孤立と孤独
孤立(loneliness)について語られるとき、孤独(solitude)は二重の否定のかたちで示される。人と一緒にいない状態で、ひとりきりだと感じていない状態である。たいていの調査で大多数の回答がこの状態に相当するにもかかわらず、これに名前がつけられることはあまりない。キース・スネルはこれを「孤立ではない望ましい状況、ブライバシーが満たされた結果に似たもの」と呼んでいる。サラ・メイトランドが論じるように、孤立について世間で激しく論じられることで、孤独の肯定的な効用が目に見えにくくなっている。
しかし、後期近代が人間関係に与えた影響は、孤独と孤立の境界線に見出される。すでに見たように、一八世紀末にヨハン・ツィンマーマンがこの問題を考えたとき、彼はひとりでいる状態と人といる状態を行き来することが大切だと強調していた。安全で生産的な孤独は選択の結果である。個人は孤独に自由に出入りすることを許されるべきである。同時代のほとんどの者と同じように、ツィンマーマンも「孤立(loneliness)」という言葉は使わなかった。しかし彼が多くの紙幅を割いて論じる破壊的な孤独は、いま使われている意味での「孤立」とほぼ対応する。害が生じるのは、自らの意思に反して無理やり人との交際を断たれたときや、修道誓願や深刻なメランコリーなどによって逃れられない孤独に陥ったときである。この問題について当時支配的だった考えと同じく、ツィンマーマンも創造的な孤独と有害な孤独を安全に行き来できるのは教養ある男性という特定のカテゴリーの人間だけだと考えていた。いまはカテゴリーが広がり、あらゆる年齢と階級の男女が含まれるようになったが、ふたつの状態をうまく行き来するのが重要であることはまったく変わらない。心理学者のクリストファー・ロングとジェイムズ・アヴェリルが結論するように、「ある状況のもとで人がもつ自発性あるいは主導権の程度が、肯定的な孤独と孤立の経験のバランスを傾ける最も重要な要因なのかもしれない」。
第二次世界大戦後に単身世帯が急増したことで、現在の危機感が煽られてきた。しかし一連の調査によって、物理的にひとりで暮らしている状態と孤立による感情面の苦しみとの結びつきには疑問が呈されてきた。高齢者の生活パターンが社会的孤立をめぐる懸念を生むきっかけになったが、一九五〇年代と六〇年代のビーター・タウンセンドによる研究からより最近のクリスティーナ・ヴィクターらによる研究までで明らかになったのは、高齢者はひとりでいることをあまり苦にしておらず、たいていその機会をうまく活用していることである。一九八〇年代にアメリカでこのテーマの研究を牽引したレシシア・ペプローは、ひとりで過ごす高齢者が「貧しい社会生活」を送っているという広く行きわたった考えは「神話」であると論じている一九四五年以降になって、高齢者が子どもやほかの親類から可能な限りずっと離れて暮らしたいと新たに望むようになったわけではない。そうではなく、これと関係するプライバシーの場合と同じように、一連の物質的条件のおかげで長年の望みがようやく実現可能になってきたのである。一九四八年に妥当な額の年金が導入され、それと関連して生涯年収、住宅事情、医療・社会支援が向上したことで、自立して暮らしたいという望みを叶えやすくなったのだ。夫婦は子どもの家に移るのを先延ばしにし、配偶者を失った者も身体的に可能な間は引き続き自分で家を切り盛りした。
高齢者の間では、孤立よりも独立を失うことのほうが恐れられるようになっていく。比較的若い集団では、独立した社会の構成単位のままでいようとする傾向と、それを可能にする力が高まったのはより最近のことである。ニーズや状況はさまざまだが、共通するのは暮らしかたを自分で決めたいという気持ちである。実家に戻るのは嫌で、よく知らない人と住まいをシェアするのも望まない二〇代の若者から、パートナーがいないときに人に拘束されない自由を求めたり、パートナーと暮らすよりひとりでいることを性分として好んだりする中年の者まで、あらゆる年齢層でそれに価値が見出されている。
社会的ネットワークの柔軟性が高まったことで、ひとり暮らしをしやすくなった。戦後間もなくは、ほとんどのコミュニティで物理的な場所と感情面・物質面の支援が密接に結びついていた。独居老人についてのシェルドンの先駆的研究によると、「完全にほかから切り離されて暮らす高齢者は比較的少なく、大多数は子どもと接触して暮らしていて、独立した個人というよりは家族の一員と考えられるべきである」。実のところサンブルの四パーセントは、子どもの隣の家に住んでいた。その後、都心部のスラムから郊外の団地に移動したとはいえ、一九八〇年代になっても高齢者と最も近くに暮らす子どもとの距離は、平均すると一九世紀初めのコミュニティでの距離と変わらなかった。やがて距離は遠くなっいくが、ほかから切り離される可能性のある人への義務を意識してそれを果たす家族の力はおおむね損なわれることがなかった。祖父母は子どもや孫の暮らしに引き続き参加し、他方で困難な状況に陥ったら物質面や精神面で支援を受けることができたのである。地元でも職場でもさらに遠い場所でも、家族以外の友人とのつき合いが増えることで家族の役割はむしろ強化され、家族が友人に取って代わられることはなかった。一九五〇年代から七〇年代半ばにかけて労働者階級の間で自動車の所有が広がると、歩ける距離や公共交通機関の有無に制約を受けることなく顔を合わせることができるようにもなる。デジタル革命のはるか前から、ネットワーク化された孤独、すなわち物理的にひとりでいながら遠くの親類や友人とつながって支え合う手段が重要性を増しつつあった。一九七〇年代半ばには、ついに電話が手紙を追い越し、いまからわずか一〇年前まで連絡手段として最も広く用いられていた。二〇〇七年の英国社会態度調査(BritishSocialAttitudesSurvey)では、「親しい友人、親類、その他の身近な人(配偶者やパートナーは除く)と、そのときの気分や近況について連絡を」取り続けるのにどのような手段を使っているかを尋ねている。女性の場合、対面での会話がまだ最も広く用いられており、五一バーセントが親しい人たちと「毎日あるいはほぼ毎日」話していた。二番目に使われていた手段が電話で、四七バーセントである。テキストメッセージとEメールはまだ後れをとっていて、それぞれ三五パーセントと二九バーセントだった。すべての手段において、男性は女性よりもコミュニケーションをとっていなかったが、デジタル機器ではその差は小さかった。
