goo blog サービス終了のお知らせ 

未唯への手紙

未唯への手紙

イスラムの領域

2023年09月16日 | 4.歴史
 『世界史』下 ウィリアム・H・マクニール

イスラムの領域――それに従属するヒンズー教およびキリスト教の社会一五〇〇――一七〇〇年

マホメットが、はじめてメディナに信者たちの神聖な社会を作りあげて以来、イスラムの領域は、局地的、一時的な敗北はあったにせよ、一貫して成長しつづけていた。この以前からの変化は、はるか西の世界が新たに海上の制覇に乗り出したからといって、紀元一五〇〇年以後急速にとどまるようなことはなかった。むしろ逆に、インド、東南アジア、アフリカおよびヨ―ロッパは、すべてイスラムの拡大の舞台でありつづけた。実際のところ、一五〇〇年と一七〇〇年の間にイスラムの領域に編入された、何百万平方キロメートルないしは何百万人の新しい臣下たちを数に入れるならば、この二世紀間は、全イスラム史のなかで最も成功をおさめた時期の中に入るであろう。例えばインドでは、山地の北方から流入してきた逃亡者や冒険家たちが、イスラムの支配者たちに充分な戦力を与え、一五六五年に、インド南部の最後の重要な独立ヒンズー国家、ヴィジャヤナガル王国を圧倒することができた。そしてこの時代のまさに終末において、インド半島のほとんど全部が、ムガール皇帝アウラングゼーブ(一六一八一七〇七年)のもとに統一された。

東南アジアでは、沿岸地方のイスラム国家の連合が、協力して、一五一三年と一五二六年の間に、ヒンズー化したジャヴァ帝国を転覆した。この征服の前後に、商人や遍歴するスーフィー派の聖人たちによって行われた布教活動が成功をおさめ、イスラム教を、東南アジアの港や海岸地帯全体に沿って、フィリピンのミンダナオ島や、インドネシアのボルネオまで広げた。アフリカへの浸透も継続した。これは海よりも陸路によって行われ、船ではなしに隊商の活躍によるところが大きかった。これらふたつの大地域において、交易と市場活動の発展は、そのような交易がひきおこした新しい種類の経済活動に最も積極的に参加した地域の人々がイスラムを受容したことと並行して行われた。その後、軍事活動と行政的な圧力がしばしば用いられて、田舎や辺鄙な地域をイスラムの圏内に引き入れた。こうして、一連のイスラム帝国が西アフリカに勃興したボルヌ、モロッコ、ティンブクトゥ、ソコトなど彼らの異教徒に対する政策は、シャルルマーニュが、ほとんど一千年も前に、力で環境に抵抗するサクソン人をキリスト教に改宗しようとしたときに、北西ヨーロッパで使ったものと似ていた。

ヨーロッパ自体では、イスラムに対する抵抗は、インド、アフリカないしは東南アジアで行われたものよりもよく組織化されていた。しかしそこでもまた、イスラムの勢力は、キリスト教を侵しながら前進した。一五四三年までに、ハンガリーの大部分はトルコの行政下に入った。その後もくりかえし国境地帯での戦争がつづき、一六八三年まで、ポーランドおよびオーストリアのハプスブルクに対するトルコ人の戦いは有利に展開した。ヨーロッパ人に対するオスマンの軍事的な劣勢は、トルコ人の第二回ヴィーン包囲にはじまり、ハンガリーの大部分がオスマンからオーストリア人の手にうつった一六八三年から一六九九年までの長い戦争の間に明らかになった。しかしルーマニアでは、一六九九年以降も、オスマン社会の地方的変種が発展し、定着しつづけた。もっとも、この地域のトルコの勢力は、コンスタンティノープルのギリシャ人を通じて間接的に行使されたことも事実であるが。

イスラムが、一七〇〇年以前に継続して領土を失いつづけたのは、ユーラシア大陸の西部および中央部のステップ地帯に限られていた。ロシアがキプチャク・ハン国に次ぐ諸国家、すなわちイスラム化したカザン、アストラ・ハンおよびシビル・ハン国を征服して前進したことは、すでに述べた。さらに西方のステップ地帯では、イスラムは同じくらい深刻な敗北を喫した。一五五〇年と一六五〇年の間に、再生したチベットのラマ教(黄教)がモンゴリアのイスラムの機先を制して、中央アジアのイリ河周辺の地域で自己の地位を確立した。

しかし、ステップ地帯は、それ自体貧しく将来性のない地方であった。交易路が(北のシベリアの河川地方や、南の大洋の方向に変更されたため)草原地帯を横切らなくなったとき、長い間イスラム教を伝える役割を主に果たした商人や聖職者たちが、それらの地方に行くことをきっぱりとやめてしまった。それゆえ、ステップ地方におけるチベットのラマ教の目ざましい成功は、あるていどイスラムの競争者が引き揚げたためなのである。

ヨーロッパ商業の侵入

海上においては、事情はもっと複雑だった。地中海およびインド洋の両方で、スペイン、ポルトガルの艦隊が、イスラムの海上勢力に挑戦し、いくつかの重要な戦いで勝利をおさめた。しかしこのイベリア両国の海軍力は、イスラムの船隊を海上から駆逐することができるほど大きくはなかった。そこで、一五七一年に、一連の長い地中海における闘争に終止符が打たれたときにも、トルコの海軍力は、一五一一年にその戦いがはじまったとき同様の力を維持していた。またインド洋でも、軽い小型のイスラム船が、ポルトガル人に奪われていた商業の大部分を回復させた。十六世紀末までに、ポルトガル人たちは、港湾料の歳入を必要としていたがために、自分たちの支配する港に、イスラムの船が入港することを認める決定さえしたのである。

しかし、一六〇〇年以後になって、新たな海事勢力が現れはじめた。オランダ、イギリス、フランスの船が、インド洋および地中海の有力な商船として、スペイン、ポルトガルの船にとってかわりはじめたのである。短期間の現象としてみれば、この変化は、イスラムの立場からみれば勝利のように思われた。いずれの場合にせよ、新しく現れた国々は、まずイスラムの支配者と特定の条約を取り結ぶことによって、自分たちの地歩を確立し、いかなる種類のキリスト教布教の活動も差し控えた。これは急激な政策転換を意味した。ポルトガル人やスペイン人にとって、布教は貿易と同じくらい重要であった。しかし、新しく現れたオランダ人、イギリス人、フランス人の商人たちは、宗教的な宣伝の領域を、もっぱらイスラム教徒の手に委ねたにもかかわらず、新来者たちの経済活動は、長い目で見れば、イベリア二国の宗教宣伝よりも、伝統的なイスラムの生活スタイルを弱める点で、はるかに強力な力を発揮した。結局のところ、イスラム精神は、最も雄弁で学識深いキリスト教の宣教師たちと対抗したときですら、その言うことに耳を傾けないだけの力をもっていた。それは、マホメットの啓示が、キリスト教の偏って歪められた真理をただし、それゆえそれを凌駕するものである、という、すべてのイスラムの教えの中核にある確信によるものであった。しかし、イスラム社会は、経済的な合理化や市場関係の拡大に直面したとき、特にヨーロッパの価格革命の反響がイスラムの領域に押し寄せてきたとき、それから免れることはどうしてもできなかった。

もちろん、内陸地方での影響は少なかった。海から遠く離れた地方では、隊商による交易、職人による生産、農民と都市間の交易、奢侈品の地域的交易、などの古くからの形式が、ヨーロッパ人の諸慣行、組織、エネルギー等の影響を受けることはほとんどなかった。しかし海岸地方では、一七〇〇年までに、広範にわたる変化が現れはじめていた。例えばオスマン帝国では、換金農業が、アメリカからもたらされたトウモロコシとタバコの生産、およびもともとインドから由来した綿の生産にもとづいて、急速な発展を遂げた。ルーマニア、ブルガリア、トラキア、マケドニア等の農民は、アナトリアに住む農民たちとともに、トウモロコシを自分たち自身や家畜の食糧にしはじめた。新しくアメリカからもたらされたこの作物は、古い作物よりもはるかに生産的であったため、以前よりもはるかに大量の小麦や牛を輸出することができるようになった。黒海と北部エーゲ海の沿岸地方が、この発展の主な舞台であった。

オスマン帝国で商品農業が盛んになっても、それはマニュファクチャーの刺戟にはならなかった。職人のギルドは、昔ながらのやり方に固執した。勇猛で知られるトルコ兵たちは、一五七二年、はじめて結婚することを法的に認められたが、それ以後、トルコ軍隊の成員は、オスマン帝国のすべての主要な都市の職人たちの家族と通婚して、職人たちの強力な味方となった。企業的なエネルギーは、産業や商業には向けられなかった。これは、徴税請負業や、高位の官職につきたい者たちに高利の貸し付けをすることの方が、はるかに大きな利益が得られたからである。役人たちは、そのような借金の返済のために、法的および超法規的な方法で、民衆から金を絞り取った。もちろん、そのため、新しい産業ないし商業への投資は不可能になった。なぜなら、新しい企業に投資する余裕のある者はすべて、徴税人や賄賂を求める地方役人の格好の餌食となったからである。マニュファクチャーにおいて技術的な進歩がなく、貿易における企業的意欲に制限が課せられたため、オスマン帝国の輸出品は、ほとんど農産物にだけ限られることになった。これは、ビザンティン帝国が独立を保っていた最後の世紀に、イタリアの諸都市がレヴァント地方の商業を乗っ取ったときの状況と似ていた。この類似は、オスマン社会の経済的健康にとって不吉な兆しであった。

インド洋においても、ヨーロッパの商人たちは、系統的で組織化された利潤追求をはじめて、アジアの経済に変化を与えはじめていた。ヨーロッパの大貿易会社は、より多くの物質をインドに輸出し、その結果銀の流出を防ぐようにと絶えず本国から圧力を受けていた。しかし、毛織物その他のヨーロッパのマニュファクチャー製品は、インド海岸地方の暖かい気候の下において大量に販売するには一般にあまりに品質が悪かった。そこで、オランダとイギリスの商人は、アジアの港間で、利益を上げる物質の輸送を広げようとした。これだけが、ヨーロッパに輸送されるアジア産の物品に対し、大量の金銀をひきかえにインドに輸出することなしに支払いをすることのできる唯一の方法だったからである。オランダもイギリスも、これによってかなりの成功をおさめた。

例えばイギリス人たちは、インド西部において、小額の資金を紡績工や職工に前払いして、綿布の製造を組織化した。そのかわり、彼らは生産させたいと思う布の種類を定め、前払い金の額を規制して、市場に搬入される布地の量を調整することができた。このようにして、イギリス人の指定によってつくられた“キャラコ”は、アフリカとアジアの海岸地方のいたるところで、商人たちがひきかえに商業的価値のあるものを提供すれば売られるようになった。この種の貿易は、それまでは比較的単純な自給自足的な社会が圧倒的に多かった、東南アジアの海岸の多くの地方に、素晴らしい発展を促した。そのような体制の下で、例えばビルマやシャムの海岸地方およびフィリピン諸島は、ジャヴァ、スマトラとともに、ひじょうに急速な商業発展――主に農業上の発展を遂げた。しかし、東アフリカは、人間を輸出する方が容易だと思った。アフリカの海岸地方は、一連の奴隷狩りを行う国々や港市の所在地となり、イスラム世界に奴隷を供給した。それは南北アメリカに対する西アフリカの奴隷貿易と相並ぶものであったが、規模においては比較にならなかった。

香料諸島の中で、オランダの支配下に入った諸島は、さらにそれ以上の強力で体系的な経済的変容を経験した。オランダ人たちは、早くから軍事征服の政策をとり、地域の王たちに、世界市場で販売可能な農業生産物の量を指定して納入させるように圧力をかければ、行政の費用が賄えるということを知った。このようにしてオランダ人は地方の有力者を大農園の支配人にし、耕作者たちを、一種の半農奴状態においたのである。新しい種類の作物が、系統的に導入された。アラビアのコーヒー、中国の茶、インドのサトウキビなどは、オランダ人たちの高圧的な要求によってジャヴァ人たちに押しつけられた。オランダ人たちの政策は、絶えず変化する市場の需要に合うように商品を最もよく組み合わせて、最大の利益を得るよう計算して行われた。

インドの織工やジャヴァの農民の生活にとっては、インドや東南アジアで伝統的な行政形式を通じて行われているイスラムの政治的主権よりも、新しい、市場を志向する資本主義的な企業のほうが明らかにずっと重要だった。こうした企業は、ロンドンやアムステルダムに本拠をおく法人組織の会社から派遣されたイギリス人やオランダ人の代理人の手で運営されていた。そうした会社の所有者たちがそれとわかるのは、株式証券と呼ばれる、浮出し紋様の紙片を持っていることによるのである!しかし、一七〇〇年にはこのことは理解しにくかった。イスラムの政治家や宗教の専門家が、10ここで扱っている時代のはじめに、はるか昔の中世の十字軍と同じくらい深刻な脅威と思われたイベリア半島の十字軍に対して、試練を経た真のイスラムの制度が抵抗するのに成功したことを喜んだとしても、それはまったく当然だったと言えるだろう。中世の十字軍にせよ、イベリアの十字軍にせよ、その動きは弱められ、しかる後にうまく阻止できた一方、イスラムの領域は拡大し続けたのである。アラーの恩寵とイスラムの他のすべての信仰に対する優越性を示す証拠としてこれに勝るものが求められるであろうか?

シーア派の反乱

以上のような精神的態度から生まれたひとりよがりの自己満足は、十六世紀のちょうどはじめにイスラムが深刻な宗教上の衝撃を経験していたことを考えると、ひじょうに注目すべきものであった。イスラムの諸地方は、様々な宗教的セクトに対して寛容さを示してきたが、大きく分けて、スンナ派とシーア派の二大陣営に分かれていた。シーア派の多くの集団は、外見上はスンナ派の信仰形式に従っていたが、時としてあらゆる形態の組織化された宗教に根本的に敵意を示す、ベクターシー教団の修道者のように、信頼すべき初心者に対しては、秘密の教義を教え込んだ。大部分のイスラムの統治者たちは、スンナ派の立場を公に支持し、異論を唱える集団に対しても、公の宗教的制度に対してあからさまな攻撃を加えないかぎりこれを黙認した。

この暫定的共存は、一五〇二年に大揺れとなった。この年、トルコ人の部族の狂信的なシア派のセクトが、急速に一連の勝利をおさめた結果、その指導者であるイスマーイール・サファヴィがタブリーズでシャーとして王位についた。それにすぐ続いて、イスマーイールはバグダードを占領し(一五〇八年)、やがてブハラのウズベク族を壊滅させて、東翼の安全を確立した。一五一四年、彼の軍は、オスマン帝国が召集した軍隊とトルコのチャルディランにおいて対戦した。イスマーイールは戦場では負けたにもかかわらず、オスマン軍のトルコ兵たちが前進を拒んだため、せっかく勝利を収めたスルタンの軍隊が撤退するのを見て、満足した。イスマーイール王の戦歴は、それ自体あまり目ざましいものではなかった。ティムール(1三三六?|一四〇五年)その他の中央アジアの武将たちは、彼より以前に、それと変わらぬくらいの速度をもって大国家の建設に成功している。イスラム教徒にとって、サファヴィ帝国の建設が不安に感ぜられたのは、王の盲目の追従者たちが、彼をアラーの化身と信じたからであった。そして、そのような考えを冒瀆と感ずるような、もっと学識があり、神学にも通じている彼の支持者たちですら、イスマーイール王が、イスラムの十二の正当な支配者のうちの七番目の子孫として、全イスラム社会の長であることにまちがいない、と論じたのである。そのような主張が、完全な確信をもってまったく狂信的に唱えられ、一連の目ざましい軍事的な成功によって裏付けられると、イスラムの領域には、ひじょうな混乱がおこった。なぜなら、もしサファヴィの主張が正しいとなると、他のイスラムの支配者たちはもちろん簒奪者ということになるからである。イスラム世界の多くの地方に、そのような考え方に共感をもって耳を傾けることのできる、重要なシーア派の集団があった。事実、イスマーイール王の支持者は、一五一四年、アナトリアで大規模な反乱を引きおこし、狂信的な熱狂をもってオスマンの権威に挑んだ。

オスマンの反応は、素早く効果的であった。スルタンの残酷者セリム(在位一五一二―二〇年)は、アナトリアの反乱を鎮圧し、その後不満を抱く諸地方の残存者たちを無慈悲に駆りたてた。このため、オスマン帝国の他の地方にいたシーア派の集団は公然と反旗を翻す力を失った。セリムは、次にイスマーイール自身に対して圧力を加えたが、前に述べたように、トルコ兵が異端の王に向かって前進することを拒んだので、災いの根を断つことができなかった。

その後の戦闘で、セリムは、シリア、エジプトおよびアラビアを併合し、それらの地方の統治者たちがイスマーイールと同盟を結ぶのを防いで、メッカおよびメディナの、宗教上の戦略拠点に対する支配を確立した。彼の後継者である“立法者”スレイマン(在位一五二〇―六六年)は、本国においてスンナ正統派を組織化して、シーア派の異端と戦うことに勢力を注いだ。彼は、スンナ派の宗教教育機関に国の指示を与え、帝国のすべての主要都市における宗教上の公職者を国家の管理の下においた。もっと以前の時代ならば、このような政策は激しい抵抗を招いたであろうが、スンナ派の神学者たちは、ひとつには国家から支払われる給料の魅力のゆえに、またひとつにはイスマーイール王の宗教革命がイスラム世界全体に広げようとしている狂信と無秩序を恐れたため、スレイマンの規制を異論なく受け入れた。

一五一四年ごろから、イスマーイール王自身も、宗教革命の炎を統制する必要があると感じた。彼は、イスラム世界のすべての地方から、十二の派に属するシーア派の立法学者を招集し、彼らの援助のもとに、宗教上のあらゆる誤りの痕跡を除去する仕事を開始した。この目的を達成するため、彼はスンナ派や、異論を唱えるシーア派の集団を弾圧し、その財産を没収した。

同時に、イスマーイールの権力がもともと拠りどころにしていた、強力な大衆宣伝が、もっと正統的な傾向に近い者たちに対して向けられた。ちょうどそのころ、プロテスタントの宣教者たちが信者の心に強く刻みつけていた“小教義問答書〟にまさしく当たるものが、イスマーイ―ルのほとんどすべての臣下たちの間に、十二イマーム派の教義を分かりやすく広げたのであった。

イスラムのスンナ派とシーア派との間の対決は、サファヴィとオスマンの両君主の間の派手な衝突となって現れたが、それは他のすべてのイスラム国家と民衆に選択を迫って、困惑させた。いたるところで、スンナ派とシーア派の間に古くから成立していた伝統的な地域協定が、激しい争いに爆発する気配となった。宗教上の原理が、政治的忠誠心を表す指標となった。インドのムガール帝国は特に困惑した。ムガール王朝の創設者のバーブル(一四八三―一五三〇年)やその子のフマーユーン(一五〇八―五六年)などは、低迷期において、ひじょうに必要としていた援助をイスマーイールから得たいと思って、公然とシーア派を信ずる旨を宣言していた。のちインドにおける自分たちの地位が強固になると、彼らは、シーア様式のイスラムを否定し、スンナ派の教義を取り入れて、サファヴィ朝からの独立を宣言した。ムガールの権力を最初に確立する政治を行ったアクバル(在位一五五六―六〇五年)は、自分自身、独立した宗教的権威があると主張したがった。アクバルは、イスラムの信仰形式だけではなく、ヒンズ―教やキリスト教のそれをも試みてみて、一再ならず皇帝が改宗しそうだと確信していたローマ・カトリック教会の宣教者たちを苦しめ憤慨させた。

サファヴィ国家の力は、アッバース大王(在位一五八七一六二九年)のとき絶頂に達したが、宗教的革新の火は少なくとも宮廷内においては少なくとも宮廷内においてはそのころまでに衰えていた。オスマン側の恐れもこれに応じて少なくなり、一六三八年には、スルタンの政府は、かつての敵と継続的な休戦協定を結んだ。実際、宗教的な緊張はひじょうに緩和されたので、一六五六年、改革された政府がコンスタンティノープルで力を掌握した以後、新たな首相となったムハンマド・クプリリは、隠れシーア派が、オスマン社会で再び自由に活動することを許しさえした。そのひとつの興味深い結果は、それまでの二百年来、はじめて異端の修道者の共同体が特に活動的になった、クレタ島、アルバニアおよびブルガリア南部において、キリスト教からイスラムへの改宗が再び大規模に行われるようになったことである。

知識の後退と芸術の進歩

イスラム内部のスンナ、シーア派の分裂の文化への反響は、政治、軍事的な結果と同じくらい大きかった。ペルシャの知は、その根源から枯れ果ててしまった。それは、従来のペルシャの知の基礎にあった神と人間の愛の間の微妙な曖昧さが、イスマーイールに従う厳格な信徒にとっては呪わしいものであったからである。おそらくもっと重要なのは、スンナ派の学者たちが、根本的な意味で、社会的責任を果たせなかったことであった。スンナ派イスラムの学者は、シーア派の挑戦を、それ自体のものとして――つまり真理であると主張する宗教上の教義として受けとらなかった。そうではなくて、彼らは世俗の武力に頼り、いたるところで、自分の競争者や批判者を力で抑圧した。そこで、後になってヨーロッパの思想や知識がイスラムの伝統的な学問の多くを疑問視したときに、オスマン帝国の知識階級は、これに応えて新しい諸観念を調査する立場にはなかった。こうした挑戦に対して、オスマン国家の警察力の影に隠れて身を守った神聖な立法の学者たちは、第二の挑戦に対しても、まともにとり組むことを拒んだ。たぶんキリスト教世界の新しい知と取り組もうとしている間に、イスラム社会内部の宗教的な攻撃に側面をさらすことを恐れたからであろう。それよりは、コーランをくりかえし唱え、神聖な立法に関する注釈を暗記し、その結果アラーの行為をたしかに自分のものにすることの方がずっといい、と彼らは感じたのである。イスラムの軍事力が、あらゆる侵入者と対等に戦えるほど強力である間は、そのように確固とした保守的態度や、反知性的態度は、もちろん有効であった。しかし、イスラム国家の力が、いたるところで新しく生まれてきた競争者たちに抵抗できないことがわかった一七〇〇年以後になって、はじめてイスラムがどんな代価を払ったかが明らかになったのである。

