抜きも、すべて処分し、すっかり忘れた。コラム自体も、その内容はほとんど忘れた。

「忘れる。記憶にない。」は、よく解釈すれば、読んでも、「利用」しなかったからだ。学生は「試験」に、ビジネスマンは「仕事」に必要でなかったからだ。さらにいうと、試験や仕事に必要ないものは、読まない。必要なものでも、読んで使ったら、よほど重要でなければ、あっさり忘れる。

わたしもそうだった。大学に入るまで、まともな読書はしたことがなかった、と思ってきた。本箱には、教科書と受験参考書しかなかった(ように思える)。しかし、四〇代、少年期の「読書」について書かなければならなくなったとき、にわかに思い起こしたのだ。中学のとき、ドストエフスキー(1821~81)『罪と罰』(1866)を読んだ。読んだだけではない。この本の「内容」を忘れることができず、「忘れる」ために、二〇代の半ばまで苦しんだのだ。それをすっかり忘れていたのだから、われながら驚きであった。が、ホッともした。忘れたいこと、忘れてもいいことを、忘れることができたからだ。(この理由は拙著『シニアのための「反」読書論』〔文芸社2015〕にくわしく書いた。)

1・2読んだ本を「全部」忘れるのは不可能だ

忘れる本

「忘れる本」は、「忘れてもいい本」だ。ひとまずこういいたい。

わたしの妻は、「眠り薬」の代わりに「本」を読む。もちろんわたしが書いた本は、読まない。「あなたが亡くなってからゆっくり読む。」という。ちょっと寂しい気もするがこれには助かる。プライベイトなことに触れることを書いても、支障が生じない。なにせ、読まれないのだから。

妻がベッドで読む本は、そのほとんどすべてが「小説」である。「眠り薬」のためだから、「消灯」は早い。ときに、スタンドを点けたまま寝ていることがある。読んでも、全部、忘れるそうだ。読んで、忘れることができないほど面白く、眠れなくなったら、読書の目的に反するのだから、当然といえば、当然だろう。

妻が読む本は、ほとんどわたしが読んだことのない本である。「好み」が違うからで、意識してそうしているわけではないだろう(と思いたい)。何冊か、否、数一〇冊になるだろうか、偶然、同じ本を読むケースがある。別々に買って、関係なく読むのだ。ただし、二人が、共通の本について語り合うことはない。なにせ、妻はきれいさっぱり忘れた、と言明するからだ。わたしのほうは、たとえば、宮本美智子(1945~97)「世にも美し「いダイエット」(1994)を妻の本置き場から抜き出して、仕事で使い、宮本の他の本とともに、自分の蔵書に加えてしまった、というケースはある。

その他に、妻は、クッキング、健康、農耕、動植物図鑑、それに税金関連等々、の本や雑誌をひっきりなしに買って、黙々と(?)読んでいる。「家事」(work)全般に関連するもので、「忘れてはならじ」と、膨大な―トとメモをとっている。ノート類は、貴重品と思えるが、忘れるのか、忘れがたいのか、を問い質したことはない。

論でいえば、ノートやメモをとると、それを利用してしまえば、きれいさっぱり忘れてしまう。もそうなのではないだろうか。わたしも、卒論や論文を書くために、はじめは膨大(?)なノートやメモをとったが、ほとんどは読まなかったし、メモも多すぎて活用できなかった。過ぎたるは及ばざるがごとしだ。

 奥さんへの買い物依頼
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カレーヌードル           148
スペアリブソース        159

『読書原論』

2023年11月18日 | 6.本
『読書原論』21世紀の読書=忘れる読書

  • 読んだ本は「全部忘れてもいい

10本を読むとは何だ?


「門前の小僧習わぬお経を読む。」と「師の芸を盗む。」は、真逆のように思える。前者は受動的、後者は能動的だ。だが、ともに「見よう見まね」=「真似び」=「学び」であることにちがいはない。「まる暗記模倣」である。

評論家の山本七平(1920~91)は、すでに少年期に、聖書と論語を(ほとんど)まる暗記した、と記している。山本だけではない。「師」の内村鑑三(1861-1930)も、聖書と論語孔子)を自家薬籠中のものに(master)していた。この洋の東西を分かつ二冊の本に習う(=倣う)のは、なにも二人だけの特性ではない。明治や大正生まれの「教養」の見本であったといっていい。ただし、「論語読みの論語知らず。」も多かった。「聖書読みの聖書知らず。」も例外ではなかった。つまりは「棒暗記」の類である。

「暗記」(memorywork)を非難したいのではない。「知」の大部分は「記憶」として蓄積され、再利用される。「本」とは、素気なくいえば、「素材」すなわち何に書かれるかは別として、記憶の「体外装置」なのだ。人は、自分の「脳内」(記憶の体内装置)に記憶できないものを、「脳外」に溜める(プールする)。石、レンガ、木片、紙等々、記憶装置は雑多だが、その主力は、二〇〇〇年来、ずっと「紙」(paper)だった。紙の集積=「本冊」である。

記憶装置

ところが、20世紀に、人類史、とりわけ人類の知的歴史をひっくり返す、一大変化が生じた。わたしたちはその「大転換」期を生きているのだ。まず、このことを銘記してほしい。

一九七〇年以降に生まれた人の多くは、魚が水の中を泳ぐように、この新潮流のなかをらくらくと泳いでいる。戦中(1942年)に生まれたわたしなどは、遅ればせながら、この大転換期の「尻尾」にようやくとりつくことはできたが、すでにして息も切れ切れである。

新型の「記憶装置」が登場した。データ・命令などの情報を、記憶し、必要に応じて随時、瞬時に、量の大小を問わず、取り出すことができるようにした、電子計算機=コンピュー装置である。

この記憶装置の「情報量」は、理論的には、無限大まで拡充可能である。たとえば、大英博物館から分離独立した大英図書館は、現在(21世紀はじめ)、八〇〇万冊を優に超える(紙の蔵書をもち、書架を横に並べると一四〇キロメータになるといわれる。だが、その蔵書を電子化すれば、USBメモリィ一本に収納可能になる。

つまり20世紀後半に実用化された「電子書」は、「記憶」そのものの概念を変えた、といっていい。極端にいえば、つまりは「理論」的にいえば、「記憶」でより重要なのは、「外部装置」の充実だということになった。脳=内部装置で問われるのは、「索引」力、必要なものを外部装置から「引き出す」能力である、ということになる。

マイ索引

特に重要なのは、「今ここでわたしが必要とする情報」を「わたしの外部装置」から適切に「引き出す能力(脳力)」なのだ。もちろん、辞書やデジタル図書、その他さまざまな文献も不可欠だ。しかし、それらを参照するためには、何が、そのどの点が必要なのか、を感知・覚知していなければならない。マイ・センサー(脳)が的確かつ鋭利でなければならない。

とりわけ有効なのは、情報収集したものを、外部装置にメモし、利用・再利用することだ。わたしの経験でいえば、自分が読み・書きしたものを、外部装置にメモし、自在に利用・再利用(=引用)することだ。

たとえば、「方法論」である。

読書万般に通じるような「方法論」などはない。これがわたしの考え方(方法)だ。だが、マルクス(主義)の方法論=哲学は、「弁証法的唯物論と史的唯物論」である。それは「ソ連共産党小史」(1938)第四章に、スターリンが書いたとされる)文書で、すでに「提示」されている。それを、読み、理解し、活用せよ。「暗唱」せよ。「拳拳服膺」せよ、終わり。

これが一九五〇年代まで、知識人層においても、おおいに通用した。

この「方法論」を「鵜呑み」にせず、異議を唱えると、反共・反党・腐敗=ブルジョア分子である、と攻撃された。ことはマルクス主義関連にかかわらない。文学畑でも同じで、伊藤整の「氾濫」(1958)などは、売れる作家が書いたので)「大衆が読む」小説」、性が「氾濫」するエロ小説、とジャンル分けされた。おそまつな文学「鑑賞」の方法論だが、こちらはなかなか手強い。

ようやく三〇代のなかばだった。万般に通じる「方法論」(哲学)などない、と覚ることができた。でも「わたしの流儀」程度のものはないだろうか、と探していたときだ。「文学研究に体系も方法論もあり得ない」と喝破した、谷沢永一『牙ある蟻』(1978)にであった。