友人や家族と話していてもいなくても、ひとりで暮らしている者には家のなかで取り組むさまざまな気晴らしがあった、第4章で論じたように、家のなかの空間、世帯の豊かさ、通信システムによって、人がいないところで心を集中させる娯楽が拡大した。家庭のなかで空間を求めるにせよ、ひとりでいる時間を潰すにせよ、気晴らしの種類は以前より豊富になったのである。二一世紀初め、クリス・フィリップソンらが典型的な戦後の調査の対象になっていたコミュニティを再訪した。フィリップソンらは、高齢者が行う活動を合計一三九も見つけている。ずっと昔からあり、いまでは取り組みやすくなったさまざまな活動もあれば、テレビ鑑賞や休暇の旅行など比較的新しい活動もあった。大昔からの娯楽である読書は、いまでも最も広く行われている気晴らしである。散歩は何世紀も前から豊かな者にとっても貧しい者にとっても同じく基本的な娯楽だったが、いまも四番目に広く行われている。単身世帯が社会の周縁の存在ではなくなり、多様性を増す暮らしのひとつのかたちとして認められるようになるにつれ、市場も消費者需要の新カテゴリーに徐々に適応してきた。スーパーマーケットでは、ひとり用にパッケージ化された食品が売られている。カフェでは客のプライバシーが侵されないかたちで飲食物が提供される。家庭への宅配サービスによって、公の場でひとりで食事や買い物をするのを嫌がる人たちのニーズが満たされている。ひとり旅のために、低価格のパケージ・ツアーも企画されている。
ひとりで暮らしたいという欲求は、アンソニー・ギデンズが後期近代の再帰的プロジェクトと呼ぶものによってさらに強まった。親密性のあり方の選択肢が増えることで、自己アイデンティティをよりよく考えることが可能となり、それが求められるようにもなったのだ。自分自身の価値観と望みを絶えず再考することが、開かれた信頼できる親密性の条件である。この内省を物理的にひとりきりの状態で行う必要はないが、前章で触れたように、自己の感覚を検討し発達させるためになんらかの空間を見つけることが、次第に魅力的な選択肢になっていく。この引きこもりは一時的なものかもしれないし、長期的な計画として行われるものかもしれない。第二次世界大戦中にマス・オブザヴェーションが収集した証言には、きわめて不自由な状況のなか、独立した暮らしができる見通しが大きくいくことへのよろこびが垣間見られる。「わたしにとって家とは、完全な個人になれる場所です」とある証言者はいう。「現時点では、わたしが自分で管理して、わたし自身の個性に合わせて手を入れた完璧なフラットがそれです―友人を迎えたり、ひとり引きこもって好きなことをしたり、好きなときにものを食べたりできる場所――つまり、うまくひとりでいる技術を完成させた場所です」
アンソニー・ストーによる孤独研究の核にあったのが、アイデンティティを育むにはひとりでいる状態が必要であるという主張だった。これは、彼と同じ心理学分野の専門家たちにはずっと看過されていた。「人間が独りでいるときにその人の内面で進行することは、他の人との相互関係で起こることと同じぐらい重要である」とストーは書いている。とりわけ女性にとっては、かつては圧倒的な仕事量だった子育てと家事から逃れ、自分が誰で何になりたいのかを集中して考えるのは魅力的だった。論文集『網の目の中心――女性と孤独(TheCenteroftheWeb:WomenandSolitude)』の「はじめに」で、編者のデレス・ウェアはいう。「多くの著者が、孤独はアイデンティティを省みる休息期間だと考えている。これらの論考のなかでは、孤独はしばしば心を一新し、思考を純化し、生き方と多くの場合働き方――わたしたちがつくったさまざまな家族のなかでの生き方とは別の生き方に向き合う状態あるいは場である」。大人への移行における孤独の価値にも注意が向けられてきた。リード・ラーソンらによる若者の研究では、自己アイデンティティを発達させるにあたって、大人や仲間たちから身を退く力が重要であると強調されている。実家でドアに鍵をかけて自分の部屋に閉じこもるにせよ、大学の寮やアパートメントで別の部屋を新たに確保するにせよ、ひとりになることを強く主張するのは、社会を拒んでいるのではなく、社会に参加する方法を学ぶのに必要な手段なのである。
したがって独居は、後期近代の病というよりも、後期近代を特徴づける長所から直接導き出され、多くの場合重んじられているものだといっていい。鍵になるのは、いかなる状況のもとで孤独が孤立へと傾くのかという問いである。この話題について論じられたものの多くには、暗黙の決めつけが見られる。一九四五年以降の数量化可能な人口構造の変化、とりわけ社会の高齢化と単身世帯の急増が、ひとりでいることと連想される心身の苦しみに直接つながると考えられているのである。そう決めつけるのではなく、自由意志の問題に焦点を合わせるほうが有益だ。ジョン・ローレンスが最近論じたように、「重要なのは、ひとり暮らしがこれだけ大幅に増えたのは、主に豊かさが増したことで可能になった個人の選択の結果だと認識しておくことである」。人間関係のなかで自分だけの空間を確保したり、人間関係から完全に身を退いたりしようとするのは、いつでも生きるための戦略だった。それは計算されたリスクであり、ときに意図せぬ結果につながる。家で個人の趣味を追求して満足していたら、パートナーとの間に思わぬ障壁ができてしまうかもしれない。サイモン・ガーフィールドは切手収集への情熱を語る本を、ユーモラスながらも悲しい前置きから始めている。「ある日の午後、ケントの海岸沿いを歩きながら、わたしは妻に〔切手との〕情事のことを率直に打ち明けた」とガーフィールドは書く。「そこから事態は急展開を見せた。一週間のうちにわたしはオフィスで寝泊まりすることになり、一ヵ月のうちにフラットを借りて寝起きするはめに陥ったのだ」。よりよい関係を見出すために満足のいかない関係を終わらせる決断をしたあとは、思っていたよりもはるかに長い間ひとりで過ごすことになる可能性もあった。ほかの状況では、期待される利益とすでにわかっている代償が枠にかけられた。友情の役割の拡大について論じた研究書でレイ・パールは、他者とつながるあらゆる行動の中心にあるリスク評価についてまとめている。「ひとりでいるのを好み、自分のやりたいように自分の人生を生きる空間をもつことを好む」女性を例に、パールは次のように論じる。
それは当然、その女性が下さなければならない決断である。そうすることで、ときに孤立感を覚えることがあるかもしれないが、なんらかの孤立感を覚えるのは人間の条件の一部である。小さな子どもとともに一日中家に閉じこめられている者は、あまりにも孤立していると感じて臨床的にうつ状態に陥る。ほかにも、やさしく善良ながらも基本的に凡庸で退屈なパートナーと結婚している者は、ときに強い孤立感を覚えることがある。
