『世界史』下 ウィリアム・H・マクニール
イスラムの領域――それに従属するヒンズー教およびキリスト教の社会一五〇〇――一七〇〇年
マホメットが、はじめてメディナに信者たちの神聖な社会を作りあげて以来、イスラムの領域は、局地的、一時的な敗北はあったにせよ、一貫して成長しつづけていた。この以前からの変化は、はるか西の世界が新たに海上の制覇に乗り出したからといって、紀元一五〇〇年以後急速にとどまるようなことはなかった。むしろ逆に、インド、東南アジア、アフリカおよびヨ―ロッパは、すべてイスラムの拡大の舞台でありつづけた。実際のところ、一五〇〇年と一七〇〇年の間にイスラムの領域に編入された、何百万平方キロメートルないしは何百万人の新しい臣下たちを数に入れるならば、この二世紀間は、全イスラム史のなかで最も成功をおさめた時期の中に入るであろう。例えばインドでは、山地の北方から流入してきた逃亡者や冒険家たちが、イスラムの支配者たちに充分な戦力を与え、一五六五年に、インド南部の最後の重要な独立ヒンズー国家、ヴィジャヤナガル王国を圧倒することができた。そしてこの時代のまさに終末において、インド半島のほとんど全部が、ムガール皇帝アウラングゼーブ(一六一八一七〇七年)のもとに統一された。
東南アジアでは、沿岸地方のイスラム国家の連合が、協力して、一五一三年と一五二六年の間に、ヒンズー化したジャヴァ帝国を転覆した。この征服の前後に、商人や遍歴するスーフィー派の聖人たちによって行われた布教活動が成功をおさめ、イスラム教を、東南アジアの港や海岸地帯全体に沿って、フィリピンのミンダナオ島や、インドネシアのボルネオまで広げた。アフリカへの浸透も継続した。これは海よりも陸路によって行われ、船ではなしに隊商の活躍によるところが大きかった。これらふたつの大地域において、交易と市場活動の発展は、そのような交易がひきおこした新しい種類の経済活動に最も積極的に参加した地域の人々がイスラムを受容したことと並行して行われた。その後、軍事活動と行政的な圧力がしばしば用いられて、田舎や辺鄙な地域をイスラムの圏内に引き入れた。こうして、一連のイスラム帝国が西アフリカに勃興したボルヌ、モロッコ、ティンブクトゥ、ソコトなど彼らの異教徒に対する政策は、シャルルマーニュが、ほとんど一千年も前に、力で環境に抵抗するサクソン人をキリスト教に改宗しようとしたときに、北西ヨーロッパで使ったものと似ていた。
ヨーロッパ自体では、イスラムに対する抵抗は、インド、アフリカないしは東南アジアで行われたものよりもよく組織化されていた。しかしそこでもまた、イスラムの勢力は、キリスト教を侵しながら前進した。一五四三年までに、ハンガリーの大部分はトルコの行政下に入った。その後もくりかえし国境地帯での戦争がつづき、一六八三年まで、ポーランドおよびオーストリアのハプスブルクに対するトルコ人の戦いは有利に展開した。ヨーロッパ人に対するオスマンの軍事的な劣勢は、トルコ人の第二回ヴィーン包囲にはじまり、ハンガリーの大部分がオスマンからオーストリア人の手にうつった一六八三年から一六九九年までの長い戦争の間に明らかになった。しかしルーマニアでは、一六九九年以降も、オスマン社会の地方的変種が発展し、定着しつづけた。もっとも、この地域のトルコの勢力は、コンスタンティノープルのギリシャ人を通じて間接的に行使されたことも事実であるが。
イスラムが、一七〇〇年以前に継続して領土を失いつづけたのは、ユーラシア大陸の西部および中央部のステップ地帯に限られていた。ロシアがキプチャク・ハン国に次ぐ諸国家、すなわちイスラム化したカザン、アストラ・ハンおよびシビル・ハン国を征服して前進したことは、すでに述べた。さらに西方のステップ地帯では、イスラムは同じくらい深刻な敗北を喫した。一五五〇年と一六五〇年の間に、再生したチベットのラマ教(黄教)がモンゴリアのイスラムの機先を制して、中央アジアのイリ河周辺の地域で自己の地位を確立した。
しかし、ステップ地帯は、それ自体貧しく将来性のない地方であった。交易路が(北のシベリアの河川地方や、南の大洋の方向に変更されたため)草原地帯を横切らなくなったとき、長い間イスラム教を伝える役割を主に果たした商人や聖職者たちが、それらの地方に行くことをきっぱりとやめてしまった。それゆえ、ステップ地方におけるチベットのラマ教の目ざましい成功は、あるていどイスラムの競争者が引き揚げたためなのである。
ヨーロッパ商業の侵入