《文学研究は技術をもってする作業なのだ。文学研究の精髄は技術なのだ。自然科学も人文科学も、技術の行使であることに変わりはない。対象の差に応じて、用いる技術に違いがあるだけだ。・・・・・。文学研究の技術は、博覧と精査によってしか身につけ得ないのに、技術とは別個な念力競べを妄想する怠慢が、方法論や体系などという架空の大樹の陰に思う(41)

これはどんな「研究」にも通じる提言だ。「技術」だ。それを磨くには、「博覧」(wellread)と「精査」(closeexamination)、広く、深くものごとを見・知ること、これ以外にない、といっている。

ただし、21世紀である。20世紀までとちがって、比較すれば、内部装置の記憶より、外部装置の記憶のほうが、圧倒的に大きくなった。しかも、外部装置のメモリーを超速で検索・活用可能になった。問題は、「記憶量」ではなく「記憶索引力」になったということだ。

たとえば、「方法論」とあれば、すぐに、『牙ある蟻』の「引用箇所」をすらすらと再現する暗記力ではなく、同書のその箇所にたどり着く「勘」(=「短絡」力)、とりわけ「索引」力である。記憶力の「種別」が変わったのだ。

読んだ本は「全部」忘れたほうがいい

司馬遼太郎「伝説」

司馬遼太郎にはいくつかの「伝説」がある。あくまでも伝説である。真偽のほどはわからない、真っ赤な嘘のような話であるとともに、わたしには核心を射ぬいている話としか思えない。

少年期、授業に出ず、大阪の市立(御蔵跡)図書館に通い、全冊読破した。

大阪外大の蒙古語科に入り、「辞書」なしでモンゴル語を習得し、「辞書」をもたずに小説を、それも「梟の城」を書いた。

読む速度が想像を絶した。速度は、見開き二頁を写真機のシャッターを切る速さで読み(とり)、およそ一冊を一五分以内で読み終わり、しかもその内容の核心を語ることができた。

ほとんどノートもメモをとらず、「記憶」だけで、あの膨大な量のしかも複雑な歴史小説をすらすらと書いた。

「おそらく」、などとわたしがいうのもおこがましいが、歴代の日本人で最も多くの書を読んだのは、司馬遼太郎ではなかろうか。もう一人わたしが知っているかぎりでは、谷沢永一だろう。その谷沢がこれまたとんでもない記憶力の人であった。あるとき、

「読んだ本を忘れることができない。〔脳内に溜まりすぎて、出て行かず、ストレスが溜まり、鬱が嵩じる。〕

というようなことを漏らした。読み過ぎ、記憶しすぎて、もはや読めない、書けない、頭が受けつけない、という最大スランプ(最長鬱病)のときであった。ただし、話す(出す)ほうは支障なかった。この期間、谷沢は、「語り下ろし」と「対論」で凌いだ。

「忘れる」能力

だが、司馬も、そして谷沢も、特大の記憶力の持ち主だが、むしろ驚くべきは、忘れることの「名人」といっていいのではないだろうか。わたしにはそう思える。

司馬と同じように、「写真機」のような複写(再現=記憶)力をもった人をもう一人知っている。弁護士である。ただし、この人、再現したものをきれいさっぱり忘れることもできる。まるでフィルムを抜くと、真っ白、それで終わり、というようなのだ。

対して司馬の場合、フィルムが消えても、いわば「写真」に類するものが残る。書いたもの、膨大な小説、エッセイ、紀行文等々である。くわえてDVD(映像)だ。いつまでも残り、いつでも再現可能になる作品群だ。

司馬が、驚くべき記憶力を発揮できたのは、写真機のような複写能力をもっていたからではないだろう。驚くべきは、その「記憶」(=複写)力を、「創作」(=生産)力に転化できたことにあるのではないだろうか)。

司馬は、一九五九年、文壇デビュー作「梟の城」を書きあげ、六〇年直木賞をえて以降、一九九六年の死までおよそ三五年、一度もスランプ期をもたずに、書きそして書き続けることができたのは、文才があったからだが、読んで、書いて、読んだものを忘れることをやめなかったからである(と思える)。

谷沢も、膨大な作品(生産物)を残した。しかし、その膨大な「脳内蓄積物」(記憶量)を作品に十分転化(消化)することはできなかったのではないだろうか)。ゆえに、インプットとアウトプットのバランスがとれず、鬱(未消化物)が嵩じた。そう、わたしには、思える。

忘れる理由

長いあいだ教師をやってきた。ときに、ゼミ生に「どんな本が好きか?」と聞くことがあった。一冊、多くて数冊あげる子が、たまにいた。「どんなところがよかったか?」と聞くと、ほとんどは「憶えていない。忘れた。」と答える。それほどに「本」は(わたしのゼミ生には)読まれない。

じゃあ、学生は本を読まないのか?まったくそんなことはない。「覚える」ほどには読まない、といいたくなるが、正確には、「本」を買わない(ような)のだ。「新聞」を読まないのではなく、新聞を買って読まないのである。よく聞くと、買いたいものが本以外にある、というのだ。紙の新聞(さらには「本」)は読まないが、スマホやパソコン等で、Web(サービス)版を、必要があれば「読む」「見る」)そうだ。

わたしは、新聞はいまでも中央新聞と地方新聞を一紙ずつとっている。といっても、ともに数百万部の発行数だ。その他はウェブ版で済ませている。多くは「速報」版だ。そして、新聞記事は「すぐ」忘れる。なぜか?「再読」しない、する必要を感じないからだ。時局的な連載コラムを新聞や雑誌に書いていたときは、一週間分の新聞紙(五~六紙)を、処分できなかった。重要不可欠と思える記事は、切り抜きした。「仕事」に必要だ、と考えたからだ。しかし、コラムを書いてしまったら、新聞本体も、切り抜きも、すべて処分し、すっかり忘れた。コラム自体も、その内容はほとんど忘れた。

「忘れる。記憶にない。」は、よく解釈すれば、読んでも、「利用」しなかったからだ。学生は「試験」に、ビジネスマンは「仕事」に必要でなかったからだ。さらにいうと、試験や仕事に必要ないものは、読まない。必要なものでも、読んで使ったら、よほど重要でなければ、あっさり忘れる。

わたしもそうだった。大学に入るまで、まともな読書はしたことがなかった、と思ってきた。本箱には、教科書と受験参考書しかなかった(ように思える)。しかし、四〇代、少年期の「読書」について書かなければならなくなったとき、にわかに思い起こしたのだ。中学のとき、ドストエフスキー(1821~81)『罪と罰』(1866)を読んだ。読んだだけではない。この本の「内容」を忘れることができず、「忘れる」ために、二〇代の半ばまで苦しんだのだ。それをすっかり忘れていたのだから、われながら驚きであった。が、ホッともした。忘れたいこと、忘れてもいいことを、忘れることができたからだ。(この理由は拙著『シニアのための「反」読書論』〔文芸社2015〕にくわしく書いた。)

1・2読んだ本を「全部」忘れるのは不可能だ

忘れる本

「忘れる本」は、「忘れてもいい本」だ。ひとまずこういいたい。

わたしの妻は、「眠り薬」の代わりに「本」を読む。もちろんわたしが書いた本は、読まない。「あなたが亡くなってからゆっくり読む。」という。ちょっと寂しい気もするがこれには助かる。プライベイトなことに触れることを書いても、支障が生じない。なにせ、読まれないのだから。

妻がベッドで読む本は、そのほとんどすべてが「小説」である。「眠り薬」のためだから、「消灯」は早い。ときに、スタンドを点けたまま寝ていることがある。読んでも、全部、忘れるそうだ。読んで、忘れることができないほど面白く、眠れなくなったら、読書の目的に反するのだから、当然といえば、当然だろう。