時間そのものが決定的に重要な要因である。孤立は、意図していたり望んでいたりするよりも長く続いた孤独だとも定義できる。最近の研究では、この状態はU字型の曲線を描き、若者と高齢者に苦しみのピークがあることが示唆されている。この研究結果は、ほとんどの人が人生でより多くの変化を経験するようになったことと関係している。本書で取り上げた期間の最初には、個人の社会的あるいは経済的状況が大きく変わる可能性はほとんどなかった。子ども時代には生活のための労働と、教育を受けられる場合には学校が挟まれる。一四歳ぐらいで見習いになったり家事労働に従事したりすることもあり、その後、結婚して間もく家族ができて、子どもたちが去ったあとに夫婦ふたりでせいぜい数年過ごす。一つひとつの仕事をしている期間は短くても、職業を大きく変えることはまずなく、生まれた土地を離れるとしても、すでによく知っている近くの町に移り住むぐらいだった。
それとは対照的に、後期近代には例の政府計画で「トリガー・ポイント」と呼ばれるものが増え、それとともに社交性の形態についての選択肢も幅が広がった。たとえば子ども時代に転校したり、実家を出て大学に進学したり、生涯のうちに何度も住む場所や仕事を変えたり、親密な関係を始めたり終えたりしやすくなったり、子育て後の期間が長くなったりして、そうした転機はさらなる場所や活動の変化を伴うことがある。これらのポイントの一つひとつで、新しい人間関係を築くまで一定期間ひとりになる可能性がある。それが何を意味するのかは、変化の根拠になっている費用便益計算、すなわち期待される利益と失われたり不確実になったりする期間との計算による。移行がうまくいけばそれは孤独の経験となり、適応に時間がかかりすぎたりマイナス面を埋め合わせる利益が少なすぎたりすると孤立の経験となる。いまでは変化の機会がきわめてふんだんにあるので、調査では人生で一度も孤立を経験していない人はほとんど見られない。孤立の経験は先の見通しによっても左右される。一〇代の終わりから二〇代初めにかけての若者が孤立を顕著に訴えているのは、ひとりきりの期間がどれだけ続くか予想するのが難しく、その状態に耐える手段もあまりもちあわせていないからだ。若者はいまが永遠に続くと考える。一方で年を重ねた者は、たとえ苦しいときでも、たいていのことはいつか過ぎ去るとわかっている。
こうした転機の多くでは、孤立との遭遇はそれ自体きわめて短く、苦しみはわずかで、アンダーソンが「自発的、一時的、自己誘導的な孤独」と呼ぶものと大きな違いはない。それが問題になりはじめるのは、必然によって選択が阻まれ、近い未来にその状態から脱出できる見こみがないときである。ここで時間が大きな脅威となる。グラディス・ラングフォードはマス・オブザヴェーションの最も多作な日記作家のひとりであり、一九三六年から四〇年にかけて日々の考えと活動を記録している。彼女の結婚生活は、始まってすぐに夫が去って終わりを告げた。再婚しないまま四〇代終わりにさしかかり、教師としての仕事にもよろこびを見出せないラングフォードは、果てることない孤立感を痛切に書き記している。この孤立は、愛人である既婚者のレナードがたまに訪ねてくることで中断されるだけである。「今日はメランコリーの憂鬱がわたしの肩にのっかっている」とラングフォードは書く。
お金はないし、家の外に出かける気はもっとない。ひょっとしたらレナードが来るかもと思ったけれど、当然そんなことはなかったから、椅子に腰をかけて本を読んだりものを書いたりして、時間が過ぎていくのと友だちがいなくなっていくのを嘆いている。新しい友だちはつくらない。つくれるわけがないでしょう?どんな「団体」にも属していないし、訪ねていったらたいていゲストはわたしひとり。それに家を出るのが嫌だという気持ちがどんどん強くなっている。もう半分死んでいるみたいな気分。
先に取り上げた同時代の日記作家ネラ・ラストは、戦時中にバローでボランティア活動に参加して社交を求めた。ラストは結婚していたが、夫とはコミュニケーションをとることができなかった。子どもたちが家を出たあとは、半ば空っぽになった家でひとり残された。ラストは夫の気を惹いて沈黙を破ろうとしたときのことを、印象的な表現で描いている。それは「まるで湿っぽい苔の面でマッチを擦ろうとしたようなもの」だった。グラディス・ラングフォードもネラ・ラストも無力な女性であり、間違った夫を選んだ長期的な影響と、結婚制度に従うという支配的な慣習から逃れることができなかった。ネラ・ラストは近くの湖水地方に日帰りの旅をすることでひとりで楽しむ時間を見出すことができたが、彼女の暮らしの中心には深く果てしない孤立があった。
親密な関係が長期間うまくいっていた場合には、死別の悲しみがきわめて大きなものになる。この時点では、意味ある選択はすべて過去のものになる。再考の可能性はなく、望ましいひとりの状態と望ましくないひとりの状態の間で新たにバランスをとる術もない。残った友人や親類が慰めようとしても、悲しみは癒やされるどころか強まるばかりだ。ほかの人に近づくことは、亡くなったパートナーへの裏切りだと感じてしまう一九世紀半ばにハリエット・マーティノーが論じていたように、誰かの死や終末期に関わった者の苦しみは、静寂のなかでやり過ごすのが一番である。せいぜいできるのは、死別の孤独とでも呼べるものを試みることぐらいだ。亡くなった愛する人と会話を続けることで、あとに残された者が最悪の悲しみをやり過ごそうとする試みである。その結果、徐々に社会に復帰できることもあれば、とりわけ最初の二年のうちには健康が悪化したり死に至ったりすることもある。戦後には、喪に服している者を支えるという従来は教会が果たしていた役割をさまざまな組織が補完するようになった。「クルーズ死別ケア(CruseBereavementCare)」が一九五九年に設立され、「結婚ガイダンス協議会(NationalMarriageGuidanceCouncil)」などその他のボランティア団体が死別や離別のせいでよるべのない身になった者たちに助言を提供した。脅かされていたのは心の平穏だけではない。孤立と身体の健康の結びつきがさまざまに主張されるなか、死別が死亡率に影響を与えることも広く認められている。
