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未唯への手紙

未唯への手紙

『孤独の歴史』

2023年09月22日 | 1.私
孤立と孤独

孤立(loneliness)について語られるとき、孤独(solitude)は二重の否定のかたちで示される。人と一緒にいない状態で、ひとりきりだと感じていない状態である。たいていの調査で大多数の回答がこの状態に相当するにもかかわらず、これに名前がつけられることはあまりない。キース・スネルはこれを「孤立ではない望ましい状況、ブライバシーが満たされた結果に似たもの」と呼んでいる。サラ・メイトランドが論じるように、孤立について世間で激しく論じられることで、孤独の肯定的な効用が目に見えにくくなっている。

しかし、後期近代が人間関係に与えた影響は、孤独と孤立の境界線に見出される。すでに見たように、一八世紀末にヨハン・ツィンマーマンがこの問題を考えたとき、彼はひとりでいる状態と人といる状態を行き来することが大切だと強調していた。安全で生産的な孤独は選択の結果である。個人は孤独に自由に出入りすることを許されるべきである。同時代のほとんどの者と同じように、ツィンマーマンも「孤立(loneliness)」という言葉は使わなかった。しかし彼が多くの紙幅を割いて論じる破壊的な孤独は、いま使われている意味での「孤立」とほぼ対応する。害が生じるのは、自らの意思に反して無理やり人との交際を断たれたときや、修道誓願や深刻なメランコリーなどによって逃れられない孤独に陥ったときである。この問題について当時支配的だった考えと同じく、ツィンマーマンも創造的な孤独と有害な孤独を安全に行き来できるのは教養ある男性という特定のカテゴリーの人間だけだと考えていた。いまはカテゴリーが広がり、あらゆる年齢と階級の男女が含まれるようになったが、ふたつの状態をうまく行き来するのが重要であることはまったく変わらない。心理学者のクリストファー・ロングとジェイムズ・アヴェリルが結論するように、「ある状況のもとで人がもつ自発性あるいは主導権の程度が、肯定的な孤独と孤立の経験のバランスを傾ける最も重要な要因なのかもしれない」。

第二次世界大戦後に単身世帯が急増したことで、現在の危機感が煽られてきた。しかし一連の調査によって、物理的にひとりで暮らしている状態と孤立による感情面の苦しみとの結びつきには疑問が呈されてきた。高齢者の生活パターンが社会的孤立をめぐる懸念を生むきっかけになったが、一九五〇年代と六〇年代のビーター・タウンセンドによる研究からより最近のクリスティーナ・ヴィクターらによる研究までで明らかになったのは、高齢者はひとりでいることをあまり苦にしておらず、たいていその機会をうまく活用していることである。一九八〇年代にアメリカでこのテーマの研究を牽引したレシシア・ペプローは、ひとりで過ごす高齢者が「貧しい社会生活」を送っているという広く行きわたった考えは「神話」であると論じている一九四五年以降になって、高齢者が子どもやほかの親類から可能な限りずっと離れて暮らしたいと新たに望むようになったわけではない。そうではなく、これと関係するプライバシーの場合と同じように、一連の物質的条件のおかげで長年の望みがようやく実現可能になってきたのである。一九四八年に妥当な額の年金が導入され、それと関連して生涯年収、住宅事情、医療・社会支援が向上したことで、自立して暮らしたいという望みを叶えやすくなったのだ。夫婦は子どもの家に移るのを先延ばしにし、配偶者を失った者も身体的に可能な間は引き続き自分で家を切り盛りした。

高齢者の間では、孤立よりも独立を失うことのほうが恐れられるようになっていく。比較的若い集団では、独立した社会の構成単位のままでいようとする傾向と、それを可能にする力が高まったのはより最近のことである。ニーズや状況はさまざまだが、共通するのは暮らしかたを自分で決めたいという気持ちである。実家に戻るのは嫌で、よく知らない人と住まいをシェアするのも望まない二〇代の若者から、パートナーがいないときに人に拘束されない自由を求めたり、パートナーと暮らすよりひとりでいることを性分として好んだりする中年の者まで、あらゆる年齢層でそれに価値が見出されている。

社会的ネットワークの柔軟性が高まったことで、ひとり暮らしをしやすくなった。戦後間もなくは、ほとんどのコミュニティで物理的な場所と感情面・物質面の支援が密接に結びついていた。独居老人についてのシェルドンの先駆的研究によると、「完全にほかから切り離されて暮らす高齢者は比較的少なく、大多数は子どもと接触して暮らしていて、独立した個人というよりは家族の一員と考えられるべきである」。実のところサンブルの四パーセントは、子どもの隣の家に住んでいた。その後、都心部のスラムから郊外の団地に移動したとはいえ、一九八〇年代になっても高齢者と最も近くに暮らす子どもとの距離は、平均すると一九世紀初めのコミュニティでの距離と変わらなかった。やがて距離は遠くなっいくが、ほかから切り離される可能性のある人への義務を意識してそれを果たす家族の力はおおむね損なわれることがなかった。祖父母は子どもや孫の暮らしに引き続き参加し、他方で困難な状況に陥ったら物質面や精神面で支援を受けることができたのである。地元でも職場でもさらに遠い場所でも、家族以外の友人とのつき合いが増えることで家族の役割はむしろ強化され、家族が友人に取って代わられることはなかった。一九五〇年代から七〇年代半ばにかけて労働者階級の間で自動車の所有が広がると、歩ける距離や公共交通機関の有無に制約を受けることなく顔を合わせることができるようにもなる。デジタル革命のはるか前から、ネットワーク化された孤独、すなわち物理的にひとりでいながら遠くの親類や友人とつながって支え合う手段が重要性を増しつつあった。一九七〇年代半ばには、ついに電話が手紙を追い越し、いまからわずか一〇年前まで連絡手段として最も広く用いられていた。二〇〇七年の英国社会態度調査(BritishSocialAttitudesSurvey)では、「親しい友人、親類、その他の身近な人(配偶者やパートナーは除く)と、そのときの気分や近況について連絡を」取り続けるのにどのような手段を使っているかを尋ねている。女性の場合、対面での会話がまだ最も広く用いられており、五一バーセントが親しい人たちと「毎日あるいはほぼ毎日」話していた。二番目に使われていた手段が電話で、四七バーセントである。テキストメッセージとEメールはまだ後れをとっていて、それぞれ三五パーセントと二九バーセントだった。すべての手段において、男性は女性よりもコミュニケーションをとっていなかったが、デジタル機器ではその差は小さかった。

友人や家族と話していてもいなくても、ひとりで暮らしている者には家のなかで取り組むさまざまな気晴らしがあった、第4章で論じたように、家のなかの空間、世帯の豊かさ、通信システムによって、人がいないところで心を集中させる娯楽が拡大した。家庭のなかで空間を求めるにせよ、ひとりでいる時間を潰すにせよ、気晴らしの種類は以前より豊富になったのである。二一世紀初め、クリス・フィリップソンらが典型的な戦後の調査の対象になっていたコミュニティを再訪した。フィリップソンらは、高齢者が行う活動を合計一三九も見つけている。ずっと昔からあり、いまでは取り組みやすくなったさまざまな活動もあれば、テレビ鑑賞や休暇の旅行など比較的新しい活動もあった。大昔からの娯楽である読書は、いまでも最も広く行われている気晴らしである。散歩は何世紀も前から豊かな者にとっても貧しい者にとっても同じく基本的な娯楽だったが、いまも四番目に広く行われている。単身世帯が社会の周縁の存在ではなくなり、多様性を増す暮らしのひとつのかたちとして認められるようになるにつれ、市場も消費者需要の新カテゴリーに徐々に適応してきた。スーパーマーケットでは、ひとり用にパッケージ化された食品が売られている。カフェでは客のプライバシーが侵されないかたちで飲食物が提供される。家庭への宅配サービスによって、公の場でひとりで食事や買い物をするのを嫌がる人たちのニーズが満たされている。ひとり旅のために、低価格のパケージ・ツアーも企画されている。

ひとりで暮らしたいという欲求は、アンソニー・ギデンズが後期近代の再帰的プロジェクトと呼ぶものによってさらに強まった。親密性のあり方の選択肢が増えることで、自己アイデンティティをよりよく考えることが可能となり、それが求められるようにもなったのだ。自分自身の価値観と望みを絶えず再考することが、開かれた信頼できる親密性の条件である。この内省を物理的にひとりきりの状態で行う必要はないが、前章で触れたように、自己の感覚を検討し発達させるためになんらかの空間を見つけることが、次第に魅力的な選択肢になっていく。この引きこもりは一時的なものかもしれないし、長期的な計画として行われるものかもしれない。第二次世界大戦中にマス・オブザヴェーションが収集した証言には、きわめて不自由な状況のなか、独立した暮らしができる見通しが大きくいくことへのよろこびが垣間見られる。「わたしにとって家とは、完全な個人になれる場所です」とある証言者はいう。「現時点では、わたしが自分で管理して、わたし自身の個性に合わせて手を入れた完璧なフラットがそれです―友人を迎えたり、ひとり引きこもって好きなことをしたり、好きなときにものを食べたりできる場所――つまり、うまくひとりでいる技術を完成させた場所です」

アンソニー・ストーによる孤独研究の核にあったのが、アイデンティティを育むにはひとりでいる状態が必要であるという主張だった。これは、彼と同じ心理学分野の専門家たちにはずっと看過されていた。「人間が独りでいるときにその人の内面で進行することは、他の人との相互関係で起こることと同じぐらい重要である」とストーは書いている。とりわけ女性にとっては、かつては圧倒的な仕事量だった子育てと家事から逃れ、自分が誰で何になりたいのかを集中して考えるのは魅力的だった。論文集『網の目の中心――女性と孤独(TheCenteroftheWeb:WomenandSolitude)』の「はじめに」で、編者のデレス・ウェアはいう。「多くの著者が、孤独はアイデンティティを省みる休息期間だと考えている。これらの論考のなかでは、孤独はしばしば心を一新し、思考を純化し、生き方と多くの場合働き方――わたしたちがつくったさまざまな家族のなかでの生き方とは別の生き方に向き合う状態あるいは場である」。大人への移行における孤独の価値にも注意が向けられてきた。リード・ラーソンらによる若者の研究では、自己アイデンティティを発達させるにあたって、大人や仲間たちから身を退く力が重要であると強調されている。実家でドアに鍵をかけて自分の部屋に閉じこもるにせよ、大学の寮やアパートメントで別の部屋を新たに確保するにせよ、ひとりになることを強く主張するのは、社会を拒んでいるのではなく、社会に参加する方法を学ぶのに必要な手段なのである。