主として公の政策がもとで知的な無能力化が顕著になったが、このことは必ずしも芸術が衰退したことを意味しなかった。それどころか、イスラム世界で大きないくつもの帝国が成立したために、あらゆる種類の建築家や芸術家たちに対する充分な、比較的安定した保護が可能になったのである。例えばイスファハーンがアッバース大王の命により、庭園都市として建設された。これは、世界中でも最も印象的な建築と都市計画の大記念碑のひとつである。それに比べると小さくはあるが、それでもなおたいへん規模の大きいインドのタージ・マハルが、ムガール皇帝の趣味に合わせて、一六三二年と五三年の間に建てられた。同様に、ペルシャ美術も、十七世紀に入って開花しつづけた。インドでは、画家たちがペルシャの技巧を用いてヒンズー教の宗教的な主題を描いたときに、新しい発展がおこった。そのような絵画は、“ラージプート族〟の地主階級に訴えた。彼らは、ペルシャ風の文化をもち、ムガール帝国に仕えていたにもかかわらず、先祖伝来のヒンズー教の信仰を捨ててはいなかったのである。

 とても変な本 右から左ではなく 左から右の本 『教養 読書 図書館』表紙が右側にきている 通常 表に来る図書館のラベルが右に貼られている ちなみに ナチの焚書の写真
 クルアーンは女性の章をvFlat化
 今週の22日にせーらのブログが消滅します 遡って読むと 結末の分かってる小説を読んでいる感じ 結末は終わりではなくまだ続く またいつか 続きを聞かせてください #早川聖来

ヘレニズム文明の伸展

2023年09月15日 | 4.歴史
 『世界史』上 ウィリアム·H·マクニール

ヘレニズム文明の伸展 紀元前五〇〇―後二〇〇年

すでに見たことだが、ギリシャ文明のさまざまな成果は商人によって、地中海世界では未開の奥地と言えるスキティア、北イタリア、ガリアなどに伝えられ、そこの蛮族の族長たちの注意をひいた。エーゲ海の中心部に比較的近い位置にあったため、マケドニア王国はほかよりもいくぶん濃くギリシャ的生活様式に染まったが、これはギリシャ文明の中心地を征服する序幕となった。この間の事情はきわめて示唆的である。というのは、マケドニアのような周辺国家で、あるひとつの文明世界のすぐ外側に位するという地理的立場を利用して、領土を外に向かって拡げ、軍事力を増強し、さらに文明世界の効果的なやり方をとり入れてその力を組織したときには、もとの文明の中心地により近い所にいる力の劣った競争相手の国々を征服する能力を備えるという例は、ほかにもしばしば見られるからである。

マケドニアの制覇

マケドニアの代々の王は、自分の宮廷をギリシャ風を勉強する学校にした。例えばエウリピデスなどもマケドニアの王宮に賓客として迎えられてしばらく滞在したことがあるし、アリストテレスはアレクサンドロス大王の家庭教師だった。マケドニアの代々の王がギリシャ文明に対して心からの敬意を抱いていたことはまちがいない。だが、ギリシャ化の政策にはほかに利点があったのも事実である。マケドニアの貴族の若者たちは宮廷に参内すると、まもなく自然にギリシャ風の趣味に染まる。ところが、宮廷にとどまって国王に仕えながらでなければ、この好ましい生活を送ることはできないのだ。というのは、マケドニアの田舎に住んでいるのは自由で頑強な農民で、主人は彼らを戦争に引っぱり出すことはできても、重税を課することは不可能である。そこで奥地に住む貴族は、例えばギリシャから品物が輸入されて個人に分売されるといった場合にも、それを買うだけの現金収入の途を閉ざされている。ところが王家は鉱山や征服した海に近い諸都市からの収入があって、文明開化の生活を営むのに必要な贅沢品を輸入することが可能で、功労ある部下にそれを分けてやることもできた。このようにしてマケドニア代々の王は、忠実で従順な、しかし誇り高く自由の気概に満ちた軍の士官と宮廷役人の一隊を作り出したのである。

これら王直属の士官たちが、マケドニアの農民にギリシャ式の重装歩兵隊の戦術を教えるようになったとき、彼らはすぐに一個のきわめて有能な軍隊を作り上げた。マケドニア兵は数において優れ不屈不撓であった。また彼らは、以前から自分らの上官に忠義を尽くす習慣を持っていたが、この上官たちも、今やはじめて王に従う気になり、以前マケドニアの地方貴族たちを手に負えない存在としていた内輪の争いをやめることにしたのである。マケドニア王フィリッポス(在位前三五九一三三六年)はこの新しい勢力関係を充分に活用した最初の王だった。彼はイリリア、トラキアなど未開の近隣諸地方を征服し、それからギリシャに向かった。彼はいたるところで勝利をおさめたが、それは後に、彼の子アレクサンドロス(在位前三三三六十三三年)を将に仰ぐマケドニア軍にもたらされた、赫々たる戦果の前触れと言えた。

アレクサンドロスの戦歴に伴い、ヘレニズムは東方に及んだ。彼の軍隊は前三三四年にペルシャに向かって進軍し、いたるところで意識的にギリシャ風を押し広めた。前三三三〇年最後のペルシャ王ダレイオス三世が部下の手にかかって死んだとき、アレクサンドロスは殺されたペルシャ王の正統な後継者で復讐者であると自称した。とはいえ、それ以後も彼はギリシャ的模範にあくまで忠実に、都市の建設者としての役をまもり、またギリシャ的英雄像の体現者になろうとした。すなわち彼は、全世界を征服しようとしたのである。だが、彼の軍隊は、ペルシャ帝国の東の果てまで平定しインド北東部に攻め入ったあと、疲れ果ててガンジス流域に進軍することを拒んだので、アレクサンドロスはひどく失望した。彼はインダス河を河口まで下りそこから陸路バビロンまで進軍する困難な旅をつづけて帰還したが、そのあとこの常勝のマケドニア王は突然熱病にかかって死んだ(前三二三年)。

軍隊を率いて大事業に乗り出してから十二年足らずの後に彼を襲ったこの予期せざる死は、彼の部下の将軍たちの争いの発火点となった。正統な後継ぎとして彼の死後に生まれた息子は、その最初の犠牲者のひとりだった。半世紀近くつづいた戦争状態のあとでやっと、どうにか安定した三つの王国が出現した。いずれも王はマケドニア将軍の後裔で、エジプトのプトレマイオスの王国、アジアのセレウコスの王国、それにマケドニアのアンティゴノスの王国である。三者のなかでプトレマイオス王朝のエジプトがはじめのうちは最強だった。プトレマイオスは海上ではアンティゴノスとエーゲ海の覇を競い、陸上ではパレスティナとシリアの帰属をめぐってセレウコスと争った。

ギリシャの移民

プトレマイオスの帝国もセレウコスの帝国も、その基礎の多くの部分をギリシャ人の移民に頼っていた。何千というギリシャ人が大挙して故郷を離れ、異郷でなんらかの幸運を見出そうという希望を持ってアレクサンドロスの大遠征のあとについて来たのだった。そのある者は政府の行政官になり、ある者は軍隊に入り、またある者は特殊な軍事植民地で農民として定住した。だが大部分の者は都市の住民になり、役人や商業その他種々雑多な自由職についた。すなわち商人、医者、建築家、書記、徴税請負人、職業的運動家、俳優等々になったのである。

この大量の移民現象はギリシャの経済的な実力が低下したことの表れでもあり、その原因でもあった。アレクサンドロスの遠征のあった一世紀間に、各所で田野は荒れ果て村々はからになった。市民である農民はますます農地を放棄し、奴隷や外国人が彼らにとって代わった。だがある意味では、こうした変化はギリシャ社会を、中東では大むかしからつづいている型に合致させたに過ぎないとも言える。ギリシャ文化の開花期にしばらくの間支配的だった、農民と都市居住者の間の密接な連帯意識は消え去ったのだ。大部分が地主で田舎から年貢を取り立てている都市の上層階級と、粗野な小農の間には、深い、埋めることのできない断層が横たわっていた。また都市の貧民と、富裕な教育のある上層階級の間にも同じくらい大きな断層があった。そして後者がますます、経済的、政治的な舞台の支配者になっていったのである。

このような社会の分極化は、中東ではずっと前からあたりまえのことだった。これは実に文明の代償だったのだ。なぜならば、生産手段や輸送手段が技術的に限られている時代には、もしある人々が、高い文化を身につけ、それをさらに高めるために暇な時間を持つべきであるとするならば、ほかのある人々は自由な時間なぞ全然ないことが絶対に必要だからである。古典時代自体、実はこの宿命を免れなかった。アテナイはその偉大だった時代には、エーゲ海、黒海沿岸のあらゆる弱少都市に対して、一個の略奪者だった。自分たちの利益をこのようにして獲得するために、アテナイの市民はみな力を合わせて働いた。そして富と閑暇を、個人的な消費よりもむしろ公の華やかな事業に費やした。だが集団的な搾取行為も、巨視的に見れば一個の地主が小作人を圧迫するのと苛酷さにおいて大差ない。そしてまた、従僕や家来や教師、それに職業的にさまざまなサービスをする連中を周囲にしたがえた教養ある地主たちの一団が、平等な市民の構成する帝国主義的な一都市と比べて、かならずしも、非人間的だとか非文化的だとか言うこともできない。その平等性の基盤は、貢賦金だとか、略奪だとか、従属国に正義の法を施行してやると称して得られる儲けなどから、滔々として入ってくる金によるところが大きいからである。

ギリシャの高い文化が、小作料と政府支給の給料に収入の基礎を持つ都会の上層階級のものとなるにつれ、ギリシャ文化は以前に比べてはるかに輸出しやすくなった。アテナイとかスパルタのような都市が出現するためには、もろもろの事情がよほどうまく噛みあわなければならない。ところが、今ではどんな地主でも、充分な現金収入さえあれば、ギリシャ的な教育を受け、ギリシャ流儀を学び、彼の住んでいる町の社会構造を改めるという点だけは別として、あらゆる意味で一個のギリシャ人になることができた。

それ故、ギリシャ人が中東にどんどん入っていったとき、ギリシャ文明は、本国でますます顕著になっていくこうした都会的、上流階級的な性格のために、各地の社会を支配してきた地主その他資産家階級の間に広がってゆくのが余程たやすくなったのである。ギリシャ的生活様式は、裸体でする競技や踊り子から哲学や詩まで含めて、こういう人々に強く訴えた。ギリシ人はだいたいいつでも、こうした新参者がしかるべきギリシャ的教育を受けギリシャの風習を身につけさえすれば、喜んで自分たちの仲間に迎え入れた。あまり豊かでない人々も、ギリシャ語を修得するのが便利でもあり必要でもあると気付いたから、ギリシャ語は、アレクサンドロスの勝利から二、三世紀の間に、アラム語をその地位から追い払って、全東地中海世界で支配的な言語となった。

宗教上の諸変化

最初のうちはすべてが一方交通であるように思われた。中東の人々はギリシャ人から芸術と風習を取り入れたが、征服者の方では、被統治者の生活の中に感心したり模倣したりすべきものはなにも見出さなかった。けれどもすぐに文化的貸借関係はふたつの道をとりはじめたのである。特に町に住む低い階層の人々は、中東のいろいろな宗教が与えてくれるこの世界についての説明が、従来の伝統的なギリシャの宗教から彼らが引き出し得たものに比べて、はるかに満足すべきものであることに気が付いた。もはやオリュンポスの神々をまじめに受けとる者はいなくなった。オリュンポスの神々への崇拝は公の祭典や都市的規模での行事とわかち難く結びついていた。ところが、地中海世界の大都会に住む貧しい者、つつましく暮す者は、自分たちひとりひとりが苦しんでいる時に慰めてくれ、より良き未来、よしそれがこの人生ではなく次の世のことであるにせよ、未来への希望を与えてくれるような宗教を必要としていたのである。

教育ある紳士たちはまださまざまな哲学者の立てた精緻な学説の方を好んだ。これらの哲学は、細部においては重要なちがいはあるにしても、すべて、良き智恵とは、人に極端さを避けることを教え、過大な事柄に心を向けないことをすすめるものである、心を外に向ければ外的なものへの執着が生じて、自分自身の不動心と自制力が乱されるからだ、とする点では一致していた。公の事柄がはるか彼方にいる君主と悪質な従臣の手にあるような時代には、人生に本当に重大な危機が訪れないかぎり、このような教えは、私的な生を生きるためにすぐれた意味をもっていた。しかし災厄がやって来た時――その災厄とは、東地中海世界のヘレニズム的紳士たちにとっては、荒々しいローマの兵士と役人が彼らの花園を踏み躙り、彼らに、払いきれぬほどの重税と賄賂と身代金を強要した時を意味するが、哲学の慰めはにわかによそよそしく冷淡な、何の役にもたたないものとなった。こうした事情のもとでは、上流階級の人々も、もっと個人的で心の琴線に触れるような信仰への欲求を感じはじめたのである。

いくつかの宗教がギリシャ的要素と中東的要素を結合してこの要求に応えた。そのころはまだ力に溢れ情熱的な確信に満ちていたユダヤ教に惹かれたギリシャ人も少しはいた。けれども、敬虔なユダヤ人がギリシャ的風習のあるものに感じた嫌悪の情のため-特に競技場での裸体などはユダヤ人の神経を逆なでするものだった――、ふたつの文化の間に妥協点を見出すのは困難であった。ほかの、例えばミトラ神信仰とかセラピス神信仰などはもっと融通性に富んでいたから、中東的なものの考え方や祭式とギリシャ的なそれとの結婚をもたらした。だから、世界を有神論的に解釈しようとする全体的傾向は、ローマの征服によって東地中海世界の政治的秩序が根底から覆ってしまう以前から、ギリシャ人の間に見られていたのである。

209『世界の歴史④』

オリエント世界の発展

アレクサンドロスの登場

遠征の起源

ギリシア人の都市国家の市民たちは、地中海各地で植民都市を建設して以来、内陸部の異民族と接触を持つに至った。そのうちに、ペルシア帝国の王ダレイオス一世(在位前五二二~四八六年)は、紀元前四九六~四九四年の間に、アナトリア西岸でイオニアのギリシア人植民都市の叛乱に直面していた。ギリシア人たちは、ペルシア帝国の成立によってエジプトの市場と黒海沿岸部の取引先を奪われたので、とりわけミレトスのような商業都市の場合、経済的損失が大きく、それがペルシアの支配に対する不満の念を呼び起こしたのである。ミレトスの叛乱は前四九四年に鎮圧された。

しかし、ダレイオスはアテナイやエレトリアが派遣した援軍とイオニアのギリシア人によるサルディスの掠奪に怒り、紀元前四九二年から翌年にかけてトラキアの海岸部とタソス島を占領した。さらに、前四九〇年にはペルシア軍は海路エーゲ海を渡り、マラトンに上陸した。次の戦いは前四八五~四七九年に起こった。ギリシア側はコリントに反ペルシアの諸都市が集まり、同盟を結んで対抗したが、テルモピュライの戦いで敗れ、アテナイも占領された。しかし、前四八〇年のサラミス沖の海戦から翌年のセストスの戦いまででペルシア軍は撃退された。これ以後、ギリシア側には報復を狙う勢力が常に存在した。その代表の一人は弁論家のイソクラテスであり、前三八〇年ころ、ギリシア諸都市の大同団結、イオニアなど海岸の植民都市の独立、そしてアナトリアの解放を主張した。

このように、かつてのペルシアの侵入に対する報復という動機は消え失せることがなかったが、やがて異なった社会体制下にあった北方の好戦的ギリシア人であるマケドニア人の征服欲のおかげで、それが実現することになった。カイロネイアの戦いで反マケドニア勢力の抵抗を粉砕したフィリッポス二世は、その年(前三三八年)に結成された新コリント同盟の会議によって、ギリシアに対する支配権を認められ、同時にペルシアに対する報復の宣戦決議を勝ちとった。その際、ギリシア人の多くはタウロス山脈に至るまでのアナトリアに新しい植民を送ること、紀元前三八六年の講和条約以来ペルシア人の支配下に置かれてきた諸都市を解放することだけを望んでいた。

それから三年間はペルシア遠征の準備に費やされたが、紀元前三三六年にはフィリッポスが謎の暗殺事件の犠牲者となり、その子アレクサンドロス(アレクサンダー)が二十歳で王位についた。

彼はホメロスの叙事詩に出てくるような英雄になって、アキレスのような事業を成し遂げたいと思っていた。彼の優れた素質は幼少の時から明らかで周囲からも大成を期待されていた。この若者の性格はロマンチックであったが、体質はむしろひ弱で、空想が果てしなく広がる傾向もあった。父からは組織力、軍事的才能を、師アリステレスからは釣り合いの取れた知識を受け継いでいた。他方、ペルシア帝国は紀元前五世紀の末になると明らかに衰退し、最後の王ダレイオス三世(在位前三三六~三三〇年)はアレクサンドロスとはまったく比べものにならない人物であった。

アナトリアへの侵入

すでにフィリッポス王は生前に将軍パルメニオンを使って、アナトリアに予備的侵入を実施していた。アレクサンドロス自身は紀元前三三四年春にダーダネルズ海峡を渡ったが、コリント会議の決議が大義名分であったとはいえ、彼の狙いはそのような小さなものではなかった。そのことは、彼が地中海アジアを征服していくにつれて次第にはっきりしていった。

彼の最初の兵力は一説によれば、歩兵三万と騎兵四○○○といい、他の説によれば、歩兵四万三〇〇〇と騎兵五〇〇〇といわれているが、その中核は「仲間」と呼ばれたマケドニア貴族の重装騎兵と長槍を持った密集歩兵部隊であった。彼はまずトロイに行き、アテナ女神に供犠を行い、ホメロスの英雄たちの霊に酒を注いだ。トロイ攻囲戦中に死んだアキレスの墓標には油を塗り、慣習に従い、自分も裸になって仲間と競走してからそこに花環を掛け、アキレスは生前には真実の友人(パトロクロス)を持ち、死後には偉大な報告者(ホメロス)を得たことは幸福であったと述べた。

ペルシア軍との最初の対決はトロイの近くを流れ、マルモラ海に流れ込んでいたグラニコス川の河畔で行われた。ペルシア王自身は来ていなかったが、彼の将軍たちが領内諸地方から寄せ集めた大軍、とりわけメムノンの率いるギリシア人傭兵隊が渡河地点に陣を布いていた。ここでの決戦を避け、退却すべきであるというメムノンの意見は通らなかった。川の流れは深く、対岸には高低があり、多くの者が恐れを抱いたが、アレクサンドロスは騎兵部隊を率いて水に飛び込み、対岸に達するや白兵戦となった。ペルシア側で最後まで残ったのは、ギリシア人の傭兵隊であった。この戦いによるペルシア側の死者は歩兵二万と騎兵二五〇◯といわれ、アレクサンドロスの側の死者は合計三四人であった。

その後、アレクサンドロスはアナトリア西岸を南下し、サルディスとエフェソスをペルシアの守備隊から解放した。また、マグネシアやトラレスは降伏した。総督たちの拠点となっていた内陸部の町々や抵抗したミレトスやハリカルナッソスは包囲され、降伏した。これらの諸都市については自治を認める旨、宣言されたが、コリント同盟に貢税することになった。

アレクサンドロスはさらに内陸に向かい、パンフィリア、ピシディア、フリュギアを征服し、アンカラに至った。かつてのフリュギアの首都ゴルディオンでは、灌木の硬い皮で縛った車を見た。現地の人々の伝えるところでは、この結び目を解く者には全世界の王になる運命が定められているということであった。王はそれを解こうと努力したが失敗し、剣で一刀両断した。この物語は彼の世界支配への野心を暗示している。そのころ、強敵メムノンが死んだという情報が伝わった。それを聞いて勢いづいたアレクサンドロスはパフラゴニアやカッパドキアを平定し、アナトリアの征服を完了してから南下し、キリキアの関門を越えて、地中海岸に達した。

イッソスの戦い

紀元前三三三年十一月にはキリキアの南部、シリアに近い海岸にあるイッソスで二つ目の会戦が起こった。そのころまでに、ダレイオス三世は約六〇万の軍勢を率いてスサを出てシリアに向かった。この間、アレクサンドロスはタルソスの近くの川で水浴した際に病気にかかり、休養をとっていた。ダレイオスは驚くべき分量の物資、家財道具類をダマスカスに残し、キリキアから南下し、他方アレクサンドロスはいったんシリアに入り、そこから北上し、互いに自軍に有利な場所を求めて動くうち、イッソスの隘路で対戦が起こった。この時は両王は直接対決して討ち合い、アレクサンドロスは腿を短剣で傷つけられたと伝えられる。しかし、地形は少数精鋭の機動力を誇るギリシア側に有利であり、ペルシア軍は一一万人を失い、ダレイオス自身は乗っていた戦車と弓を棄てて逃亡した。

現場に残されたペルシア軍の陣営、とりわけダレイオスの天幕には、ギリシア人の目から見ると信じがたい量の財物が放棄されていた。また、ペルシア王の母、妃、娘二人も捕虜となった。後になって、ダマスカスに送られた将軍パルメニオンとテッサリアの騎兵部隊はそこでも大きな利益を得た。実は、この都市にはギリシアの各都市国家の代表が秘密裡に先まわりして入り込み、この段階で戦争を終結させようとしているのが発見された。

他方、逃亡したペルシア王は、しばらくすると使者を三度にわたってアレクサンドロスのもとに送り、捕虜となっている身内の女たちの返還を求め、またユーフラテス川以西の帝国領土の割譲を申し出た。そして、友好条約を結び、同盟者になろうとも提案した。アレクサンドロスはこれに応えて、それまでのペルシアのギリシアに対する仕打ちがもとになって、自分が総司令官としてペルシアを罰するためにやって来たが、投降すれば罰しないし、何でも返還する。しかし、これ以上戦うならば、どこまでも追いかけるであろう、と述べた。要するに、ダレイオスの窮余の提案は拒否され、アレクサンドロスの狙いはペルシアの王位であり、ペルシア帝国全体の征服であることが明らかにされたのである。

とはいえ、彼は当面はペルシア王をすぐに追うことをせず、ペルシアの地中海への出口であったシリア・パレスティナとそこで活動していたフェニキア艦隊を押さえ込むために、海岸線を南下した。フェニキア諸都市の王は早速やって来て降伏し、その中にはビュブロスとシドンも含まれていた。シリア・パレスティナの内陸部は、後になってパルメニオンが征服した。