妻が読む本は、ほとんどわたしが読んだことのない本である。「好み」が違うからで、意識してそうしているわけではないだろう(と思いたい)。何冊か、否、数一〇冊になるだろうか、偶然、同じ本を読むケースがある。別々に買って、関係なく読むのだ。ただし、二人が、共通の本について語り合うことはない。なにせ、妻はきれいさっぱり忘れた、と言明するからだ。わたしのほうは、たとえば、宮本美智子(1945~97)「世にも美し「いダイエット」(1994)を妻の本置き場から抜き出して、仕事で使い、宮本の他の本とともに、自分の蔵書に加えてしまった、というケースはある。

その他に、妻は、クッキング、健康、農耕、動植物図鑑、それに税金関連等々、の本や雑誌をひっきりなしに買って、黙々と(?)読んでいる。「家事」(work)全般に関連するもので、「忘れてはならじ」と、膨大な―トとメモをとっている。ノート類は、貴重品と思えるが、忘れるのか、忘れがたいのか、を問い質したことはない。

論でいえば、ノートやメモをとると、それを利用してしまえば、きれいさっぱり忘れてしまう。もそうなのではないだろうか。わたしも、卒論や論文を書くために、はじめは膨大(?)なノートやメモをとったが、ほとんどは読まなかったし、メモも多すぎて活用できなかった。過ぎたるは及ばざるがごとしだ。

 奥さんへの買い物依頼
トマトジュース 178
カレーヌードル           148
スペアリブソース        159

本を返しに図書館へ

2023年11月10日 | 6.本
 本を返しに図書館へ
 12冊 開館前だから返却口へ
3冊 私の傾向にない本を借りた
 本が示す方向を見定める
 本を通じて、大いなる意図からの指示
もうちょっと生きられそうだから
 未唯宇宙を一歩進める
 例えば、
 個と超の新たな数学を具体化
 →逆集合論:天皇 ライブから集合を規定
 今日は気分を変えて フラペチーノ #スタバ風景

 豊田市図書館の3冊
019.9トコ『大人のための文学「再」入門』
019.12ワシ『読書原論 』21世紀の読書=忘れる読書
902.3フユ『SF超入門 』「これから何が起こるのか」を知るための教養

本を返しに図書館へ

2023年11月10日 | 6.本
 本を返しに図書館へ
 12冊 開館前だから返却口へ
3冊 私の傾向にない本を借りた
 本が示す方向を見定める
 本を通じて、大いなる意図からの指示
もうちょっと生きられそうだから
 未唯宇宙を一歩進める
 例えば、
 個と超の新たな数学を具体化
 →逆集合論:天皇 ライブから集合を規定
 今日は気分を変えて フラペチーノ #スタバ風景

 豊田市図書館の3冊
019.9トコ『大人のための文学「再」入門』
019.12ワシ『読書原論 』21世紀の読書=忘れる読書
902.3フユ『SF超入門 』「これから何が起こるのか」を知るための教養

『残酷人生論』池田晶子

2023年09月05日 | 6.本
なぜ社会の存在を認めるのか

「社会」
と、人は言う。人間とは社会的存在であり、社会生活を営むことで人は生きているのであり、人はひとりでは決して生きてはゆけないものなのだ、と。
「生きる」というのが、「生存する」の意であるのなら、右の考えはまったくその通りである。いかな孤独癖の人、自分は淋しがり屋でないからひとりでも生きられるという人も、その衣食住の全般を独力で製造するのでない限り、 やはりひとりで 生きてゆけるものではない。個人の生存は、社会の存在に、確かに依存しているのである。
ところで、しかし、それはそれだけのことではないのか。生存が社会に依存するという、たったそれだけのことではないのか。
生存は社会に依存するかもしれないが、存在が社会に依存するわけではない。 この自分の存在は、社会の存在によらずとも、確実に存在するのである。人はこのことに気づかないでいるか、むしろ故意に気づかないでいる。
社会性はあるのだが、社会というのが完璧にないと評されたことがある。むろん、この欠落の自覚は、裏を返せば矜侍であって、 なぜなら私は、社会生活を営むために生きているのではなく、生きるために社会生活を営んでいるにすぎない。 このことをはっきりと自覚しているからである。ソク ラテスという人は、もっとはっきりこう言った。
「皆は食べるために生きているが、 僕は生きるために食べている」
生存するために生きているのではないのだから、生きているのは存在しているゆえ である。私は、社会の存在なんてものを、この自分の存在よりも確実なものだと認 めていない。認めていないのだから、社会の存在が私の存在を、どうこうできる道理もない。じつに自由である。人は、何をもって、不自由と不平を言っているのだ ろうか。
人が、不自由と不平を言っているのは、したがって、社会を認めているからである。社会の存在を自分の存在より確実なものだと、自分から認めているのだから、社会の存在に自分の存在をどうこうされるのは、道理なのである。
ところで、社会の存在といって、社会なんてものがいったいどこに存在するのだ ろうか。私はそんなものを見たことがない、触ったこともない。見たことがあるのは、私と同じように社会生活を営みつつ生きているひとりひとりの人間だけなのだが、それらとは別のどこかに、社会という何か得体の知れないものが存在しているのだろうか。そんな得体の知れないものを存在していると、なぜ人は認めているの だろうか。
人が、そんな得体の知れないものを社会としてその存在を認めているのは、決まっている。それによって不自由と不平を言うことができるからである。 何か悪いこと、自分に都合の悪いことや自分が悪いこと、社会が悪いことそれ自体さえ、社会のせいにできるからである。そのためにこそ、人は社会の存在を必要としていると言っていい。自分が生存するためだけではなく、自分が存在しないために、人には社会が必要なのだ。 生存も存在もすべてを社会に押しつけるために、人にはそれが必要なのだ。ところでしかし、いったい何のためのそのような人生なのか、私にはまったく理解しかねる。
存在もしない社会に、自分の存在を押しつけて、応えてくれないと不平を言っても無理である。なぜなら、相手は、存在しないのだからである。存在しているの は、ひとりひとりの人間だけ、しかも、このひとりひとりがまた、社会は応えてくれぬと不平を言っているのだから、なおのこと無理というものである。

必要な唯一絶対の革命

とはいえ、社会は存在しない、国家も存在しない、 そんなものは、そんなものが 存在するとする人間の「考え」なのだ、と言ったところで、そうそうすぐに納得さ れるものではない。国家が存在すると思わなければ戦争は起こらないのだ、と言っ たところで、何を当たり前なと思うか、この人はどこかおかしいと思うか、まあどちらかのはずである。

しかし、一朝一夕にできることではないということくらい、この私にだってわかっているのである。 人類が、有史以来そうと思い込んできて石のように固くなっている考え、そんなものが一朝一夕でひっくり返せるわけがない。だからこそ、それは「革命」の名に値することになるのだ。

社会革命なんてあんなもの、どこが革命なもんですか

社会は存在し、国家は存在し、自分が生存するためにはそれらのどこかをどうこう変えればどうこうなんて、そんなチャチなものが、なんで革命なんですか。

革命というのは、根こそぎ丸ごとひっくり返すから革命というのだ。社会は存在し、国家は存在し、自分は生存したいというこの考え自体をひっくり返すから革命 なのだ。何万人の敵を殺し、あるいは粛清したところで、どちらも同じこの考えをしているのだから、結局なんにも変わらないのは道理なのである。

思えば、この人間の歴史というのは、大勢の人間や人間の集団が地表を右往左往することで動いてきたように、たいていの人は漠然と表象しているようだけれども、ここはよく考えてみてください。 人間が動くのは、何によるのか。何によって、人間は意志し、行為し、 決断するのか。

人間が行動するのは、おしなべて「考え」による。「考え」によって、人は意志 し行為し決断する。人はこのことを、自分の思考において明確に表象できるようになるべきだ。決断に逡巡する英雄の胸中にあるもの、それは「考え」だ。 引き金を引く指も、前進する戦車も、あれらすべて 「考え」 だ。 可視的表象に騙されてはならない。 可視的なものを動かしているのはすべて、そのように考えている人間の「考え」なのだ。

「人間」の語で、人は多く、この可視的形姿を表象するようだから、私はあえて 「人間」ぬきの、「考え」の語のみで言いたい。「人間」が動いているのではない、「考え」が動いているのだ。歴史を動かしてきたものは、英雄でも戦争でもない、またその背後の誰か思想家でもない、不可視の「考え」だ。 表象における映像を警戒せよ。