したがって独居は、後期近代の病というよりも、後期近代を特徴づける長所から直接導き出され、多くの場合重んじられているものだといっていい。鍵になるのは、いかなる状況のもとで孤独が孤立へと傾くのかという問いである。この話題について論じられたものの多くには、暗黙の決めつけが見られる。一九四五年以降の数量化可能な人口構造の変化、とりわけ社会の高齢化と単身世帯の急増が、ひとりでいることと連想される心身の苦しみに直接つながると考えられているのである。そう決めつけるのではなく、自由意志の問題に焦点を合わせるほうが有益だ。ジョン・ローレンスが最近論じたように、「重要なのは、ひとり暮らしがこれだけ大幅に増えたのは、主に豊かさが増したことで可能になった個人の選択の結果だと認識しておくことである」。人間関係のなかで自分だけの空間を確保したり、人間関係から完全に身を退いたりしようとするのは、いつでも生きるための戦略だった。それは計算されたリスクであり、ときに意図せぬ結果につながる。家で個人の趣味を追求して満足していたら、パートナーとの間に思わぬ障壁ができてしまうかもしれない。サイモン・ガーフィールドは切手収集への情熱を語る本を、ユーモラスながらも悲しい前置きから始めている。「ある日の午後、ケントの海岸沿いを歩きながら、わたしは妻に〔切手との〕情事のことを率直に打ち明けた」とガーフィールドは書く。「そこから事態は急展開を見せた。一週間のうちにわたしはオフィスで寝泊まりすることになり、一ヵ月のうちにフラットを借りて寝起きするはめに陥ったのだ」。よりよい関係を見出すために満足のいかない関係を終わらせる決断をしたあとは、思っていたよりもはるかに長い間ひとりで過ごすことになる可能性もあった。ほかの状況では、期待される利益とすでにわかっている代償が枠にかけられた。友情の役割の拡大について論じた研究書でレイ・パールは、他者とつながるあらゆる行動の中心にあるリスク評価についてまとめている。「ひとりでいるのを好み、自分のやりたいように自分の人生を生きる空間をもつことを好む」女性を例に、パールは次のように論じる。

それは当然、その女性が下さなければならない決断である。そうすることで、ときに孤立感を覚えることがあるかもしれないが、なんらかの孤立感を覚えるのは人間の条件の一部である。小さな子どもとともに一日中家に閉じこめられている者は、あまりにも孤立していると感じて臨床的にうつ状態に陥る。ほかにも、やさしく善良ながらも基本的に凡庸で退屈なパートナーと結婚している者は、ときに強い孤立感を覚えることがある。

時間そのものが決定的に重要な要因である。孤立は、意図していたり望んでいたりするよりも長く続いた孤独だとも定義できる。最近の研究では、この状態はU字型の曲線を描き、若者と高齢者に苦しみのピークがあることが示唆されている。この研究結果は、ほとんどの人が人生でより多くの変化を経験するようになったことと関係している。本書で取り上げた期間の最初には、個人の社会的あるいは経済的状況が大きく変わる可能性はほとんどなかった。子ども時代には生活のための労働と、教育を受けられる場合には学校が挟まれる。一四歳ぐらいで見習いになったり家事労働に従事したりすることもあり、その後、結婚して間もく家族ができて、子どもたちが去ったあとに夫婦ふたりでせいぜい数年過ごす。一つひとつの仕事をしている期間は短くても、職業を大きく変えることはまずなく、生まれた土地を離れるとしても、すでによく知っている近くの町に移り住むぐらいだった。

それとは対照的に、後期近代には例の政府計画で「トリガー・ポイント」と呼ばれるものが増え、それとともに社交性の形態についての選択肢も幅が広がった。たとえば子ども時代に転校したり、実家を出て大学に進学したり、生涯のうちに何度も住む場所や仕事を変えたり、親密な関係を始めたり終えたりしやすくなったり、子育て後の期間が長くなったりして、そうした転機はさらなる場所や活動の変化を伴うことがある。これらのポイントの一つひとつで、新しい人間関係を築くまで一定期間ひとりになる可能性がある。それが何を意味するのかは、変化の根拠になっている費用便益計算、すなわち期待される利益と失われたり不確実になったりする期間との計算による。移行がうまくいけばそれは孤独の経験となり、適応に時間がかかりすぎたりマイナス面を埋め合わせる利益が少なすぎたりすると孤立の経験となる。いまでは変化の機会がきわめてふんだんにあるので、調査では人生で一度も孤立を経験していない人はほとんど見られない。孤立の経験は先の見通しによっても左右される。一〇代の終わりから二〇代初めにかけての若者が孤立を顕著に訴えているのは、ひとりきりの期間がどれだけ続くか予想するのが難しく、その状態に耐える手段もあまりもちあわせていないからだ。若者はいまが永遠に続くと考える。一方で年を重ねた者は、たとえ苦しいときでも、たいていのことはいつか過ぎ去るとわかっている。

こうした転機の多くでは、孤立との遭遇はそれ自体きわめて短く、苦しみはわずかで、アンダーソンが「自発的、一時的、自己誘導的な孤独」と呼ぶものと大きな違いはない。それが問題になりはじめるのは、必然によって選択が阻まれ、近い未来にその状態から脱出できる見こみがないときである。ここで時間が大きな脅威となる。グラディス・ラングフォードはマス・オブザヴェーションの最も多作な日記作家のひとりであり、一九三六年から四〇年にかけて日々の考えと活動を記録している。彼女の結婚生活は、始まってすぐに夫が去って終わりを告げた。再婚しないまま四〇代終わりにさしかかり、教師としての仕事にもよろこびを見出せないラングフォードは、果てることない孤立感を痛切に書き記している。この孤立は、愛人である既婚者のレナードがたまに訪ねてくることで中断されるだけである。「今日はメランコリーの憂鬱がわたしの肩にのっかっている」とラングフォードは書く。

お金はないし、家の外に出かける気はもっとない。ひょっとしたらレナードが来るかもと思ったけれど、当然そんなことはなかったから、椅子に腰をかけて本を読んだりものを書いたりして、時間が過ぎていくのと友だちがいなくなっていくのを嘆いている。新しい友だちはつくらない。つくれるわけがないでしょう?どんな「団体」にも属していないし、訪ねていったらたいていゲストはわたしひとり。それに家を出るのが嫌だという気持ちがどんどん強くなっている。もう半分死んでいるみたいな気分。

先に取り上げた同時代の日記作家ネラ・ラストは、戦時中にバローでボランティア活動に参加して社交を求めた。ラストは結婚していたが、夫とはコミュニケーションをとることができなかった。子どもたちが家を出たあとは、半ば空っぽになった家でひとり残された。ラストは夫の気を惹いて沈黙を破ろうとしたときのことを、印象的な表現で描いている。それは「まるで湿っぽい苔の面でマッチを擦ろうとしたようなもの」だった。グラディス・ラングフォードもネラ・ラストも無力な女性であり、間違った夫を選んだ長期的な影響と、結婚制度に従うという支配的な慣習から逃れることができなかった。ネラ・ラストは近くの湖水地方に日帰りの旅をすることでひとりで楽しむ時間を見出すことができたが、彼女の暮らしの中心には深く果てしない孤立があった。

親密な関係が長期間うまくいっていた場合には、死別の悲しみがきわめて大きなものになる。この時点では、意味ある選択はすべて過去のものになる。再考の可能性はなく、望ましいひとりの状態と望ましくないひとりの状態の間で新たにバランスをとる術もない。残った友人や親類が慰めようとしても、悲しみは癒やされるどころか強まるばかりだ。ほかの人に近づくことは、亡くなったパートナーへの裏切りだと感じてしまう一九世紀半ばにハリエット・マーティノーが論じていたように、誰かの死や終末期に関わった者の苦しみは、静寂のなかでやり過ごすのが一番である。せいぜいできるのは、死別の孤独とでも呼べるものを試みることぐらいだ。亡くなった愛する人と会話を続けることで、あとに残された者が最悪の悲しみをやり過ごそうとする試みである。その結果、徐々に社会に復帰できることもあれば、とりわけ最初の二年のうちには健康が悪化したり死に至ったりすることもある。戦後には、喪に服している者を支えるという従来は教会が果たしていた役割をさまざまな組織が補完するようになった。「クルーズ死別ケア(CruseBereavementCare)」が一九五九年に設立され、「結婚ガイダンス協議会(NationalMarriageGuidanceCouncil)」などその他のボランティア団体が死別や離別のせいでよるべのない身になった者たちに助言を提供した。脅かされていたのは心の平穏だけではない。孤立と身体の健康の結びつきがさまざまに主張されるなか、死別が死亡率に影響を与えることも広く認められている。

孤立と孤独のしばしば曖昧な境界線について考えると、大きくふたつの結論が導き出される。第一に、孤立は近い過去の失敗のみによって生み出されたわけではない。死別とその影響は、二〇世紀の終わりと二世紀の初めに発明されたわけではないのである。この時代はせいぜい、ほとんどの人にとってこの出来事をさらに高齢期まで先送りにしただけだ。それに長年連れ添ったパートナーとの関係のなかでひとりきりになるのも、この時代が最初ではない。むしろ、この概念には多くの留保をつける必要があるとはいえ、友愛結婚の台頭によって、ほとんどの家でおそらく対面での会話が増えた。大きな変化は「トリガー・ポイント」の増加であり、これは教育、職業、土地の移動が増え、親密な関係が多様化して不安定になったことで引き起こされた。したがって、孤立がほぼ遍く広がりつつあるとする悲観的な見方にも一定の根拠はある。しかし問題は、それに伴う苦しみの深さである。孤立はこの意味で人間の条件に織りこまれており、生きるための戦略に組みこまれているのであって、すべての者が処理しなければならず、ほぼすべての者がどこかの時点で処理に失敗するものだといえる。