フェニキアからエジプトへ

ティルスの包囲

ティルスは出島を中心としたフェニキア第一の古都であり、ソロモンの誇り高い交易相手であり、ペルシアへの海軍の提供者でもあった。アレクサンドロスに対しては徹底抗戦の構えを取り、紀元前三三二年の一月から七月までの七ヵ月間の包囲に耐えた。ギリシア軍は本土から出島に向かって盛り土による通路を海中に設置し、攻城具で城壁を攻めたてた。また、海からは二〇〇艘の三層櫂船を使って攻撃した。夏になって、アレクサンドロスはそれまで多くの戦いをさせてきた軍隊の大部分を休息させて、敵には休息を与えないために少数の兵士を城壁に向かわせていたが、予言者の言葉に基づいて、突然合図のラッパを鳴らし、大部分の兵士を動員して攻撃をかけたので、ティルスの人々は戦意を喪失して、市は陥落した。この時、八〇〇〇人の市民が死に、三万人が奴隷として売られた。

ティルス攻囲戦の直接の原因となった事情は、実は軍事的なものではなかった。アレクサンドロスがティルスに向かって進軍した時、この市の使節に対し、彼は市の首神メルカルトに供犠を捧げたいと申し出た。ところが、使節はそれを拒否したので、平和のうちに事が運ばなかったのである。アレクサンドロスがこのような申し出をしたのは、メルカルトがかつてはヘブライ人の間にも広がった有力な神であったというよりも、少なくとも紀元前十世紀中葉以来知られた有名な神として、ギリシア人の間ではヘラクレスと同一視された英雄神であったからである。アレクサンドロスの父方の祖先はこの英雄神とされており、彼はそのためことさらに、この神に供犠をすることを望んだのである。しかし、ティルスの使節の拒否に遭い、いたくプライドを傷つけられたにちがいない。

史家アリアノスによれば、市が陥落した時「メルカルト神殿に逃げた者たちの中には、身分のあるティルス人たち、王アゼミルコス、また昔からの習慣に従って、ヘラクレスに祈りを捧げるためにこの母市に来ていた若干のカルタゴ人がいたが、アレクサンドロスはこれらすべての人々に全面的赦免を与えた。・・・・・彼はメルカルトに供犠を捧げ、この神を讃えるために全軍に武装させ、行進させた。また、この神を讃えて観艦式も行った。アクサンドロスは神殿境内で競技会や松明リレーを開催した。彼はさらに、メルカルトに捧げられたティルスの聖なる船を神殿に奉納した」。軍隊の観閲式やスポ―ツの祭典は、英雄神の崇拝にふさわしいものであった。ではなぜ、アレクサンドロスはメルカルト神殿に逃げ込んだ人々を許したのであろうか。

それはこの神の崇拝には、緊急事態、とりわけ生命の危険に直面した人々に無条件で保護を与えるアジール(不可侵の避難所)の制度が含まれていたためなのである。この制度は日本の駆込寺のそれに似て、洋の東西を問わず存在しているが、地中海アジアのアジール制度を代表するものは、メルカルトのものである。この神には人類を救済する英雄としての神話が伝えられている。それによると、彼はフェニキア人の神々の歴史において、第五代目の神であり、生誕時には将来の英雄にふさわしく捨子伝説の主人公であった。長ずるに及んでギリシアの英雄神ヘラクレスと同じく数々の功業を成し遂げるが、その中心テーマは人類の救済であった。このようなメルカルト崇拝はアレクサンドロスの時代には、フェニキアはもとより、地中海域や地中海アジア全域に広まっていた。

アレクサンドロスはこのような神話とアジールの特権を認めた上、自らメルカルト神の祭司として行動し、進んでティルス人の反抗の罪を許した。ここには、彼の宗教的権威の増大と現地人の制度の踏襲へと向かう傾向が見られ、これはやがてペルシア帝国の継承に連なるのである。

ガザからエジプトへ

アレクサンドロスに抵抗したもう一つの都市がパレスティナの南部海岸にあった。それはガザである。ギリシア軍がこの市を攻城具を使って攻めていると、一羽の鳥が飛来して土の塊を落とすという出来事が起こったが、それがアレクサンドロスの肩に当たって負傷した。予言者によってこれは吉兆とされ、ガザは二ヵ月の包囲の後に陥落した。アレクサンドロスがガザを重視した理由は、ティルスと同じではなかった。当時、アラビア北部かパレスティナ南部ではアラブ系の民族ナバテア人の香料貿易が開始されており、ガザ市民はそのルートの地中海岸の終点として豊かな生活を営んでいた。ギリシア軍が狙ったのは、そこの香木や没薬草の大量ストックであった。アレクサンドロスはそれらを没収し、故国の母オリュンピアスや妹に送っている。

アレクサンドロスはそのまま南下してエジプトの首都メンフィスに入城した。彼はエジプト人たちからペルシアの支配からの解放者として歓迎された。紀元前三二二年から翌年にかけてのエジプト滞在中に、アレクサンドロスはナイル川のはるか西方、シワのオアシスにあったアンモン神の神託をうかがうために、軍勢を引き連れて長い旅に出た。アンモンはギリシア人によってゼウスとされており、ペルセウスやヘラクレスのような英雄たちの父であったことが、アレクサンドロスの興味を引き、自分の生い立ちやこれまでの経験の意味について神慮を聞きたいと思ったのである。

彼の一行はまずリビアの海岸を西進し、その後内陸部を南下し、水不足と砂嵐の中を何間もの旅の果てに聖地にたどりつくことができた。途中何度か道に迷ったが、蛇と烏とが導いたといわれている。アンモンの神域は円形の廃墟をなし、ほぼ七キロメートル四方あり、オリーブや棕櫚などが茂っていた。アレクサンドロスは自分の質問に対して、神託から望み通りの答えを得てメンフィスに帰ったとされる。

その内容は第一に、父王フィリッポスの謎の暗殺事件をめぐるもので、下手人はすでに復讐を受けたとの答えがあり、アレクサンドロスはそれに満足した。第二に、自分がこれから征服を進め、人間全体の主権者となれるかという質問をしたところ、それは許されるとの答えを得た。彼はまた、エジプト人の神学者から、自分は神の子としてアジアの王となると告げられたらしい。これらの物語は最古の文明の地でのアレクサンドロスの精神的関心事を暗示している。

他方、彼は自分の名をつけた、人口の大きなギリシア風の都市を建設して残そうと思い立ち、ナイル川デルタ地帯の最も西側の分流カノボスの河口とその近くのファロス島を選び、建築家を使って、測量や市街の区画を試みた。彼は地面に描かれた未来の都市のプランを見て非常に喜び、人々に工事の着工を命じた。これが後にアレクサンドリアと呼ばれることになった大都市の起源であり、これ以後、全アジアに碁盤目状の道路網を持つギリシア風の都市、すなわちヘレニズム都市が次々に建設されることになった。一説によれば、この時アレクサンドロス自身が定めたのは、アゴラ(市場)、ギリシアやエジプトの神々、例えばイシス女神の神殿、城壁などの位置だけであったという。

その後のアレクサンドロス

アレクサンドロスは紀元前三三二一年のはじめにフェニキアに戻り、神々に供犠を行い、再び行列や詩と悲劇の競技会を盛大に催した。そして、ユーフラテス川以西の地方を全部自分の領土とした後、同年六月に一〇〇万の軍勢を率いるダレイオスに向かって進んで行った。結果は、インドまでの征服であった。彼は前三二三年六月、三十二歳の時にバビロンで病死した。彼が自分の作った帝国のその後について、どのような将来像を持っていたかは明らかでないが、地中海アジアについていえば、フェニキアやキリキアの各地に港や造船所を設け、三層櫂船より大きな軍艦一〇〇〇艘を建造し、地中海域各地に遠征しようとしたとか、地中海世界とアジアに多くの都市を設立し、そこで東と西の人種を混血させるとか、トロイにはアテナ女神の大神殿を建立しようとしたと伝えられている。

アレクサンドロスの死後、将軍たちはお互いに後継者としての権利を主張したが、それは結局実力による王座争いを招き、帝国の分裂は決定的となった。まず、バビロンで王の代務者となったペルディッカスを中心にした会議が開かれ、エジプト、シリア、アナトリア各地の統治分担が決められた。その後紀元前三二一年には、ペルディッカスの暗殺を受けて、アンティパトロスが中心となってシリアのオロンテス川上流のトリパラデイソスで、領土分割の協定が結ばれた。その結果、エジプトはプトレマイオスに、アナトリアはアンティゴノスに、バビロニアはセレウコスに割り当てられた。

次の数十年の間は、将軍たちの野心に彩られた混乱の時代であった。まず、隻眼の老将軍アンティゴノスのとどまることを知らない勢力拡大の動きが反対同盟を結成させたが、紀元前三〇六年と次の年にはそれも決定的に放棄され、後継者たちのそれぞれが自ら王と称することになった。

紀元前三〇一年に、アンティゴノスがフリュギアのイプソスの戦いで敗れて死ぬと、さらに二〇年以上にもわたって、息子のデメトリオス、老将軍リュシマコスの時代になったが、彼らもまた敗死した。こうして、セレウコスの時代が来た。彼はイプソスの戦いの勝利者側の中心人物として、メソポタミア、シリア、アルメニアを獲得していた。彼はさらにアナトリアやトラキアをも領有し、母国マケドニアを目指したが、前二八〇年に暗殺された。これによって後継者と呼ばれたアレクサンドロスの武将たちのすべてが世を去った。エジプトを支配したプトレマイオス一世は、すでに前二八三年に病死している。

注目すべき点は、彼らの数十年にわたる闘争はマケドニア人同士の権力争いであり、オリエントの原住民はほとんどそれに参加しなかったことである。それは賢明なことでもあったが、アレクサンドロスが目指した、ギリシア人とオリエント人の文明の融合という理想は完全に忘れ去られていた。しかし、政局が落ち着くとギリシア人がもたらした文明、すなわちヘレニズムはアレクサンドロスに征服された人々に次第に受け入れられたのである。

 豊田市図書館の7冊
010.23マツ『教養・読書・図書館 ヴァイマル・ナチス期ドイツの教養理念と民衆図書館』
167.3ミズ『クルアーン やさしい和訳』
134.97クロ『ウィトゲンシュタインと「独我論」』
141.5グレ『問いこそが答えだ!』正しく問う力が仕事と人生の視界を開く
259.3ハマ『ハイチ革命の世界史』奴隷たちがきりひらいた近代
230.7ケル『分断と統合への試練 ヨーロッパ史1950-2017』
230.5ヴイ『孤独の歴史』
 奥さんへの買い物依頼
豚小間切れ   147
アップルパイ  100
ポテサラ       100

 品番はクルアーン化しよう読み上げた時の心地よさ
 真夜中の予約
 来る日も来る日もクルアーン
 夢の中でずっと作業してた 品番のクルアーンつくり 病院経由でバスで豊田市 スタバに着きました
 目次 構成 品番をアップする方法が見つかりました vFlatは有用ですは
 せーらは卒業以来一切 表に出てきませんまゆたんとかかっきーがせーらの写真集を見て喜ぶ動画もアップされてきません みなみちゃんを思い出す 今頃マチュピチュあたりを彷徨しているかもしれません #早川聖来
それにしても今月はお金がない せーらの写真集2冊で5000円弱使ったけど 生活費支給までの10日間でショート ついに 奥さんに1万円借りてしまった

 豊田市図書館の7冊
010.23『教養・読書・図書館』ヴァイマル・ナチス期ドイツの教養理念と民衆図書館
167.3『クルアーン』やさしい和訳
134.97『ウィトゲンシュタインと「独我論」』
141.5『問いこそが答えだ!』正しく問う力が仕事と人生の視界を開く
259.3『ハイチ革命の世界史』奴隷たちがきりひらいた近代
230.7『分断と統合への試練』ヨーロッパ史1950-2017
230.5『孤独の歴史』

『世界史の発明』

2023年09月11日 | 4.歴史
『世界史の発明』

国民国家を超えて一九四五年~二〇一八年

冷戦を超えて

一九七五年、アメリカはインドシナ半島か車を引き上げ、南ヴェトナムの首都は北の共産主義者の手に落ちた。そのとき、南ヴェトナムから多くの人々が国外へ脱出した。海を漂うあいだにおおぜいが命を落とし、さらに多くのが外国での屈辱的な貧しい暮らしに身を落とした。ヴェトナム戦争の巻

き添えで疲弊したカンボジアでは、機関銃を持った一〇代の若者ばかりで構成する共産主義の中核グル―プにより、およそ六〇〇万人が死に追いやられた。両国の破壊の度合いは凄まじく、復興は不可能と思われたが、両国とも生き延び、再編され、再建され、一世代のうちに両国とも(特にヴェトナムは)十分にまとまりのある、十分に平和な、微妙に共産主義的な国に生まれ変わった。冷戦の時代を経験した私たちのほとんどは、このような変貌が可能とは想像もしていなかった。

一九七五年、第三世界ではいまだ所々で新たな武力衝突が起きていたため、冷戦が終わりに近づいているとは誰も思わなかった。一九七八年、アフガニスタンで国内の共産主義者が権力を握ると、その権力維持のためにソ連がアフガニスタンに侵攻し、対するアメリカはただちにアフガン反政府勢力を支援した。多くの政治の専門家の目には、アフガニスタンはありふれた冷戦の戦場に見えた。しかし実際は、ソ連がアフガニスタンに侵攻した頃、彼らの帝国は内側から崩壊していた。アフガニスタンは結局、冷戦最後の戦いではなく、新しい戦争の最初の戦いだった。欧米の軍はまもなく、共産主義も資本主義も区別しないイスラーム原理主義者と戦っていることに気づく。

革命家たちはその後、CIAが支援する近隣国イランの王を追放するが、これもソ連のためではなかった。ここでも、勝者は自らを「イスラーム革命」の戦士であると宣言した。この言葉――イスラーム革命!―は、長年ムスリム世界の歴史物語が浸透している地域、すなわちミドルワールドに響き渡っていた。そこでは、多くの人々にとって、イスラームのナラティヴのなかに自身の不満を位置づけることで、不満が理解しやすくなった。あっと突然、思い当たる。これですべてつじつまが合う。共産主義対資本主義のストーリーは、イスラームの中心地では、この種の意味付けのパワーを持っていなかった。

新しい戦争が始まろうとしていたのは、ちょうど主権の概念が破綻しかけていた頃だった。残念なことに、国民国家体制はこの概念に依存していた。もし国民国家が主権国でないなら、それは国民国家ではない。主権国とは、他国の干渉を受けずに自国の規則を決める、すべての権利を有する国を意味する。またこれは、ただ領土を奪うために他国に侵攻してはならないということも意味していた。征服は大昔の帝国がやっていたことであり、そんな日々は終わったのだ。カエサル、チンギスカン?とっくの昔に死んでいる。二〇世紀後半には「戦争省」をもつ国に足を踏み入れることなく、一万マイルを通過できた。もちろん、どの国も軍隊はもっていたが、これら軍隊を管轄する政府機関は普通、国防省(など)と呼ばれた。攻撃を防衛的な動きに見せかける方法を考え出すのは、重要な戦争スキルになった。そして一九八〇年、イラクの独裁者サダム・フセインが一般的な道理に反する行動に出た。彼は高尚な口実も用意せずに、隣国イランを攻撃したのだ。イランの石油と領土が欲しいという本音を隠しもしなかった。フセインは、革命後の混乱でイランを簡単に落とせると睨んだらしい。このような所業は、かつて王たちが行っては成功した暁には-それで利益を得る者たちから拍手喝采を浴びていた。恥は負けた場合に限り、侵攻そのものは恥ではなかった。フセインにとってそれは首尾よく行かなかった。戦争は両国の血を八年間も啜ったあと、膠着状態で終わった。どちらも勝者ではなかった。

しかし、主権の概念は打撃を受けた。

打撃はそれだけではなかった。一九八九年、アメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュは、主権国であるはずの他国パナマの大統領マヌエル・ノリエガを「逮捕」し、アメリカの麻薬取締法に違反したとしてアメリカの法廷で裁いた。ノリエガは有罪判決を受け、アメリカの刑務所に収監された。逮捕だと?それは政府が自国の法律を破った者だけに許されることではないのか?それどころか、主権の原則によれば、それこそ、ある国が他国の市民――特にその国の首長-にできないことではなかったのか?

同じ年、革命イランの新しいリーダー、アヤトラ・ホメイニは、イランで禁止された本を書いたとして、イギリス市民、サルマン・ラシュディを非難し、彼に死を宣告した。宣告だと?それは主権国の法廷が自国の法を破った人にすることではないのか?ラシュディはイギリス市民で、イランには住んでおらず、それまで住んだこともなく、将来もそのつもりはなかったため、ホメイニにはそんな権限はないはずだ。ところがホメイニは、ラシュディを処刑できるところにいるムスリムは誰でもそれを実行せよと命じ、主権は国民国家に属するのではなく、政治的国境を超えた宗教共同体にあるのだと暗に主張した。これにより、イギリス人ムスリムは二つの重なり合う「星座」のなかの星になった。自分はどちらの星座に属しているのだろう?両方というのはあり得ない。そして、ラシュディの支援者たちは、主権問題も無視しがちになった。彼らがラシュディを擁護した理由は、言論の自由に対する彼の権利が侵害されたからだった。要するに、イギリスの主権では、その枠組みを超えてくる高位の掟からラシュディを守ることはできないと諦めたのだ。彼らはただ、それら超国家的な掟とはどういうものかを議論しただけだった、支援者たちは、イギリスよりも大きな星座、全人類ぐらいの星座を思い描いた。その掟には、言論の自由に対する権利が含まれ、彼らの見解ではホメイニさえも、それを尊重する義務があった。

一九九〇年、多くの国の市民が結束し、南アフリカ政府に対して、先住のアフリカ人にも白人と同じ市民権を認めよと訴えた。アパルトヘイトは当時、南アフリカの法制度の一部だった。主権を尊重するというルールに従えば、他国の市民はこの問題に立ち入れない。それでも反アパルトヘイト活動家は、高位の掟に、つまり(まだ)存在していない世界国家の法律に訴えた。彼らは、世界市民となるのも夢ではないと語っていた。彼らの訴えには、世界大戦直後に国連が発行した「世界人権宣言」をそれとなく想起させるものがあった。

ついに二〇〇一年、どの国とも関係のない世界で活動する組織アルカイダが、主権国であるはずのアメリカ合衆国を攻撃した。その後、世界は大なり小なり多くの戦争に巻き込まれ、そこで敵対する集団は国民国家の場合もあったが、独立したゲリラ軍や個人が集まった秘密結社が多く、たまには一般の人が聞いたこともない秘密の教義に突き動かされた一匹狼も混じっていた。戦争と犯罪の境がぼやけ、のあいまいな境界から「テロリズム」とそのドッペルゲンガー、「対テロ戦争」が生まれた。この新しいグローバル紛争はスムーズに冷戦の跡を継いだ。ちょうど、冷戦が先の世界大戦の灰の中から現れた

ように。

多国籍企業

主権が侵害されつつあるとき、国民国家体制は別のライバルとも戦っていた。世界大戦後、かつてないほど大きな企業体がその手足や身体の一部を国の境界の向こうへと広げ始めた。イギリス東イン社などの巨大企業は、実際最初から世界を股にかけて活動していたが、それは常に故国の政府のパーナーとして、あるいは国の代理としてだった。

しかし、いまや企業と国との関係は弱くなっていというのも、多国籍企業は仕事ごとに最適な環境を求めて複数の国に分散しているからだ。たまたま鉱石が採れるところで採掘し、労働力が安く賄えるところで製造し、進んだ教育制度のおかげで専門家や技術者が大量に生み出されるところで知的な業務を行い、税制が有利なところで金を銀行に預け、人々が可処分所得をたっぷり持っている国でマーケティングと販売を行うといった具合に。いくつもの国境線で封じ込められている会社は、このような企業には太刀打ちできない。

多国籍企業は、他の企業と同じく、そこで働く特定の人間とは別のアイデンティティをもった。しか多国籍企業の目的は、受入国の目的と必ずしも一致しなかった。多くの政府のもとで運営しながら多国籍企業は一国の政治的管轄に含まれなかった。ある政府が多国籍企業に好ましくないことを要求してきたら、別の国民国家に軸足を移せばいい。このように、主権国の政府と対等に渡り合う力をもった多国籍企業は世界の舞台で活躍する独立したプレイヤーになった。多国籍企業の出現により、グローバル経済が台頭したが、グローバル政府は現れなかった。

一九七〇年代半ばまでには、少数ではあるが一部の多国籍企業は、多くの国の国内総生産を超える資金を現金でもっていた。もし企業が国だったら、そのうち一七社は上位六〇か国に入っていただろう。〈ゼネラル・モーターズ〉はそのリストでスイスの下の二一番に入り、〈エクソンモービル〉とダッチ・シェル〉はトルコとノルウェーの上にランクインしただろう。

時が経つにつれ、自由貿易という言葉が国家間の協定協議の場でひんぱんに出るようになったが、それらの交渉は、正確には貿易についてではなく、少なくとも全面的に貿易に関するものではなかった。貿易とは人間の集団同士で行われるものだ。両者とも自分が持っているものと他人が持っているものの交換を望む。二〇世紀後半の自由貿易交渉では、多国籍企業の活動を妨げている国境の壁を取り払うことが主な議題となった。そうした交渉は、国民国家が帝国から生まれたように、国民国家体制の子宮から生まれる巨大な新しい社会有機体の利益に貢献した。

一九九五年、GATTははるかにグローバルな「世界貿易機関(WTO)」に生まれ変わった。GATTには二三か国が加わっていたが、WTOは一二三か国が加盟した。GATTは多くの国々の協定に過ぎなかった。WTOは常設の事務局をもつ意思決定機関だった。その役割は、既存の協定の監視にとどまらず、変貌する世界で貿易を滞りなく行うのに必要な新しいルールをつくることだった。WTOもIMFもその同類も、政府機関に似た働きをしたとはいえ、どこの政府の代理でもなく、既存のものに代わる新しいグローバル管理システムの種だった。