孤立と孤独のしばしば曖昧な境界線について考えると、大きくふたつの結論が導き出される。第一に、孤立は近い過去の失敗のみによって生み出されたわけではない。死別とその影響は、二〇世紀の終わりと二世紀の初めに発明されたわけではないのである。この時代はせいぜい、ほとんどの人にとってこの出来事をさらに高齢期まで先送りにしただけだ。それに長年連れ添ったパートナーとの関係のなかでひとりきりになるのも、この時代が最初ではない。むしろ、この概念には多くの留保をつける必要があるとはいえ、友愛結婚の台頭によって、ほとんどの家でおそらく対面での会話が増えた。大きな変化は「トリガー・ポイント」の増加であり、これは教育、職業、土地の移動が増え、親密な関係が多様化して不安定になったことで引き起こされた。したがって、孤立がほぼ遍く広がりつつあるとする悲観的な見方にも一定の根拠はある。しかし問題は、それに伴う苦しみの深さである。孤立はこの意味で人間の条件に織りこまれており、生きるための戦略に組みこまれているのであって、すべての者が処理しなければならず、ほぼすべての者がどこかの時点で処理に失敗するものだといえる。
第二の結論は、孤立と後期近代の失敗が結びつけられるのは、親密性と個人主義の相互作用のためというよりは、二〇〇八年の金融危機以降に顕著になった物質面の格差と公共財政の圧迫のためだということである。第4章で見たように、さまざまなかたちでひとりで取り組む娯楽の幅が広がったのは、家庭が豊かになり、通信システムが利用しやすくなって、福祉国家が導入された結果である。ひとりでの気晴らしに使える資金が増え、技術が進歩して、年金が充実し、地域や国の社会・医療サービスによる支援が強化された。この変化は新しい欲求を生んだというよりは、欲求を満たす力を広げたのだといえる。しかし、娯楽として自分のなかに引きこもるための時間、空間、手段を見つけられるか否かは、やはりさまざまな物理的・社会的な力に左右された。これはとりわけ女性に当てはまる。男性が発展させた娯楽としての引きこもりを女性が楽しめるようになったこと、それが二〇世紀、とりわけ戦後の特徴のひとつである。ヴァージニア・ウルフの「自分ひとりの部屋」の制約が完全に消え去ることはなかった。女性の孤独を祝福した一九九八年の論文でデレス・ウェアは、そこで取り上げた著述家たちはほとんどが「特権的な白人であり、直接の扶養家族が「いない者」であると断っている。
個人と集団の豊かさに陰りが見えると、孤立を抑えながら孤独を楽しむことが次第に困難になっていく。この分野でも定義と測定法の問題はあるが、データによるとイギリスでは人口の五分の一を超える一四〇〇万人が貧困状態にあり、一五〇万人が極貧状態にあると示唆されている。戦後に縮まった格差がまた広がったことで、人間関係にさまざまな影響が出ている。不十分な住宅、個人の娯楽に使える金銭の不足、交通システムやインターネットを利用した現実・仮想の移動からの排除といった点において、貧困は孤独に直接の影響を与えてきた。エリック・クライネンバーグが近年論じたように、社会インフラが乏しくなったことで、高齢者や移動困難者はほかから切り離されやすくなり、その結果として心身の両面で困難な状態に陥りやすくなっている。できることはせいぜい、第4章の結論で論じた比較的シンプルなひとりでの娯楽に立ち戻ることぐらいである。散歩や読書をしたり、ほぼどこの家にもあるテレビを観たりといった具合だ。貧困者は、孤立の経験や恐れを和らげるサービスを利用しにくいことも多い。心と身体の苦しみの相互関係についてのまだ仮説段階にあるさまざまな研究では、深刻な不健康と障害が孤立を引き起こすことがかなり前から知られている。これはとりわけ高齢者に当てはまるが、高齢者だけの問題ではない。前掲のイギリス政府による「つながりのある社会」は、労働年齢の障がい者の四五パーセント、若年成人の障がい者の八五パーセントがなんらかの孤立感を抱えているとする、障害についての慈善団体「スコープ(Scope)」の主張を受け入れている。ここから、貧しい地域での診療所や病院へのアクセスの質と、地域における長期的支援の提供についてたちまち疑問が生じる。
二〇一〇年以降の緊縮政策によって、この分野で政府計画をつくろうとする試みにはすべて異議が申し立てられている。戦後、支援の混合経済が発達した。交際相手紹介所のような商業的取り組みと、国や地方の福祉サービスに加えて、一連のボランティア団体が登場し、集団での取り組みを補完してさらなる改善を促した。
一九七〇年代には、さかんに刊行されていた女性雑誌の人生相談欄への女性回答者は、パートナーを見つけられない人たちだけでなく、結婚生活のなかでひとりきりだと感じていたり、夫に捨てられたり離婚したりして苦しんでいたりする人たちの相談にも回答するようになっていた。『ウーマン(Woman)』誌のアンナ・レイバーンは、数を増やしつつあった「単身者クラブ全国連盟(NationalFederationofSoloClubs)」、「離婚者・離別者のための全国協議会(NationalCouncilfortheDivorcedandSeparated)」、「サマリタンズ(Samaritans)」といった地域や全国規模のボランティア組織、図書館、出会いの場、成人教育のクラスといった自治体のサービスを利用するよう繰り返し投稿者に勧めている。その後、ウェブ上の支援が発達することでボランティア団体の活動範囲は広がり、孤立した者たちを互いや支援の提供元とつないでいる。
しかし、インターネットへのアクセスがいまだ不完全であるにもかかわらず、国家がその克服に多額の資金を投じることができず、公共図書館、地域の娯楽施設、成人を対象とした社会サービスといった重要な機能への支出が削られているなかでは、さらに厳しさを増す孤立の問題に対して効果的で統合された対策がとれる見こみはないようだ。この問題は、現代の人間関係の矛盾ではなく、富の配分と公共サービスの供給における危機の高まりを表すものになったのである。
209『世界の歴史⑪』
ビザンツとスラヴ
歴史の旅を終えて
コンスタンティノープル最後の日
一四五三年五月コンスタンティノープル。トルコ軍の砲声が聞こえる。「城壁へ!」という叫び声がおこる。ビザンツ帝国は一千年の歴史の幕を閉じようとしていた。
いまや帝国の領土は、遠いミストラとトレビゾンドを除いて、すべてトルコ人の手に落ちていた。征服された都市がどうなったのか、恐ろしい噂も伝わっていた。この都にも同じ運命が待ち受けているであろう。いくたびも敵軍を退けてきたコンスタンティノープルも、いよいよ最後の日を迎えるのである。
イタリアへ向かう船を見つけて、町を立ち去る者も少なくなかった。さらば、我が都よ!海から見るコンスタンティノープルは美しい。城壁のはるか向こうに宮殿が見える。教会の屋根が、広場にそびえる円柱が遠ざかる……。去りゆく人、見送る人、港がひとしきり賑わったあと、コンスタンティノープルの町は最後の戦いにすべてを賭けることになる。