第二の結論は、孤立と後期近代の失敗が結びつけられるのは、親密性と個人主義の相互作用のためというよりは、二〇〇八年の金融危機以降に顕著になった物質面の格差と公共財政の圧迫のためだということである。第4章で見たように、さまざまなかたちでひとりで取り組む娯楽の幅が広がったのは、家庭が豊かになり、通信システムが利用しやすくなって、福祉国家が導入された結果である。ひとりでの気晴らしに使える資金が増え、技術が進歩して、年金が充実し、地域や国の社会・医療サービスによる支援が強化された。この変化は新しい欲求を生んだというよりは、欲求を満たす力を広げたのだといえる。しかし、娯楽として自分のなかに引きこもるための時間、空間、手段を見つけられるか否かは、やはりさまざまな物理的・社会的な力に左右された。これはとりわけ女性に当てはまる。男性が発展させた娯楽としての引きこもりを女性が楽しめるようになったこと、それが二〇世紀、とりわけ戦後の特徴のひとつである。ヴァージニア・ウルフの「自分ひとりの部屋」の制約が完全に消え去ることはなかった。女性の孤独を祝福した一九九八年の論文でデレス・ウェアは、そこで取り上げた著述家たちはほとんどが「特権的な白人であり、直接の扶養家族が「いない者」であると断っている。

個人と集団の豊かさに陰りが見えると、孤立を抑えながら孤独を楽しむことが次第に困難になっていく。この分野でも定義と測定法の問題はあるが、データによるとイギリスでは人口の五分の一を超える一四〇〇万人が貧困状態にあり、一五〇万人が極貧状態にあると示唆されている。戦後に縮まった格差がまた広がったことで、人間関係にさまざまな影響が出ている。不十分な住宅、個人の娯楽に使える金銭の不足、交通システムやインターネットを利用した現実・仮想の移動からの排除といった点において、貧困は孤独に直接の影響を与えてきた。エリック・クライネンバーグが近年論じたように、社会インフラが乏しくなったことで、高齢者や移動困難者はほかから切り離されやすくなり、その結果として心身の両面で困難な状態に陥りやすくなっている。できることはせいぜい、第4章の結論で論じた比較的シンプルなひとりでの娯楽に立ち戻ることぐらいである。散歩や読書をしたり、ほぼどこの家にもあるテレビを観たりといった具合だ。貧困者は、孤立の経験や恐れを和らげるサービスを利用しにくいことも多い。心と身体の苦しみの相互関係についてのまだ仮説段階にあるさまざまな研究では、深刻な不健康と障害が孤立を引き起こすことがかなり前から知られている。これはとりわけ高齢者に当てはまるが、高齢者だけの問題ではない。前掲のイギリス政府による「つながりのある社会」は、労働年齢の障がい者の四五パーセント、若年成人の障がい者の八五パーセントがなんらかの孤立感を抱えているとする、障害についての慈善団体「スコープ(Scope)」の主張を受け入れている。ここから、貧しい地域での診療所や病院へのアクセスの質と、地域における長期的支援の提供についてたちまち疑問が生じる。

二〇一〇年以降の緊縮政策によって、この分野で政府計画をつくろうとする試みにはすべて異議が申し立てられている。戦後、支援の混合経済が発達した。交際相手紹介所のような商業的取り組みと、国や地方の福祉サービスに加えて、一連のボランティア団体が登場し、集団での取り組みを補完してさらなる改善を促した。

一九七〇年代には、さかんに刊行されていた女性雑誌の人生相談欄への女性回答者は、パートナーを見つけられない人たちだけでなく、結婚生活のなかでひとりきりだと感じていたり、夫に捨てられたり離婚したりして苦しんでいたりする人たちの相談にも回答するようになっていた。『ウーマン(Woman)』誌のアンナ・レイバーンは、数を増やしつつあった「単身者クラブ全国連盟(NationalFederationofSoloClubs)」、「離婚者・離別者のための全国協議会(NationalCouncilfortheDivorcedandSeparated)」、「サマリタンズ(Samaritans)」といった地域や全国規模のボランティア組織、図書館、出会いの場、成人教育のクラスといった自治体のサービスを利用するよう繰り返し投稿者に勧めている。その後、ウェブ上の支援が発達することでボランティア団体の活動範囲は広がり、孤立した者たちを互いや支援の提供元とつないでいる。

しかし、インターネットへのアクセスがいまだ不完全であるにもかかわらず、国家がその克服に多額の資金を投じることができず、公共図書館、地域の娯楽施設、成人を対象とした社会サービスといった重要な機能への支出が削られているなかでは、さらに厳しさを増す孤立の問題に対して効果的で統合された対策がとれる見こみはないようだ。この問題は、現代の人間関係の矛盾ではなく、富の配分と公共サービスの供給における危機の高まりを表すものになったのである。

 209『世界の歴史⑪』

ビザンツとスラヴ

歴史の旅を終えて

コンスタンティノープル最後の日

一四五三年五月コンスタンティノープル。トルコ軍の砲声が聞こえる。「城壁へ!」という叫び声がおこる。ビザンツ帝国は一千年の歴史の幕を閉じようとしていた。

いまや帝国の領土は、遠いミストラとトレビゾンドを除いて、すべてトルコ人の手に落ちていた。征服された都市がどうなったのか、恐ろしい噂も伝わっていた。この都にも同じ運命が待ち受けているであろう。いくたびも敵軍を退けてきたコンスタンティノープルも、いよいよ最後の日を迎えるのである。

イタリアへ向かう船を見つけて、町を立ち去る者も少なくなかった。さらば、我が都よ!海から見るコンスタンティノープルは美しい。城壁のはるか向こうに宮殿が見える。教会の屋根が、広場にそびえる円柱が遠ざかる……。去りゆく人、見送る人、港がひとしきり賑わったあと、コンスタンティノープルの町は最後の戦いにすべてを賭けることになる。

イスラーム法では、みずから城門を開いた町は、住民の身柄と財産が保証されることになっていた。実際、包囲が始まってすぐに、トルコ側から使者がやってきて、自発的に降伏すれば、家族や財産に危害を加えはしないと伝えてきた。しかしそれに応じようという者は誰もいなかった。皇帝コンスタンティノス十一世(在位一四四九〜五三年)が、安全なところへ逃れるようにとの側近たちの助言をきっぱりと退けたことを、すべての人は知っていた。残った人びとは皆、皇帝と運命をともにする覚悟を決めていたのである。

スルタンのターバンのほうがましだ

聖ソフィア教会の壮麗な姿こそ昔に変わりはなかったが、かつての光の都もいまでは見る影もなくさびれていた。五三年三月の末、近づきつつある戦いに備えて皇帝コンスタンティノス十一世は、市内にどれほどの人員・武器があるか調査させた。各地区から上がってきた数字をまとめる役を仰せつかったのは、友人として最後まで皇帝に付き従った大臣のスフランゼスである。計算を終えたスフランゼスは蒼ざめた。武器を取りうるビザンツ人はたったの四七七三人。報告を受けた皇帝も衝撃を受け、この数字を公表してはならぬと命じた。

もちろん歴代の皇帝たちも、このような絶望的な状態になるまで手をこまねいていたわけではなかた。一四三八~三九年のフェラ―ラ・フィレンツェの宗教会議には、皇帝ヨハネス八世(在位一四二五〜四八年)、総主教ヨセフス二世がみずから赴き、教会合同の決議に署名した。トルコに対する援軍を得るための苦渋の決断であった。

一四五二年暮れ、事態がいよいよ切迫してくると、西欧からの援軍を急かせるため、コンスタンティノス十一世は聖ソィア教会において教会合同を称える典礼を執り行った。しかしながら、教皇特使の枢機卿イシドロスを迎えて行われた式典にビザンツ人たちは冷淡であった。「枢機卿の四角帽を見るよりスルタンのターバンを見るほうがましだ」と公然という者さえいた。西欧からの援軍が来なくても、聖母マリアがこの町を守ってくださる、そう信じる人びとも少なくなかった。

帝国存亡の瀬戸際において、国家か宗教かという絶望的な選択を迫られたとき、大多数の民衆は信仰を選ぼうとした。スルタンの支配下に入っても、我らの信仰は許されるのだと。すでに述べたように、ギリシア文化に傾倒した知識人のあいだでも、ローマ帝国離れが生じていた。「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」は消えてゆこうとしていたのである。

青年スルタンの野望

西欧からの約束の援軍が来ないまま、四月二日にはトルコ軍の先発隊がコンスタンティノープルの城壁の前に姿を現した。三日後にスルタンが本隊を率いて到着、その翌日から、一〇万を数えるトルコ軍の激しい攻撃が始まった。

攻撃側の総大将メフメト二世(在位一四五一~八一年)は二十三歳であった。二年前に即位した青年スルタンは傲慢だとも、野心が勝ちすぎるともいわれていた。功名心にはやるあまり、父から受け継いだ帝国を破滅させるのではないかと、側近の老宰相を心配させたほどである。しかし、老人たちの心配をよそに、メフメトはコンスタンティノープル征服という大事業に乗り出す。スルタンの野望を象徴しているのが、城壁に向けて並べられた巨大な大砲である。

トルコ軍の包囲が始まる少し前に、ウルバヌスという名のハンガリー人がコンスタンティノープルの宮廷を訪ねてきた。自分が開発した新式の大砲の設計図を売り込みにきたのである。しかしビザンツには、大砲を作る資金はおろか、彼を雇い入れる金さえなかった。

ウルバヌスは次にトルコの宮廷を訪ねた。メフメトはこの男を抱きかかえるように迎え入れると、お前の大砲はコンスタンティノープルの城壁を破れるかと尋ねた。ウルバヌスは、バビロンの城壁さえも破壊するでしょうと答える。メフメトはさっそく実用化に踏み切らせた。ウルバヌスが作り上げた大砲は、砲身の長さ約八メートル、砲弾の重さ約六〇〇キロもあり、「ばけもの」と呼ばれた。「ばけもの」は当時トルコの宮廷のあったアドリアノープルで発射実験に成功すると、六〇頭の牛に牽かれて、コンスタンティノープルへと運ばれてきた。

死闘を展開するビザンツ人

儀式に明け暮れている軟弱な連中と誹られてきたビザンツ人が、最後の最後になって実によく戦った。兵員でも武器でもはるかに劣るにもかかわらず、一〇万のトルコ軍を相手に二ヵ月にわたって死闘を展開したのである。

トルコ軍の攻撃は城壁の最も弱い部分に集中した。それは聖ロマノス門の少し北、リュコス川が流れているあたりであった。川が流れていることからもわかるように、この付近は土地が低くなっていた。メフメトはそこへ向けて「ばけもの」以下の大砲を並べ、最精鋭部隊である子飼いのイェニチェリ軍団を配備した。守備側もここに皇帝コンスタンテイノス十一世みずからが陣取り、必死の防戦に努めた。