それでも国民国家は存続した。国家は、人間の心に簡単には消えないほど深く埋め込まれたために存続した。ひとつには、ほとんどの人は自分の国籍をアイデンティティの一部と感じていたからだ。自分はフランス人だ、日本人だ、ブラジル人だと言うとき、彼らは自分が何者であるかについて何か重要なことを言っている。誰も(まだ)自分はフォード人だ、エクソン人だ、グーグル人だとは言わない。そして、グローバリズムの反動が来たとき、人種と原意主義意図に則して解釈すべきとする主張の考え方にもとづき、地球よりもはるかに小さい集団アイデンティティを主張する「移民排斥主義者」集団という形で現れることもある(「ここは我々の土地。我々のほうが先に来た」)。このような集団は、感情の燃料としてナショナリズムに頼り始める。そして、ナショナリズムが人間の心を支配するようになると、その暗い糸の一部が表面にも現れてくる。たとえば、過激な人種差別主義はその糸の一本だ。

欧米では、刑事司法といった、直接利益は得られないが社会生活にとって必要とされる多くの側面を、政府が依然として担っていた。しかし、巨大企業はその資金力を使って、政府の政治機構を自分たちの執行管理機関として利用できるし、またそうしてきた。巨大企業はこれを、名目上の民主国家でも利用できた。民主国家では、市民が自分たちの要求に応える政府を選ぶことになっているが、選挙には金がかかり、多国籍企業はそのための資金を大量に所有しており、社会の意思をまとめるのにその資金を戦略的に使えるからだ。中国は国民国家というより文明国家であるため、その代替モデルを示しているように思える。しかし中国にも欧米の多国籍企業に相当する企業があり、そのなかには国営企業もあれば民間企業もある。ただし中国では、私営か国営かを問わず、企業は中央政府が管理する世界規模の社会の一部として運営される。一〇〇〇年前の中国の「星座」は死んでいない。変わっただけで、いまだに存在している。

単体として機能するために、多国籍企業は物理的に何千マイルも離れた無数の人々の無数の活動を調整する必要があった。これらの人々の一部は溝を掘る。一部は設計図を書く。一部は工場で研磨する。一部は部品を組み立てる。一部はおしゃれな広告を作る。一部は部品を船や飛行機や列車に積み込む。一部は決算のために何行もの数字を合計する。しかも、こうした活動は異なる言語、法律、文化、政治的環境のもとで行われるのだ。すべてのレベルの意思決定者は、他のレベルの意思決定者と同じ考えでなければならない。したがって、膨大な情報が迅速に、効率よく企業全体に流れる必要がある。それが達成されて初めて、大きな企業の各メンバーが相互に結びついた全体の目標に効率よく貢献できる。このように大きく複雑な社会有機体は、数十年前まではまとまりを保てなかった。人間がどれだけ迅速かつ大量に相互に連絡できるかには限界があるからだ。

あるいは、少なくともかつてはそうだった。「かつては」はどんどん過去のものになっている。多国籍企業が次々と生まれている最中にも、テクノロジーは革新的な変化を遂げていた。

ロリウッドはパキスタンのラホールを拠点とする映画産業、ハリウッドはナイジェリアの映画産業を意味する。

これらの巨大企業はいまや、さらに大きな巨大企業と比べると小さく見える。〈アマゾン〉は小売業の独占を目論んでいる。〈フェイスブック〉はソーシャル・メディアの相互交流を完全に手に入れよ

ついに乃木中もリアルで見たくなくなった#早川聖来初回から見てたのに
「代わりはいくらでもいる」という発言をする演出家コミュニティではありえない#早川聖来
「人権問題」には社会を超えた超から見る目が必要好き嫌いで判断する力#早川聖来
個と超が合わさることで人類の未来は開かれる個の核は社会を超える#早川聖来
やはり梅は好きになれない桜が好きです#早川聖来
やっと今日ローマの休日のリメイク版を観に行く1953年は奥さんの生まれた年か
やはり権力ではなく好き嫌いで判断しないと個の存在の力は活かせない個の核から発する好き嫌いの感情で行動できる人#早川聖来
過去に起ったことは今起っていること#早川聖来

『14歳から考えたいナチ・ドイツ』

2023年09月09日 | 4.歴史
『14歳から考えたいナチ・ドイツ』

ユダヤ人

ナチ党のフォルクスゲマインシャフト構想の犠牲となった人びとのうち、最も執拗な迫害を受けたのがドイツのユダヤ系市民でした。一九三三年、ユダヤ人と認定されたドイツ人の数は五〇万三〇〇〇人ほどで、人口の〇七六パーセントに相当しました。そのうち三分の二以上がフランクフルトやベルリンといった大都市に住んでいたため、都会的なブルジョアという典型的なユダヤ人像が生み出されました。教育を受けたユダヤ人が知的専門職や金融と商業、芸術と文学で頭角を現わす一方で、それほど社会的地位の高くない人びとは熟練工や商店主、工場労働者として生計を立てました。一九二〇年代にはユダヤ人が正式に解放され、社会への統合が進められてから一世紀以上が経っており、異教徒であるキリスト教徒との結婚の比率も高くなっていたため、高度に同化が進んだ共同体ができあがっていました。たとえば、一九三三年のヴァイマル市では九〇人のユダヤ人住民のうち三分の一がキリスト教徒と結婚していました。慣例的に「ユダヤ人社会」とひと括りにして言うものの、ユダヤ系ドイツ人は階級と宗教観によって分かれていました。多くの古くからの家系は自由主義的あるいは世俗的な考え方をしており、「東方ユダヤ人」(オストユーデン)と呼ばれる少数派を見下しがちでした。東方ユダヤ人とは、わりと新しく東ヨーロッパから移住してきたユヤ人のことで、国籍をもたず、貧しく、ユダヤ教の戒律をきわめて厳格に守る傾向がありました。

あらゆる種類のユダヤ系ドイツ人が新たに過激な反ユダヤ主義にさらされることは、一九三三年には既定路線となっていました。はっきりしていなかったのは、それがどのようなかたちと方向性になるかだけだったのです。政権はまず、ほかのヨーロッパの国ぐにと同様にドイツにも広がっていた反ユダヤ主義に基づく偏見、とくに公職においてユダヤ人がもっていたとされる「不釣り合いなほどの影響力」に対する人びとの憤りを利用することができました。この有力とされた異人種集団の存在が、ナチ党がドイツのために完全に「解決」すると決定した「ユダヤ人問題」となったのです。その実現までに政権が意図したのは、平等と同化の道筋を閉じて国外移住を奨励し、普通の生活を営み、追い求めることからユダヤ人を除外することだけではありませんでした。「ユダヤ人」と「ドイツ人」のあいだに決してとおり抜けられない壁を打ち立てることも目指したのです。これは人種隔離国家をつくるという意味ではありません。存在するとされたユダヤ人的なちがいは、その構造からして、空間を隔ててふたつの共同体を無理に共存させるのには適しておらず、ユダヤ人の「いない」ドイツにするのがふさわしいとされたのです。とはいえ、その実現方法は、断固たる戦略によって生み出されたというより、ナチ・ドイツにおける権力行使の特徴となっていた競争力学と敵対意識によってもたらされたものでした。

それにしても、「ユダヤ人」とは実際には誰だったのでしょう?このきわめて重要な問いは、通俗的な偏見の問題だけにしておくわけにはいかず、ある種の適用可能な定義が必要になりました。レイシズムの例にもれず、ナチ党の反ユダヤ主義はイデオロギー、疑似科学、頑迷さの寄せ集めだったため、絶対的な正確さや科学的な確証はありませんでした。しかし決定的だったのは、ナチが不当に定義づけをおこない、ユダヤ人が自らのアイデンティティを主張する権利を奪ったことでした。一九三三年以降、「血」を基準にユダヤ人が決定されるようになりました。つまり、キリスト教へ改宗しても人種的にユダヤ人と見なされるのを防ぐことはできず、疑いの余地が残るケースの確定には乱暴な生理的基準が適用されました。ユダヤ人の意見はもはや考慮されなくなりました。一九三三年の初めての人種による公職追放では、「非アーリア人」の子孫かどうかは、両親と祖父母の宗教が根拠となりました。この「アーリア条項」はその後、広範囲に適用され、反ユダヤ主義に基づく差別と迫害が染みのようにドイツ社会に広がっていったのです。

自分の名前から結婚相手、教育を受けられる場所から職業選択、住む場所から余暇の過ごし方まで、なにからなにまで同じ原則で決められるようになりました。また、同じ原則によって、非ユダヤ系のすべてのドイツ人は祖先がユダヤ人の「血」で穢されていないと証明することが求められ、家系調査(Sippenforschung)という新たな巨大産業が生み出されました。

一九三五年九月の毎年恒例のナチ党党大会で開かれた特別国会でニュルンベルク法が採択され、さらに複雑で広範囲な規制が生まれました。「ドイツ人の血と名誉を守る」法はユダヤ人と「ドイツ人ないし同種の血をもつ国籍「所有者」――非ユダヤ人に対して好まれた正式呼称との結婚と性交渉を禁じました。ユダヤ人への完全な市民権を制限する新しい法律とともに、こうした規制が法的にユダヤ人の地位を二級市民へと貶めました。法律の付則では、以前より厳格ではない「完全ユダヤ人」(Volljude)の定義が決められたばかりではなく、複雑な下位区分もつくられ、何万という部分的ユダヤ人、つまり「混血」(Mischlinge)をつくり出し、その混血という地位は引こうとしていた境界線を曖昧にしただけでした。「血」の科学のでたらめぶりが露見すると、分類は結局、正式な宗教的帰属に基づきおこなわれました。

一九三三年以降、ドイツ系ユダヤ人が経験したことは、民衆レベルのテロ行為と国家が認めた迫害が絡み合う予測不可能な力学によって決まりました。同胞のドイツ人が距離を取るにつれ、ユダヤ人の社会的孤立が深まったことも状況を悪化させました。ナチ活動家による剥き出しの暴力が一部の人びとの失望をさそったものの、ユダヤ人の法律違反者に首からプラカードをかけさせて引きまわしたり、明らかにユダヤ人経営とわかる商店をボイコットしたりするなど、儀式化された侮辱と辱めは、非ユダヤ人共同体の連帯を確認する大衆デモをおこなう機会になることもありました〈図版4〉。反ユダヤ主義を煽るプロパガンダは生活のすみずみまで溶け込み、「ドイツ人」と「ユ「ダヤ人」がお互いについて考えたり、人種の境界線を越えてコミュニケーションを取ったりすることができる言葉そのものをつくり変えました。案内板やお知らせで「ここはユダヤ人お断り」や「この町にユダヤ人はいない」とそっけなく告知されました。「ドイツ系ユダヤ人全国代表部」は「在ドイツ・ユダヤ人全国代表部」へと名称変更を余儀なくされ、報道機関も同様に「ドイツ系ユダヤ人」の存在をにおわせる言葉を避けるよう命じられました。

ユダヤ人は国勢調査や住民登録といった書類上で分離され、一九三八年一月図版41935年8月、ヴァイマルの道路に反ユダヤ主義の看板を設置する突撃隊員たち写真にはこんな説明文が添えられた。「ドイツ人の母たちよ!庇護の手をわが子から離すな!ユダヤ人から子供を守れ!」

奥さんへの買い物依頼
ごはんパック 458
磯辺天         298
白菜            78
朝食ヨーグルト           138
三ツ矢サイダー2個    78
家族の潤いマスカット   108
チョコモナカジャンボ    100
豚モモしゃぶしゃぶ用  341
しらす          298
食パン6枚切り          148

イスラーム主義

2023年09月08日 | 4.歴史
イスラーム主義

イスラーム主義とは、イスラームの理念をかかげ、最終的にはすべての面でイスラ―ムの教えにもとづく政治社会体制を樹立しようとする運動を意味する。イスラーム原理主義と表現されることも多い。現在まで続くイスラーム主義運動に大きな影響をあたえることになったのが、ワッハーブ運動である。その思想的指導者イブン・アブドゥル・ワッハーブは、タウヒード(神の唯一性)を強調し、聖者崇拝などの信仰のあり方を多神教的だと排撃した。その思想の主要な部分は、現在のサウジアラビアに継承されている。

イスラーム主義は1960年代から、民族主義や社会主義などの従来のイデオロギーによる社会変革に限界がみられたこと、社会矛盾の激化に不満ももつ人びとがあらたな政治・社会体制を求めたことなどを背景に、徐々にイスラーム教徒(ムスリム)のあいだで支持者を獲得するようになり、1970年代末以降に顕在化した。イラン・イスラーム革命メッカの聖モスク占領事件、ソ連のアフガニスタン侵攻に対するジハード、親米開放路線に踏み切ったエジプトのサダト大統領の暗殺などである。そしてイスラーム教に敵対する勢力に対してジハードを掲げ、武力行動に踏み切る急進派は、パレスチナや東南アジアにもあらわれた。

20世紀末から21世紀初めにかけての時期に中東で生じたあいつぐ戦争には、イスラーム主義の問題に加えて、自国に有利な国際秩序を求める欧米諸国の利害、中東の石油資源をめぐる利権など複雑な問題が絡み合っている。イラン・イラク戦争、湾岸戦争イラク戦争、アフガニスタンにおける武装宗教政治勢力としてのターリバーンの台頭など、中東地域の情勢は混迷をきわめ、さらに2001年9月11日のアメリカ合衆国で同時多発テロ事件が発生して以後、アメリカを中心とする西側諸国では、イスラーム主義がイスラーム教とムスリム全体を代表するものとみなし、それらをみずからと相容れない存在ととらえる考え方が力をもつようになった。一方、イスラーム主義者の側も、イスラーム教に敵対する不信仰者は殺害されるべきという主張を強くうちだすようになってきている。

20世紀とは何か

20世紀とはどのような特徴をもつ世紀と考えるか、歴史家の試みが少しずつはじまっている。その一つが「短い20世紀」と「長い20世紀」の二つの考え方である。「短い」とか「長い」というのは、20世紀を考えるうえで、暦上の100年間より短い期間内で20世紀の特徴を示すことができる場合を「短い20世紀」とし、暦上よりも長い期間にわたる場合を「長い20世紀」という。

「短い20世紀」の考え方というのは、第一次世界大戦中におこった1917年のロシア革命でソヴィエト政権という社会主義国家が誕生したことにより、社会主義対資本主義の両陣営が対立するという基本構図ができたとする。第二次世界大戦では全体主義諸国との戦争で両陣営は同盟関係を形成することになったが、基本的には両陣営の対立は続き、第二次世界大戦後の冷戦を経て1989年にブッシュ(父)アメリカ大統領とソ連共産党書記長ゴルバチョフが地中海のマルタ島で会談して冷戦の終結を宣言し、そしてその後の社会主義国家ソ連と東欧社会主義圏との消滅によって、20世紀は終了したとする。

しかし、この「短い20世紀」の考えはヨーロッパ中心の歴史観に裏づけされているとして、「長い20世紀」を主張する学者があらわれた。彼らは20世紀の特徴を、支配された地域に住む人びとの軍事的政治的・暴力的植民地支配から脱しようとする動きと考え、その始まりを19世紀の最終四半世紀や1870年代に求めた。そしてアフリカ分割、それに続く中国・東南アジア太平洋地域の分割など、ヨーロッパ諸国の帝国主義的侵略の暴力性について言及している。この動きは20世紀における二つの大戦を経て、アジア・アフリカの民族運動において、各地の指導者のもと独自な展開をみせて徐々に、しかし確実に脱植民地化・独立化を進めることになった。

そして21世紀になった現在でも、中国におけるチベット弾圧やウイグル人の独立運動が今なお続く新疆、ロシアによるチェチェン民族運動の弾圧。クリミア併合(291ページのコラム参照)など、抑圧された人びとの解放が模索され、この意味で「長い20世紀」が今日でも続いているとする。

クリミア半島の歴史

この地域では前8世紀頃から遊牧騎馬民族であるスキタイ人の活動が本格化し、彼らはヘロドトスの『歴史』にも登場している。ギリシア人ローマ人ゴート人・フン人などのさまざまな民族がその後興亡しつつ、この半島を支配し、13世紀にはモンゴルによる征服によりキプチャク・ハン国が成立した。15世紀にはそれが衰退し、いつくかの地方政権が誕生した。そのうちの一つがクリミア・ハン国であった。この国はイスラーム教を信奉し、同じイスラーム教国のオスマン帝国の保護下にはいり、その宗主権のもとにあった。

ここに進出してきたのがロシアであった。エカチェリーナ2世は1768年、クリミア半島の領有をねらって、オスマン帝国に宣戦し、勝利した。74年にキュチュク・カイナルジャ条約を結んでクリミア・ハン国の保護権を獲得し、83年には強制的にクリミア・ハン国を併合し、ロシア化をはかった。さらに87年からのロシアトルコ(露土)戦争の結果として結ばれたヤッシー条約(92年)でオスマン帝国にロシアのクリミア併合を認めさせた。19世紀にはいり、1853年からクリミア戦争が勃発すると、この戦争では、セヴァストーポリ要塞の攻防戦が主戦場となり、ロシアはイギリス・フランス・オスマン帝国などの諸国と戦ったが敗北し、パリ条約が結ばれてロシアの南下政策は挫折した。20世紀にはいると、第二次世界大戦後の世界の体制を方向づける連合国首脳会談(チャーチル、ローズヴェルト、スターリン、265頁参照)が保養地のヤルタで開催されている。

第二次世界大戦後の1954年、クリミア半島はロシアからソ連を構成する一共和国であるウクライナ共和国に移管された。しかし91年ソ連が解体してウクライナが独立すると、ロシア人が多いクリミア半島で翌年、独立運動がおこった。当時はチェチェンの独立運動をロシアが弾圧していたこともあってクリミアの独立支援をロシアはいったんは中止したが、2014年になってクリミアの帰属問題が再燃し、ロシアと親ロシア派が半島を掌握したあと、一方的な住民投票がおこなわれ、ロシアはクリミア併合を宣言した。国際社会の多数はこの併合を認めていない。

vFlat用の本を借り出しに図書館ジャンルは歴史と社会学になってる哲学は以前にOCR化していまます
トポロジーの凄さは基本空間を使ってることです単に近傍という定義だけじゃなく基本空間に投影して位相を合わせて範囲を拡張していく
いかなる空間であっても特異点を避けながら連続を保証した全体を作り上げる
数学は個と全体の関係を扱う個人と組織国家との関係も扱える逆に言うと数学を知らないと個人と国家との関係は不明のまま

奥さんへの買い物依頼
トマトジュース 100
ロースハム   140
豊田市図書館の7冊
100『哲学トレーニング1』人間を理解する
100『哲学トレーニング2』社会を考える
209『世界史の発見』
209。5『ケンブリッジ世界近現代史事典上』
131。2『ソクラテスの思い出』
209『新もういちど読む山川世界史』
234。07『14歳から考えたいナチ・ドイツ』

『もういちど読む山川世界史』

2023年09月07日 | 4.歴史
『もういちど読む山川世界史』

イスラーム世界

普遍性と多様性

7世紀のアラビア半島に成立したイスラーム世界は、その後、時をへるにしたがって拡大し、今日では東南アジアから西アフリカにいたる広大な地域がこの世界にふくまれる。イスラーム世界は、初期をのぞいて政治的に統一されることはなく、10世紀頃からは、シリア・エジプト、イベリア半島・北アフリカ、イラン、トルコ、インドなどの地域がそれぞれ独自の歴史的発展をとげてきた。しかし、一方ではイスラームという共通の信仰と法をうけいれることにより、一つの世界としてのまとまりをも維持してきた。この世界では、交易巡礼・遊学などをつうじて人や物の移動、学術・情報の交流がさかんにおこなわれた。社会は開放的で柔軟性にとみ、さまざまな出自の人びとが民族の枠にとらわれることなく活躍した。ギリシア・ローマ・イラン・インドなどの古代文明の栄えた地に成立したイスラーム世界は、これら古代文明の伝統を継承して融合し、独自のイスラーム文化を発展させたのである。

イスラーム世界の成立

預言者ムハンマド

7世紀の初め、唯一神アッラーの啓示をうけたと信じ、神の使徒であることを自覚したムハンマド(570頃~632)は、アラビアのメッカで、偶像崇拝をきびしく禁ずる一神教をとなえた。これがイスラーム教のはじまりである。その聖典『クルアーン(コーラン)』は、ムハンマドにくだされた啓示を、彼の死後あつめ、編集したものである。

イスラーム教の特質

イスラーム教はユダヤ教・キリスト教の流れを汲む一神教であり、『クルアーン(コ―ラン)』の内容も『旧約聖書』『新約聖書』の物語に近い。モーセやイエスも預言者として登場し、両聖書も『クルアーン』と同様に聖典とされる。ただし、最後の預言者ムハンマドを最良の預言者とし、最後にくだされた啓示『クルアーン』を最良の啓示とする。

教義は、正しい信仰をもつだけでなく、その信仰が行為によって具体的に表現されなければならないとするもので、「六信五ぎょう行」といわれる。「六信」とは(1)アッラー、(2)神の啓示を運ぶ天使(3)神の啓示を書き留めた啓典、(4)それを人びとに伝える預言者(5)最後の審判後にやってくる来世、(6)神の予定の実在を信じることで、「五行」とは(1)信仰告白(2)礼拝(1日5回メッカにむかっておこなう)、(3)喜捨(富者が貧者にほどこしを与える)(4)断食(ラマダ―ンとよばれるイスラーム暦の月に、1カ月間、夜明けから日没までのすべての飲食と性行為を断つ)、(5)巡礼(義務ではなく余裕のあるものがおこなえばよい)を実行することである。六信の成立は10世紀後半、五行の成立は8世紀初頭とされる。

以上は神と人間の関係における規定であるが、信者同士の人間関係の規範も定められている。そこでは、売買、契約、利子、婚姻、離婚、相続にはじまり、賭け事の禁止、禁酒や豚肉を食べないなどの飲食物の禁忌、殺人をしない、秤をごまかさない、汚れから身を清める、女性は夫以外の男性に顔や肌をみせないようにするなどの倫理的徳目や礼儀作法などが問題とされる。たとえば「禁酒」の場合、イスラーム発生期のメッカの住民がことあるごとに酒を飲むようになり、その弊害が目につくようになったことからムハンマドは禁酒の啓示を何回かうけたあと、ついに全面禁酒の啓示(『クルアーン』の5章90~91節)をうけることになった。