イスラーム法では、みずから城門を開いた町は、住民の身柄と財産が保証されることになっていた。実際、包囲が始まってすぐに、トルコ側から使者がやってきて、自発的に降伏すれば、家族や財産に危害を加えはしないと伝えてきた。しかしそれに応じようという者は誰もいなかった。皇帝コンスタンティノス十一世(在位一四四九〜五三年)が、安全なところへ逃れるようにとの側近たちの助言をきっぱりと退けたことを、すべての人は知っていた。残った人びとは皆、皇帝と運命をともにする覚悟を決めていたのである。
スルタンのターバンのほうがましだ
聖ソフィア教会の壮麗な姿こそ昔に変わりはなかったが、かつての光の都もいまでは見る影もなくさびれていた。五三年三月の末、近づきつつある戦いに備えて皇帝コンスタンティノス十一世は、市内にどれほどの人員・武器があるか調査させた。各地区から上がってきた数字をまとめる役を仰せつかったのは、友人として最後まで皇帝に付き従った大臣のスフランゼスである。計算を終えたスフランゼスは蒼ざめた。武器を取りうるビザンツ人はたったの四七七三人。報告を受けた皇帝も衝撃を受け、この数字を公表してはならぬと命じた。
もちろん歴代の皇帝たちも、このような絶望的な状態になるまで手をこまねいていたわけではなかた。一四三八~三九年のフェラ―ラ・フィレンツェの宗教会議には、皇帝ヨハネス八世(在位一四二五〜四八年)、総主教ヨセフス二世がみずから赴き、教会合同の決議に署名した。トルコに対する援軍を得るための苦渋の決断であった。
一四五二年暮れ、事態がいよいよ切迫してくると、西欧からの援軍を急かせるため、コンスタンティノス十一世は聖ソィア教会において教会合同を称える典礼を執り行った。しかしながら、教皇特使の枢機卿イシドロスを迎えて行われた式典にビザンツ人たちは冷淡であった。「枢機卿の四角帽を見るよりスルタンのターバンを見るほうがましだ」と公然という者さえいた。西欧からの援軍が来なくても、聖母マリアがこの町を守ってくださる、そう信じる人びとも少なくなかった。
帝国存亡の瀬戸際において、国家か宗教かという絶望的な選択を迫られたとき、大多数の民衆は信仰を選ぼうとした。スルタンの支配下に入っても、我らの信仰は許されるのだと。すでに述べたように、ギリシア文化に傾倒した知識人のあいだでも、ローマ帝国離れが生じていた。「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」は消えてゆこうとしていたのである。
青年スルタンの野望
西欧からの約束の援軍が来ないまま、四月二日にはトルコ軍の先発隊がコンスタンティノープルの城壁の前に姿を現した。三日後にスルタンが本隊を率いて到着、その翌日から、一〇万を数えるトルコ軍の激しい攻撃が始まった。
攻撃側の総大将メフメト二世(在位一四五一~八一年)は二十三歳であった。二年前に即位した青年スルタンは傲慢だとも、野心が勝ちすぎるともいわれていた。功名心にはやるあまり、父から受け継いだ帝国を破滅させるのではないかと、側近の老宰相を心配させたほどである。しかし、老人たちの心配をよそに、メフメトはコンスタンティノープル征服という大事業に乗り出す。スルタンの野望を象徴しているのが、城壁に向けて並べられた巨大な大砲である。
トルコ軍の包囲が始まる少し前に、ウルバヌスという名のハンガリー人がコンスタンティノープルの宮廷を訪ねてきた。自分が開発した新式の大砲の設計図を売り込みにきたのである。しかしビザンツには、大砲を作る資金はおろか、彼を雇い入れる金さえなかった。
ウルバヌスは次にトルコの宮廷を訪ねた。メフメトはこの男を抱きかかえるように迎え入れると、お前の大砲はコンスタンティノープルの城壁を破れるかと尋ねた。ウルバヌスは、バビロンの城壁さえも破壊するでしょうと答える。メフメトはさっそく実用化に踏み切らせた。ウルバヌスが作り上げた大砲は、砲身の長さ約八メートル、砲弾の重さ約六〇〇キロもあり、「ばけもの」と呼ばれた。「ばけもの」は当時トルコの宮廷のあったアドリアノープルで発射実験に成功すると、六〇頭の牛に牽かれて、コンスタンティノープルへと運ばれてきた。
死闘を展開するビザンツ人
儀式に明け暮れている軟弱な連中と誹られてきたビザンツ人が、最後の最後になって実によく戦った。兵員でも武器でもはるかに劣るにもかかわらず、一〇万のトルコ軍を相手に二ヵ月にわたって死闘を展開したのである。
トルコ軍の攻撃は城壁の最も弱い部分に集中した。それは聖ロマノス門の少し北、リュコス川が流れているあたりであった。川が流れていることからもわかるように、この付近は土地が低くなっていた。メフメトはそこへ向けて「ばけもの」以下の大砲を並べ、最精鋭部隊である子飼いのイェニチェリ軍団を配備した。守備側もここに皇帝コンスタンテイノス十一世みずからが陣取り、必死の防戦に努めた。
包囲されたコンスタンティノープルの希望は海にあった。町の北に細長く入り込んでいる金角湾の入り口には太い鉄の鎖が張られており、敵の艦船は入れないようになっていた。
包囲が始まってからも、食糧を積んだ輸送船がジェノヴァのガレー船に守られ、トルコ海軍の追撃を振り切って入港したこともあった。いつかこの港にヴェネツィアの、ジェノヴァの大艦隊がキリスト教徒の軍勢を乗せて入ってくる、ビザンツ人たちはそう信じようとしていた。
ビザンツ人たちの最後の希望をメフメトは途方もない方法で断ち切った。オスマン艦隊の山越えとして知られる大作戦である。海上に張られた鉄の防鎖を嘲笑うように、背後の山へ一隻また一隻と戦艦を運び上げ、都合七〇隻の艦隊を金角湾内に進水させたのである。金角湾を失ったことによって帝都防衛は絶望的となった。それでもなおビザンツ人は、聖母マリアのイコンを掲げて戦いつづけた。
包囲が始まってもう二ヵ月近く経っていた。攻撃側にもさすがに疲れと焦りの色がみえはじめていた。五月二十七日の夕刻、メフメト二世は将兵を集めて、これが最後の戦いであると炎のような演説をした。演説を終えるとメフメトは、総攻撃に備えて明日一日ゆっくり休むよう告げて、将兵たちを解散させた。
別れの演説
翌二十八日、トルコ軍の陣営は静まりかえっていた。それが嵐の前触れであることは、都を守る者たちにもよくわかっていた。奇蹟を求めて、イコンを掲げた行列が市内を進む。
一〇万の敵軍が城壁ひとつ隔てて迫っているのが嘘のように静かな町に、教会の鐘の音と讃美歌の響きが流れてゆく。夕刻、コンスタンティノス十一世も将兵を集めて演説をした。その穏やかな人柄で誰からも慕われていた皇帝は静かに語りかけた。