貨幣でさえ、それ自体では動かない。あれが動くのは「考え」によると私は言っ た。 それなら、人間それ自体が動くのは「考え」によると気づくのはもっとたやす いはずと、私は思うのだが、これがあんがい難しいらしい。 それで、そこに見えて動いている人間を消してしまえば、事態は変わると思うのらしい。

変わるわけがない。「考え」を変えていないのだから、変わるわけがない。本当に変えたいと思うのなら、「考え」を変える以外は絶対にあり得ない。だから、「武 力革命」なんてのはあきれた矛盾で、革命というのは、本来、それぞれの精神の中にしか起こり得ないと私は言うのだ。

ところで、この「精神」というのも、それを自分とは別の何かみたいに思っているのでは、やはり同じなのである。他人の精神を革命しようとする前に、まず自分の精神を、きちんと革命したら、どうだろう。

というわけで、精神革命と御大層に言ったところで、要するに、自分でものを考えろという、ごく当たり前のことしか言ってないことになる。しかし、当たり前なことほど、難しいことはない。社会は存在し、国家は存在し、自分は生存したいというこの考え、これはいったいどういうことなのか、各人、自力で考えよ。 そして、可能な限り自覚的であるよう努めよ。人類と歴史は、必ず変わる。

死を信じるな

結局のところ、「死」こそが、人間にとっての最大の謎であり、したがって、また魅惑なのだ。

少なくとも私は、そうである。言葉と論理、すなわちすべての思考と感覚が、そこへと収斂し断絶し、再びそこから発出してくる力の契機としての「死」。この人生最大のイベント、これの前には、生きんがためのあれこれなど、いかに色褪せて見えることか。死を恐れて避けようとし、生きんがためのあれこれのために生きて いる人は、死を考えつつ生きるという人生最高の美味を逃していると言っていい。ところで、死を考えると言って、この世の誰が自分の死を考えられたことがあっ ただろうか。自分の死なんてものは、じつは、どこにもないのだった。あるのはただ累々たる他人の死ばかり、自分の死なんてものは、無いのだった。すると、無い死を考えつつ生きるというのは、どういうことだったのか。

人が通常、何らかの態度を取ることができるのは、それが存在している場合に限られるのであって、 そも存在していないものに対しては、恐怖どころか憧憬という態度もまた、じつは取れないのである。したがって、死に対して取られるべき最も正確な態度は、それを、無視する。文字通り、「無いもの」として振舞う。人生最大の魅惑的イベントであるはずの死が、最もどうでもいいものということになるの だから、やはり人生は、変である。まったくもって、困ったものである。

ところで、普通に人が何らかの宗教を信仰するに至る心の根底には、この「死へ の恐怖」が、大きな要因としてあるようだ。しかし、繰り返しくどくど言うように、死は、存在しないのである。存在しないものは怖がれないのである。なのに、死を恐れて宗教を信仰する人は、じつは、宗教を信じる前に、死を信じていると言 っていい。死が存在すると信じているから、その恐怖を失くする方法として、宗教を信仰するのだ。なぜなら、宗教は、こう信じさせてくれるからだ。「死は存在しない。生命は不死である」。

「死は存在しない」というこれは、私が述べているそれと同じことを述べているようだが、まったく逆である。私は、死は、考えられないから存在しないと言っているのであって、存在するから信じなさいと言っているのではない。 私は、思考の事実を述べているのであって、宗教は、感情の物語を述べているのだ。

なるほど、「不死」と言うなら、確かに不死と言っていい。しかし、これもあく までも事実としてそうなのであって、信仰としてそうなのではない。なぜなら、不死を信じるためには、まず死が信じられていなければならないからである。

信仰としての不死とは、じつは相当心もとないのでなかろうか。ひょっとして違うかも、ちらと疑ったりとか。

物語を信仰しようとするから、その手の迷いも生じるのだ。思考の事実にのみ即して考えれば、いかなる疑いもあり得ない。

たとえば、「死後の生」という言い方、あれは何か。生ではないもののことを死 と呼ぶということに、 我々は決めているのだから、「死後の生」という言い方は、ないのである。そういうものが「何もない」と言っているのではない。なぜなら、無は無いからである。存在のみが、在るからである。無くなることなく常に在るか ら、それは「存在」と呼ばれるのだが、生前死後にかかわらずに存在であるその存在、それと、この「私」との結託関係、これこそが究極の謎なのだ。したがって、また魅惑なのだ。これこそが、じっくりと考え抜かれ、味わわれるべき人生最高の美味なのであって、そんじょそこらの宗教にくれてやるなんて、そんな、もったいないこと。

宇宙を絶対受容する

ところで、人生は今回限りではないと言ったところで、「論理的に考えれば」、そ んなこと、考えられるわけがない。

死が存在しないのだから、 「死後」もまた存在しない。存在するのは常に「現在」だけである。「現在」がすべてである。

けれども、存在しているのは常に「現在」だけ、「現在」がすべてであるという その同じ理由によって、じつは「死後」もまた存在していることになる。なぜな ら、「すべて」ということは、文字通り「すべて」、宇宙が存在する、存在が存在する、そのことを指して「すべて」と言うからである。 そして、「すべて」ということは、言うところの「なんでもアリ」ということだからである。

論理的思考の領域の外は、「なんでもアリ」、「死後」なんてものは、あろうがな かろうが、どっちでもいいのである。「魂」が残ろうが消えようが、やはりどうでもいいのである。

このように感じているこの状態こそ、おそらく「最終的な」幸福と呼ばれる状態であろうと、私には予想される。苦しみも喜びもまた努力も、そのように認められ ているというそのことにおいて、じつはいまだに不自由なのである。「なんでもアリ」ということは、なんでもあり、何がどうであろうと構いやしない絶対自由なのだから、苦しみは別に喜びではなく、喜びがとくに喜びというわけでもない。善く なるための努力とて、とりたてて努力というほどのことでもないであろう。 幸福とは、要するに、なんでもいいのである

あれ、振り出しへ戻ってしまった

けれども、振り出しへ戻っても、これだけは違うのは、「なんでもいい」と思っているというまさにこのことであって、絶対自由とは、別名、絶対受容ということになる。何がどうであろうと宇宙がそのようであるということを受容しているその状態の幸福は、宗教的には、「至福」というふうに呼ばれているようである。禅仏教のクソ坊主は、「大悟」などとヌカして舌を出している。

したがって、大悟して振り出しへ戻ったそのような人は、とくに何をも為さないだろう。才能の人は才能を為し、凡庸の人は凡庸を為し、各々自分の職分と持ち分において為すべきことを為し、とくに何を為すというわけではないだろう。

私とて、なんでこんなことをしているのか、ほんとのところはよくわかっていないのである。いつも偉そうなことを言ってはいるが、ほんとは、なんにも、したく ない。じいっと宇宙を感じたままで、指一本動かしたくなかったりするのである。しかし、まったくなんにもしないというのも、それはそれでけっこう難しいもので、とりあえずはまあ何かをする。何かをするにしても、得手不得手というのは自 ずからあり、私はこれしかする気もないしで、 それでなんだかこんなことをしているというのが正直なところだったりするのである。表向きはいちおう「世のため」ということにしてはいるが、またじじつ必ず世のためにはなるのだが、「宇宙のほ んと」がよくわからない限り、ほんとは「何の」ためなのか、やはりよくわからないというのが正確なところなのである。

けれども、それでも、まあいいか

そんなふうに私は感じる。どう頑張っても、我々の認識は、宇宙を全的に「理解」するには絶対に至らないのである。 いかなる理由があるにせよ」、 自分がこの人間であり、為すべきことを為している。このことは、それだけで、十分なんらか幸福 なことではあるまいか。 そんなふうに感じつつある昨今である。

どうやら、「幸福」について語ることほど、人が己れを晒してしまうことはなか ったようである。 また、人が「幸福」について語るのを聞くより、自分が幸福にな るほうが幸福のはずでもある。