多神教を信じるメッカの人びとの迫害をうけたムハンマドは、622年、メディナに移住(ヒジュラ〈聖遷〉)し、この地に彼自身を最高指導者とする信徒の共同体(ウンマ)をつくった。この622年はイスラーム暦の元年とされている。その後ウンマの拡大に成功したムハンマドは、彼にしたがう信徒をひきいてメッカを征服し、多神教の神殿カーバから偶像をとりのぞいて、これをイスラーム教の聖殿とした。こうしてムハンマドが死ぬまでには、アラビア半島のほぼ全域がその共同体の支配下にはいった。

アラブ帝国

ムハンマドの死後、イスラーム教徒(ムスリム)は全員で新しい指導者を選んだ。この指導者のことをカリフ(後継者代理の意)とよぶ。最初の4人のカリフは選挙で選ばれ、正統カリフとよばれる。カリフの指導のもとでアラブ人ムスリムは征服活動(ジハード〈聖戦〉)を開始し、7世紀のなかばまでにササン朝をほろぼし、シリア・エジプトをビザンツ帝国からうばった。多くのアラブ人が新しい征服地に移住した。征服地が広がると、カリフ位をめぐって争いがおこった。その結果、第4代カリフのアリー〈位656~661>が暗殺され、彼と対立していたウマイヤ家のムア―ウィヤ〈位661~680>がカリフとなって、ダマスクスを首都とするウマイヤ朝(661~750年)をたてた。ムアーウィヤは息子を後継カリフに指名し、以後カリフ位は世襲されるようになった。

ウマイヤ朝は8世紀の初め、東方では中央アジアの西半分とインダス川下流域、西方では北アフリカを征服し、やがてイベリア半島に進出して西ゴート王国をほろぼした(711年)。さらにフランク王国にまで進出したが、トゥール・ポワティエ間の戦いに敗れ、ピレネー山脈の南側に領土はかぎられた。この広大な領土をもつ帝国では、征服者アラブ人のムスリムが特権的な地位にあり、膨大な数の被征服民を支配していた。国家財政をささえる地租(ハラージュ)と人頭税(ジズヤ)は征服地の先住民だけに課され、彼らがイスラーム教に改宗しても免除されなかった。その意味で、正統カリフとウマイヤ朝カリフが統治した国家はアラブ帝国ともよばれる。

イスラーム帝国

シーア派の人びとやイスラーム教に改宗してもなお不平等なあつかいをうけていた被征服民など、ウマイヤ朝の支配に反対する人びとは、8世紀初め頃から反ウマイヤ朝運動を組織した。ムハンマドの叔父の子孫

スンナ派(スンニー)とシーア派

イスラーム教には、大別すると、スンナ派とシーア派という二つの宗派がある。今日、全イスラーム教徒のうちの9割はスンナ派に属する。この両派の対立は、元来、アラブ帝国のカリフの位をめぐる政治的なものだったが、その後、教義の解釈をめぐって宗教的にも意見の相違がみられるようになった。スンナ派は、ムハンマド死後の代々のカリフの政治的な指導権を認めるいっぽう、イスラーム教徒の行動の是非はイスラーム教徒全体の合意によって判断されるべきだと考える。その際、判断の基準として用いられるのが、『クルアーン(コーラン)』と伝承として残されているムハンマドの言行(スンナ)である。この伝承の範囲、解釈の仕方のちがいによって、スンナ派内部に四つの学派がある。

これに対してシーア派は、アリーおよびその子孫のうちの特別な人物だけが、『クルアーン』を真に解釈することができ、政治的にも宗教的にもイスラーム教徒の最高指導者であるとする。彼らには一般の人びとにはない神秘的な力がそなわっていると考えられ、カリフの権威やイスラーム教徒の合意は認めない。シーア派は、このように、アリーの血統を重視するため、最高指導者の地位が子孫のうちのどの人物に伝えられたと考えるかによって、多くの派閥にわかれた。

このうち、今日のイランを中心とした地域に広まっている十二イマーム派では、9世紀の後半に姿をかくした12代目の最高指導者が、正義を実現するために、いつかふたたびこの世にあらわれると信じられている。また、この指導者がかくれているあいだは、徳が高く、学識の豊かな法学者・宗教学者がその権限を代行するものとされている。1979年の革命後のイランで、ホメイニをはじめとする法学者・宗教学者が大きな権限をもっているのはこのためである。

アッバース家はこの運動をうまく利用してウマイヤ朝をほろぼし、イラクを根拠地としてあらたにアッバース朝(750~1258年)をたてた。まもなく建設された新首都バグダードは国際商業網の中心として発展し、王朝はハールーン・アッラシード〈位786~809〉の時代に最盛期をむかえた。

9世紀頃までに、宰相を頂点とする官僚制度が発達し、行政の中央集権化が進んだ。イラン人を主とする新改宗者が政府の要職につくようになり、アラブ人ムスリムだけが支配者とはいえなくなった。イスラーム教徒であればアラブ人以外でも人頭税は課されず、征服地に土地を所有すればアラブ人にも地租が課されるようになった。イスラームの信仰のもとでの信徒の平等という考えが徐々に浸透していった。また、イスラ―ム法(シャリーア)の体系化も進み、この法を施行して、ウンマを統治することがカリフのもっとも重要な職務となった。アラブ人だけではなく、イスラーム教徒全体の指導者となったカリフが統治するこの時期のアッバース朝国家は、イスラーム帝国ともよばれる。

イスラーム世界の変容と拡大

イスラーム世界の政治的分裂

アッバース朝の成立後まもなく、後ウマイヤ朝(756~1031年)がイベリア半島に自立した。一つの政治権力が支配するにはイスラーム世界は拡大しすぎていた。9世紀になるとアッバース朝の領内でも各地で地方王朝が自立するようになった。このうち、中央アジアに成立したサーマ―ン朝(875~999年)は、トルコ人奴隷貿易を管理し、経済的に繁栄した。また、この王朝のもとでペルシア語がアラビア語とならんで用いられるようになり、のちに発展するイラン・イスラーム文化の芽生えがみられた。チュニジアにうまれ、のちエジプト・シリアを征服して新都カイロを建設したシーア派のファーティマ朝(909~1171年)の支配者は、建国当初からカリフと称し、アッバース朝と正面から対立した。

このような政治的分裂にくわえ、9世紀頃からカリフの親衛隊として用いられるようになった、トルコ系の奴隷であるマムルークが、やがてカリフの位を左右するようになりアッバース朝カリフの威信は低下した。

国家と社会の変容

946年、シーア派のブワイフ朝(932~1062年)がバグダードを征服し、カリフから大アミール(軍事司令のなかの第一人者)に任じられて政治・軍事の実権をにぎった。アッバース朝カリフはこれ以後実際の統治権を失い、イスラーム教徒の象徴としての役割をはたすだけとなった。

ブワイフ朝の時代、軍隊への俸給支払いがむずかしくなると、俸給にみあう額を租税として徴収できる土地の徴税権を軍人にあたえる制度がうまれた。これをイクター制という。イクター制は、セルジューク朝(1038-1194年)にひきつがれ、やがて西アジア・イスラーム社会でひろく用いられるようになった。

元来ユーラシア草原の遊牧民であったトルコ人は、10世紀頃からしだいに南下し、11世紀には、その一派で、イスラーム教スンナ派に改宗したセルジューク朝が西アジアに進出した。1055年、ブワイフ朝を追ってバグダードにはいったトゥグリル・ベク〈位1038~63>に、カリフはスルタン(支配者)の称号をあたえた。セルジューク朝はビザンツ帝国領だった小アジアを征服し、以後、小アジアはしだいにイスラーム化・トルコ化していった。彼らは領内の主要都市にマドラサ(学院)を設けてスンナ派の法学・神学を奨励した。しかし、王族のあいだでの権力争いが激しく、統一は長続きしなかった。

11世紀以後の西アジア・イスラーム社会では、修行によって神との合一をめざす神秘主義思想が力をもつようになった。12世紀になると、神秘主義者(スーフィー)とその崇拝者たちを中心として各地に神秘主義教団が組織され、都市の手工業者や農民のあいだに熱心な信者をえた。教団は貿易路にそってアフリカやインド・東南アジアに進出し、これらの地域にイスラームの信仰を広めていった

東方イスラーム世界

13世紀初め、東方からモンゴル人が西アジアに進出してきた。フラグにひきいられたモンゴル軍は、1258年、バグダードをおとしいれて、アツバース朝をほろぼし、イル・ハン国(1258~1353年)をひらいた。イル・ハン国は、モンゴル人やトルコ人など軍事力をもつ遊牧民を支配者とし、これにイラン人の都市有力者が行政官僚として協力して成り立っていた。

このような国家体制は、これ以後サファヴィー朝(15011736年)にいたるまで同じ地域に成立した諸国家にうけつがれていく。ただし、遊牧民支配者間での争いがたえず、総じて国家の寿命は短かった。イル・ハン国のモンゴル人支配者は、ガザン・ハン〈位1295~1304>のときまでにほぼイスラーム化し、イランイスラーム文化の成熟に寄与した。

1370年、チャガタイ・ハン朝の混乱に乗じてサマルカンドで位についたティムール〈位1370~1405〉は、その後西アジアにはいってイラン全域を征服し、オスマン帝国やマムルーク朝領、北インドやキプチャク草原にまで兵を進めた。ティムール朝(1370~1507年)の時代、成熟しつつあったイラン・イスラーム文化と中央アジアの伝統文化が結びつけられ、文学建築などの分野で特色あるティムール朝文化が花開いた。16世紀の初め、分裂していたティムール朝は北方の草原から南下したトルコ系のウズベク人によってほろぼされた。ウズベク人は、ブハラ、ヒヴァ、コーカンドなどの都市を中心に19世紀なかばまで続く国家をたてた。

16世紀初め、イラン高原にサファヴィー朝が成立した。この国家も、トルコ系遊牧民とイラン系都市有力者の協力のうえに成り立っていたが、シーア派を国教とし、住民の改宗を強要した点がそれまでのこの地域の国家とは異なっていた。イラン人の多くがシーア派をうけいれるのは、サファヴィー朝時代のことである。

1587年に即位したアッバース1世〈位15871629>は、多くの政治・軍事改革をおこなって王朝の最盛期をきずいた。この王の時代に首都となったイスファハーンは、絹・綿織物・香料などの国際交易の中心として「世界の半分」といわれるほど栄え、モスク(礼拝所)・マドラサ(学院)・キャラヴァンサライ(隊商宿)・橋・庭園などが数多くつくられた。

エジプト・シリアの諸王朝

11世紀の末、シリアの沿岸に十字軍(115ページ参照)が進出してきた。セルジューク朝の一侯国の武将サラーフアッディーン(サラディン〈位1169~93〉)は12世紀後半に自立してアイユーブ朝(1169~1250年)をひらき、エジプトのファーティマ朝を倒して、スンナ派を復興させた。彼は十字軍のイェルサレム王国を攻撃してイェルサレムの奪回に成功した。

1250年、アイユーブ朝のマムルーク(奴隷出身の軍人)軍団が権力をうばい、マムルーク朝(12501517年)が成立した。この国家では君主の位が世襲されることは少なく、有力なマムルークがあいついで君主となった。マムルーク朝は軍事制度と農村支配の体制をととのえ、モンゴル軍や十字軍勢力へのジハードを進めた。また、アッバース朝カリフの一族をカイロにむかえて保護するとともに、メッカ・メディナを領有して、イスラーム世界の中心であることを自認した。首都のカイロはバグダードにかわってイスラーム世界の政治・経済・文化の中心地として栄え、東西の香辛料貿易に活躍する商人もあらわれた。

イベリア半島とアフリカの諸王朝

イベリア半島の後ウマイヤ朝(756~1031年)は、10世紀のなかばに最盛期をむかえ、その文化は中世ヨーロッパ世界に大きな影響をあたえた。しかし、この王朝がおとろえた11世紀以後は、小王国が分立し、しだいにキリスト教徒の国土回復運動(レコンキスタ)が進展した。

これに対抗して、11世紀なかばベルベル人のあいだでおきた熱狂的な宗教運動を背景に、北西アフリカを拠点として誕生したムラービト朝(1056~1147年)、そして同じベルベル系のムワッヒド朝(1130~1269年)がイベリア半島に進出することもあった。1492年、グラナダのナスル朝(1232~1492年)がほろびると、イスラーム教徒の政権は、イベリア半島から姿を消したが、アルハンブラ宮殿にみられるようなイスラーム文化の影響は、その後も長く残った。

ナイル川上流には、前8世紀に一時エジプト王朝をほろぼしたアフリカ人のクシュ王国(920年頃~後350年頃)があり、メロエに都をおいた時代には製鉄と商業で栄えた。しかしエチオピアのアクスム王国(紀元前後頃~12世紀)によってほろぼされた。

西アフリカでは、ガーナ王国(7世紀頃~13世紀なかば頃)が金を豊富に産したことから繁栄し、イスラーム商人との交易もおこなった。そのためイスラーム商人の居留地ができていたが、ムラービト朝の攻撃によってガーナ王国が衰退すると、住民のイスラーム化がいっそう進み、マリ王国(1240~1473年)やソンガイ王国(1464~1591年)などの黒人イスラーム教徒による国家が、北アフリカへ金・奴隷を輸出して発展した。とくにソンガイ王国の中心都市トンブクトゥは黄金の都、イスラームの学問都市として有名である。

東・東南アフリカの海岸には、ザンジバル・マリンディ・キルワなどの海港都市がインド洋貿易の拠点として存在した。9世紀頃からはイスラーム教徒の商人がこれらの町に住みつくようになり、アラビア・イラン・インドなどとの交易に従事した。

オスマン帝国

13世紀末、トルコ化・イスラーム化が進んでいた小アジアにおこったオスマン帝国は、バルカン半島のキリスト教世界に進出し、1453年にはコンスタンティノープル(以後イスタンブルの呼称が一般化した)を征服して、ビザンツ帝国(111ページ参照)をほろぼした。その後、マムルーク朝をほろぼしてシリアとエジプトをあわせ(1517年)、メッカ・メディナをその保護下において、スンナ派イスラームスルタンを頂点とする中央集権的な行政機構がしだいに整備され、スレイマン1世〈位1520~66>のときにオスマン帝国は最盛期をむかえた。彼は南イラクと北アフリカに領土を広げるいっぽう、ハンガリーを征服し、1529年にはウィーンを包囲してヨーロッパ諸国に大きな脅威をあたえた。またプレヴェザの海戦(1538年)でスペイン・ヴェネツィアの連合軍を破って地中海の制海権をにぎった。これ以後、オスマン帝国はフラ

多民族・多宗教国家オスマン帝国

オスマン帝国は、長いあいだ「オスマン・トルコ」とよばれてきた。オスマン帝国はトルコ人の国だと認識されていたのである。しかし、現在は、「オスマン・トルコ」ではなく、「オスマン帝国」や「オスマン朝」という呼称が用いられるようになっている。

オスマン帝国の全臣民は、民族単位ではなく、宗教単位で識別されることが多かった。オスマン帝国内の大多数の非イスラーム教徒(非ムスリム)はギリシア正教徒であったが、そのほかにも、バルカン諸民族、アラブ地域のマロン派ネストリウス派などが存在していた。各集団は、それぞれ属する教会組織のもとで従来の信仰が認められてきた。もともと、イスラーム(ムスリム)諸王朝においては、キリスト教徒やユけいてんたみダヤ教徒は、啓典の民として保護民(ズィじんとうぜいンミー)と位置づけられ、人頭税(ジズヤ)の支払いを条件に信仰の自由が認められてきた。オスマン帝国もこの原則を踏襲したのである。

さまざまな人材を登用することにより、その支配を盤石にしていった。当初、オスマン帝国軍の主力を担っていたのは、トルコ系遊牧民軍人であったが、それに並んで君主に忠誠を誓う官僚・軍人が必要とされた。15世紀なると、これらの人材には、組織的な人材登用方法が考案された。それが、デヴシルメ制である。オスマン帝国は、バルカン半島における8~20歳のキリスト教徒を容姿身体・才能などを基準として、イスラーム教に改宗していないことを条件ちょうようくっきょうに徴用した。その後、イスラーム教に改宗させたうえで、トルコ語とムスリムとしての生活習慣を身につけさせた。そのなかで頭脳明晰な者は宮廷官吏に、身体屈強な者は軍人に選出されるなど、オスマン帝国の国政にとって必要不可欠な存在となった。1453年から1600年までに大宰相を務めた36名中、トルコ人と思われる者がわずか5名にすぎないという事実は、オスマン帝国の多民族国家としての特質を象徴している。

奥さんへの買い物依頼
お茶 148
卵パック       148
ごはんですよ 278
豚ロース      463
いか塩辛      298
そうめん       298
めんつゆ      218
玉ねぎ3個   128
サーモンロール          428

『スターリンの図書室』

2023年09月04日 | 4.歴史
『スターリンの図書室』

 一心同体のスターリン、レーニン、トロツキー

スターリンはレーニンを崇拝していた。 スターリンがレーニンに最初に会ったのは、一九〇五年一 二月、フィンランドのタンペレで開催された党大会の場である。当時のフィンランドは帝政ロシアの 自治領だった。スターリンは一九二四年一月、ソヴィエト国家の創設者であるレーニンを悼む集会で 演説し、「抗しがたい論理の力」に心を奪われたと回想している。スターリンによれば、レーニンは 政治活動で「敗北を嘆かず」 「勝利に奢らず」 「原則に忠実で」 「大衆を信頼した」。 さらに「洞察力が あり、迫りくる事態に隠れた真の意味を理解し予測する能力」があった。これらの資質がスターリン を魅了した。
スターリンはレーニンの著作を数百点も所蔵していた。このうち数十点にしるしや注釈がある。ス ターリンはレーニンの著作に最も重きを置いて読み込んだ。自らの著作においても、誰よりも多くレ ーニンに言及している。レーニンの言葉を引用する名人でもあった。原典を熟読するだけでなく、レ ーニンの著述を第三者が抜粋したり要約したりした文献も読んだ。特に「プロレタリアート独裁」な ど当時の喫緊の課題について、レーニンの考え方を論じた著作を好んだ。レーニンが主要な演説のために用意した覚書や要点を集めたものも、スターリンにとっては、レーニンの論理の組み立て方や伝 達の仕方を探るために有用だった。内戦でボリシェヴィキが勝利した理由について、スターリンはレ ーニンによる次のような文章を、そのまま著作に引用している。 ボリシェヴィキは国際的な労働者階級の団結によって勝利した。敵は分裂したが彼らは団結した。兵士たちはソヴィエト政府と戦うこと を拒否した。レーニンはウィンストン・チャーチルの見込み違いにも言及している。チャーチルは連合国がペトログラードを一九一九年九月までに、モスクワを一二月までに占領すると予想したが外れた。この部分をスターリンは二重線で強調している。
スターリンの政治思考を包括的に考究したエリック・ファン リーによれば、「レーニンの著作に 残る書き込みには批判の言葉が全くない。彼の先駆者が最も熱心に読んだ書籍類には、その兆しすらない」。マルクスにしても同様だった。「スターリンによる批判的な注釈は一つも発見できなかった」。 エンゲルスについては批判も見られるが、エンゲルスの著作に残る書き込みは、全てが慎重で敬意に 裏打ちされている。「エンゲルスが過去も現在も我々の教師であることを疑うのは愚か者だけである」。 スターリンは一九三四年八月、政治局にこう書き送っている。「だからと言って、エンゲルスの欠陥に目をつぶる必要もない」。ファン・リーはスターリンの蔵書に残る書き込みを調べ、スターリンが まさに最期の日々までマルクス、エンゲルス、レーニンを読み続けたことを突き止めた。
スターリンは一九三八年五月、高等教育を受けた労働者を招いた宴席であいさつをした。数あるレ ーニン礼賛演説の一つである。
科学の発展を顧みれば、古きを壊し新しきを築いた勇気ある人々は少なくない……ガリレオ、 ダーウィンの名を挙げよう…….これら傑出した人物の一人について語るべきだろう。彼は科学者 であるとともに近代で最も偉大な人物である。レーニンは我らの教師であり指導者である(拍手)。一九一七年を思い出してほしい。 社会発展の科学的分析と国際状況に鑑みて、レーニンは 状況を打開する唯一の道はロシアにおける社会主義の勝利であるという結論に至った。この結論 は多くの科学者を驚かせた。 ……あらゆる分野の科学者たちは、レーニンが科学を破壊しようと していると騒ぎ立てた。しかし、レーニンは潮の流れと惰性の力に逆らって進むことを恐れな かった。そしてレーニンは勝利したのだ(拍手)。
スターリンが一九二五年五月に蔵書の分類方法を考案したとき、トロツキーは最大の政敵に浮上し ており、レーニンの後継をめぐる一番の競争相手だった。スターリンは優れたマルクス主義者の著作を個別に整理するために一人一人順位を付けた。トロツキーは六番目だった。マルクス、エンゲルス、レーニンを除けば、カウツキー(ドイツ社会民主主義の指導的理論家)とプレハーノフ(ロシア・マ ルクス主義の父) しか、トロツキーの上位にはいない。トロツキーの次には、当時スターリンと同盟 を組んでいたブハーリン、カーメネフ、ジノーヴィエフが続く。
現存するスターリンの蔵書には、四〇冊を超えるトロツキーの著書や冊子を見いだせるだろう。中には相当の大作もある。スターリンが特に関心を寄せたのは、トロツキーの「党派」論である『新路線』(一九二三年)と『十月の教訓』(一九二四年)だった。スターリンはこれらの書籍と他の著作を深く読み込み、トロツキーとトロツキー主義を撃つ銃弾を探した。トロツキーの思想を打ち砕くがごとき攻撃は、論客としても党書記長としてもスターリンの名声を確立した。『新路線』には「革命的 行動の体系としてのレーニン主義は、思考と経験によって鍛えられた革命的本能である。それは社会の領域では、肉体労働における筋肉の躍動に等しい」という一節がある。スターリンは一九二六年一 一月の第一五回党大会で、 これを取り上げ、「レーニン主義が〝肉体労働における筋肉の躍動〟というのは、新しくて独創的で大そう深淵ではないか? いったい何が言いたいのか教えてくれないか? (笑い)」と揶揄した。
トロツキーの才気とマルクス主義者としての知性、弁舌の才を疑う者はいなかった。だがスターリ ンにとっては戦いやすい相手だった。トロツキーはかつてレーニンとボリシェヴィキを攻撃し、一九 一七年の夏になってようやく合流した過去がある。その経緯をトロツキーは糊塗しようとしたが、ス ターリンは執拗にトロツキーの過去の誤りを党員に訴え続けた。
レーニンの見解によれば、プロレタリアート革命と社会主義は一国で達成でき、文化的、経済的に 遅れた農業国ロシアでも、それは可能である。この見方をトロツキーは一九一五年に攻撃した。その 際にトロツキーが用いた言葉を、スターリンは好んで持ち出した。ソヴィエト・ロシアにおいて社会 主義の建設が可能であるかどうかというのが論点である。トロツキーによれば、ロシアで革命を達成 するためには、まずは、より進んだ国々を舞台に帝国主義や資本主義におしつぶされずに革命を成功させねばならない。世界革命が達成されなければ、ロシアの革命は「最終的な」 勝利とはならない。このようなトロツキーの見方をスターリンは受け入れつつも、ソヴィエトの社会主義はそれ自体が生き残り、前進しなければならないと強調した。ボリシェヴィキ党の大多数はスターリンに同調した。世界革命を究極の目標とするトロツキーの主張ではなく、スターリンの一国社会主義を優先した。ボリシェヴィキの指導者は誰でも、自分の主張に沿ってレーニンの言葉を選択的に引用した。スターリンも例外ではない。レーニンは一九一五年、先進国では他国の革命の影響を受けなくても社会主 義を受容する可能性があるとの見解を示した。だが一九一七年にボリシェヴィキが実権を握ったあと、 「後進国」ロシアにおける革命の現状を踏まえ、レーニンは見解を修正する。スターリンと彼の支持者にとっては、ロシアで革命を成就させた事実こそが最も重要だった。トロツキーは『東方における課題』(一九二四年)で、ヨーロッパで革命が起きない状況下で世界革命の中心はアジアに移る可能性を指摘した。スターリンらは耳を傾けようとはしなかった。スターリンはトロツキーの著書の余白 に「愚か!」と書いた。「ソヴィエト連邦がある限り、中心は東方に移るわけがない」
トロツキー『十月の教訓』もスターリンの格好の餌食となった。トロツキーはこの著作で、カーメネフ、ジノーヴィエフが一九一七年にレーニンと対立したことを取り上げた。党は一九一七年に分裂した。革命のあと、当事者であった最右翼の古参ボリシェヴィキたちは、この事実を隠している。権力奪取の謀反をレーニンが粘り強く抑えたからこそ、窮地を脱することができたのだ。トロツキーは、このように論じた。
カーメネフとジノーヴィエフはスターリンの旧友であり同志である。トロツキーとの闘争では同盟者でもあった。スターリン自身は『十月の教訓』で指弾されたわけではないが、カーメネフらの擁護に乗り出した。スターリンは一九二四年の演説 「トロツキー主義かレーニン主義か」で、一九一七年 に党内には意見の対立があったと認めつつ、レーニンがボリシェヴィキを率い暫定政府と対決する方 針を貫徹し、ついに転覆させたことを強調した。党が分裂した事実はないと否定した。 中央委員会は レーニンによる蜂起の提案を承認した際、政治監視グループを組織した。カーメネフとジノーヴィエフはレーニンの蜂起案に反対票を投じた! かかわらず、この委員会に名を連ねたと指摘した。トロツキーが一九一七年に特別な役割を果たしたというのは、スターリンによれば「伝説」にすぎなかった。
蜂起の際にトロツキーが疑いなく重要な役割を果たしたことを、私は決して否定しない。だがトロツキーは特別な役割を担ったわけではないと言わざるを得ない。 一〇月にトロツキーは 確かによく戦った。だが、よく戦ったのは彼だけではない。敵が孤立し蜂起が拡大しているとき に、それは難しい行動ではない。そのような状況のもとでは、弱気な人間でも英雄になれるのだ。

