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「独我論」 を突きつめる

「独我論」とは、この世界に存在しているのは〈私〉だけ、と いう考え方です。そういう「独我論」 を突きつめると、〈私〉 以外のものは何も存在していないことになります。つまり、 <私=世界〉だけになります。ようするに、ここにあるのは、 一つの実在(本当に存在しているもの)だけなのです。たしか に、〈私〉が枠組みなのであれば、ただ一つの〈私〉は、消え てしまうでしょう。 映画館に映画を見にいって、映画そのもの にのめりこんでいるとき、〈私〉はなくて、映画のストーリーだけが映しだされているようなものです。 〈私〉は世界か ら消え、出来事だけがたんたんと起きていく。 これをウィトゲ ンシュタインは、「純粋な実在論」と言います。

たしかに、世界に〈私〉一人しかいない(「独我論」)のなら ば、その〈私〉は、存在そのものと同じことになってしまうで しょう。しかしもし、私たちがこのようなあり方をしているこ とになると、これは、もうとんでもなく壮絶な孤独ということになります。誰一人として、自分と同じ存在は、この世界にはいなことになるからです。 #独我論

 ウクライナは勝つことはできないけど ロシアが負けることはできる #ウクライナロシア戦争

 独我論は論ではない この世界の真実です #独我論

 ウィトゲンシュタインは、この「存在とは何か」という問い、つまり、われわれの根源的驚きから発せられる問いを、まったく無意味な問いだと言います。答などでるはずもない無意味な問いなのです。「すべてアプリオリにただ無意味」(経験 とは関係なく最初から無意味)なのです。この問いは、絶対的領域についての問いな ので、言葉による思考では、どうにもならないというのです。
言葉は、比較したり、否定したりすることによって表現します。たとえば、「山」 という言葉を使うとき、私たちは、その反対である「山ではない」ことをすぐ考えて います。「山」という語が正しく機能するというのは、その反対もすでに含んでいる からなのです。「山」という語は、「山でないもの」と比べることによって、意味をも つのです。すべての語は、このような成りたちをもっていますから、その反対の語 (否定したもの)が想定できないものは、言語によっては、表現できませんし、何の 意味ももちません。 どんな言葉も、その言葉を否定する語が存在することによって意 味をもちます。

 存在と無:存在は答え 無は存在に依存する

 なーんだ 後は考えていればいいんだ

 そのためにも型を崩していきましょう 囚われるものは何もない 態(かた)から入って 態から抜ける
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