こればかりは、お役に立てませんようで、 ごめんあそばせ。

 奥さんへの買い物依頼
ほっけ開き  280
コーヒー牛乳       128
バスクチーズケーキ 98
冷凍お好み焼き     178
シーチキン  299
食パン8枚  129

vFlatによって再燃

2023年08月26日 | 6.本
ハイデガーのこと

 ウィトゲンシュタインが言いたいのは、こういう言語の本質的特徴から考えると、 ハイデガー哲学は、多くの無意味な問いから成りたっているということだと思いま す。「存在」という語を考えてみましょう。 この世界は、「存在」に満ち溢れています。 「存在」以外には、それこそ存在していません。それなのに、「存在とは何か」という問いをたてるのは、明らかにおかしいのです。 「存在」という語の否定の状態がどこにもないのに、「存在とは何か」と問うてみても、最初から答がでないのは、わかりきっているのです。この場合の「存在」には、意味がないのです。 存在に対してただ 驚くことしか、われわれにはできないのです。

べつの言い方をすると、この「存在」という語は、絶対的な領域を指しています。 この世界のありとあらゆるものは、 問答無用で「存在している」のですから、「存在」 は、われわれには、手がつけられない 絶対的領域」なのです。議論のしようがない というわけです。 「存在している、以上」といった感じでしょうか。 それに対して言 語は、相対的道具です。いまも説明したように、かならず比較や否定が、語の裏面にくっついています。 「山」と言えば、 「山でないもの」、 たとえば、 「川」「丘」「平野」などなど、いくらでもその背景には存在しています。だからこそ、「山」という語は、 意味をもつのです。ところが、「存在」は、そうではない。その反対語は、「無」で しょうか。しかし、この世界のどこをさがしても、「無」はない。そうなると、「存在」という語を、この世界では使えないことになってしまいます。世界の外側に立た なければ、「存在と無」という相対的対立は、意味をもたないからです。

 ちょうど1年前にスキャナを捨てた そして vFlatによって再燃した 本は捨てられない

本の処理が高速になった

2023年08月18日 | 6.本
Flatおかげで 本の処理が 高速になったので本が足りず 図書館へ 10時にならないと 豊田市は開かないのでスタバへ直行

 存在と無:存在は答えだから無は存在に依存する

 品番は320項目もあるんだ 全てが 軸になる怖さ

 考えるとは 一瞬 のこと その次は また別になっている だから 統合することはできない せーらは何を伝えたいのか

 vFlatはやはりすごい 今日借りてきた 6冊のうち 4冊を15分ぐらいでDNA抽出を完了した

 『世界哲学史7』の中の「数学と哲学」でリーマン面、デデキント、エルランゲン・プログラムに触れていた。これらは 数学教室で感銘を受けた者たちです。当時の数学を画期的に変えた。なぜそれを習ったのかを回収できた。習うべきものとして存在した。

構成詳細06 知の展開

2023年08月06日 | 6.本
知の展開

6.1本

6.1.1本に出会う:図書館で本が身近になった

豊かな図書館で本が身近になる
行政はサービスに徹する
新刊書狙いで興味を拡散
偏ったメディアに対抗

・本に出会えて、すべてが対象になった。
・本からDNAを抽出し、蓄積した
・本はシェアの塊
・新図書館で初めて開花
・新刊書であることは必要
・本の凄さを知るためには霊が必要

6.1,2本の意味:本を理解して処理する

本を理解するのは各自の主観
内なる概念を言葉をする
私が存在することを追った
詳細は概要と同一を発見

・私が存在するから本は意味をなす
・本を処理してわかったのは本は言葉を持つ
・本を読むよりは処理する
・処理することで本を理解
・本は個からの発信
・コンテンツから何を得るか
・それにしても中途半端なものです

6.1.3図書館を知る:図書館を理解して可能性を言及

図書館は公共の場所を提供
北欧の図書館は主張する
図書館で地域を知る
図書館目的の主張もあり

・図書館には役割がある
・所有の世界において公共を先行している
・そこにある意味。
・図書館調査のための販売店訪問
・図書館の存在理由
・図書館があって、初めて本が読める
・図書館が偉いわけではないという認識
・図書館を通じて地域を知る試み

6.1.3豊田市図書館:図書館は市民は使わない

図書館は行政に縛られる
協議会は機能していない
新館オープンから観察
市民からのアプローチが必要

・公共図書館を知るために豊田市図書館を調査
・市にとって単なる場所にすぎない
・市民は使わない
・使わない理由
・市民は何も求めていない
・政治も経済もそして文学も
・本そのものに不備がある
・得たいものがない人たち

6.2公共図書館

6.2.1興味を拡げる:本をきっかけに興味を拡大

学校教育では得られない
国家のための教育
図書館で哲学に触れられた
好奇心のままに

・本は様々な考えのきっかけになる
・哲学も歴史も主張している
・社会は方向違い
・多様な分野開拓
・図書館を考える環境とする
・図書館の可能性は無限大
・物理的な本に捉われないこと
・本は本当に参考になるのか
・個から発するものがない限り無理

6.2.2世界を拡げる:考える範囲を時空間に拡げる

個の好き嫌いが重要
本は最初から読むものでない
この程度なのかの見極め
時空間を浮遊する

・答えは全て内にある
・詳細と概要を繰り返して世界観にたどり着く
・世界観から出発。
・判断基準
・好き嫌いが重要
・好き嫌いに基づく体系作り
・グローバルとの連携
・思考範囲の拡大には寄与する
・まとまったものを得ることは期待薄

6,2.3知の世界:個の教育を知に向ける

知の世界は進化する
デジタルで可能性が広がる
知の世界で考える
世界観で体系を作る

・電子書籍の衝撃は大きかった
・社会は既得権益の壁を守る
・デジタルで範囲が拡大
・知の世界は進化する
・教育を変える
・集合教育の否定
・知の深さには耐えられない

6.2.4公共のあり方:知の共有環境を作り出す

公共図書館は公共の存在
知の世界を体現する
多様な共有の場にしていく
電子化で境界がなくなる

・公共図書館の最大の成果は公共の概念の具体化
・多様な展開に公共は欠かせない
・図書館がシェア先行
・公共が一番の可能性
・パブリックの概念を拡張

6.3個の覚醒

6.3.1知のきっかけ:知のきっかけは用意されている

あなたのために用意されている
本はきっかけを与える
本から答えは得られない
自ら考えるしかない

・存在のなぞに触れることで個は覚醒する
・個と本がつながるきっかけが図書館になる
・本のすごさを知る
・全てが用意されている
・いかに存在に気づくか
・存在に真っ正面から取り組む
・自分に用意されてることに気づく

6.3.2考える:内なる世界で考えをまとめる

表現はメッセージとなる
自己中になれば現れる
考える内に問うきっかけ
問えば応える役割

・内なる世界は自己中心的になる
・考えることで外に向かい、未来に向かえる
・考えを表現する
・表現はメッセージ
・本質に迫る行為
・社会に発信する必要はない
・全て自分のことにすぎない
・問われたら答える態度
・教育、常識には捉われない自分の存在
・ヒントは事象として現れる

6.3.3社会を知る:現象を解析して社会を知る

小から大を知る能力を保有
他者は考えていない
現象から社会を推察
社会の行く末は見通せる

・社会の動きを探った
・他者は何も考えてない
・現象を集め、解釈することにした
・現象と捉える
・小から大を知る
・自分のデータベースで現象確認

6.3,4存在している:存在の意識から問いを発する

存在で個を意識する
存在から社会全体を知る
与えられているものは何もない
家族制度からの離脱

・存在から覚醒する
・個主体の家族関係となる
・教育自体が変わっていく
・個を意識する
・環境は変えられる
・孤立と孤独の中での答え

6.4考える環境
6.4.1新刊書:新刊書は今こことの接点

本は借りるもの
所有すると読まない
新しいものが価値を決める
新刊書に意味がある

・好奇心は新鮮だから、新刊書は欠かせない
・的を絞ると同時にDNA抽出し、まとめた
・新しい考えは出てこない
・色々試した結果、さほどでないと確信
・自ら考えるしかない
・ガードするものとしての図書館
・自分に自信を持たせるために存在

6.4.2場を提供:図書館を知を共有できる場にする

生活の場を活かす方法
本に絡む全ての事柄
意識と知識の共有の場所
情報共有のセンター

・図書館は主役でない
・主役の本と個をつなぐ
・未完成で中途半端な本を助けるもの
・場の活かすには情報共有
・デジタルに対応
・Amazonが狙うもの
・考える場になっていない
・何がたりないのか
・知りたいと思う気持ち