包囲されたコンスタンティノープルの希望は海にあった。町の北に細長く入り込んでいる金角湾の入り口には太い鉄の鎖が張られており、敵の艦船は入れないようになっていた。

包囲が始まってからも、食糧を積んだ輸送船がジェノヴァのガレー船に守られ、トルコ海軍の追撃を振り切って入港したこともあった。いつかこの港にヴェネツィアの、ジェノヴァの大艦隊がキリスト教徒の軍勢を乗せて入ってくる、ビザンツ人たちはそう信じようとしていた。

ビザンツ人たちの最後の希望をメフメトは途方もない方法で断ち切った。オスマン艦隊の山越えとして知られる大作戦である。海上に張られた鉄の防鎖を嘲笑うように、背後の山へ一隻また一隻と戦艦を運び上げ、都合七〇隻の艦隊を金角湾内に進水させたのである。金角湾を失ったことによって帝都防衛は絶望的となった。それでもなおビザンツ人は、聖母マリアのイコンを掲げて戦いつづけた。

包囲が始まってもう二ヵ月近く経っていた。攻撃側にもさすがに疲れと焦りの色がみえはじめていた。五月二十七日の夕刻、メフメト二世は将兵を集めて、これが最後の戦いであると炎のような演説をした。演説を終えるとメフメトは、総攻撃に備えて明日一日ゆっくり休むよう告げて、将兵たちを解散させた。

別れの演説

翌二十八日、トルコ軍の陣営は静まりかえっていた。それが嵐の前触れであることは、都を守る者たちにもよくわかっていた。奇蹟を求めて、イコンを掲げた行列が市内を進む。

一〇万の敵軍が城壁ひとつ隔てて迫っているのが嘘のように静かな町に、教会の鐘の音と讃美歌の響きが流れてゆく。夕刻、コンスタンティノス十一世も将兵を集めて演説をした。その穏やかな人柄で誰からも慕われていた皇帝は静かに語りかけた。

「いよいよ時は来た。……兄弟諸君、君たちはよく知っているであろう。命よりも大切にしなければならないものが四つある。第一に我らの信仰、第二に故郷、そして神に塗油された皇帝、最後に肉親や友人である。それらのうちのひとつのためでさえ我らは命を賭けて戦う。このたびの戦いにはこの四つすべてがかかっている。.……もし神が我らの罪ゆえに不信心なる者どもに勝利をお与えになるなら、我らは最愛の妻や子供たち、肉親とも別れなければならなくなるのである」

長い演説――一千年の帝国への弔辞であった――を終えると、皇帝は涙ながらに神に感謝を捧げた。その場にいた者はすすり泣きながら声を合わせて応える。「キリストへの信仰のため、故郷のために死ぬのだ!」

日がすっかり暮れると、人びとは聖ソフィア教会へと向かった。教会合同の記念典礼が行われて以来五ヵ月、ビザンツ人たちはここに立ち入ることを潔しとはしなかったが、今となってはわだかまりも消えていた。最後の夜、人びとは何を祈ったのであろうか。

旅路の果てに

深夜になってトルコ軍の総攻撃が始まった。防衛側は、押し寄せてくる敵兵をその都度撃退した。みごととしか言いようのない奮戦ぶりであったが、トルコ兵は文字通り屍を越えて次々と進んできた。ついに夜明け前、城壁に三日月の旗が翻った。それを見たコンスタンティノス十一世は死に場所を求めて、押し寄せてくるトルコ兵のなかへと姿を消した。一四五三年五月二十九日、ビザンツ帝国は滅びたのである。

最も激しい戦闘が展開された聖ロマノス門は、トルコ人によって大砲門(トプカプ)と名づけられた。名前の由来となった大砲(トプ)が今も門の前におかれている。コンスタンティノープル攻略に用いられたものだともいわれているが、真偽のほどは不明である。城門に立てば、ここに戦った皇帝とスルタン、武将や兵士たちの声が聞こえてくるような気がする。華麗な宮殿のシンデレラ物語から始まった私たちの歴史の旅は、帝都陥落の悲劇で終わることになった。「旅路の果てに恋人たちのめぐりあい」とはシェークスピアの台詞である(『十二夜』二幕三場)。ビザンツ帝国への旅路の果てに、私たちは悲しい別れを見た。恋人たちはいつかまためぐりあうのだろうか。

コンスタンティノープルが陥落し、ビザンツ帝国は姿を消した。しかし、文明の十字路に立っていた帝国は、周辺の世界にさまざまの遺産を残した。正教信仰はトルコ支配のもとでも脈々と生きつづけ、ギリシア人や南スラヴ人たちの精神的な拠り所となった。ローマ帝国の理念は「第三のローマ」と称したモスクワに受け継がれギリシア古典文化はイタリア・ルネサンスを介して西欧に伝わった。ローマは永遠の都といわれた。第二のローマも永遠であろう。

スラヴ民族について

民族をどうとらえるか

というのも、いわゆる民族というものは、長い歴史のあいだにはさまざまな理由で変わるものだし、ときには激しい民族移動の過程で他の諸民族と融合し、結果として名称だけが続いて、実体はまったく変化してしまっていることもある。遠い過去の時代に、いまの時代のような民族意識などというものがあったとも思われない。民族移動期などは例外と交通機関も充分に発達していない時代には、人びとの生活範囲は限られており、かれらの意識も限られたものであったはずである。かりに最初は同じ集団に属していたとしても、いろいろな国に分かれてそれぞれの歴史をたどる間に、さまざまな違いもでてくるであろう。それに民族の過去の様子を、いま正確に再生することができるわけでもない。民族というのは、後の時代になって、多くの場合、政治的に創られた概念なのである。

それでは、ここでスラヴ人というとき、どのような意味で用いているのであろうか。民族というからには、形態的特質、宗教・文化の同質性、同じ言葉、同じ歴史、場合によっては同じ国に属すとまではゆかなくとも、政治的に密接な関係にあることなどを想定される方もおられるかもしれない。しかし、これらは個々人の民族的帰属を決めるのに必ずしも決定的ではない。同じ宗教や文化をもっているからといって、同じ民族に属すわけでもない。

ここではスラヴ人を、ヨーロッパの東部からロシア平原にかけて住み、スラヴ系の言語を母語として話している人びと、というほどのことを意味するものと考えておきたい。スラヴ語はインド・ヨーロッパ語族の一つで、その意味では英語やドイツ語、フランス語などと同類である。

つまり本章からは、今日一般にいわれる、東ヨーロッパ(東欧)やロシア(旧ソ連邦)のヨーロッパ部分の歴史を、スラヴ人を中心に見ていこうというのである。本巻が扱う時代は、その最初の部分、中世から近代初めまでである。

スラヴを構成する諸民族

右のような意味でのスラヴ人は、通常、次の三群に区分されている。それぞれを構成する民族名を列挙してみよう。

東スラヴ――ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ(白ロシア)人

西スラヴ――ポーランド人、チェコ人、スロヴァキア人、ソルブ人、カシューブ人

南スラヴ――セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人、マケドニア人、モンテネグロ人、ブルガリア人

こうしてみると、東欧とヴォルガ川やウラル山脈にいたるまでのロシアに住む人びとの大部分が、スラヴ人であることがわかる。これらのうちいまはきわめて少数となっているソルブ人、カシューブを除く諸民族は、現在(二〇〇九年初)それぞれを主要構成員とする独立の国家を形成している。

一九八〇年代後半から九〇年代初めにかけてのソ連邦におけるペレストロイカや、いわゆる東欧革命の時期までは、東スラヴの三民族はソ連邦を構成する中核的存在だったし、チェコとスロヴァキアも一つの国を、またブルガリアを除く南スラヴ諸民族もユーゴスラヴィアという国を構成していた。それが最近の大変革の結果、それぞれ独自の国家を形成するようになったのである。

このなかで旧ユーゴスラヴィアについては特別の注意が必要であろう。旧ユーゴスラヴィアでは、現在、各民族がそれぞれ独立の国を形成しているだけでなく(セルビア、モンテネグロ、クロアチア、スロヴェニア、マケドニア)、ボスニア・ヘルツェゴヴィナも独立するにいたっている。これはセルビア人とクロアチア人、さらにはオスマン帝国時代にイスラム教に改宗した「ムスリム人」と呼ばれる人びと(一九七一年の国勢調査で民族として認められた)から成る国家である。加うるに、これまでセルビアの自治州であった、アルバニア人を中心とするコソヴォも二〇〇八年二月に独立を宣言しているのである。

なお、ソルブ人とはドイツ東部(旧東ドイツ)のラウジッツ地方に住む人びとで、この言葉を母語とする者は六万人ほどと数えられている。またポーランド北部のグダンスク(ドイツ語でダンツィッヒ)西方には、同じ西スラヴ語系のカシューブ語を話す人びとが四五〇〇人ほどいる。

東欧におけるその他の民族

この広大な地域には、もちろんスラヴ人でない人びとも多数住んでいる。地図をみながらお読みいただきたいのだが、ハンガリー(マジャール)人、ルーマニア人、アルバニア人はとくに重要である。それぞれ独自の国家をもつが、そのうちハンガ1人は東方から移動してきたアジア系(ウラル語族)の民族で、ルーマニア人とアルバニア人はそれぞれ、ラテン(ロマンス)系、イリュリア系の言語をもつ。後二者はいずれもインド・ヨーロッパ系の民族である。東欧史では一般にギリシア人を除外して考えることが多いのだが――その最大の理由は、ギリシアが社会主義圏に属さなかったことにある、ビザンツ史の主役であり、その後も重要な役割を果たしてきたギリシア人を除外することは、むしろ不自然である。ギリシア人ももちろんインド・ヨーロッパ語族に属す。

旧ソ連邦から独立を宣言したバルト三国の主要民族のうち、ラトヴィア人とリトアニア人も同じくインド・ヨーロッパ語族に属し、バルト系の言語を話す。同じくバルト海にのぞむエストニア人は非インド・ヨーロッパ系の言語、フィン語(ウラル語族、フィン・ウゴル語派)を話す。