「いよいよ時は来た。……兄弟諸君、君たちはよく知っているであろう。命よりも大切にしなければならないものが四つある。第一に我らの信仰、第二に故郷、そして神に塗油された皇帝、最後に肉親や友人である。それらのうちのひとつのためでさえ我らは命を賭けて戦う。このたびの戦いにはこの四つすべてがかかっている。.……もし神が我らの罪ゆえに不信心なる者どもに勝利をお与えになるなら、我らは最愛の妻や子供たち、肉親とも別れなければならなくなるのである」
長い演説――一千年の帝国への弔辞であった――を終えると、皇帝は涙ながらに神に感謝を捧げた。その場にいた者はすすり泣きながら声を合わせて応える。「キリストへの信仰のため、故郷のために死ぬのだ!」
日がすっかり暮れると、人びとは聖ソフィア教会へと向かった。教会合同の記念典礼が行われて以来五ヵ月、ビザンツ人たちはここに立ち入ることを潔しとはしなかったが、今となってはわだかまりも消えていた。最後の夜、人びとは何を祈ったのであろうか。
旅路の果てに
深夜になってトルコ軍の総攻撃が始まった。防衛側は、押し寄せてくる敵兵をその都度撃退した。みごととしか言いようのない奮戦ぶりであったが、トルコ兵は文字通り屍を越えて次々と進んできた。ついに夜明け前、城壁に三日月の旗が翻った。それを見たコンスタンティノス十一世は死に場所を求めて、押し寄せてくるトルコ兵のなかへと姿を消した。一四五三年五月二十九日、ビザンツ帝国は滅びたのである。
最も激しい戦闘が展開された聖ロマノス門は、トルコ人によって大砲門(トプカプ)と名づけられた。名前の由来となった大砲(トプ)が今も門の前におかれている。コンスタンティノープル攻略に用いられたものだともいわれているが、真偽のほどは不明である。城門に立てば、ここに戦った皇帝とスルタン、武将や兵士たちの声が聞こえてくるような気がする。華麗な宮殿のシンデレラ物語から始まった私たちの歴史の旅は、帝都陥落の悲劇で終わることになった。「旅路の果てに恋人たちのめぐりあい」とはシェークスピアの台詞である(『十二夜』二幕三場)。ビザンツ帝国への旅路の果てに、私たちは悲しい別れを見た。恋人たちはいつかまためぐりあうのだろうか。
コンスタンティノープルが陥落し、ビザンツ帝国は姿を消した。しかし、文明の十字路に立っていた帝国は、周辺の世界にさまざまの遺産を残した。正教信仰はトルコ支配のもとでも脈々と生きつづけ、ギリシア人や南スラヴ人たちの精神的な拠り所となった。ローマ帝国の理念は「第三のローマ」と称したモスクワに受け継がれギリシア古典文化はイタリア・ルネサンスを介して西欧に伝わった。ローマは永遠の都といわれた。第二のローマも永遠であろう。
スラヴ民族について
民族をどうとらえるか
というのも、いわゆる民族というものは、長い歴史のあいだにはさまざまな理由で変わるものだし、ときには激しい民族移動の過程で他の諸民族と融合し、結果として名称だけが続いて、実体はまったく変化してしまっていることもある。遠い過去の時代に、いまの時代のような民族意識などというものがあったとも思われない。民族移動期などは例外と交通機関も充分に発達していない時代には、人びとの生活範囲は限られており、かれらの意識も限られたものであったはずである。かりに最初は同じ集団に属していたとしても、いろいろな国に分かれてそれぞれの歴史をたどる間に、さまざまな違いもでてくるであろう。それに民族の過去の様子を、いま正確に再生することができるわけでもない。民族というのは、後の時代になって、多くの場合、政治的に創られた概念なのである。
それでは、ここでスラヴ人というとき、どのような意味で用いているのであろうか。民族というからには、形態的特質、宗教・文化の同質性、同じ言葉、同じ歴史、場合によっては同じ国に属すとまではゆかなくとも、政治的に密接な関係にあることなどを想定される方もおられるかもしれない。しかし、これらは個々人の民族的帰属を決めるのに必ずしも決定的ではない。同じ宗教や文化をもっているからといって、同じ民族に属すわけでもない。
ここではスラヴ人を、ヨーロッパの東部からロシア平原にかけて住み、スラヴ系の言語を母語として話している人びと、というほどのことを意味するものと考えておきたい。スラヴ語はインド・ヨーロッパ語族の一つで、その意味では英語やドイツ語、フランス語などと同類である。
つまり本章からは、今日一般にいわれる、東ヨーロッパ(東欧)やロシア(旧ソ連邦)のヨーロッパ部分の歴史を、スラヴ人を中心に見ていこうというのである。本巻が扱う時代は、その最初の部分、中世から近代初めまでである。
スラヴを構成する諸民族
右のような意味でのスラヴ人は、通常、次の三群に区分されている。それぞれを構成する民族名を列挙してみよう。
東スラヴ――ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ(白ロシア)人
西スラヴ――ポーランド人、チェコ人、スロヴァキア人、ソルブ人、カシューブ人
南スラヴ――セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人、マケドニア人、モンテネグロ人、ブルガリア人
こうしてみると、東欧とヴォルガ川やウラル山脈にいたるまでのロシアに住む人びとの大部分が、スラヴ人であることがわかる。これらのうちいまはきわめて少数となっているソルブ人、カシューブを除く諸民族は、現在(二〇〇九年初)それぞれを主要構成員とする独立の国家を形成している。
一九八〇年代後半から九〇年代初めにかけてのソ連邦におけるペレストロイカや、いわゆる東欧革命の時期までは、東スラヴの三民族はソ連邦を構成する中核的存在だったし、チェコとスロヴァキアも一つの国を、またブルガリアを除く南スラヴ諸民族もユーゴスラヴィアという国を構成していた。それが最近の大変革の結果、それぞれ独自の国家を形成するようになったのである。
このなかで旧ユーゴスラヴィアについては特別の注意が必要であろう。旧ユーゴスラヴィアでは、現在、各民族がそれぞれ独立の国を形成しているだけでなく(セルビア、モンテネグロ、クロアチア、スロヴェニア、マケドニア)、ボスニア・ヘルツェゴヴィナも独立するにいたっている。これはセルビア人とクロアチア人、さらにはオスマン帝国時代にイスラム教に改宗した「ムスリム人」と呼ばれる人びと(一九七一年の国勢調査で民族として認められた)から成る国家である。加うるに、これまでセルビアの自治州であった、アルバニア人を中心とするコソヴォも二〇〇八年二月に独立を宣言しているのである。