6.4.3生活対応:図書館は生活対応で活性化する

図書館は生活に対応できる
一人で考える場としても
Oodiは生活の場を創造
公共と生活のハイブリッド

・Oodiに行く予定だった
・ヘルシンキ中央図書館Oddiは生活志向
・図書館は共有を体現し、未来を描くもの
・生活から変えていく
・生活の中に知を入れ込む
・国家のための教育から個のための教育

6.4.4地域の拠点:図書館は地域の生活対応の場

地域の変革拠点は市民が守る
コミュニティとの連携
図書館があることの喜び
地域の文化のバロメーター

・地域に皆が作り上げた図書館がある
・地域の意識を集約し、展開し、市民が守る
・生活の変革を示す
・市民に浸透させる
・知の行動をするための場

6.5個の環境

6.5.1知で拠点:コミュニティは知で個を活かす

知が個をつなげる
コミュニティをバックアップ
個を生かすための環境つくり
個の覚醒のきっかけ作り

・個の覚醒のきっかけになる拠点作り
・知識と意識を提供するコミュニティ。
・様々なきっかけが必要
・個へ働き掛け
・出かけるための準備
・戻ってこれる場所の確保

6.5.2コメント文化:個が生きるコメント文化

アゴラで正当な議論
個からの発信からコメント文化
コメントで壊されるものは多い
全体を理解する能力

・個とコミュニティをつなぐのはメッセージ
・まともなコメントができる文化を作る。
・発信する場
・内容のあるコメント
・内にあるものが共感する
・地上波メディアの変革
・コメントは自分に向かって発信する
・自らの思いをまとめる手段

6.5.3情報センター:情報センターは意識と知識の拠点

知のセンターとしての機能
様々なコンテンツの蓄積
個が分化して、全体をつくる
問われたら応える

・個は分化し、統合する環境が必要
・意思決定を支援する
・問われたら応える環境を提供
・コンテンツ集約
・サーバー展開
・個の環境との接続
・個と全体との循環

6.5,4教育体制:個を育成できる教育体制

個の教育を目指す
国家のための集合教育を否定
個が自立することが目的
自ら知る環境の確立

・個の存在に至る教育環境
・国のための集合教育でない
・個の好き嫌いを重視した教育
・個としての学び
・内なる世界と交流
・存在する意味を探る

6.6知の世界

6.6.1個の覚醒:個の覚醒から目的達成の覚悟

個の目的を求める場
前も後もない今に目覚める
個にとっての全体を意識
全体は個のものにすぎない

・知の世界は答えのない問いに耐える世界
・存在のなぞに挑み、私は私の世界を作る
・内なる世界の目的
・知の世界はどんな世界
・個の目的が判断基準
・孤立できる環境を作り出す

6.6,2考える日々:哲学的に現象解析する日常

池田晶子の世界
死の原因は生まれてきたこと
池田晶子は考える
個の存在に目覚める

・考えるのは外に向かう力
・現象を解析する力
・内なる世界では問われたら応える
・ひたすら考える
・内なる世界から現象を解釈
・現象から社会を解析する
・組織の目的を変える

6.6.3メディア活用:存在を確認できるコメント文化

知をつなげていく
他者は存在しない
対象とするのは自分
邪魔させないようにする

・知の世界のベースはコメント文化
・知で武装し、まともなメッセージとして発信
・問うことを始める
・問うことで応答するもの
・表現としてのコメントを生かす
・バックボーンの確認

6.6.4個の教育:個を育てる教育環境

存個の存在を生かす
個の目的を作り出す
個の自立を実現する教育
答えは内にある

・存在の力を確信し、答えをうちに求める
・集合教育は不要
・個人主体の共有に徹する
・個の夢をカタチにする
・全てを内から作り出す
・国家の介入を排除

6.7知の体系

6.7.1ザナドゥ空間:思考は連鎖させる表現方法

著作権を超えていく
知のチェーンを明確にする
思考の連鎖は存在しない
有限は有限である

・知のベースは問われたら応えるもの
・著作権を超えるザナドゥ空間は必要
・著作権の妥当性
・Google を使えばサーチ可能
・図書館などで積極的に活用
・デジタルの新しい使い方を開発
・知に境界はない
・全て、私のもの

6.7.2ライブラリ:ライブラリは問われたら応える

個のライブラリをつなぐ
電子書籍である意味
知識と意識の根拠
全ての問いに応える

・デジタルでコンテンツの連携が始まる
・個の体系化と問われたら応えるシステム
・問いに応える
・個の体系化を拡大
・蓄積された情報の使い方
・両方の分化が容易
・デジタル化の真の意味は理解されてない

6.7.3本を分化:本を分化させてメッセージ化

本のDNAをメッセージ化
詳細を概要に置き換え
電子書籍で伝播コストを削減
リアルタイムも可能

・本は中途半端な存在
・切り抜かれていいとこ取りされる
・全てがオリジナルになる
・DNAては一部が全部
・メッセージで伝播
・まとまりとしての本は否定する
・線形での表現から脱却

6.7.4本を統合:個人の環境で本を統合

メッセージは個でまとめられる
思考体系に沿って配置
無限次元に展開可能
基本空間を介しての解釈

・情報が知になり、複合化される
・個で集約されて、体系化される
・個と全体を表現
・個での統合リテラシー
・至る所で作成作業
・好き嫌いでの創作

6.8知の未来

6.8.1今を知る:今ここにいるのは知るため

存在する現象を分析する
全体を知るため
私が今ここにいる意味
個と全体の融合ロジック

・知により、個と超がつながり
・今を知り、全体を見る
・デジタルの進歩を味方にする
・存在している
・現象を分析する
・依存しない世界が必要になる
・何かが変わろうとしている
・デジタルとクラウドが目指すところ

6.8.2全てを知る:核から端まで全てを知る

全てを知ることで個を超える
知る範囲が私の範囲になる
私は私の世界からの結論を出す
私の範囲を超える

・知の次元として詳細は概要を用いる
・知の限界を知り、超の助けで知の限界を超える
・全ての範囲
・個の範囲を超える
・核と端をつなぐ
・知る全てが大きく変わる
・内から外の外まで広がる
・私は核と端のすべてにある

6.8.3未来を知る:未来を知って未来から見る

今を私の歴史として扱う
未来を知ることができる
未来と言っても私の存在まで
前も後ろもない存在

・悩みは未来からの視点が救う
・歴史の変節点にある
・未来から考え、未来をえる
・人類の未来は想像上
・変革シナリオ
・未来が想定できる
・先が見えている
・私の歴史を自由に行き来する

6.8.4未来のカタチ:知に人類の未来を託す

人類の未来に関心はある
知で世界をつくるしかない
人類の未来を想定しておこう
知に未来を託すしかない

・存在の力で個が覚醒し、個の目的達成で平等な世界を作る。人類の未来の変節点。
・未来はあるのか
・知の世界を作り上げる試み
・インバリアントを変える
・様々な定義が変わる

 『存在とは何か』
存在の意味をひたすら 置き換えている 存在は答えです それだけです 我々の答えを出そうとしたらダメです 私しかいないんですから
『存在とは何か』
存在を無と対比してはダメです 存在でこそ無を認識できるけど存在は無に含まれます 無そのものです
 まだ 野球やってる ひめたんの時の再来か となると 最終回に両親が来る #早川聖来

 奥さんへの買い物依頼
チョコレート効果       598
きざみ生姜  88
ところてん   98
豚小間       336
串揚げ       498
焼きそば     198
お茶          148
いちごジャム 348
ビオレU替え     193

構成詳細概要 知の展開

2023年07月19日 | 6.本
 知の展開


6.1出会い


6.1.1 本に出会う:本に出会えて、すべてが対象になった。本からDNAを抽出し、蓄積した。
 本がある環境:豊田市中央図書館 豊富な新刊書 私のためにある 使いこなす責任
 全てが対象になる:興味の対象を拡大 概念を言葉に変換 すごさを感じるには 本を処理する
 本を読む:一冊に人生がある 私の代わりとする 読書は格闘技 DNA抽出
 蓄積する:NDC、題名、金額 テキスト化 ブログにアップ マイライブラリ