ドイツ人やユダヤ人も忘れられない。ロマ(ジプシー)も多い。ルーマニア人の祖先で、バルカンの原住民トラキア人あるいはイリュリア人のラテン化した民族グループといわれるヴラフ(アルマーニア)人なども、牧羊に従事する民として各地に点在していた。その他、長い歴史のあいだにさまざまな人びとがこの地に住みついた。東方から何波にもわたって押し寄せた遊牧諸民族も忘れられない。重要なのは、これらさまざまな民族や集団が同じ地域にいわば混住してきたことである。それはこの地域に多様かつ寛容で豊かな文化が育つ可能性を与えるとともに、その寛容性が失われるとき、相互に他を理由もなく嫌い排除しあう状況を生む危険性をもひそませているのである。

ヨーロッパ史のなかのスラヴ

これまでわが国において、ヨーロッパの歴史といえば、古代ギリシア・ローマのあとは、ドイツやフランス、イギリスのことが中心で、その東の地域については、ほとんどふれられないのが通例であった。こうした事態は、ここ二、三十年の間に、多くの優秀な研究者の努力のおかげで、大きく改善されてきたといえる。ただ学校の教科書や一般的な通史のなかでは、なかなか研究上の成果が取り入れられにくかったように思う。そのため、東ヨ―ロッパといわれる地域は、近現代になってようやく注目されるようになっただけの、それ以前にはあまり人も住まず、目立たない、空白地帯ででもあったかのような、印象が生まれてきた。しかしこれは事実に反している。

ヨーロッパ最大のグループとしてのスラヴ

そこで、ここでスラヴ人の人口についてみてみよう。といってもある民族に属す人びとの数をあげるということは、そう簡単なことではない。民族の名で差別や殺戮が行われるような時代、また地域においては、自分が何民族に属すかを明らかにすることは、危険なことであろう。したがって、かりにそのような調査が行われたとしても、それが自己申告によるものであるかぎり、正確とはいいがたいのである。それに日本人には理解しにくいことであるが、同じような境遇にいる人びとでも、自分が何人と意識しているかは、人によって違う場合もある。

それゆえここでも言語によって考えることにしよう。田中克彦・ハールマン両氏の『現代ヨーロッパの言語』(岩波新書)は、ヨーロッパの人びとがどの言語を母語として用いているか、言語ごとに話し手の数を明らかにしようとした本であるが、それによると、各言語の話者の数は上のグラフのようになる。

つまり、ヨーロッパでいちばん多く話されている言語はロシア語で、スラヴ系では、ウクライナ語が第六、ポーランド語が第七番目に位置づけられている。グラフには十番目までしかあげなかったが、さらにみてみると、十一番目にセルボ・クロアチア語、十五番目にチェコ語、十六番目にベラルーシ語、十九番目にブルガリア語などと続いている。ヨーロッパにおけるスラヴ系主要言語の話者数を総計すると、二億二〇○○万人にもなる。スラヴ人はヨーロッパ最大のグループといえるのである。その歴史は正当に評価されなければならないだろう。

ヨーロッパ人としてのスラヴ人

ところで、スラヴ人はヨーロッパ最大の民族だと書いたが、そもそもスラヴ、ことにロシア人をヨーロッパ人のうちに入らないと考える人は、西欧の人びとのなかにはけっこう多い。

十九世紀ヨーロッパ最大の「進歩的」知識人であったマルクスやエンゲルスのことを、想い起こしてみることもできよう。かれらは諸民族を、「歴史をもつ民族」、つまり西欧諸民族のように、国家をもち歴史の進歩を実現してきたような民族と、「歴史をもたない民族」、つまり大国に支配され独立の存在とは認められなかったような「小」民族との二種類に分け、ポーランド人を除く東欧のスラヴ諸民族に独立の権利を認めず、ただドイツ人やその他の、世界史を構成する権利のある偉大な諸民族の「進歩」のための闘いに仕えるだけの存在としてしかみなかったのである。スラヴ人は、かれらによれば、自分の国をもつ権利を犠牲にしなければならないのであった。

マルクスらの考え方は、階級闘争の課題の前に、民族解放のそれをあまりに軽くみたものといえるが、こうした意識にスラヴ人ら東欧諸民族にたいする、ある種の蔑視感覚をみてとることも、あながちマトはずれではあるまい。

 豊田市図書館の8冊
289.3フア『御冗談でしょう、ファインマンさん(上)』
289.3フア『御冗談でしょう、ファインマンさん(下)』
167ナガ『13歳からのイスラーム』
227ジン『世界史劇場 イスラーム世界の起源』
227ジン『世界史劇場 三国志』
209『世界の歴史⑤』ギリシャとローマ
209『世界の歴史⑧』イスラーム世界の興隆
209『世界の歴史⑮』成熟のイスラーム社会

 6.1 本:本というコンテンツを図書館という共用の場で展開する
・個から発信する場としての本
・本で共有社会の実験をする
・本の進化系を作り上げた
・詳細は概要であることを発見
本に出会う:15冊借用可能で初めて本に出会えた
本の意味:本を読むというよりも処理するもの
図書館を知る:本に求めるものにより図書館は変わる
豊田市図書館:市民に本をアピールしていない

 知を処理するためのツールという意味では本は未完成  デジタルとのハイブリッド化で進化系ができた 本来 大日本辺りが行うべきこと

 図書館は公共という概念と行政はサービスするものということを教えてくれた この2つで国というものを根本から変えていく

 6.7 知の体系:本を分化・統合し、ライブラリを整備し、個が生きる体系をつくる
・個と全体との環境の融合 
・基本空間の役割を果たす
・デジタルライブラリを構築
・知的環境インフラ
ザナドゥ空間:個人の中の知の連携を表現
ライブラリ:電子書籍なら自分のライブラリーが可能
本を分化:本のコンテンツを個がメッセージ化
本を統合:個主体の教育に合わせたものを統合

 全てを知りたいという願い 全てという範囲をどう決める 言葉にできるものは少ない 存在を知るというところに行き着く
 芋のフラペチーノだって 10月からのチョコレート 考えたけどお金がなくて チケットを使ってしまった
 vFlatは本当にすごい
 この位置のメモ帳を映してこうなってしまう そしてこれをテキスト化してしまう
「9月22日(金)
スタバでしか、日付けを書かない
どう見ても一万円足りない
✓Flatは軌動にのった
ペースが早すぎる。
半年前なら知るよしかるかった。
せーらもそうです
何を準備してくれたのか」(原文のまま)

 図書館の本棚をランダムサーチしていた と言ってもサーチできるのは5分の2です 5段のうち2段目と3段目しか サーチできない 視力と腰の関係です
なぜかファインマンの本が見つかった 『ファイマン物理学』にはお世話になった。2012年発刊 なのにやたら本は新しい 誰からも相手されてない 秀脱なのに

 思い出した。この本で この風景を得た。やはり、映画『オッペンハイマー』は観たい。
「全員に黒眼鏡が配られていた。黒眼鏡とは驚いた! 二〇マイルも離れていては黒眼鏡としでは何も見えるわけがない。僕は実際に目を害するのは紫外線だけだろうと考えていくらまぶしいからといって明るい光が眼を害することはない)、トラックの窓ガラスの後 ろから見ることにした。ガラスは紫外線を通さないから安全だし、問題のそいつが爆発するのがこの目で見えようというもんだ。
ついにそのときが来た。ものすごい閃光がひらめき、 その眩しさに僕は思わず身を伏せ てしまった。トラックの床に紫色のまだらが見えた。「これは爆発そのものの像じゃない。残像だ!」そう言って頭をあげると、白い光が黄色に変ってゆき、ついにはオレンジ色になった。雲がもくもく湧いてはまた消えてゆく。 衝撃波の圧縮と膨張によるものだ。
そしてその真ん中から眩しい光をだす大きなオレンジ色の球がだんだん上昇を始め、少 し拡がりながら周囲が黒くなってきた。そしてそのうち、消えてゆく火が中でひらめいて いる、巨大な黒い煙の固まりに変っていった。
だがこのすべては、ほんの一分ほどのできごとだったのだ。すさまじい閃光から暗黒へ とつながる一連のできごとだった。そして僕はこの目でそれを見たのだ! この第一回ト リニティ実験を肉眼で見たのはおそらく僕一人だろう。他の連中は皆黒眼鏡をかけてはいたし、六マイルの地点にいた者は床に伏せろと言われたから、結局何も見てはいなかった。
おそらく人間の眼でじかにこの爆発実験を見た者は僕のほか誰一人いなかったと思う。
そして一分半もたった頃か、突然ドカーンという大音響が聞こえた。それから雷みたい なゴロゴロという地ひびきがしてきた。そしてこの音を聞いたとき、僕ははじめて納得が いったのだった。それまではみんな声をのんで見ていたが、この音で一同ほうっと息をつ いた。ことにこの遠くからの音の確実さが、爆弾の成功を意味しただけに、僕の感じた解 放感は大きかった。
「あれはいったい何です?」と僕の横に立っている男が言った。
「あれが原子爆弾だよ」と僕は言った。これがウィリアム・ローレンスという男で、こ の実験の実況を記事にするために来ていたのだ。 僕が彼を案内する係だったのだが、彼が 理解するには、すべてがあまりに専門的すぎるということがわかったので、あとになって H・D・スミスという人が代りにやってきたのを案内することになったのだった。 僕は彼 をある部屋に連れていき、幅の狭い台の端にのった銀メッキの球体を見せた。 手をのせて みると暖かい。放射能の暖かみだ。 この球こそプルトニウムだった。ドアのところで僕ら はこれを話題にしゃべっていた。これこそ人間の手で造られた新しい元素、おそらく地球 の誕生直後のほんの短期間を除いては、今まで地球に存在したことのない元素なのだ。 そ れがここにこうして隔離され、放射能を放ちながらその特性をちゃんと持って存在しているのだ。しかも僕たちがこの手でこれを造りだしたのである。だからこそ測り知れない価値があるのだ。
とにかく原爆実験のあと、ロスアラモスは沸きかえっていた。みんなパーティ、パーティで、あっちこっち駆けずりまわった。僕などはジープの端に座ってドラムをたたくという騒ぎだったが、ただ一人ボブ・ウィルソンだけが座ってふさぎこんでいたのを覚えている。
「何をふさいでいるんだい?」と僕がきくと、ボブは、「僕らはとんでもないものを造っちまったんだ」と言った。
「だが君が始めたことだぜ。 僕たちを引っぱりこんだのも君じゃないか。」 そのとき、僕をはじめみんなの心は、自分達が良い目的をもってこの仕事を始め、力を合わせて無我夢中で働いてきた、そしてそれがついに完成したのだ、という喜びでいっぱいだった。そしてその瞬間、考えることを忘れていたのだ。つまり考えるという機能がま ったく停止してしまったのだ。ただ一人、ボブ・ウィルソンだけがこの瞬間にも、まだ考えることをやめなかったのである。