トロツキーがロシア革命の歴史について書いたのは、『十月の教訓』が最初ではない。ブレスト・リトフスク条約の交渉が継続していた一九一八年、小著『十月革命』の執筆に取り組んだ。この年の 後半に出版し、多くの外国語に翻訳された。英語版 『ブレスト・リトフスクに至るロシア革命の歴史』も出た。 ボリシェヴィキのためのプロパガンダだったので、党内に存在した異論については控えめに書いた。このような革命の記述が、まさにスターリンの好みだった。彼は細かく書き込みを入れ た。内容に明らかに満足した様子がとれる。ボリシェヴィキが時期尚早の蜂起を思いとどまった「七月の日々」の記述には、特に強い関心を示した。 勝機が熟する時を待つために、そして生き残 るためには、政治的後退も時には必要であるという重い教訓を党に残したからだ。前述したようにスターリンは、一九一八年の『プラウダ』紙が革命一周年に際して掲載した論評で、蜂起を組織する際に果たしたトロツキーの役割を全面的に称賛した。

M・スモレンスキーが一九二一年にベルリンで出版したトロツキーに関する冊子は、世界の労働者にボリシェヴィキの考え方を説明する試みの一環である。スモレンスキーによれば、「トロツキーは ボリシェヴィキ指導部において、おそらく最も才気あふれる、そして最も矛盾した存在である」。 この一節にスターリンは何も書いていない。だがマルクス主義の聖典について、レーニンは社会主義の 聖書学者として読み込んだが、トロツキーは分析の方法とみなしたという部分にしるしを付けた。スモレンスキーが 「レーニンのマルクス主義は教条的で正統的だが、トロツキーのそれは方法論的であ る」と述べたくだりである。以下にはトロッキーの見解が幾つか続いて引用され、スターリンは軽い 筆致でチェックを付けている。同感、という意味だろい。トロツキーによれば、第二(社会主義) インターナショナルと第三(共産主義)インターナショナルという二つの社会主義イデオロギーが相 争っている。この意見の余白にもスターリンは線を引いた。

トロツキーの『テロリズムと共産主義』(一九二〇年)は、カール・カウツキーの同名の著作への 応答である。 ボリシェヴィキはかつてカウツキーを称賛した。 より穏健で改革的な社会主義運動を唱 えたエドゥアルト・ベルンシュタインの「修正主義」 に対して、カウツキーが革命的マルクス主義の 立場を堅固に守ったからである。だがボリシェヴィキはやがてカウツキーに「背教者」の汚名を着せ た。 ボリシェヴィキは実権を握り維持するために暴力と独裁的な手法に依拠した。特に内戦期は徹底した。 カウツキーが、そのような路線を批判したからだ。トロツキーはカウツキーに反論して、暴力 によるボリシェヴィキの権力奪取、それに続くロシア立憲民主主義の弾圧、内戦期の「赤いテロル」を、明確に正当化した。 スターリンが現実政治の教訓を得るためには、トロツキーの著作を手に取る だけで十分だった。マキャヴェッリも、あるいはレーニンさえも必要なかった。

スターリンはトロツキーが著作を出版すると間を置かずに読んだ。そう考えて、まず間違いがない だろう。カウツキーの批判は、国際的な社会主義運動におけるボリシェヴィキの地位を損なった。こ のためボリシェヴィキはレーニンを筆頭にカウツキーを激しく批判した。

スターリンはトロツキーの『テロリズムと共産主義』に共感の言葉を多く記した。随所にNB、「ターク」(そうだ)と書いた。トロツキーは「内戦を短期間で終わらせることが肝要である。断固た る行動だけが、それを達成する。それはカウツキーの著作の全編を貫く革命的意思とは全く異なる」 と論じた。スターリンは余白にNBと記した。「プロレタリア独裁」に関する第二章の冒頭にも同じ書き込みをした。トロツキーは第一段落で「プロレタリアートの政治的独裁こそが、国家の制御を実 現する〝唯一の形態〟である」と述べている。スターリンはこの一節をそのまま抜き書きした。トロ ツキーは同じ章で、こうも述べている。 「テロリズムを原則として否定する者、つまり、確信的な武 装反革命勢力を抑え込んだり威嚇したりする行為を否定する者は、労働者階級の政治的な優越性と革 命的独裁という思想を全て拒絶することになる。プロレタリアート独裁を否定する者は社会主義革命 を否定し、社会主義の墓を掘ることになる」。スターリンはこの一節に下線や二重線を引いたり、N Bと書き込んだりした。

トロッキーは社会主義革命の利益が民主主義のプロセスに優るという理論を長々と展開した。民主主義は建前であり、背後にはブルジョアの権力が隠れているからだという。スターリンは全面的に同意した。議会制民主主義など、しょせんは民衆の自治政府という幻影にすぎないというポール・ラファルグの言葉をトロツキーは引用した。これにはスターリンも特に感心した。「ヨーロッパとアメリカのプロレタリアートが国家を掌握すれば、必然的に革命的政府が組織され、独裁政権として社会 を統治する。そののちにブルジョア階級は消滅する」というラファルグの意見に、スターリンの引い た下線が残る。

ボリシェヴィキは一九一八年一月に憲法制定会議を解散した。トロツキーによれば、ボリシェヴィキは憲法制定会議の選挙を布告する政令に署名し、会議が自ら解散を宣言することで、より人民を代 表する諸ソヴィエトを実現させなければならなかった。しかし、「憲法制定会議は革命運動の道を 遮ったので排除された」というのだ。 この部分にスターリンは下線を引いた。

スターリンは著者が示す論点に番号を振るのが好きだった。トロツキーが暴力、テロル、内戦を経 験した三つの革命を列挙したので番号を付けた。カトリック教会を分裂させた一六世紀の宗教改革、一 七世紀のイギリス革命、一八世紀のフランス革命である。トロツキーは歴史を分析した結果として「苛 烈さの程度は、一連の国内的、国際的状況に依拠する。 排除される階級の敵が猛烈かつ残虐に抵抗す ればするほど、鎮圧する側は組織的なテロルに頼るようになる」と述べた。下線はスターリンが引いた。 以下はスターリンが下線を引いた数行である。NBと「ターク」の二語で共感を示している。

赤色テロルは武装蜂起の必然の帰結として不可分である。 革命階級による国家テロルを批判で きるのは、原則としてあらゆる暴力、つまり、いかなる戦争もどのような反乱も (口先で)拒絶する人物のみである。このような人物は単に偽善的なクエーカー教徒にすぎない。

トロツキーは「カウツキーは革命がどのようなもの しも分かっていない。理屈の上での和解と 実際の達成を同じだと考えている」と記した。この二つの文にスターリンは下線を引き、余白に「メ トコ」(的確だ)と書き入れた。 共感を示す時には、この言葉も好んで使った。

トロツキーによれば、カウツキーはロシア労働者階級の権力掌握を時期尚早と考えていた。トロツ キーは「プロレタリアートに選択する余地はなかった………すぐに権力を奪取するか、時機を待つか。 特定の状況下にあっては、労働者階級は永久に政治の舞台から消え去る恐れがあったので、権力奪取に動くしかなかったのだ」と論じた。スターリンはこの部分に下線を引き、「ターク!」と書いた。 トロツキーはボリシェヴィキ独裁を断固として主張した。 スターリンは以下の記述に下線を引き、 かぎカッコを付け、段落全体に斜線を交錯させた。

我々はソヴィエト独裁を我が党の独裁で代替したという批判を一度ならず受けた。だがソヴィ エト独裁は党の独裁によってのみ可能であると述べても過言ではない。理論的展望と強固な革命 組織を党がソヴィエトに提供することによって、ソヴィエトは労働者の曖昧な議会から労働者が 支配する組織へと変容する可能性を持つことができる。党の力を以て労働者階級の力に代え るのは、決して変則的な方法ではなく、代替とさえ言えないのである。共産党員は労働者階級 の根本的利益を代表している。

トロツキーの言い回しにスターリンが納得したわけではない。 スターリンは余白に「党の独裁—正 確ではない」と書いた。プロレタリアートは党を通じて支配を実現するというのがスターリンの立場 だった。社会主義のもとでは、生産手段の社会主義化は必然的に強制的労働を伴うとトロツキーは考 えた。スターリンはこの見解にも疑問を呈し、幾度も 「ふむ、そうかな」と書き込んだ。一九二一年 三月の党大会を迎える頃になると、スターリンはトロツキーの見解にいっそう疑問を深め、労働者の 武装化というトロツキーの提案に真っ向から反対した。

カウツキーによる原著のロシア語版はスターリンも所持していた。そしてトロツキー『テロリズム と共産主義』と同様に熟読した。カウツキーの著書の余白では「ハハ」「ヘッヘッ」と嘲笑したり、「スヴォーロチ」(畜生)、「ルジェツ」(ほら吹き)と罵倒したりしている。カウツキーによれば、ボ リシェヴィキが非妥協的であるのは、真実を独占しようとするからだ。スターリンはカウツキーにつ いて、全ての知識は一時的で限定的なものであることを知らない 「ドゥラーク」(ばか)だと断じた。 スターリンによる悪口雑言の書き込みはカウツキーの他の著作にもみられる。「プロレタリアートの 独裁と徒党の独裁を混同できるのは彼しかいない」。スターリンはカウツキー『プロレタリア革命と そのプログラム』の一九二二年版に、こう書いた。カウツキーは、一九世紀オーストリア=ハンガリ で、新たに革命危機が訪れていたら、チェコ人はドイツ化の憂き目をみたであろうと述べた。スタ ―リンは「くだらない」「ばかげている」と書き入れた。カウツキー「テロリズムと共産主義」には、 言葉ではなく単にしるしだけを付けた箇所も多くある。 NBは数か所、「ふむ、そうかな」は一か所ないし二か所である。カウツキーは本来、経済や農業が専門のマルクス主義者である。彼がこれらの分野で残した『農業問題』などの著作の実質的な細部に、スターリンは肯定的な評価を示すしるしをより多く付けている。スターリンは有益な情報や論拠を追い求め、宿敵とも言うべき人物の著作から 学ぶこともいとわなかった。

スターリンは一九二六年七月の中央委員会総会で、従来はトロツキーに対して 「穏健に応じ、あか らさまな敵意も示してこなかった」「彼には穏やかな立場をとってきた」と述べた。トロツキーが技 術や経済について一九二〇年代半ばに書いた『目指すは社会主義か資本主義か?』(一九二五年)、 『八年間の総括と展望』(一九二六年)、『我らの新たな課題』(一九二六年)を、スターリンが熟読し た事実を踏まえれば、中央委総会における彼の発言は偽りではないだろう。トロツキーは一九二五年 一月に軍事人民委員を解任され、ソヴィエトの産業を統括する国民経済最高評議会の一員であった。 この時期に執筆した一連の著作をスターリンは克明に読んだ。

トロツキーは新経済政策 (NEP)について、社会主義を目指す戦略にそぐわないという懐疑論を 抱いていた。だがボリシェヴィキ党最左派に比べれば、まだ穏やかな批判にとどまっていた。トロッ キーの考えでは、NEPにより農業分野に市場原理を復活させたことで、クラークと呼ばれる富農が 力を盛り返してしまった。さらに経済全般においても資本家が復権し、社会主義による工業化が阻害 される危険があった。トロツキーの著作に残る多くの書き込みを見ると、スターリンもある程度まで 同じ危惧を抱いていたことが分かる。 しかし産業の社会主義化を阻害するNEPの影響力については、 トロッキーより軽視していた。党とプロレタリアートは農民を支配し続けられるとスターリンは確信していた。 数は農民のほうがはるかに多いが、主導権は持てないと考えていた。だが一九二〇年代末 に農民が都市への食糧供給を滞らせると、スターリンはNEPの放棄をためらわなかった。多大な人 命を奪ってでも、工業化とソヴィエト農業の集団化を強引に加速化させた。トロツキー支持者の多くは、スターリンの「左旋回」を歓迎し、「右翼反対派」と対立したスターリンを支持した。 「右翼反対 派」はニコライ・ブハーリンを筆頭にNEP放棄に反対だった。トロツキーによれば、スターリンは あまりに遠くまで、あまりに速く行き過ぎた。 NEPの土台を成す 「市場社会主義」にも、 やはり一 定の効能があるとさえトロツキーは考え始めた。

スターリンとトロツキーの最大の相違は「一国社会主義」をめぐる見解にあった。革命の国外波及 より国内の社会主義建設を優先するか否かという問題である。トロツキーもスターリンと同じように、ソヴィエト連邦における社会主義建設を重視はしたが世界革命論を放棄しなかった。 スターリンは世 界より国内を明確に優先した。 戦略的見地からは大きな相違であったが、イデオロギーの溝に橋を架 けることはできる程度の問題だった。それでも、些細な違いをめぐる党派間の闘争は、ボリシェヴィ キ党の根本を争う生存競争と化した。

トロツキーは一九二〇年代末に党籍はく奪の上で国外へ追放された。ある意味では不運を自ら招い たとも言える。革命で誰が何を為したかをめぐり 「歴史戦争」を仕掛けたのは彼だった。レーニンが 幾度も脳梗塞に倒れた後に成立していた政治局の集団指導体制を一九二三年に分裂させたのもトロッ キーだった。国営産業委員会の議長として産業の社会主義化を加速させることを提案した。 NEP戦 略に基づく農民資本主義と小規模な私的生産による段階的な経済成長の路線修正を主張した。 指導部の同僚に対して圧力を強め、スターリン、ジノーヴィエフ、カーメネフの三人組が主導する政治局多 数派が「党派独裁」を形成していると攻撃するキャンペーンを党内で展開した。 このキャンペーンの 産物として一九二三年一二月、『プラウダ』紙に彼の論評「新路線」が掲載された。 党内抗争は一九二四年一月の第一三回党大会で、三人組の大勝利に終わった。

トロツキーはカーメネフ、ジノーヴィエフと手を組んだ。 日和見主義であり、軽率でもあった。 カ ―メネフ、ジノーヴィエフは一九一七年当時より、さらに左に位置するようになり、NEPや一国社 会主義をめぐりスターリンと対立、党を武闘路線へと傾斜させようとしていた。一九二三年にトロッ キーが形成した左翼反対派、カーメネフの合同反対派のように、トロツキーとジノーヴィエフは党内 で支持の拡大を図った。だがブハーリンと組んだスターリンの権力と人気に圧倒された。ブハーリン は左翼共産主義者だったが右寄りに足場を移し、NEPの理論的な指導者として台頭、社会主義を目 指す政治経済戦略で漸進主義を唱えた。

トロツキーは一九二六年一〇月、政治局から排除された。一年後にはカーメネフ、ジノーヴィエフ とともに中央委員会でも籍を失った。トロツキーとジノーヴィエフは一九二七年一一月、党を追放さ れ、一二月の第一五回党大会ではカーメネフを含む七五人の反対派が党籍をはく奪された。これに伴 合同反対派を支持する草の根活動家の排斥も進んだ。

カーメネフとジノーヴィエフは、支持者の多くとともに、すぐに反対派の立場を放棄し多数派に同 調した。このため間もなく復党を果たした。トロツキーは自説を曲げず、一七九四年のフランス革命 のように反革命的な「テルミドール勢力」が党を乗っ取ったと主張した。トロツキーは一九二八年一月、カザフスタンのアルマタへ流刑となった。

イガル・ハルフィンによれば、スターリンが率いる多数派は哲学的、政治的な論理を用いて反対派 を「悪魔化」した。 ボリシェヴィキは真実を独占したがると喝破したカウツキーは正しかった。ボリ シェヴィキは自らの運動が社会と歴史の科学的理論に裏打ちされており、自分たちのみが絶対的真実 に到達しうると信じた。党とその指導者たちは革命と内戦の試練に耐えて力量を示し、 今や世界で最 初の社会主義者の国を建設している。 それは全人類を階級や抑圧のない理想郷に導く試みであると考 えた。このような世界観に照らせば、党内多数派に抗する反対派の存在は、階級の敵による狡猾な陰 謀が招いた偏向の表出に他ならなかった。

トロツキーは一九二四年五月の第一三回党大会で以下のように述べていた。

同志諸君、党に反対する者は誰一人として、正義を願い正義を唱える資格はない。最後には党 がいつも正しい。なぜなら党は労働者階級が手にした歴史的な手段であるからだ。 ・・・イギリス には〝善かれあしかれ祖国は祖国〟ということわざがある。はるかに確かな正当性を以て我々は、 こう言おう。〝善かれあしかれ党は党である、と。

党内反対派の「悪魔化」 は数年を費やして段階的に進んだ。最初は「小ブルジョア的偏向」と決め つけた。意図はどうあれ客観的には反革命の輩を意味した。 次の段階では、反党かつ明らかな反革命 の勢力であると位置づけた。

一九二〇年代半ばのトロツキー批判では、セミョーン・カナッチコフ 『ある偏向の歴史』が広く読 まれた。同書はトロツキーを、党の規律に反して孤立し、ヒステリックなパニックに陥りやすい“取 り巻き”を従えた人物として描いた。 スターリンがこの本を読んだかどうかは分からないが、 カナッチコフの他の著作とともに蔵書に含まれていたことは確かであろう

トロツキーは一九二八年に「反革命活動」を理由にアルマアタ流刑となったが、郵便で仲間と連絡 することは許されていた。一九二九年には「反ソヴィエト活動」に関わった罪でトルコに追放、一九 三二年にソヴィエト国籍もはく奪された。

トロツキーはソヴィエトを追放されたあと、『ロシア革命史』(一九三〇年)、『わが生涯』(一九三 〇年)、『永続革命論』(一九三一年)、「裏切られた革命」(一九三六年)、『スターリンの捏造一派』 (一九三七年)など有名な著作を多く残した。 海外追放後のトロツキーの著作で、スターリンの蔵書 に現存を確認できるのは、 ファシズムに関して一九三一年にドイツ語で出版された書籍のみである。 ドミートリー・ウォルコゴーノフによれば、「スターリンは『裏切られた革命』の翻訳を一晩で読み、 はらわたが煮えくり返る思いだった」というのだが、いつもの通り根拠となる出典を明示していない。 スティーヴン・コトキンは「全能の独裁者は・・・・・・トロツキーの著作や彼に関する文献は全て“近い別 の書斎にある特別な本棚に保管していた」と記しているが、彼もまた根拠は示していない。 トロ ツキーの海外での動向について、スターリンが詳しく把握していたことは確かである。トロツキーが ソヴィエトに残る反対派と連絡を取り続けようとしていたことも知っていたに違いない。国内の「ト ロッキスト プ」に対する弾圧について、治安機関から常に報告を受けていた。

『シリア・レバノンを知るための64章』

2023年09月03日 | 4.歴史
『シリア・レバノンを知るための64章』

49 ワイン源流の地

  • レバノンワインを楽しもう★

レバノンを初めて訪れたのはアメリカで1年を過した帰り途、 1975年の6月だった。 この国が十七年戦争とも名づけた長 い内戦に突入する直前、すでに不穏な情勢であった。

しかしベイルート入りした3日後、私たちは幸いにも一気に 千メートルのベカー高原を昇り、聖書の時代からあこがれをもって眺められたという美しいレバノン山脈や葡萄畑を、反対側には荒寥とした赤土の谷間などに見とれながら1時間半、世界最古の町シリアのダマスクスに通じる道を走り、バアルベッ ンの町に到着した。

バアルベックの遺跡は不思議な複合神殿アクロポリスである。 そもそもはフェニキア人 (レバノン人の祖先)が自分たちの神バ アルを祀った地だったが、ギリシアの時代が来ると彼らはここを太陽の町(ヘリオポリス)と名付けた。 次に来たローマ人た ちはこの地に最大規模の複合神殿を建立した。

西暦60年ごろにまずジュピター神殿ができ、その150年後 にはバッカスとヴィーナスの二つの神殿が完成した。 葡萄とワインの神バッカスを祀る遺跡が現存するのはバアルベックが世界でただ一ヶ所という。

私のワインに対する好奇心は、実はその半年ほど前から始まったのだった。 カリフォルニア・ワインが禁酒法の不遇をようやく脱して、かなりの味わいを誇るブランドや名門ワイナリーがテレビで宣伝され始めた頃だったので、私は何冊かの本を買い込んでアメリカだけでないワイン世界とその歴史に興味を持つようになった。

ワイン発祥の地についても、グルジア、アナトリア、メソポタミアとある中にレバノンの山々という説があったのを記憶していたし、イエス・キリストが結婚の祝宴で水をワインに変えたあの奇蹟の起きた村、ガリラヤのカナがベカー高原に近い事実にも気がついた。

もしかして、レバノンこそワイン源流の地ではなかったのか?