6.1.2 本の意味:私が存在するから本は意味をなす。本を処理してわかったのは本は言葉を持つ。
 本を理解する:年間1500冊 1万冊で理解 好き嫌いが判明 意味を探る
 私が存在する:本を体系化 全体を把握 先を考える 存在する意味
 言葉を得る:概念を言葉に変換 言葉は思考の限界 思考に共感 言葉のなぞ
 本を処理する:OCR技術 デジタル化 書き起こし 未唯空間に蓄積


6.1.3 図書館を知る:図書館には役割がある。所有の世界において公共を先行している。そこにある意味。
 三つの形態:LAPLは調査型 SFPLは滞在型 豊田市図書館は貸出型 アゴラのある図書館
 白夜の国の図書館:ア・アルトの図書館 15年掛かった 豊田市の10倍の来館者 生活拠点
 公共図書館:無知は悪 知の入口 図書館への攻撃 市民が守る
 地域の図書館:日本有数 新刊書1.3億 良さを感じていない 文化のバロメーター


6.1.4 豊田市図書館:公共図書館を知るために豊田市図書館を調査した。市にとって単なる場所にすぎない。
 停滞している:観察し続けている 市民は変わってきた 貸出件数は低下 TRCで変わるか
 協議会に参画:トヨタに依存 新刊書予算を半額 公募委員に参画 機能していない
 内から見る:返本ボランティア 図書館に提案 館長は次長クラス 司書は不用と主張
 コミュニティ連携:図書館に提案 市民が支える図書館 市民をつなげる 電子図書館への道筋


6.2考える環境


6.2.1 興味を拡げる:本は様々な考えのきっかけになる。哲学も歴史も主張している。社会は方向違い。
 哲学に触れる:デカルト『方法序説』 一人で作る世界 孤独が思考を深化 生活規範を見習う
 歴史を知る:アタリ『21世紀の歴史』 未来から今を見る 今とつながる未来 原因と結果の論理
 社会はわからない:モラン『複雑性とは何か』 変化は周縁から核へ 複雑性で社会を解明 概念に言葉を与える
 文学は読まない:トルストイ『戦争と平和』 ナターシャへの愛 多様性が平和を生む トルストイの世界観


6.2.2 世界を拡げる:答えは全て内にある。詳細と概要を繰り返して世界観にたどり着く。そこから出発。
 考える範囲:自由に考える 読書は格闘技 分化させる 新しい分野を拓く
 世界観の構築:著者の拘り 状況認識 平等の見方 多様な意見
 時空間を浮遊:時空間を把握 思いを浸透 未来から見る デジタルで拡張
 未唯空間に蓄積:すべてを集積 アゴラの設定 コンテンツ抽出 内なる空間


6.2.3 知の世界:電子書籍の衝撃は大きかったが、社会はそれを受け入れない。既得権益の壁を守る。
 電子書籍の衝撃:電子化の意味 読書形態の変化 コンテンツ分化 受け手で統合
 本をばらす:バラバラにする 知恵として集約 配置を生かす 個人環境をつくる
 自分の体系つくり:内なる世界と接続 ザナドゥ空間を展開 クラウド環境 知の生活
 個の生涯学習:生涯学習審議会 情報センター構想 地域との連携 部局を超える


6.2.4 公共のあり方:公共図書館の最大の成果は公共の概念の具体化。多様な展開に公共は欠かせない。
 公共図書館:地域をカバー 公共の意識 市民の力 地域の力
 多様なニーズに対応:学校図書館 県立図書館 市立図書館 アウトリーチ
 シェア社会:作り上げる シェアを先行 地域から拡大 全体を誘導
 人類の叡智:アレキサンドリア カーネギー ヘルシンキ新図書館 市民を育てる


6.3個の覚醒


6.3.1 知のきっかけ:存在のなぞに触れることで個は覚醒する。個と本がつながるきっかけが図書館なのか。
 存在のなぞ:様々な思い 本を読む人 行動する人 自分しかない
 理由を知りたい:答えを求める ライブラリをもつ 図書館機能 本は総合的
 本で探す:週30冊の新刊書 本のすごさ 本の可能性 コミュニティ機能
 個でつながる:コンテンツ シェアの意識 当てにならない 本屋は不充分


6.3.2 考える:内なる世界は自己中心的になる。考えることで外に向かい、未来に向かえる。
 他者はいない:孤立と孤独 内なる世界の充実 言葉のなぞ 全てを知る
 自己中心であれ:多様な意見がある 問題意識は異なる 好き嫌いは変わらない 自分で結論
 個を表現する:部分は全体 詳細と概要 他者の世界とする 孤立と孤独を深化
 問われたら応える:膨大な知識 自らは発しない 世界を表現 何を残すか


6.3.3 社会を知る:社会の動きを探ったが、他者は何も考えてない。現象を集め、解釈することにした。
 動きを把握:社会の動き 思考と行動 本に描かれる世界 コミュニティの役割
 行動の結果しかない:図書館の活用 読書の環境 地域活性化 危機感を煽る
 他者は考えていない:他者の発信 アゴラを求めて 気づきを共有 本当に考えているのか
 現象のまとめ:本棚システム デジタルで蓄積 進化する検索 未唯宇宙と関係づけ


6.3.4 存在している:存在から覚醒することで、個主体の家族関係となり、教育自体が変わっていく。
 存在の確認:内から外を見る 外を取込む 外から内を見る ローカルを生かす
 存在の意味:覚醒を図る 読書で分化 読書の目的 各自が目的をもつ
 存在の教育:持続可能性を追求 家庭・学校でない場 仕事の見直し 教育の定義
 家族のあり方:家族の見直し 学校が変わる 会社が変わる 個の力を生かす


6.4図書館


6.4.1 新刊書:好奇心は新鮮だから、新刊書は欠かせない。的を絞ると同時にDNA抽出し、まとめた。
 新鮮な情報:まとまった情報 本に望むもの 時空を超えた著作 概念を変える
 好奇心を形にする:好奇心はめげない 30冊選択できる 一冊の本で変わる 目的が明確にする
 DNA抽出:3千冊を電子化 2.5万冊から選択 年間二百万円 私に用意されたもの
 本はシェア:所有から共有 本屋に本はない 本屋の存在理由 出版を維持する


6.4.2 場を提供:図書館は主役でない。主役の本と個をつなぐ。未完成で中途半端な本を助けるもの。
 本とつなぐ:図書相談 読書会 アゴラでコラボ ライブラリ接続
 メディア連携:ライブラリ スマホ デジタル対応 コミュニティ化
 情報共有環境:OCR連携 寝ながら読書 各自の体系 クラウドへの拡張
 本を読む:サードプレイス アマゾン・キンドル どこでも図書館 場に沿った情報


6.4.3 生活対応:図書館は主役でない。主役の本と個をつなぐ。未完成で中途半端な本を助けるもの。
 地域活性化:観光拠点 寝ながら読書 リゾート向け 町おこし
 豊田市図書館:公的資源の発掘 新刊書展開 アウトリーチ 公民館連携
 米国公共図書館:滞在型のSFPL 調査型のLAPL 地域支援のNYPL バークレーの電子化
 Oodiは生活志向:北欧生活スタイル 市民ニーズに対応 地域の情報センター 計画的に進化


6.4.4 地域の拠点:地域に皆が作り上げた図書館がある。地域の意識を集約し、展開し、市民が守る。
 図書館がある:図書館の有難味 存在理由 シェアを先取り 社会変革を提案
 地域と意識を集約:どこでも図書館 いつでも図書館 考えられる場所 図書館ポータル
 図書館を経営:曲がり角 指定管理者制度 TRCの狙い CCCの多角経営
 市民が守る:市民と図書館 図書館友の会 市民が主体になる 市民を味方にする


6.5個の環境


6.5.1 知の拠点:個の覚醒のきっかけになる拠点作りが始まる。知識と意識を提供するコミュニティ。
 何を知りたい:知るための手段 知りたい欲求 技術活用 教育の目的を考える
 至る所にある:本に触れる環境 富良野の図書館 販売店に図書館 まちライブラリ
 知識と意識:教育委員会の制約 地域の知の拠点 ネットで統合 危機意識を反映
 覚醒のきっかけ:図書館クラウド アイデアある企画 活用リテラシー 自由と平等の実現