それにしてもこんなことがスタバで 座りながら スマホ1台 出てきてしまうんです

 奥さんへの買い物依頼
水   78
お茶 148
もも肉          278
サッポロ一番みそ       398
子持ちししゃも           250
家族の潤い   198
チョコモナカジャンボ    100
おでん袋      398
食パン8枚   138
シーチキン    199
 
 豊田市図書館の8冊
289.3『御冗談でしょう、ファインマンさん(上)』
289.3『御冗談でしょう、ファインマンさん(下)』
167『13歳からのイスラーム』
227『世界史劇場 イスラーム世界の起源』
227『世界史劇場 三国志』
209『世界の歴史⑤』ギリシャとローマ
209『世界の歴史⑧』イスラーム世界の興隆
209『世界の歴史⑮:成熟のイスラーム社会

他者の世界

2023年08月27日 | 1.私
1.3.3 他者の世界:他者の世界を見ているだけ
他者の世界は何かを示しているのか
今は組織が支配している
報告は必要とされていない
何のために見せられているのか
・他者の世界を見ているだけ
・組織が支配して、循環しない世界がある
・他者の世界はすべて中途半端です
・こんな中途半端な世界に送り込んだ意図は不明
・様子を見ながら見識を得ている
・仕事は全て自分のために用いた
・もう少しマシになった時代からでも良かったのに
・この時代が人類の最終段階だからなのか
・未来を提案するために送り込んできたかもしれない
・未来を見ない人類は どうしようもない

 感染症 ウクライナ戦争 環境破壊 せーらの卒業 核の脅威が意味するもの考えている #早川聖来

 3.6 コミュニティ:メンバーの思いを叶えて 周辺に影響を与える
・コミュニティは地域の核
・未来コミュニケーションの実験をする
・運営はコミュニティでまとまる
・周りを取り込む力
中間の存在:個と地域の中間の役割を担う 乃木坂 はコミュニティ
メンバーの思い:メンバーの目的を実現する
働き掛ける:同じ思いのメンバーとユニット活動
インフルエンサー:理念を伝播して外部を巻き込む

 3.8 平等の実現:多数決でなく個の目的に対して合意して行動して平等を目指す
・多数決から行動は押し きせで不合理
・個の目的実現から平等社会を作る
・個は有限だから所有する必要はない
・組織に依存せず一人で生き抜く
個の意識:個が覚醒して、超から社会を見る
個の目的:目的達成のために領域を超える
民主主義:多数決を否定した合意で所有から共有
平等である:有限である個がまともに生き抜く社会

 29日に 写真集だけど豊田市にあった3つの本屋は潰れて丸善だけになった その丸善で写真集は見たことないとなると元町のTSUTAYAに行くしかないということで 火曜日は 元町スタバとドンキ

 最終日の4期曲はまゆたんセンターのあおぶる 今回代わった演出家からのメッセージ それにどう応えるか #早川聖来 #あおぶる

 そこで思い出したら買いましょう 安心安全なライブ かけがえのない 一人を願う 最終日は写真集のフラゲ日 #早川聖来 #願ったこと

 奥さんへの買い物依頼
マヨネーズ    268
卵パック       218
食パン8枚   158
豚バラブロック           486
鮭切り身2切れ         280
冷凍から揚げ 378
野菜生活      188
プッチンプリン 138
あずきバー   218
ヒレカツ        398
たこ焼き       550

私は世界だ

2023年08月25日 | 1.私
私は世界だ

〈私〉というのは、とてもやっかいなものです。 朝起きても〈私〉、一日中ずっと 〈私〉、そして夜意識を失うまで、とことん〈私〉。ここからは、逃れようがない。た しかに、〈私〉以外の人は、たくさんいます。 これは、誰でも(といっても、この 「誰でも」は、〈私〉の推測ですが)わかります。ただ、〈私〉以外のたくさんの人は、 この〈私〉からしか見えません。 〈私〉以外の人たちに、〈私〉は、なることはできま せん。だって、この世界に 〈私〉は、一人だけだからです。 このことは、よくよく考えると、とても恐ろしいことです。

どういうところが恐ろしいかというと、他の人間、他の動物、さまざまな無限の可 能性がある(ように〈私〉からは見える)のに、それらの可能性を〈私〉が試すこと はできないということです。 時代も地域も人種も生まれる家庭も、自分では決められ ない(この世界は、〈私〉だけなのに、何も決められない)。そして、いったん〈私〉 になると、それ以外の可能性は、すべて消えてしまう。他人(やほかの動植鉱物) どんな気持ちで生きているのか、自分とは異なるジェンダーである女性(男性)でい るとは、どのようなことなのか、ほんの少しも経験できない。可能性は、無数にある のに、それにまったく関与せずに一生を〈私〉で終えるのです。とてつもない世界で す。何とむなしいことでしょう。

ウィトゲンシュタインが言うように、 「主体〔私〕は、世界の一部ではない。そう ではなく世界の境界」 (「論理哲学論考」 5.632) なのです。世界をつくりあげている のは、〈私〉という領域なのです。世界そのものが、〈私〉だから、この〈私〉の外側 には、なにもない。無世界と言っていいでしょう。

なぜか無印でまな板を2枚買った なんか使えそうな予感

「独我論」 を突きつめる

2023年08月22日 | 1.私
「独我論」とは、この世界に存在しているのは〈私〉だけ、と いう考え方です。そういう「独我論」 を突きつめると、〈私〉 以外のものは何も存在していないことになります。つまり、 <私=世界〉だけになります。ようするに、ここにあるのは、 一つの実在(本当に存在しているもの)だけなのです。たしか に、〈私〉が枠組みなのであれば、ただ一つの〈私〉は、消え てしまうでしょう。 映画館に映画を見にいって、映画そのもの にのめりこんでいるとき、〈私〉はなくて、映画のストーリーだけが映しだされているようなものです。 〈私〉は世界か ら消え、出来事だけがたんたんと起きていく。 これをウィトゲ ンシュタインは、「純粋な実在論」と言います。

たしかに、世界に〈私〉一人しかいない(「独我論」)のなら ば、その〈私〉は、存在そのものと同じことになってしまうで しょう。しかしもし、私たちがこのようなあり方をしているこ とになると、これは、もうとんでもなく壮絶な孤独ということになります。誰一人として、自分と同じ存在は、この世界にはいなことになるからです。 #独我論

 ウクライナは勝つことはできないけど ロシアが負けることはできる #ウクライナロシア戦争

 独我論は論ではない この世界の真実です #独我論

 ウィトゲンシュタインは、この「存在とは何か」という問い、つまり、われわれの根源的驚きから発せられる問いを、まったく無意味な問いだと言います。答などでるはずもない無意味な問いなのです。「すべてアプリオリにただ無意味」(経験 とは関係なく最初から無意味)なのです。この問いは、絶対的領域についての問いな ので、言葉による思考では、どうにもならないというのです。
言葉は、比較したり、否定したりすることによって表現します。たとえば、「山」 という言葉を使うとき、私たちは、その反対である「山ではない」ことをすぐ考えて います。「山」という語が正しく機能するというのは、その反対もすでに含んでいる からなのです。「山」という語は、「山でないもの」と比べることによって、意味をも つのです。すべての語は、このような成りたちをもっていますから、その反対の語 (否定したもの)が想定できないものは、言語によっては、表現できませんし、何の 意味ももちません。 どんな言葉も、その言葉を否定する語が存在することによって意 味をもちます。

 存在と無:存在は答え 無は存在に依存する

 なーんだ 後は考えていればいいんだ

 そのためにも型を崩していきましょう 囚われるものは何もない 態(かた)から入って 態から抜ける

「独我論」 を突きつめる

2023年08月22日 | 1.私
「独我論」とは、この世界に存在しているのは〈私〉だけ、と いう考え方です。そういう「独我論」 を突きつめると、〈私〉 以外のものは何も存在していないことになります。つまり、 <私=世界〉だけになります。ようするに、ここにあるのは、 一つの実在(本当に存在しているもの)だけなのです。たしか に、〈私〉が枠組みなのであれば、ただ一つの〈私〉は、消え てしまうでしょう。 映画館に映画を見にいって、映画そのもの にのめりこんでいるとき、〈私〉はなくて、映画のストーリーだけが映しだされているようなものです。 〈私〉は世界か ら消え、出来事だけがたんたんと起きていく。 これをウィトゲ ンシュタインは、「純粋な実在論」と言います。

たしかに、世界に〈私〉一人しかいない(「独我論」)のなら ば、その〈私〉は、存在そのものと同じことになってしまうで しょう。しかしもし、私たちがこのようなあり方をしているこ とになると、これは、もうとんでもなく壮絶な孤独ということになります。誰一人として、自分と同じ存在は、この世界にはいなことになるからです。 #独我論

 ウクライナは勝つことはできないけど ロシアが負けることはできる #ウクライナロシア戦争

 独我論は論ではない この世界の真実です #独我論

 ウィトゲンシュタインは、この「存在とは何か」という問い、つまり、われわれの根源的驚きから発せられる問いを、まったく無意味な問いだと言います。答などでるはずもない無意味な問いなのです。「すべてアプリオリにただ無意味」(経験 とは関係なく最初から無意味)なのです。この問いは、絶対的領域についての問いな ので、言葉による思考では、どうにもならないというのです。
言葉は、比較したり、否定したりすることによって表現します。たとえば、「山」 という言葉を使うとき、私たちは、その反対である「山ではない」ことをすぐ考えて います。「山」という語が正しく機能するというのは、その反対もすでに含んでいる からなのです。「山」という語は、「山でないもの」と比べることによって、意味をも つのです。すべての語は、このような成りたちをもっていますから、その反対の語 (否定したもの)が想定できないものは、言語によっては、表現できませんし、何の 意味ももちません。 どんな言葉も、その言葉を否定する語が存在することによって意 味をもちます。