なお、ソルブ人とはドイツ東部(旧東ドイツ)のラウジッツ地方に住む人びとで、この言葉を母語とする者は六万人ほどと数えられている。またポーランド北部のグダンスク(ドイツ語でダンツィッヒ)西方には、同じ西スラヴ語系のカシューブ語を話す人びとが四五〇〇人ほどいる。
東欧におけるその他の民族
この広大な地域には、もちろんスラヴ人でない人びとも多数住んでいる。地図をみながらお読みいただきたいのだが、ハンガリー(マジャール)人、ルーマニア人、アルバニア人はとくに重要である。それぞれ独自の国家をもつが、そのうちハンガ1人は東方から移動してきたアジア系(ウラル語族)の民族で、ルーマニア人とアルバニア人はそれぞれ、ラテン(ロマンス)系、イリュリア系の言語をもつ。後二者はいずれもインド・ヨーロッパ系の民族である。東欧史では一般にギリシア人を除外して考えることが多いのだが――その最大の理由は、ギリシアが社会主義圏に属さなかったことにある、ビザンツ史の主役であり、その後も重要な役割を果たしてきたギリシア人を除外することは、むしろ不自然である。ギリシア人ももちろんインド・ヨーロッパ語族に属す。
旧ソ連邦から独立を宣言したバルト三国の主要民族のうち、ラトヴィア人とリトアニア人も同じくインド・ヨーロッパ語族に属し、バルト系の言語を話す。同じくバルト海にのぞむエストニア人は非インド・ヨーロッパ系の言語、フィン語(ウラル語族、フィン・ウゴル語派)を話す。
ドイツ人やユダヤ人も忘れられない。ロマ(ジプシー)も多い。ルーマニア人の祖先で、バルカンの原住民トラキア人あるいはイリュリア人のラテン化した民族グループといわれるヴラフ(アルマーニア)人なども、牧羊に従事する民として各地に点在していた。その他、長い歴史のあいだにさまざまな人びとがこの地に住みついた。東方から何波にもわたって押し寄せた遊牧諸民族も忘れられない。重要なのは、これらさまざまな民族や集団が同じ地域にいわば混住してきたことである。それはこの地域に多様かつ寛容で豊かな文化が育つ可能性を与えるとともに、その寛容性が失われるとき、相互に他を理由もなく嫌い排除しあう状況を生む危険性をもひそませているのである。
ヨーロッパ史のなかのスラヴ
これまでわが国において、ヨーロッパの歴史といえば、古代ギリシア・ローマのあとは、ドイツやフランス、イギリスのことが中心で、その東の地域については、ほとんどふれられないのが通例であった。こうした事態は、ここ二、三十年の間に、多くの優秀な研究者の努力のおかげで、大きく改善されてきたといえる。ただ学校の教科書や一般的な通史のなかでは、なかなか研究上の成果が取り入れられにくかったように思う。そのため、東ヨ―ロッパといわれる地域は、近現代になってようやく注目されるようになっただけの、それ以前にはあまり人も住まず、目立たない、空白地帯ででもあったかのような、印象が生まれてきた。しかしこれは事実に反している。
ヨーロッパ最大のグループとしてのスラヴ
そこで、ここでスラヴ人の人口についてみてみよう。といってもある民族に属す人びとの数をあげるということは、そう簡単なことではない。民族の名で差別や殺戮が行われるような時代、また地域においては、自分が何民族に属すかを明らかにすることは、危険なことであろう。したがって、かりにそのような調査が行われたとしても、それが自己申告によるものであるかぎり、正確とはいいがたいのである。それに日本人には理解しにくいことであるが、同じような境遇にいる人びとでも、自分が何人と意識しているかは、人によって違う場合もある。
それゆえここでも言語によって考えることにしよう。田中克彦・ハールマン両氏の『現代ヨーロッパの言語』(岩波新書)は、ヨーロッパの人びとがどの言語を母語として用いているか、言語ごとに話し手の数を明らかにしようとした本であるが、それによると、各言語の話者の数は上のグラフのようになる。
つまり、ヨーロッパでいちばん多く話されている言語はロシア語で、スラヴ系では、ウクライナ語が第六、ポーランド語が第七番目に位置づけられている。グラフには十番目までしかあげなかったが、さらにみてみると、十一番目にセルボ・クロアチア語、十五番目にチェコ語、十六番目にベラルーシ語、十九番目にブルガリア語などと続いている。ヨーロッパにおけるスラヴ系主要言語の話者数を総計すると、二億二〇○○万人にもなる。スラヴ人はヨーロッパ最大のグループといえるのである。その歴史は正当に評価されなければならないだろう。
ヨーロッパ人としてのスラヴ人
ところで、スラヴ人はヨーロッパ最大の民族だと書いたが、そもそもスラヴ、ことにロシア人をヨーロッパ人のうちに入らないと考える人は、西欧の人びとのなかにはけっこう多い。
十九世紀ヨーロッパ最大の「進歩的」知識人であったマルクスやエンゲルスのことを、想い起こしてみることもできよう。かれらは諸民族を、「歴史をもつ民族」、つまり西欧諸民族のように、国家をもち歴史の進歩を実現してきたような民族と、「歴史をもたない民族」、つまり大国に支配され独立の存在とは認められなかったような「小」民族との二種類に分け、ポーランド人を除く東欧のスラヴ諸民族に独立の権利を認めず、ただドイツ人やその他の、世界史を構成する権利のある偉大な諸民族の「進歩」のための闘いに仕えるだけの存在としてしかみなかったのである。スラヴ人は、かれらによれば、自分の国をもつ権利を犠牲にしなければならないのであった。
マルクスらの考え方は、階級闘争の課題の前に、民族解放のそれをあまりに軽くみたものといえるが、こうした意識にスラヴ人ら東欧諸民族にたいする、ある種の蔑視感覚をみてとることも、あながちマトはずれではあるまい。
豊田市図書館の8冊
289.3フア『御冗談でしょう、ファインマンさん(上)』
289.3フア『御冗談でしょう、ファインマンさん(下)』
167ナガ『13歳からのイスラーム』
227ジン『世界史劇場 イスラーム世界の起源』
227ジン『世界史劇場 三国志』
209『世界の歴史⑤』ギリシャとローマ
209『世界の歴史⑧』イスラーム世界の興隆
209『世界の歴史⑮』成熟のイスラーム社会
6.1 本:本というコンテンツを図書館という共用の場で展開する
・個から発信する場としての本
・本で共有社会の実験をする
・本の進化系を作り上げた
・詳細は概要であることを発見
本に出会う:15冊借用可能で初めて本に出会えた
本の意味:本を読むというよりも処理するもの
図書館を知る:本に求めるものにより図書館は変わる
豊田市図書館:市民に本をアピールしていない