6.5.2 コメント文化:個とコミュニティをつなぐのはメッセージ。まともなコメントができる文化を作る。
 意識の集約:図書館前広場 知的欲求に対応 文化度を示す サービス提示
 メディアリテラシー:情報提供 ハブの機能 コンテンツ生成 メディアを凌駕
 理解する能力:ソーシャルネット モバイル活用 情報を伝播 教育への展開
 専門家の役割:コンシェルジェ 司書という専門家 アウトリーチ アゴラの中心


6.5.3 情報センター:個は分化し、統合する環境が必要。意思決定を支援し、問われたら応える環境を提供。
 クラウド環境:資源の共有化 国として支援 経費節減 シェアの象徴
 統合事務局:コンテンツをバラす メッセージ流通 個人で統合 サーバーの提供
 コラボ環境:議論する広場 コメント文化 意思決定支援 行動を保証
 問われた応える:要望の掘り起こし アウトリーチ 事例を集約 市民と情報共有


6.5.4 教育体制:個の存在に至る教育環境。国のための集合教育でなく、個の好き嫌いを重視した教育。
 存在に至る教育:知りたいこと 存在を知る 欲求を叶える まとめあげる
 個の教育環境:環境社会の哲学 考え抜く 社会の概念 大きく捉える
 好き嫌いを重視:個人が主役 概念と詳細 多方面から思考
 社会への拘り:内なる世界の答 思いをまとめる メディアで表現 クラウドで伝播


6.6知の世界


6.6.1 内なる世界:考えるのは外に向かう力。現象を解析する力。内なる世界では問われたら応える。
 答のない問い:知りたいこと 存在を考える 自ら作り上げる 自分としての答
 内なる世界の確立:超を拠り所にする 共有する 存在から考える 意思決定
 存在のなぞに挑む:常識というもの 行動に反映 状況に対応 役割を果たす
 自分のいる場所:紙とペン 小さな場所 スタバの机 社会との接点


6.6.2 考える日々:知の世界は答えのない問いに耐える世界。存在のなぞに挑み、私は私の世界を作る。
 哲学の知見:アレキサンドリア 知らないことを知る 存在と時間 デルフォイの神託
 現象の解析:そこには全てがある 現象にコメント ソクラテスに戻る 考える専門家
 考える場所:スタバでコンサル 変わりゆく風景 自分の環境 考えるシステム
 問われたら応える:賛否両論の棚 他者に預言 社会の向かう先 判断基準を提供


6.6.3 メディア活用:知の世界のベースはコメント文化。知で武装し、まともなメッセージとして発信する。
 情報フィルター:コメント文化 コンシェルジェ 個別課題を解決 個別課題を解決
 知で武装:知の世界に向かう 知識と意識 問えば応える 情報を集約・体系化
 考えを表現:本を書く人の思い 参考資料 どこでも図書館 ザナドゥ空間
 メッセージ発信:メディア活用 本に残す プレゼン デジタル出版


6.6.4 個の教育:存在の力を確信し、答えをうちに求める。集合教育は不要、個人主体の共有に徹する。
 存在の力を確認:存在すること 分化する 余分なものを捨てる 公共の意識
 集団教育は否定:内なる世界を育てる 集団活動は不要 学校設備は活用 市民を育てる
 図書館の役割:NZの日本語司書 ダニーデンの司書 開放的な大学図書館 I love Library
 個人主体:図書館ネットワーク 本屋を組み入れる 知恵の共有化 市民主体で活性化


6.7知の仕組み


6.7.1 ザナドゥ空間:知のベースは問われたら応えるもの。著作権を超えるザナドゥ空間は必要。
 参考資料の連鎖:ザナドゥの思い アップする責任 知識としてまとめ 分散した情報リンク
 問われれば応える:電子書籍の可能性 アナデジ変換 思考順を表示 思考範囲を拡大
 著作権を超える:本来の役割 著者の思い 知恵で回り込む 詳細と概要
 超から思考:全体を超える 全てに応える コラボで意思決定 コミュニティを進化


6.7.2 ライブラリ:デジタルでコンテンツの連携が始まる。個の体系化と問われたら応えるシステム。
 電子書籍をクラウド:長年のOCR技術 好き嫌いで集積 電子書籍を先行 統合のきっかけ
 複製は正義:NDCに準拠 ジャンルが見やすい キンドル環境 近傍検索可能
 個のライブラリ:雑記No順 ランダムに読む 言葉で表現 新しい情報の意味
 問われたら応える:近傍の知識 ソクラテスEcho 問うことから始まる 著作権を超越


6.7.3 本を分化:本は中途半端な存在。切り抜かれていいとこ取りされる。全てがオリジナルになる。
 バラバラにする:一冊にまとめるな DNAの抽出 バラバラにする 内なる世界に蓄積
 紙は中途半端:紙を超える 価値の単位を超える コンテンツの独立 電子図書館
 メッセージ処理:好き嫌いで集約 文字数の制約 ハッシュタグ魔術 コメント文化
 リアルタイム集約:メディアミックス NDCを超える デジタル文化 リアルタイム


6.7.4 本を統合:情報が知になり、複合化されて、個で集約されて、体系化される。個と全体を表現。
 受け手がまとめる:思考過程 トレース可能 最適な状態 ネット上に配置
 情報の複合化:アウトリーチ メッセージ 劣化防止 分化と統合
 情報集約:ブログ連鎖 情報リンク リアルタイム 集約範囲の拡大
 新しい表現:個人と全体 体系化 オープンネット 見られる環境の拡大


6.8知の未来


6.8.1 今を知る:知により、個と超がつながり、今を知り、全体を見る。デジタルの進歩を味方にする。
 今ここに在る:なぜ、いるの 存在から見ていく 全体の姿 配置から見る
 知るために:マイライブラリ 思いを伝える 未唯宇宙コメント 外なる世界の現象
 デジタル変革:私が今ここにいる意味:変革期 デジタルとネット 思いを直接伝播 人類の変革
 個が超と融合:考える環境 個人で体系化 教育の目的は自立 人類の進化


6.8.2 全てを知る:知の次元として詳細は概要を用いて、知の限界を知り、超の助けで知の限界を超える。
 私が全て:存在をかける 私の範囲を探す 全てが私 そのための他者
 詳細と概要:現象と意味づけ 現象は知ったフリ 詳細と概要の接続 共有のその先
 知の限界を知る:知の空間 言葉の限界 言葉のその先 社会の位相化
 知の限界を超える:共有から始まる 内なる世界をつくる 配置で拡大 境界をなくす


6.8.3 未来を知る:悩みは未来からの視点が救う。歴史の変節点にある。未来から考え、未来を変える。
 未来を語る:ジャック・アタリ 先人の思い 未来を語り合う 先から見ている生田
 未来から考える:歴史の証言者 意思の力の歴史 歴史哲学で考える 存在の力の未来
 未来をつくる:ライブラリの先 偶然で決まる 集合和から変革 原因と結果
 歴史の変節点:地球規模の変化 人類の敵は人類 人類は試される 未唯宇宙でシナリオ


6.8.4 未来のカタチ:存在の力で個が覚醒し、個の目的達成で平等な世界を作る。人類の未来の変節点。
 存在の力で形成:他者の世界の様相 存在の力で動き出す 内なる世界が先行 内から外延
 平等な世界:知で格差を是正 自由とトレードオン 社会変革 常識が変わる
 知のカプセル:究極の人工知能 未唯宇宙の融合 AIが果たす役割 人間の生成時に起動
 人類の未来:全ては私にある 思考過程をトレース 未来学者の預言 発信する勇気


 本当はもっと変えれるのに 業界がスローにさせてる あえて変化させないようにして自分たちの利益を守ってる 車の世界も同様です 時としてテスラのような異端児が出てきて進化させる
 ネットのマーケティングのCM の扱いは完全に邪魔者になってます 提供者を否定するような形になってます 変わる時は一気に崩壊するでしょう
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