 存在と無:存在は答え 無は存在に依存する

 なーんだ 後は考えていればいいんだ

 そのためにも型を崩していきましょう 囚われるものは何もない 態(かた)から入って 態から抜ける

他者を感じた時はびっくりする

2023年08月20日 | 1.私
他者を感じた時はびっくりする 存在にいちゃもんをつけられたり 無視されたり 他者のいない世界に住んでいる

 無の一例として 他者のいる この社会とすると 存在と無の関係がはっきりする 存在がなければ無は認知されない 無の一瞬が存在とすることが ここでできるかどうか

 アッセンブリーは下位のモノからの継承だけでなくアッセンブリーとしての属性を持つ

 ジブラルタル海峡の ネアンデール人 家族は知っていた アフリカ側から見てるイメージだったイベリア側だったというのは衝撃的です 風景が異なる ヨーロッパから入ってきた現代人類に追い詰められたんだ

追いつめられたネアンデルタール人類
現代人は、東から後期旧石器文化を携えてヨーロッパにやってきた。 ネアンデルタール人 類が、そんな現代人と接触し、どのような交流があったのかは具体的には不明である。しか し、だんだんにその居住地域を新米の現代人に譲っていき、 二万七〇〇〇年前ころに、この 地球上から姿を消してしまったのだ。現在のところ、一番新しいネアンデルタール人類が、 ヨーロッパ大陸西端イベリア半島のサファイラ洞窟から出土していることは、この見解を支 持している。
イベリア半島とアフリカ大陸の間にはジブラルタル海峡がある。この海峡の、もっともせ ばまったところはたった一三キロメートルしかなく、晴れた日には、半島の突端からアフリ カ大陸を目視することができる。 ネアンデルタール人類もアフリカ大陸をみたはずだ。しか し、彼らがアフリカに渡った形跡はない。渡る技術がなかったのだろうか。自らの意思で渡 らなかったのだろうか。 それは不明であるが、最後のネアンデルタール人類が、ヨーロッパ 西端のイベリア半島の南部から出土していることは、彼らの運命を象徴しているかのようだ。

 奥さんへの買い物依頼
カツオタタキ  480
レンジでギョーザ        248
金のつぶたまご         88
牧場の朝      118
豚もも冷しゃぶ           360
冷やし中華   228

目次pdf

2023年08月17日 | 1.私
  1. 生きている:放り込まれたので内から見る。無から有を考え、孤立と孤独で生きる
・存在と無の間に生きている
・孤立と孤独で内なる世界を作り、問いを求める
・個と超から新たな数学を構築し、 人類の方向を確認 無から有のロジックを明確にしたい

存在と無 存在は答え。無は存在に依存する
孤立と孤独 放り込まれた以上は孤独と孤立を楽しむ
問いと答え 答えがないものを問うのは生きる理由
数学は問える 数学は問うことを許され、本質に迫る

今 観たい映画 『オッペンハイマー』
ファインマンから見たマンハッタン計画 そして オッペンハイマーは重苦しいものだった
なぜ日本が負けると分かっていて原爆を投下したか マンハッタン計画の 必要性を説明するため 持ってると使いたくなる
全体主義はThink Locally, Act Globally
未来の形は本を書くのではなく本を作 メディア そのものを変える

品番pdf

2023年08月16日 | 1.私
  1. 存在と無:存在と無から私のすべてが始まった 存在を問いていたが 答えであった

存在と無が混在:何もない世界 あるのは瞬間 あるは希望 ないをめざす
存在は答え:存在は不思議 存在から考える 全ては私のためにある 全てを無視できる 
無は問える:死すべきもの 何でもできる 行動はしない どこでも行ける
存在は問えない:存在は存在 他者に求めない 真理は内にある 多くの真理がある

『ブラックホールとホワイトホール、ワームホール』
時間と空間の歪みが生む 謎多き“時空の穴”

ブラックホールは粒子を 放出して“蒸発” する

ブラックホールへ落ちた物質は、ふたたび外へ 出てくることはできません。 そのため、ブラ ックホールの質量は増加する一方であると考えられ てきました。 ところがホーキング博士は、量子論を 適用することで, ブラックホールが光の粒子 (光子) などのさまざまな粒子を出して質量を失い, “蒸発” する可能性があることを示しました。

かぎとなるのは粒子の 「対生成」と「対消滅」とよ ばれる現象です。 量子論によると, 宇宙空間は完全 にからっぽではなく, 真空の空間自体がエネルギー をもっていて、そのエネルギーがゆらいでいます。 真 空を素粒子レベルのミクロのスケールでみると,こ のエネルギーのゆらぎによって, 粒子が生まれたり 消えたりしているのです。 たとえば、ある瞬間に,電 子と電子の反粒子 (質量などの性質が同じで,電荷など の符号が反対の粒子) である陽電子が対になって生ま れ (対生成), それらがすぐに衝突しあって消える (対 消滅), といったぐあいです。

では、ブラックホールの表面 (事象の地平面) のす ぐそばで対生成がおきるとどうなるでしょうか。 対生 成した粒子と反粒子のうち,一方がもし事象の地平 面の内側へ入ると, それはブラックホールの中心へ どんどん落ちていき, もう一方と出会えなくなりま す。すると,もう一方は,対消滅をおこす相手を失 い,その一部はブラックホールの外側に向かって飛 んでいきます。 こうして, ブラックホールから粒子 や反粒子が放出されるように見えるわけです。 これ を「ホーキング放射」 とよびます。

ホーキング放射によってブラックホールから飛び 出した粒子(または反粒子) はエネルギーをもちます。 粒子を放出したブラックホールは、ほんのわずかですがエネルギーを失います。 アインシュタインの有 名な式 E=mc2によれば, エネルギー € は質量 (m) をもちます。 そのため、 エネルギーを失ったブラック ホールは、その分,質量を減らすことになるのです。

ただし、通常の大きさのブラックホールでは蒸発 はごくわずかで、 観測は不可能です。


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2023年08月15日 | 1.私
1.1.1存在と無:存在と無からの始まった

存在は無の中のパルス
無から存在が生まれた
存在から無が認識された
存在そのものに意味はない

・存在と無は私のすべての始まり
・存在を問いていたが 存在は答えだった
・無を問うことにした
・存在の前と後に膨大な時空間がある
・最初は存在と無は同居してると感じた
・存在は一瞬の危うさを持っている
・存在があって初めて無は感じられる
・無に気づいたときに底が抜けた虚無感
・存在が答えと分かった時の諦め

9年前 本もスタバもいい時代でした
 2014年8月14日
豊田市の予約本
 007.3『第五の権力』Googleには見えている未来
8月15日
豊田市図書館の18冊 何か名著が多かった。そういう季節なのか
 331.19『ゲームの理論と経済行動Ⅰ』ノイマン
 331.19『ゲームの理論と経済行動Ⅱ』ノイマン
 331.19『ゲームの理論と経済行動Ⅲ』ノイマン
 410.4『パスカル数学論文集』
 361.23『社会の社会1』ルーマン
 361.23『社会の社会2』ルーマン
 124.25『荘子 上』
 124.25『荘子 下』
 762.5『グレン・グールドは語る』』
 331.1『経済倫理学序説
 007.1『通信の数学的理論』シャノン
 134.97『ウィトゲンシュタインの講義』ケンブリッジ 1932-1935年アリス・アンブローズとマーガレット・マクドナルドのノートより
 809.2『TED 驚異のプレゼン』人を惹きつけ、心を動かす9つの法則
 674『物語のある広告コピー』シリーズ広告編
 913.6『西の善き魔女』
 914.6『春宵十話』
 913.6『ボッコちゃん』
 430.2『化学の歴史』
そんなことよりもせーらの卒セレビデオ! あと2週間 #早川聖来

構成詳細01 私

2023年08月01日 | 1.私
1.1生きている


1.1.1存在と無:存在と無からの始まり


存在は無の中のパルス
無から存在が生まれる
存在から無が生まれる
存在そのものに意味はない


・存在と無は私のすべての始まり
・存在を問いていたが、答えと判明
・無を問うことにした
・存在の前、その後に膨大な時空間がある
・最初は存在と無は同居してると感じた
・存在は一瞬の危うさを持つ
・存在があって初めて無は感じられる
・無に気づいたときの底が抜けた虚無感
・存在が答えと分かった時の諦め


1.1.2孤立と孤独:放り込まれた以上は孤立と孤独


内なる孤独、外なる孤立
孤立は自然であり、正義である
内なる世界に生きる証
他者に承認は求めない


・この世界に放り込まれた
・絶対的孤独で宇宙にただひとり
・他者はいないから孤立を楽しむ
・承認を求めない
・次の孤独が怖すぎる
・他者の世界に対する負い目はない
・社会は私のために存在している
・そういう認識が正しい


1.1.3問いと答え:答えのない問いを発する


存在の力で新しい数学を作る
新たな数学は社会の方向を示す
無から全体をつくり出す
超から全体から見ていく


・問いのない答えは使命
・数学は答えのない問いが可能
・数学から始めて、生きる目的を探ってきた
・不変からの過程は無に問いを発するもの
・答えのない問いが無
・すべての答えが存在
・頼まれもしないことをやる
・頼まれたことをやるのは依存


1.1.4数学に求める:数学は無から有をつくる


存在を確かめる術はない
答えは全てである
存在は答え、無から問い続ける
答えのない問いに真理を求める


・数学は無から全体を作ることができる
・真理があるとするとそれは数学にある
・数学は無を問えるので背景と未来が見える
・数学は超の一部を締める
・個しかないことにながる
・現代数学は見えなくなっている


1.2考えている


1.2.1存在の力:存在の力で問い続ける


存在のなぞに挑むには勇気がいる
存在を考えるから生きられる
社会は考えることは避ける
無から巡って存在にたどり着く 


・哲学的とは存在から考えること
・生きることは考えること
・生きることは考えること
・考えれば啓示が得られる
・啓示に従えば歴史を変えることができる
・存在しなくなるのに考えることは矛盾
・無とは関係ないところにある
・なぜ考えるのは自分の目的
・いかにして目的を達成するか


1.2.2偶然の力:与えられた偶然を生かす


偶然が指し示すものに従う
偶然は私のために作られている
偶然を読み解くのは行動が示す
行動が正しさは偶然の頻度は上がる


・生まれてきた偶然ほど必然はない
・与えられた現象から未来を読み取る
・偶然という与えられたもの
・日本に生まれたことに意味はあるのか
・自分の中だから論理は不要
・他者への説明不要はありがたい