知を処理するためのツールという意味では本は未完成 デジタルとのハイブリッド化で進化系ができた 本来 大日本辺りが行うべきこと
図書館は公共という概念と行政はサービスするものということを教えてくれた この2つで国というものを根本から変えていく
6.7 知の体系:本を分化・統合し、ライブラリを整備し、個が生きる体系をつくる
・個と全体との環境の融合
・基本空間の役割を果たす
・デジタルライブラリを構築
・知的環境インフラ
ザナドゥ空間:個人の中の知の連携を表現
ライブラリ:電子書籍なら自分のライブラリーが可能
本を分化:本のコンテンツを個がメッセージ化
本を統合:個主体の教育に合わせたものを統合
全てを知りたいという願い 全てという範囲をどう決める 言葉にできるものは少ない 存在を知るというところに行き着く
芋のフラペチーノだって 10月からのチョコレート 考えたけどお金がなくて チケットを使ってしまった
vFlatは本当にすごい
この位置のメモ帳を映してこうなってしまう そしてこれをテキスト化してしまう
「9月22日(金)
スタバでしか、日付けを書かない
どう見ても一万円足りない
✓Flatは軌動にのった
ペースが早すぎる。
半年前なら知るよしかるかった。
せーらもそうです
何を準備してくれたのか」(原文のまま)
図書館の本棚をランダムサーチしていた と言ってもサーチできるのは5分の2です 5段のうち2段目と3段目しか サーチできない 視力と腰の関係です
なぜかファインマンの本が見つかった 『ファイマン物理学』にはお世話になった。2012年発刊 なのにやたら本は新しい 誰からも相手されてない 秀脱なのに
思い出した。この本で この風景を得た。やはり、映画『オッペンハイマー』は観たい。
「全員に黒眼鏡が配られていた。黒眼鏡とは驚いた! 二〇マイルも離れていては黒眼鏡としでは何も見えるわけがない。僕は実際に目を害するのは紫外線だけだろうと考えていくらまぶしいからといって明るい光が眼を害することはない)、トラックの窓ガラスの後 ろから見ることにした。ガラスは紫外線を通さないから安全だし、問題のそいつが爆発するのがこの目で見えようというもんだ。
ついにそのときが来た。ものすごい閃光がひらめき、 その眩しさに僕は思わず身を伏せ てしまった。トラックの床に紫色のまだらが見えた。「これは爆発そのものの像じゃない。残像だ!」そう言って頭をあげると、白い光が黄色に変ってゆき、ついにはオレンジ色になった。雲がもくもく湧いてはまた消えてゆく。 衝撃波の圧縮と膨張によるものだ。
そしてその真ん中から眩しい光をだす大きなオレンジ色の球がだんだん上昇を始め、少 し拡がりながら周囲が黒くなってきた。そしてそのうち、消えてゆく火が中でひらめいて いる、巨大な黒い煙の固まりに変っていった。
だがこのすべては、ほんの一分ほどのできごとだったのだ。すさまじい閃光から暗黒へ とつながる一連のできごとだった。そして僕はこの目でそれを見たのだ! この第一回ト リニティ実験を肉眼で見たのはおそらく僕一人だろう。他の連中は皆黒眼鏡をかけてはいたし、六マイルの地点にいた者は床に伏せろと言われたから、結局何も見てはいなかった。
おそらく人間の眼でじかにこの爆発実験を見た者は僕のほか誰一人いなかったと思う。
そして一分半もたった頃か、突然ドカーンという大音響が聞こえた。それから雷みたい なゴロゴロという地ひびきがしてきた。そしてこの音を聞いたとき、僕ははじめて納得が いったのだった。それまではみんな声をのんで見ていたが、この音で一同ほうっと息をつ いた。ことにこの遠くからの音の確実さが、爆弾の成功を意味しただけに、僕の感じた解 放感は大きかった。
「あれはいったい何です?」と僕の横に立っている男が言った。
「あれが原子爆弾だよ」と僕は言った。これがウィリアム・ローレンスという男で、こ の実験の実況を記事にするために来ていたのだ。 僕が彼を案内する係だったのだが、彼が 理解するには、すべてがあまりに専門的すぎるということがわかったので、あとになって H・D・スミスという人が代りにやってきたのを案内することになったのだった。 僕は彼 をある部屋に連れていき、幅の狭い台の端にのった銀メッキの球体を見せた。 手をのせて みると暖かい。放射能の暖かみだ。 この球こそプルトニウムだった。ドアのところで僕ら はこれを話題にしゃべっていた。これこそ人間の手で造られた新しい元素、おそらく地球 の誕生直後のほんの短期間を除いては、今まで地球に存在したことのない元素なのだ。 そ れがここにこうして隔離され、放射能を放ちながらその特性をちゃんと持って存在しているのだ。しかも僕たちがこの手でこれを造りだしたのである。だからこそ測り知れない価値があるのだ。
とにかく原爆実験のあと、ロスアラモスは沸きかえっていた。みんなパーティ、パーティで、あっちこっち駆けずりまわった。僕などはジープの端に座ってドラムをたたくという騒ぎだったが、ただ一人ボブ・ウィルソンだけが座ってふさぎこんでいたのを覚えている。
「何をふさいでいるんだい?」と僕がきくと、ボブは、「僕らはとんでもないものを造っちまったんだ」と言った。
「だが君が始めたことだぜ。 僕たちを引っぱりこんだのも君じゃないか。」 そのとき、僕をはじめみんなの心は、自分達が良い目的をもってこの仕事を始め、力を合わせて無我夢中で働いてきた、そしてそれがついに完成したのだ、という喜びでいっぱいだった。そしてその瞬間、考えることを忘れていたのだ。つまり考えるという機能がま ったく停止してしまったのだ。ただ一人、ボブ・ウィルソンだけがこの瞬間にも、まだ考えることをやめなかったのである。
それにしてもこんなことがスタバで 座りながら スマホ1台 出てきてしまうんです
奥さんへの買い物依頼
水 78
お茶 148
もも肉 278
サッポロ一番みそ 398
子持ちししゃも 250
家族の潤い 198
チョコモナカジャンボ 100
おでん袋 398
食パン8枚 138
シーチキン 199
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289.3『御冗談でしょう、ファインマンさん(上)』
289.3『御冗談でしょう、ファインマンさん(下)』
167『13歳からのイスラーム』
227『世界史劇場 イスラーム世界の起源』
227『世界史劇場 三国志』
209『世界の歴史⑤』ギリシャとローマ
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209『世界の歴史⑮:成熟のイスラーム社会