その時は拡がる好奇心を満足させることもできずに帰国したのだが、やがて私は物書きとなり、フランス、イタリア、スペインなどワインの取材に出掛ける幸運に恵まれた。しかしレバー を再訪す るようになったのは、二十余年を経た90年代末からだった。

一方で「ワイン源流の地・レバノン 」説についての勉強は山形孝夫先生 (宮城学院女子 授)の著書『レバノンの白い山』のおかげで、私の中では確かなものになっていた。

レバノンは旧約聖書の中ではカナンの地として登場する地域に全土が入ってしまう国でもあり、古 代イスラエルの神が何としても自らの民のために獲得したいミルクと蜂蜜、そして美酒ワインに象徴される土地だった。

ことにワインはエジプト王朝全盛期から引っぱりだこの人気だったし、中世ヨーロッパでも贅沢で 高価なものとされたのがカナン産だった。しかしそれは当然であり、この地にはバッカス神殿ができる前に、先住の神として人々の厚い信仰を集めていたバアルクの主、バアル神が存在していたからだ。彼こそがワインと深い関係にある神だった。

――紀元前13世紀頃彫られたバアル神のレリーフは、現在はパリのルーブル美術館に収まっている が、発掘されたのは1928年、ベイルート北方の丘だった。神殿跡や楔形文字でびっしりと神話が 記された粘土板など、大量の出土品があったという。

その楔形文字はウガリット語といわれる言葉でそれまで未知のものだったが、学者たちの熱烈な研究のあげく3年で解読され、3000年以上も埋もれていたバアル神話が現代の光を浴びたのだった。バアル神は古代オリエント世界の農耕神であり、大地に雷鳴を轟かせて雨をもたらし、万物の生命を蘇らせる主だ。カナンの地は沙漠に生きるイスラエルの民の憧れであり、緑濃い作物の豊かに実る 肥沃な土地であった。 この地に暮らす人々は平和と子孫繁栄を願う農耕民族であり、バアル神も同じ くペアの神アナトと結婚し家族を守る優しい神だった。

しかし人間を生かす穀物は一年草の実であり、一年毎の儚い生命である。人間の関係もやがては滅 びるものだ。ところが血は子孫に伝えられて何年も生き続ける。その事実こそがキリストの言葉なら ずとも農耕文化の中でワインを造る人間存在の証ではないだろうか。ワインは農耕社会の絆とも要と も言えよう。

バアルにはモトという弟があり、彼は火の空を支配して大地を干上がらせてしまう神である。 彼は壮絶な戦いを繰り広げるが、やがてバアルの方が力尽きて屍を野にさらす。すると大地は旱魃し、野山は枯れ果ててしまう。

ペアの女神アナトはバアルを失った悲しみにくれて野山をさまよい歩き、ようやく彼の亡骸を見つ けると、さめざめと泣きくれる。するとアナトの涙は、何と、尽きることのない芳醇なワインであっ た。彼女は目から溢れ出る悲しみの水、ワインの中でバアルの復活を願い、モトへの復讐を誓った。アナトは大地母神であると同時に勝利の女神であり、豊穣と多産の象徴として乳房がたわわに実る葡萄でできていた。

モトは息の根を止められて、やがて干からびた大地に雨が降り注ぎバアルは復活する。穀物神バアルに連続した命を与えるのは、アナトの流す涙、ワインだったのである。

ワインをめぐるこのレバノン神話に魅せられた私はやがて十年足らずの間に4回もレバノンを旅することになった。私にはかつてベイルートで日本料理店「ミチコ」を経営していた姉がいた。不幸に して彼女は突然に亡くなり、その後だったが、友人たちが私のワ トリー訪問の世話をしてくれたの だった。

シャトー・ケフラヤは内戦の真最中にフランスから醸造技術者などのスタッ が移住し、この国に フランス流のワイン造りを指導して、西欧で80年代の終わりから毎年さまざまな賞を獲得するようになったワイナリーだ。いわばレバノンにワイン・ルネッサンスをもたらした名門であるという。

私は日本から十数人のツアーと共にシャトー・ケフラヤを訪ね、レバノンの人々は料理との相性で白を好むことを知った。フランス流の赤もなかなかおいしく、当時は日本にも輸入されており、愛飲 していたのだが……このときは十九世紀半ば開設のシャトー・クサラも訪問した。 このワイナリーの造るワインは多岐 にわたり、フランス種はもちろんスペイン系のテンプラーニョも、アルザス流のゲヴェルツトラミ ナーもおいしい。さらに古代からの貯蔵庫かと思うような洞穴じみたカーヴへのツアーも楽しいもの だった。

2003年に夫と娘と訪ねた時は、98年開設のシャトー・マサヤへ案内された。 フランス人との共 同経営と聞いたが、若い当主ゴスン氏自らの案内でワイナリーの敷地にあるレストランで、 主に赤 (ムールヴェルドなど) を味わった。

新しいワイナリーの心意気をことさらに感じたのは、ワインそのものの故か、 ゴスン氏の印象だっ たのか、興味深い体験だった。

さて私がレバノン・ワインについて最も大切なことを学んだのは、2005年国際交流基金の機関 誌『遠近』の仕事で、すでに西欧の多くのワイン評論家が「世界におけるグレート・ワイン」と賞賛 するシャトー・ミュザールのオーナー、セルジュ・ホーシャル氏と対談するために彼の地を訪問した 時のことだ。

最初にワイナリーを見学に行った私を、葡萄畑から工場も貯蔵庫もテイスティングまで、すべて ホーシャル氏自信が案内して下さった。私は「レバノンの自然の味」という言葉を新たに耳に止めた。 翌日は日本大使館が氏のために晩餐会を催してくださったので、かなり長時間にわたってお話することができた。

さて、対談はそれまでに私が学んだワイン体験を全部合わせても学べなかったほどの、ワイン造りの哲学から古代の歴史、そしてレバノンの土壌や山々、太陽の光の特殊性から宗教にまで及び、私は 氏によって奥深いレバノンのワイン世界に入り込んでしまった。

「レバノンでは一度葡萄を搾ったら手をかけないワイン造り」であり、「この国には植物の病気がな かった」。さらに「レバノンは薬用植物の最大輸出国の一つであるほど生物学的多様性に恵まれてい ます」などの言葉が忘れられない。 さらに私が最も感動したのは次の言葉だった。

「この国は度重なる破壊を受けてきたが、もし私たちが復興しなければ、ここはただの難民の国に なってしまう。戦争によって民族の心は引き裂かれても、ワインは民族的感情を癒す大切なものだ。 ただの歓びを越えて今日と深く関わり、破壊の時に創造があることを、無政府状態のときに秩序があることを示してくれた。 そして死と再生はめぐり来るものだということも、そもそもはバアヘックで示されたように、今またワインが明らかにしつつあると思う」。

今日レバノンではワイン造りが活撥になってきている。 世界各地……日本でも盛んだ。

この現代においてこそ、ワインの源流はレバノンであることを思い起し、私たちはレバノンワイン に深く親しみたいと思う。

53 世界に広がるレバノン ・ シリア移民

★際立つ存在感と深刻な頭脳流出★

「兄はドイツで医者、母方従妹はアメリカの大学で研究して いて、父方の叔父はオーストラリアで貿易をやっている。曾祖 父から分かれた別の親戚は3代にわたってブラジルで商売、 はスーパーのチェーン店を経営している。」 シリアでもそうだ が特にレバノンで、こんな話を耳にすることが多い。かつて、 日本の商社マンが高度成長期に世界各地に出かけて事業を展開 したとき、あちこちで地元の手ごわい商業ネットワークと対峙 したのだが、そこで「レバ・シリ商人」はインド・パキスタン 系の「イン・パキ商人」や「ユダヤ人商人」「華僑」よりも商 売上手だと話題になったという。

レバノン・シリア移民とその子孫はさまざまな分野で非常 に目立っている。際立った人物を思いつくままに挙げてみよ う。ビジネス界では、まず世界長者番付第1位のカルロス・スリーム。(資産690億ドル=6兆9000億円で、東京都の一般会 計予算を超える!)1940年メキシコシティ生まれ、父親は南 バノン山間部の出身で1902年メキシコに移民、母方祖父 はベイルート近郊の出身でメキシコ初のアラビア語新聞社の創 業者。カルロス氏自身はメキシコの電信会社経営から事業を拡大した。今やニューヨーク・タイムズ紙の大株主でもある。日本でおなじみのカルロス・ゴーン(アラビア語名ゴスン) 日産CEOは、1954年ブラジル生まれのレバノン移民3世。 小・中学校を中心に1年間をレバノンで過ごし、1971年に高等教育を受けるためフランスに移った。 コピー印刷や 製本で世界的なチェーンを展開するフェデックス・キンコーズ創業者のポール・オルファリーは、カ リフォルニア生まれのレバノン移民2世。 アップル創業者の故スティーブ・ジョブズは、アメリカで 生後すぐに離別した実の父親がホムス出身の政治学者なので、シリア移民2世と言える。

政界では、アメリカ大統領選に二大政党以外からの候補として顔を出す消費者運動家のラルフ・ ネーダー(ナーデル)はレバノン移民2世 で、 1989年から10年間アルゼンチン大統領を務めたカ ルロス・メネム (マヌアム)は両親がダ マスクス近郊出身、2010年のトヨタ車リコール問題でその厳しい姿勢により有名になったアメリカ運輸長官レイ・ラフードはレバノン移民3世である。ブラ ジルには「レバノン系国会議員団」という40人ほどの組織がある。

文化・芸能・(医) 学界・ファッショ ン界など数え始めるときりがないが、こうした著名人を別にしても、世界各地のレバノン系・シリア系の人々は、概ね経済的に豊かな生活を確立しているように見える。中には失敗して表に出ない人々もいるだろう。しかしこの目立ち方は尋常ではない。もちろん傑出した人たちは、 その才覚・努力や育った環境が重要なのであって、人種的に優れているという話では毛頭ない。ただ、レバノンとシリアの国内人口それぞれ400万人、2300万人を考慮すれば、実に注目すべき現象 なのである。

もう一つ在外人口の動きを象徴する例を挙げよう。2006年7~8月 イスラエル軍は対レバノ ン戦争で真っ先にベイルート空港の滑走路を爆撃したため、外国人の避難が大問題になった。欧米諸国は艦船を送って自国民の救出に努めたのだが、そこでわかったのは、当時レバノンにはカナダ人が5万人、オーストラリア人とアメリカ人が各2万5000人、イギリス人とフランス人が各2万人余 りいたことである。大半はそれらの国のパスポートを所持して夏休みに帰省していたレバノン移民と その子孫だった。(なお、外国人労働者としてスリランカ人8万人、フィリピン人3万人がいた。)

それでは現在、世界のレバノン・シリア移民(とその子孫)の人口はどれほどなのか。 正確な統計 的データはどこにもなく、雲をつかむような話になるが、レバノンについてのある推計によれば、中南米に858万人(うちブラジル580万人)、北米に257万人(うち合衆国230万人)、西欧、オセアニアにそれぞれ4万人、湾岸アラブ諸国に35万人、西アフリカに7万人で、 全世界に1200万人 という数字が現れる。ブラジルでは、そこだけで1000万と言われていて、いかにも誇大な推計に 見える。一方で、レバノン国内人口がざっと400万人なので、世界全体でもせいぜいその程度だろうという推測もある。この推計のバラつき自体が政治性を帯びているのだが、これほど混乱する理由はいくつかある。これまでの移民の歴史をざっと眺めながら考えてみよう。

レバノン・シリアから本格的な移民が始まったのは19世紀末で、その後第一次世界大戦までが第一 波の時期で、東・南欧からアメリカ大陸への大量移民の時期と同じである。 移民の大半は、レバノン 中北部の山間部とシリア中部のキリスト教徒の農民で、南北アメリカを中心に、西アフリカ、オセ アニアからフィリピンまで、当初からグローバルな移住が進んだ。当時レバノンもシリアも国として は存在せずオスマン帝国領だったので、各地で「トルコ人」と記録された。 このためレバノン系移民 を語りながらシリア系移民も含めたり、その逆が起こったりする。

また移住先では名前が変わることがしばしばだった。「ユースフ・ファフリー」が「ジョセフ・ フェアリー」になると、名前からの追跡は難しくなる。 運よく移住先の移民管理局の記録が残ってい ても、ほとんど役に立たないのである。ギリシア正教の移民は移住先でロシア正教会に、マロン派は ローマ・カトリック教会に吸収されて独自の教会を持たないケースもあったので、教区資料もない。 さらに南北アメリカで顕著だが、他のエスニックグループとの結婚が進むと、世代を経るにつれて 「レバノン人」なり「シリア人」なりのアイデンティティは急速に薄らいでゆく。

この移民第一波の時期、大金を稼いで帰還する者もいたが、 は家族を呼び寄せて永住し、結果 的に一族もろとも移住して、出身村の人口が激減することが多かった。 長い船旅の末、移住先にたど り着いた農民は、ほとんどの場合、まず行商から身を起こし、徐々に資金を築いて (世代を経て)都 市中心部の商店街に卸や小売りの商店を持ち、各地で社会上昇を遂げた。

移民第二波は、レバノン、シリアとも独立して20年ほど経った1960年代で、主にオイルブームに沸く湾岸産油国に向かうものだった。 ムスリムの比重が高く、社会インフラが立ち後れた湾岸諸国 で、石油産業の管理運営や技術部門、教職や行政職、商業に従事した。出稼ぎの感が強く、距離的な 近さから頻繁に一時帰国する例も多かった。またイスラエル建国前後からユダヤ教徒の移住が続いて いたが、1967年の第3次中東戦争は決定的なプッシュ要因となった。この時期、宗教を問わず南 北アメリカへの移民も続いていた。

第三波は1975年から1990年までのレバノン内戦期、そしてそれ以降の政治的不安定期であ る。レバノンでは高水準のフランス語・英語教育が行われてきたため、若者が単身で、あるいは家族 と一緒に主に西欧・北米・オーストラリアに流出することとなった。ムスリム・キリスト教徒を問わ ず、おそらく人口の4割が、間断ない戦闘による閉鎖の合間を縫ってベイルートの空港から、あるい は陸路でシリアやヨルダン、海路でキプロスに向かい、そこの空港から、あるいはレバノン沿岸港か らの密航船で、続々と戦火を逃れた。 内戦後に戻る者も多かったが、欧米で活躍の場を見つけた者は そこで永住する方向だ。また内戦後も移民は依然ハイペースで続いており、おそらく50万人近くがレ バノンを離れたとの推定がある。シリアからも高等教育を受けた若者の留学と移民が相次ぎ、頭脳流 出は今日まで深刻な問題である。

そして2011年以来、動乱のシリアからトルコやヨルダン、レバノンに、そのレバノンからさら に欧米に向けて、新たな難民・移民の人口流出が始まっており、これが第四波となるであろう。

在外レバノン系・シリア系の人々は、 送金や投資などを通じてその経済的支援が本国で期待される だけでなく、レバ 人有権者の帰国投票行動(そのために湾岸諸国から莫大なカネが流れて無料航空券世界各地で配布される)やシリア反体制派の運動など、双方向的にさまざまな力が交錯する空間を作り 出している。

一方、長期的な観点からすると、移民はこの地域のキリスト教徒とユダヤ教徒の人口比率を著しく 低下させ、宗教的多様性が失われてゆく過程にある。同時に誰がレバノン・シリア人なのか、とい う問題が世界的に拡散しているのである。

16 スンナ派とシーア派

★国が変れば立場も変わる★

世界のイスラーム教徒の大多数を占めるスンナ派と、1から 2割を占めると言われるシーア派との間の教義の違いやそれぞ れの成立の歴史については、事典類の解説に譲り、本章では主 にシリア・レバノンにおける両宗派の位置と今日の問題につ いて扱う。ドルーズ派やアラウィー派、イスマーイール派など、 シーア派からの分派とされる宗派については、それぞれの章を ご覧いただきたい。

預言者ムハンマドの没後3年目の635年、初代正統カリフ のアブーバクルの時代にムスリム軍がダマスクスを占領し、そ れまでビザンツ帝国領だったこの地域のイスラーム化が始まっ た。 661年からダマスクスに都をおいたウマイヤ朝は、現在の国で言えば東はパキスタンから西はスペイン、ポルトガルと モロッコに至るまでの大帝国を築いた。 歴史地図帳を見ると、 圧倒的な軍事力による「大征服」で、この広大な領域の住民が 一気にイスラーム化したかのような印象を受けるかもしれない が、この時期、まだムスリムは少数派で、多数の異教徒を支配する形だった。一方、この段階ですでにウマイヤ家の支配の正 統性を否定する一派が、今日私たちが「シーア派」と呼ぶ宗派として出現していた。

ウマイヤ朝は、750年にアッバース朝に取って代わられるまでの約90年間、「歴史的シリア」の 中心都市ダマスクスを都として繁栄したのであるが、この歴史的事実はシリアの(特にスンナ派の) ム スリムたちにとって誇らしい、重要なよりどころとなる意識を植え付けたと言える。イスラームの共 同体は、アラビア半島という生態的に厳しい環境に生まれ、世界中に拡大することになったが、 最初 に 「歴史的シリア」という肥沃な農業地帯に多くの人口を擁する地域に政治的中心を移し、 一挙に版 図を広げたのである。

この当時からメッカへの巡礼路には、イラン・イラク方面からアラビア半島の沙漠を縦断するルー トや、エジプト方面から紅海を渡り沿岸を進むルートなどいろいろあったが、都のダマスクスから陸 路南下してメッカに向かうルートが一番主要なものだった。 これは時代が下ってオスマン帝国の時代 になっても変わらなかった。都のイスタンブルをはじめアナトリア方面からメッカ巡礼する際、ダマ スクスは陸上ルートの最後の拠点都市として位置づけられた。毎年巡礼月が近づくと、何千人もの巡 礼者が各地から集まり、町は1ヵ月以上にわたり祝祭的な雰囲気に包まれた。出発の日には華々しく 飾り立てられた千頭単位のラクダがキャラバンをなし、楽器が多数鳴らされるなか、ダマスクス総督 が先頭に立ち、護衛の軍勢を従えて、長い列をなす巡礼団が賑々しく南に向かった。メッカまで4日 弱の行程だった。

ダマスクスとアレッポという主要都市の中心の大モスクが、ウマイヤ朝期に建立された「ウマイヤ・モスク」であることは、以後今日に至るまで14世紀間にわたりイスラームが絶えることなく生活に根付いてきたことを、常に思い起こさせる。 ユダヤ教やキリスト教に比べれば新しい伝統ではあるものの、世界中のムスリム社会を眺望すると、シリア・レバノンのムスリム社会が最長の時間的伝統の上に成り立った地域の一つであることは明らかである。 そして今日のシリアとレバノンの地域を総 体で考えれば、ここで約8割の人口を占めているのがスンナ派であり、密度の差こそあれ、ほぼ全域 に分布している。 正統派の宗教として、地域全体に浸透・定着してきたことは疑いようがない。

ただし、この地域の地中海沿岸の山地に国境線を引いて、レバノンをシリアから切り離すと、そこではスンナ派がもはや多数派ではなく、 あまたの宗派の合間に入って急にマイノリティになる。レバノン国内の分布は、ベールートやトリポリ、シドンといった沿岸都市部とベカー高原の一部にほぼ限 定され、山間部の町村にはほとんどプレゼンスがない。このためスンナ派は、レバノンという国を 「レバノン山地」(アラビア語で「ジャバル・ルブナーン」)を基盤とする社会と認識する立場――マロン派とドルーズ派を中心とする――に対して明確に異を唱える傾向がある。全世界のスンナ派ムスリム の巨大な海の中にいつでも一体化できるのであり、より近くのアラブ地域のスンナ派とはそもそも自他を分かつ必要性はあまりなかったのである。これは独立前後の時期から、レバノンのスンナ派の多くをアラブ民族主義に向かわせる原動力となった。

シーア派も国境線が引かれることでその勢力図がガラリと変わる。現在のシリア・レバノンの地域 全体からすれば、あくまでも少数派である。 ざっくり言って、2700万人のうちの6パーセントく らいであろう。それがレバノンに限っては、400万人のうちの130万人、 この3割ほどで、個別の宗派としては最大勢力となる。

つまり(アラウィー派・イスマーイール派・ドルーズ派といった分派以外の十二イマーム派としての)シー ア派は、シリアにはほとんどプレゼンスがない、といってよい。ただし、ダマスクスのウマイヤ・モ スクの内部(東端の方)には、イラクのカルバラーでウマイヤ朝軍に殺されたフサイン(第4代カリフ、 アリーと預言者ムハンマドの娘ファーティマの間の息子)の首がここに運ばれて葬られたという廟があるし、 ダマスクスの東部郊外、グータの森の中にはフサインの妹ザイナブの墓廟がある。 いずれもイランや イラク、湾岸地域のシーア派の人々にとって、重要な参詣地となっている。