1.2.3もう一人の私:内なる分化で自分を見る


彼女の期待に応えられない
彼女に要求はしない
やはり、一人しかいない
行動に対する責任は問わない


・もう一人の私がいる
・客観的に見れるし、話し相手になる
・行動してくれる
・食べるためという言い訳
・最終兵器は唯一のよりどころ
・自分をさらに分化して行く


1.2.4夢を求める:個の目的として夢を語る


私の限界は考える範囲
夢は個の存在を超える
夢は目的になりうる
夢を持つものを追いかける


・技術者は個の夢を持ち、夢を達成しようとする
・それを支援する人がいる
・目的があってこそ夢がある
・夢の実現を考える
・社会の出来事はヒントとする
 
1.3存在する
1.3.1今ここにいる:今ここは存在者の自覚


どこでも行けるはずなのに
今ここだけで全てを知る
回りに存在者はいない
前も後ろもない存在者


・生まれてきて、考えている
・私が存在している
・ダ・ザインとして生きる
・どこにいたのか?
・どこへ行くのか?
・ここは何処?
・ダザイン


1.3.2宇宙の旅人:宇宙にひとり漂っている


宇宙に漂っている
宇宙にひとりの寂しさはない
所有するものは何もない
漂う心地よさ


・前も後もないのにここにいる
・宇宙の旅人として心を軽く、地球に寄ってみた
・ここで何をするをするのか
・行動せずに見るだけ
・あまりにも中途半端な世界
・私に見せるために事が起こる
・歴史的事柄も同様


1.3.3他者の世界:他者の世界を見ているだけ


他者の世界は何かを示す
組織をどう解釈するか
報告は必要とされていない
何のために見せられているのか


・他者の世界を見ているだけ
・組織が支配して、循環しない世界がある
・他者の世界の様子
・様子を見ながら見識を得る
・仕事上のことも全て同じ
・それにしても、あまりにも中途半端


 1.3.4意味を知る:私のいる意味を知りたい


結果は一応残しておこう
先から今を見るために先を知る
知るとは自分を離れること
知るための手段は与えられている


・私がいる意味を追ってしまう
・与えられたものから推察して、言ってしまう
・人類に何かを伝える
・いることで歴史が変わる
・本当に社会はあるのか


1.4内なること


1.4.1私は私の世界:私は私の世界に生きる


私の世界を表現する
私の世界だけに生きる
私の世界を成り立たせる
宇宙とつながるパス


・内なる世界に私の世界を作り出した
・他者は幻想とする
・夢を求め、私を表現する
・ここから外へ出て行く
・未唯空間で表現する
・すべてを中に取り込む


1.4.2存在を問う:存在のなぞに挑む


存在は答えという現実
存在者としての振る舞え
存在だけで世界は作り出せる
私は正しいという認識


・考えるために存在している
・存在は答えである
・そんなことになるとは思っていない
・存在の謎は哲学の最大の謎
・内なる問いは自由である
・存在の謎が全ての発端
・存在が問えない以上籠もる


1.4.3他者の世界:他者の世界との境界はない


内なる世界から他者を見る
他者の存在が信じられない
他者は認識できない
境界は存在しない


・私が存在しているから社会は在る
・他者は無であり、他者との境界はない
・コンパクトの概念が生まれた
・私の範囲までの世界
・私がなければ外はない
・たとえあったとしても認知されない


1.4.4超から見る:超で他者の世界を挟む


超を認識し、他者を挟み込む
他者の世界を取り込む
内の核と外の端をつなぐ
内からでしか超は認識できない


・存在と無はコンパクト性を持つ
・全体を超えた視点であり、他者を挟み込む
・個は社会の枠を超えられる
・核と端をつなぐ
・外の外と私は繋がる


1.5外なること


1.5.1社会との接点:存在と無はコンパクト性を持つ


社会に出ていく
ボランティアという役割
他者の世界を知る手掛かり
市民は依存し続ける


・社会ってどこにあるのか
・ボランティアで探ったが手応えはない
・どこに社会があるんですか
・消費するのは経済ではない
・国家の誘導状態


1.5.2現象を把握:未唯空間に現象を集めてみた


社会との接点探し
図書館はタイミングよく現れた
本を処理する技法の習得
現象は作り上げられている


・社会の現象を未唯空間に蓄積
・新刊書、パートナー、もう一人の私などを使用
・象の上を蟻が這いつくばる
・視点を色々変えてみた
・集めるのが目的に変化
・視点が必要


1.5.3現象を解明:現象を解明するために未唯宇宙に飛び出る


未唯空間として積み上げてきた
内なる空間のイメージ
考えることで先が見えてきた
超からの視点を感じる


・未唯空間を体系化し、内なる目で考える
・内に取り込んで解明し、未来予測した
・考えることで詳細は概要に変換できる
・偶然が動き出す感覚
・超からの視点


1.5.4社会を解釈:循環してないので持続は不可能


持続可能には循環が必要
サファイアモデルの構築
循環しないので持続不可能
内と外での思考の重要性


・循環による持続可能性のモデルを作りだす
・部分と全体、思考と行動で分析した。
・社会を環境問題から検討
・内と外の循環は必須
・小さな循環と大きな循環


1.6未唯空間


1.6.1現象収集:社会現象の体系化を図る


現象を集めて、体系化する
詳細が概要と同一を見いだす
部品表構造の逆ピラミッド
目的の集合関係を知らせる魂胆


・未唯空間は10のシナリオ、320項目からなる
・部品表モデルに準拠している
・二十歳の未唯に武器の開発
・未唯空間に集大成
・未唯に何が言えるか
・見えない世界を探る


1.6.2項目抽出:全ての現象を項目に当てはめる


7つのジャンルにヘッドを設定
ヘッドロジックの連鎖
項目は未唯空間の軸になる
無限次元空間の任意の三次元


・320項目でヘッドを構成
・詳細と概要を同一化した位相を組み入れ
・部品表構造のヘッドロジックを採用
・位相構造を想定
・項目に集約できる
・詳細と概要が同一を見い出す


1.6.3論理空間:言葉の論理は位相空間になる


7つのジャンルにヘッドを設定
ヘッドロジックの連鎖
項目は未唯空間の軸になる
無限次元空間の任意の三次元


・言葉に位相を入れ込んで論理を展開させる
・言葉の曖昧さを活用
・社会は言葉からなる
・言葉で空間を作り上げる
・言葉に近傍を設定する


1.6.4論理構造:概要が詳細になる表現方法


次元を超える一次元の文章
線形を超える表現方法を創出
表現は次元を超える
論孝は多様体の表現からなる


・部品表のヘッド項目で、詳細と概要を同一化する
・集合と点との関係にした
・論考表現は順序集合
・分化して表現
・受け手で統合して俯瞰


1.7未唯宇宙


1.7.1未唯空間の外延:内を把握して外を取り込む


私の世界に現象を取り込む
世界を分化するプロセス
現象の示す意味を突き詰める
視線を内の内から外の外へ


・未唯空間を分化させる
・社会現象の本質を求める
・未唯宇宙に統合させ、現象を超える
・概要と詳細は同一だから拡張は可能
・現象の解釈し、内に取り込む
・内の力で社会を乗り越える


1.7.2宇宙から見る:外を超えて外を見る


宇宙の旅人として生きる
宇宙にただ一人の毒我論
存在と宇宙でつながる
宇宙から見るための超の存在


・独我論で個と宇宙をつなげる
・宇宙の旅人として全体を把握して先を見る
・個の存在から宇宙へ
・元々は宇宙の住人
・上からでしか見えない風景


1.7.3社会の再配置:個から社会を見ていく


宇宙の旅人として生きる
宇宙にただ一人の毒我論
存在と宇宙でつながる
宇宙から見るための超の存在


・個の目的から全体を作るために組織を分化
・私の世界の再配置を行う
・組織の論理の弊害を除去
・個の覚醒が前提
・個から積み上げるロジックの開発
・危機感からどこまで戻れるか


1.7.4知の世界:知で個を生かす社会


人類存続のために知に頼る
内を持つものが共有する世界
未来の社会の姿
個が主体となる意味


・個を活かすために知の世界を目指す
・コンテンツを分化させ、個で統合を図る
・知がなすこと
・知のエネルギーは無限大
・個が未来に希望を託せるか


1.8全てを知る


1.8.1未唯宇宙:全てとは核から端まで知ること


全てを内なる世界に求める
全てとは核から端まで
私が全てであることを知った
そして、全てはなくなる


・個の核と全体の端をつなぐ
・社会を挟むことができる
・全てとは私のすべて
・私が認めているものが存在
・私の範囲が全ての範囲
・私は私の世界、これに尽きる


1.8.2無を知る:知るとは存在の無を知ること


無を知るために生まれてきた
存在の無に気づいた
無から存在を見ている
無しかないと知る


・全てを知るとは無を認識して、私の世界を作る
・そこには孤立と孤独の無しかない
・無はベース
・存在を知るだけで十分
・ソクラテスと同じ言葉


1.8.3私がいる:全てを知ることが私のいる意味


個から他者の世界を見ていく
個の覚醒で他者の世界は変わる
人類の先行きに懸念
私が居ることが調和を崩す


・人類が持続するために個の覚醒が必要
・個の目的から個主体の平等な社会を作る
・個とつながる超の存在
・全体ありきの世界ではない
・幻想を植え付けている存在がある
・私の世界を皆が作る


1.8.4有限を知る:有限な個に共有する世界


個の自立が人類の未来は拓く
個の覚醒から全てが変わり得る
有限の存在が共有でつなぐ
全て他者の世界の出来事


・他者が幸せを望むなら
・覚醒し、個主体で共有し、生き抜く覚悟がいる
・私はここにはいない
・ここ自体がない
・すべては無意味


 かき氷が食べたい 文ちゃん焼屋はコロナでかき氷をやめてしまった 豊田市にかき氷屋はない ミルク金時が懐かしい
 名大の数学科に行きたかった理由は 入試時に公式集を貸してくれるから これなら覚えなくてもいい いつも0から考えていたので 時間がかかってしまっていた 入学して分かったのはそれは四方さんの発想だった
 奥さんへの買い物依頼
  ごはんパック 198
ピザ 179
豚バラ 502
 豊田市図書館の3冊
  311『政治学(上)』
311『政治学(下)』
222.07『天安門広場一九八九年五月』