スンナ派国家たるオスマン帝国において、シーア派はしばしば弾圧の対象となることがあったが、 レバノン山間部のシーア派も例外ではなかった。さらに加えて、シーア派の領主層はドルーズ派やマ ロン派の領主層と対立しながら、峡谷に散在する農村部の支配をめぐり、勢力争いを繰り広げていた。 当初はレバノン山地の北部にも大きな縄張りを持っていたが、17世紀から18世紀を通じてだんだん押 し込まれて、現在シーア派の本拠地として知られる南部レバノンとベカー高原に落ち着くことになっ た。南部レバノン、とりわけシドンとティールの間で地中海に流れ込むリタニ川の東部上流域とそこ から南にかけての山地が 「ジャバル・アーミル(アーミル山地)」と呼ばれていたが、ここはシーア派 法学者を輩出したことで知られており、イランのサファヴィー朝(1世紀初めにシーア派を国教とした) にウラマーを多数送り出した。オスマン帝国とサファヴィー朝はしばしば戦火を交えたが、シーア派 同士の人的交流を維持していたのである。

南部レバノンはレバノン内戦 (1975~90年)の時期以来、度重なるイスラエル軍の侵略に苦しんだ。戦火を逃れて首都ベイ 下に移り住んだ人々も多く、ダーヒヤと呼ばれる南部郊外地区は多宗派混住の田園都市から、シーア派一色の稠密住宅地へと変貌した。

2003年のイラク戦争以来、中東全域を覆い始めたスンナ派・シーア派間の亀裂は、レバノンに も及んで国内政治の主要な対立軸をなすに至っている。西べイル -の中南部地区は両派の住民が近 接して居住しており、政治的緊張の高まりと共にしばしば衝突が伝えられるところである。しかしこ うした両派の明確な対立状況が、レバノンでは21世紀的現象であることも忘れてはならない。 (黒木英充)

32 曖昧なシリア・レバノン国境

★浸透性が国際的にも問題に★

レバノンは、シリア、イスラエル両国と計450キロの国境線を有しており、その内シリアとの国境線は370キロに及んでいる。フランス委任統治時代の1920年に、「歴史的シリ ア」地方(現在のシリア、レバノン、イスラエル、ヨルダン、パレス チナ自治区に相当)から切り離された領域をベースに、レバノン は1943年に主権国家としての独立を達したが、シリアとの 国境線には現在に至るまで画定されていない部分があり、帰属が不明確な地点が多数 (36か所以上) 存在している。

両国の国境線が曖昧な状態に置かれている背景には、シリア の歴代政権が基本的には同国の独立(1946年)以来、「二つの国家における一つの人民」という認識の下、レバノンの主権を尊重する姿勢を示してこなかったことがある。レバノン、シリア両国共に歴史的シリアに含まれる上に、首都ダマスクスから僅か20キロほど西に向かうだけで国境線に到達してしまう事実が、政権のこうした認識に影響を与えてきた。 他方で、レバ ノンにおいてもアラブ世界との結びつきを重視するムスリムを 中心に、シリアとの一体性に長らく重きを置いてきたことから、 国境線の画定が両国間の政治的なイシューとなることは殆どなかった。また、レバノン北部の都市トリポリはシリア中部の都市ホムスと、レバノン東部ベカー高原 一帯はホムスのみならずダマスクスと、とりわけ密な経済関係を有している。更に、レバノン北部や 東部の国境地帯においては、両国間に分かれて家族が居住していることが珍しくないことから、相互 の行き来は元より、買い物や学校、通院などに伴う越境が今もなお日常的に行われているのである。

このように、国境線が一部画定されていないことは、両国間での密輸が横行する原因になっており、 その特徴が顕著に表れたのがレバノン内戦期(1975~90年)であった。戦闘状況の激化に伴い、 レバノン中央政府による国内統制が緩む中、1980年代にはシリアの年間輸入量の七割ほどがレバ ノンからの密輸で占められる一方、シリアでは補助金を受けて低価格に抑えられているセメントやガ ソリン、砂糖などが数千トンも同国からレバノンへ密輸され、高価格で販売されているという事態が 報告されるに至った。また、ベイルート内外における戦闘によって首都の機能が低下する中、相対的 に平穏であったベカー地方の中心都市ザハレが、レバノン東部における商業活動の中心的地位を占め るようになるにつれて、多くのレバノン人やシリア人が同地を訪問するようになった。と同時に、日 用品のみならず麻薬をも扱う密輸ネットワークが両国間で築かれることになり、ベカー高原に駐留し ていたシリア軍兵士もこうした非合法な経済活動に携われるようになっていった。さらに、大麻栽培 や密輸業にはハーフィズ・アサド大統領の弟であるリファアト アサド副大統領や、同大統領の「側 近」であったムスタフー トゥラース国防大臣らを含む、国軍や治安機関に関係する多くのシリア 政府高官が当時関わっていたとされており、「清貧な」同大統領は彼らの非合法的な手段による蓄財 を内心快く思っていなかったものの、自らに対する忠誠心を維持するために基本的には黙認したと言われている。

シリア・レバノン国境における未画定領域は、1990年のレバノン内戦終了後もしばらくは、両 国のみならず国際的にも大きな問題としては取り上げられなかった。しかしながら、2000年5 月にイスラエル軍が南レバノンの大部分から撤退すると、未画定領域の問題がやにわに持ち上がっ た。と言うのも、イスラエル軍撤退をもたらした功労者であるシーア派組織「ヒズブッラー」のハサ ン・ナスルッラー書記長が撤退完了後直ぐに、「シャブア農場」を含む数箇所のレバノン領土が未だ にイスラエル占領下にある、と発言したからである。ゴラン高原の北端に位置し、256平方キロメートルの中に14の農場を有しているシャブア農場は、イスラエルが1967年の第三次中東戦争以来占領 しているシリア領ゴラン高原の一部であると、国際的には見なされている。だが、シリア・レバノン 両政府とヒズブッラーが、1951年に両国間で交わされたとされている「口頭合意」を根拠にし て、シャブア農場がレバノン領に属するとの見解を取っていることは、同国領内における占領地を解 放するために武装闘争を継続しなけれ らない、とするヒズブッラーの主張に正当性を与える根拠 になっている。また、シリアがヒズブッラーの武装闘争を引き続き、ゴラン高原解放に向けた対イス ラエル戦略の一部として利用することも可能にさせているのである。

イスラエルによるレバノン占領が国際的には終了したと認定されているにもかかわらず、ヒズブッ ラーがシャブア農場解放を名目として、その武装闘争の維持が可能になったことは、レバノンにおけるシリア覇権が終わりを告げた2005年以降にレバノン国内で問題視さ れるようになった。こうし た中で、ファード・ シニオーラ内閣 (同年7月樹立)は「反シリア」勢力 基盤にしていたことから、対シリア国境の画定作業がシャブア農場の帰属問題を解決するのみならず、同国とヒズブッラーの拠 点を結んでいる武器供給ルートの遮断や、引いてはその武装闘争の終焉につながると計算し、国際的 な助力を求めた。その結果、2006年にはドイツからの支援を得て、シリア・レバノン間の国境線 画定作業が着手されたが、シニオーラ内閣の反シリア姿勢などにより、シリアからの充分な協力を得 ることができず、 進捗しなかった。 こうした中で国連は2007年6月に、その国境査定チームの報 告書において、レバノン・シリア国境における武器密輸の取り締まりが不十分であると指摘した。そ の後2008年10月には、シリアが1946年に、レバノンが1943年にそれぞれフランスからの 独立を達成して以降、両国間には外交関係樹立されず、また相互に大使館も設置されない状態が続 いてきていた中で、国交樹立に関する共同宣言が調印されるに至ったことから、国境線の画定が進む との見通しが生じた。だが、レバノンにおいて「反シリア」の内閣が続いたこと(2009年1月にサ アド・ハリーリー内閣が樹立)や、シリアが対イスラエル戦略の観点から国境線画定に消極的であった ことにより、進展はやはり見られなかった。

2011年3月以降にシリアで反体制運動が勃発すると、対レバノン国境が確定されていないこと は、両国にさまざまな影響をもたらしている。シリアにおける戦闘が激化するに伴い、同国からの避 難民がレバノン北部や東部の国境地帯に逃れてきている他、武器搬入や戦闘員の出入り、あるいは負 傷者搬出のためのルートが、国境管理の曖昧さを衝く形で両国間に形成されてきている。シリア政府 は反体制運動の発生間もない2011年4月に、同国との国境に近いベカー地方選出のレバノンの国 会議員が、反政府勢力に武器や資金を提供しているとして非難したが、同国からシリアに向けた武器の需要は高まっており、ベイルートではカラシニコフ銃などの値段が倍増する現象が生じている。 の後2012年4月には、シリアの反体制派に向けた武器を密輸していたとされている貨物船が、 リポリに向けて航行中にレバノン国軍によって同国海域で拿捕されるという事件も発生した。

シリア国軍は他方で、同軍からの脱走兵が組織した「自由シリア軍」や、その他の反対勢力がレバ ノン領内に攻撃拠点を構えていることから、越境しての軍事作戦を頻繁に遂行している。このような 状況は、レバノン民間人や取材を行っていたジャーナリストらが、シリア国軍の発砲によって負傷す る事件を生じさせていることから、両国国境の現状は昨今、国際的な懸念や注目をより一層集めている。 (小副川 琢)



『戦略の世界史』

トルストイと歴史

ロシアの若き貴族トルストイは、クリミア戦争中に将校としてセバストポリに派遣された。このと きの従軍経験は、その人生にきわめて大きな影響をおよぼした。トルストイは豊かな生活に憧れる一 方で、宗教に傾倒していた。 作家として名が知られるようになったのは、戦地で執筆した従軍記によ ってである。作品は、紛争の恣意性に個人が巻き込まれていく様子に関する鋭い観察で満ちあふれて いた。トルストイは、敵軍の砲火になぎ倒されるロシア兵たち、そして軍の撤退時に放置されるそれ らの遺体を目の当たりにした。ロシア上流階級の無神経さと無能ぶりへの苛立ちを募らせていったト ルストイは、文学によって貴族だけでなく農民の生活や感覚を表現する方法を模索した。 そして一八 六三年から六年かけて、自身の最高傑作となる『戦争と平和』を執筆した。資料を読み込み、体験者 に話を聞き、一八一二年の戦闘について実地踏査を行うといった入念な調査に基づきながらも、トル ストイは歴史専門家とはまったく異なるアプローチで同書を書いた。しかも作品の構成自体、従来の 小説の枠をも打ち破るものであった。トルストイ自身の言葉によれば、「戦争と平和」は「著者が表 現したいと考え、 それが実際に表現されている形で、表現することのできたものにほかならない」。 のちの改訂で付加された箇所には、従来の歴史観、ひいてはクラウゼヴィッツの戦略観に異議を唱える短い随筆的な文章がちりばめられている。
クラウゼヴィッツは、トルストイが批判するものの多くを象徴する存在であり、 『戦争と平和』にも、 ほんの一場面にではあるが登場する。(トルストイの思想を投影しているとされる)アンドレイ・ボ ルコンスキー公爵が、二人のドイツ人の会話を小耳にはさむ場面である。一人はウォル ォーゲン副 参謀、もう一人がクラウゼヴィッツだった。 どちらかが「戦争を広い地域に移さねばならない」と言 うと、相手は「目的はとにかく敵の力を弱めることなのだから、個人の犠牲はもちろん問題にすべき ではない」と同意した。この会話にアンドレイは胸を痛める。その広い地域には、自分の父や息子、 妹が取り残されているからだ。そして、さげすむような言葉を吐き出す。プロイセンは「やつ[ナポ [レオン]に全ヨーロッパを引き渡しておいて、われわれを指導しに来た。 たいした先生方だ!」と。 プロイセン人の理屈は「卵の殻ほどの値打ちもない」ものだった。
トルストイは、自分たちが世の中を動かしていると思い込んでいる政治指導者や、その指導者たち を理解していると信じている歴史家に反感をいだいていた。 政界や軍部、 知識人のエリート層からほ とんど支持を得られなかったであろうトルストイの思想は、好意的な読者にとっても理解しがたいも のであったため、当時の実地での戦略にまったく影響をおよぼさなかったのも当然といえる。 それで も、より広い意味でトルストイがおよぼした政治的影響は、一九世紀の終わりにかけて広がり、 非暴 力的戦略を確立しようとする試みにも波及した。トルストイが発した批評全般は、二〇世紀に入って からも反響をもたらしつづけた。

戦争 知ったのは 中学生時代のトルストイ「戦争と平和」物語と ソ連映画

 トルストイ

信条の倫理型の代表的な人物としてウェーバーが思い描いた者がいたとすれば、それはレフ・トル ストイ伯爵であった。トルストイはウェーバーとはまったく別の視点から、あらゆる問題を、自身を 悩ませる原因となった科学、官僚制、現代主義と結びつけて論じた。ウェーバーには、同時代の偉大 な理想主義者としてトルストイに関する本を執筆しようと考えた時期すらあった。トルストイは、ほ かのことはさておき、少なくとも戦争と革命の両方に反対していたという点で首尾一貫していたが、 そのために戦争だけでなく、世界や文化の恩恵とも相容れない立場に置かれた、とウェーバーはみて いた。ウェーバーがトルストイにこだわりをいだいていたのは、『職業としての学問』でトルストイ の反合理主義者的、反科学的見解を論点としたことからも明らかだった。『職業としての政治」では、 トルストイがとくに好んだ「山上の垂訓」を取り上げ、「悪しき者に暴力で抵抗してはならない」と 説く愛の倫理を揶揄した。
この倫理はトルストイの信条であった。 何度も精神的危機に直面するなかで、トルストイは正教会 の虚飾や権威を否定し、独自のキリスト教の姿を考えるようになった。その中核にあったのが、「山上の垂訓」と「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」という教理だった。 そこから、平和に暮ら す、憎まない、悪しき者に抵抗しない、どのような状況においても暴力を放棄する、情欲や悪態を避 けるといったことを中心とする一連のルールが生まれた。もしこうしたルールが普遍的に受け入れら れれば、戦争も軍隊も、 そして警察や裁判所すらも不要となる。 トルストイは教会であろうと、宗教 に無関係なものであろうと既存の権力に異を唱える一方で、 不道徳で無益だとして暴力革命にも反対 した。そして都会や裕福な世代を否定し、農村や自然との交わりを重視した。
本書では、トルストイが反戦略的思想家として果たした役割についてすでに論じた。どちらの面に おいても、根底にあるものは同じである。トルストイは、意図的な原因が特定の結果にたやすく結び つきうるという考え方にきわめて懐疑的で、そのような因果関係を専門家然として主張する者を見下 していた。そしてアイザイア・バーリンが論じるように、何よりも「専門家や、ほかの者たちに対す る特別な権限を主張する者」を嫌った。『戦争と平和』では、指揮系統を通じて命じられる偉大な将 軍の意志に基づく行為が、大勢の人間の行動に影響をおよぼし、ひいては歴史を変えることができる、 という厚かましい主張を揶揄している。 将官や革命派の知識人は自分たちが科学的な戦略に従ってい ると主張するだろうが、結局はその戦略に裏切られる。 それは、自分たちがその計画において頼みと する一般の人々からかけ離れた存在になっていて、彼らのことを理解できないからだ。 善くも悪くも、 変化は出来事に巻き込まれた個人の無数の決断が積み重なって起きる。あいにく一般の人々は無知で 教養がなく、おそらくは共通の感情や価値観でつながっているが、自分たちの窮状を十分に理解した り、新しい世界を作るために団結したりすることはできない。
トルストイは、真理を探究する姿勢や、 十分な覚悟をもって探求すればそれは見つかるという張り つめた激しい信念の面では、啓蒙主義者だったといえるかもしれない。だが一方で、近代化や科学に 対する過信に、また、自身が良き生活の基盤とみなしていたものを見失った政治改革の試みに恐れをなすなど、きわめて多くの重要な側面において反啓蒙主義者でもあった。 「同時代の、いや実際には あらゆる時代の大衆運動になじむこと」ができなかったトルストイを「何らかのグループに分類する のであれば、答えが出ていない、あるいは出そうにもない問いを投げかける反体制派とするよりほか ない」。W・B・ガリーは、トルストイは「どうしようもないほど実践面に弱く」、組織だった行動も 「得意とするもの」ではなかった、と控えめに論じた。 家族ですら、トルストイが説く新しい生き方 に納得しているとはいいがたかった。トルストイがもたらしたのは、前例や多くの本や記事の力であ り、これは当人にとって瑣末事ではなかった。
妥協を許さない平和主義や、帝政への抵抗、そして貧困層の苦しみを白日の下にさらす試みによっ て、トルストイがとくに訴えたかったメッセージは明瞭に伝わった。 独自の見解の伝道者としての能 力は、自身の生き方だけでなく、文学的才能によっても高められた。都市部の貧民街で繰り広げられ る生存競争や、軍隊生活で日常的に起きる残虐行為、貴族の自己欺瞞能力などの生々しい描写も、そ の論争術の特徴の一つだった。軍国主義の非道さや近視眼的な愛国心に関する分析には、冷笑的な機 知、そして時として予言的な洞察が織り交ぜられていた。トルストイは未来の戦争熱について、司祭 が「殺人のために祈禱」し、新聞編集者が「憎悪と殺人を喚起する仕事に取りかかる」と表現した。 また、何十万もの「素朴で優しい人々」が「平和な勤労から引き離されて」重い足取りで戦地へと向 かい、最終的にこれらの哀れな人々は、「理由もわからぬまま、それまで会ったこともなければ、自 分たちに何か害をもたらしたわけでも、もたらす可能性があるわけでもない何千もの人を殺すだろう」 と説いた。こうした点から、トルストイにとって戦争とは、はるかにもっと一般的な不安、そして人 間同士の不自然な分裂が極端な形で表れたものであり、そうした要素を反映し、さらに悪化させるも のであった。 人間がこのような事態が生じるがままにしておける理由については、人間は政府によってだけでなく、何よりも悲惨なことにお互いによって「催眠術をかけられてきた」という独自の虚偽意識の考え方を用いて説明した。この催眠術は、愛国心という神話を白日の下にさらすことによって のみ解ける。トルストイの反戦略的な洞察力の中核には、人間社会における分裂は不自然な状態であ り、それを正せば闘争や対立の必要性はなくなる、という信念があった。
一八八二年、トルストイはモスクワでの民勢調査に参加したあと、当時のロシア人がよく自らに投 げかけていたとみられる「何をなすべきか?」という問いを提示した論文を書いた。モスクワは急成 長の時期にあり、地方からの移住者の急増で、それにともなう人口過密、貧困、犯罪、疾病、搾取と いったあらゆる問題をかかえていた。トルストイは、民勢調査は「社会学上の調査」だと述べ、さら に社会学の目的は、学問としては異質ながら「人々の福祉」にある、と指摘した。 残念なことに、こうした目的にもかかわらず、たとえ情報収集によって「法則」がどれだけ解明されようとも、またそうした法則によってどのような長期的福利が生じようとも、調査で明らかになった貧しい人々の生活 にすぐさま利益がもたらされることはまずなかった。 悲惨な状況を切実に描写することは、行動を起 こすのに不可欠な第一歩となりうる。「貧困、堕落、無知といった社会のあらゆる傷がすっかりあらわになるだろう」。だが、それだけでは不十分だ。トルストイはこう訴えた。飢えてボロ布を身にま とった人に出会ったなら、「ありとあらゆる調査を行うよりもその人を助けることのほうが重要である」。 科学的観点から無関心を装い、 次から次へとあわただしく悲惨なケースを調査するよりも、貧窮者と 関係を築くことをトルストイは呼びかけた。
真の目的は、「人と人とのあいだに築かれた障壁」を打ち壊すことであるべきだ。これは、エリー ト層の罪悪感を和らげるだけで、かえって分裂を深刻化させる慈善を否定することを意味する。 社会 の傷をいやすために、みなが一致団結すべきである。トルストイはこうした呼びかけを地域社会や同 業者組織に向けて発し、志を同じくする人々が貧困者や抑圧された者たちに手を差しのべることを求 めた、そうすれば物質面、精神面双方でよい効果が表れるだろう。そうしなければ、階級闘争が起きるとトルストイは警告した。 「[階級闘争は] 存在する必要もなければ、存在すべきでもない。それは、 われわれの理性や良心にもとるものであり、われわれが生きている人間であるかぎり、存在しえない はずだからだ」。
 結局 組織は メンバーのためにあるということ
 奥さんへの買い物依頼
雑炊の素      118
豚小間         306
串揚げ         498
金のつぶ      88
牛乳プリン    178
はんぺん      98
まぐろタタキ  358
アルトバイエルン        298

私の歴史は未来を知り 今を見ること

2023年08月29日 | 4.歴史
私の歴史は 未来を知り そこから今を見ること

 2度目の2冊買い 生ちゃん以来 #早川聖来 #早川聖来写真集

 1.4.2 存在を問う:存在のなぞに挑む勇気
存在は答えだから問えない
存在者としての振る舞う
存在だけで世界は成り立つ
私は正しいという認識
・考えるために存在している
・存在は答えである
・そんなことになるとは思っていなかった
・存在の謎は哲学の最大の謎
・内なる世界で問うのは自由である
・存在の謎が全ての発端
・存在が問えない以上 内に籠もる
・全てを知りたい動機そのもの

『歴史学入門』

2023年08月23日 | 4.歴史
『歴史学入門』

 「戦争とは, 複数のアクターがそれぞれの目的を実現するために,組織的かつ継続的に暴力を用いることで衝突し、死者を発生させ る社会的な現象であると定義できます。」
ならば 組織の目的を変えれば戦争はなくなる。個人が目的を設定し それを達成することを 組織の目的にする それで十分です
 本は本当に不便な道具です まず 重たい 自分の目を動かさないと活字が目に入ってこない 明かりがないと読めない コンテンツが欲しいのにものでしか提供されない 今寝ながら 明かりのないところでスマホで本を読んでいる 目が疲れたら 読み聞かせ機能を使う
 『世界哲学史』は古代から近代まで8巻ほどあるけど みんな値段が異なる ページ数で 値段が決まっている 本というのは 量り売りなんです 古代に比べて中世はほとんど意味がないのに