海上においては、事情はもっと複雑だった。地中海およびインド洋の両方で、スペイン、ポルトガルの艦隊が、イスラムの海上勢力に挑戦し、いくつかの重要な戦いで勝利をおさめた。しかしこのイベリア両国の海軍力は、イスラムの船隊を海上から駆逐することができるほど大きくはなかった。そこで、一五七一年に、一連の長い地中海における闘争に終止符が打たれたときにも、トルコの海軍力は、一五一一年にその戦いがはじまったとき同様の力を維持していた。またインド洋でも、軽い小型のイスラム船が、ポルトガル人に奪われていた商業の大部分を回復させた。十六世紀末までに、ポルトガル人たちは、港湾料の歳入を必要としていたがために、自分たちの支配する港に、イスラムの船が入港することを認める決定さえしたのである。
しかし、一六〇〇年以後になって、新たな海事勢力が現れはじめた。オランダ、イギリス、フランスの船が、インド洋および地中海の有力な商船として、スペイン、ポルトガルの船にとってかわりはじめたのである。短期間の現象としてみれば、この変化は、イスラムの立場からみれば勝利のように思われた。いずれの場合にせよ、新しく現れた国々は、まずイスラムの支配者と特定の条約を取り結ぶことによって、自分たちの地歩を確立し、いかなる種類のキリスト教布教の活動も差し控えた。これは急激な政策転換を意味した。ポルトガル人やスペイン人にとって、布教は貿易と同じくらい重要であった。しかし、新しく現れたオランダ人、イギリス人、フランス人の商人たちは、宗教的な宣伝の領域を、もっぱらイスラム教徒の手に委ねたにもかかわらず、新来者たちの経済活動は、長い目で見れば、イベリア二国の宗教宣伝よりも、伝統的なイスラムの生活スタイルを弱める点で、はるかに強力な力を発揮した。結局のところ、イスラム精神は、最も雄弁で学識深いキリスト教の宣教師たちと対抗したときですら、その言うことに耳を傾けないだけの力をもっていた。それは、マホメットの啓示が、キリスト教の偏って歪められた真理をただし、それゆえそれを凌駕するものである、という、すべてのイスラムの教えの中核にある確信によるものであった。しかし、イスラム社会は、経済的な合理化や市場関係の拡大に直面したとき、特にヨーロッパの価格革命の反響がイスラムの領域に押し寄せてきたとき、それから免れることはどうしてもできなかった。
もちろん、内陸地方での影響は少なかった。海から遠く離れた地方では、隊商による交易、職人による生産、農民と都市間の交易、奢侈品の地域的交易、などの古くからの形式が、ヨーロッパ人の諸慣行、組織、エネルギー等の影響を受けることはほとんどなかった。しかし海岸地方では、一七〇〇年までに、広範にわたる変化が現れはじめていた。例えばオスマン帝国では、換金農業が、アメリカからもたらされたトウモロコシとタバコの生産、およびもともとインドから由来した綿の生産にもとづいて、急速な発展を遂げた。ルーマニア、ブルガリア、トラキア、マケドニア等の農民は、アナトリアに住む農民たちとともに、トウモロコシを自分たち自身や家畜の食糧にしはじめた。新しくアメリカからもたらされたこの作物は、古い作物よりもはるかに生産的であったため、以前よりもはるかに大量の小麦や牛を輸出することができるようになった。黒海と北部エーゲ海の沿岸地方が、この発展の主な舞台であった。
オスマン帝国で商品農業が盛んになっても、それはマニュファクチャーの刺戟にはならなかった。職人のギルドは、昔ながらのやり方に固執した。勇猛で知られるトルコ兵たちは、一五七二年、はじめて結婚することを法的に認められたが、それ以後、トルコ軍隊の成員は、オスマン帝国のすべての主要な都市の職人たちの家族と通婚して、職人たちの強力な味方となった。企業的なエネルギーは、産業や商業には向けられなかった。これは、徴税請負業や、高位の官職につきたい者たちに高利の貸し付けをすることの方が、はるかに大きな利益が得られたからである。役人たちは、そのような借金の返済のために、法的および超法規的な方法で、民衆から金を絞り取った。もちろん、そのため、新しい産業ないし商業への投資は不可能になった。なぜなら、新しい企業に投資する余裕のある者はすべて、徴税人や賄賂を求める地方役人の格好の餌食となったからである。マニュファクチャーにおいて技術的な進歩がなく、貿易における企業的意欲に制限が課せられたため、オスマン帝国の輸出品は、ほとんど農産物にだけ限られることになった。これは、ビザンティン帝国が独立を保っていた最後の世紀に、イタリアの諸都市がレヴァント地方の商業を乗っ取ったときの状況と似ていた。この類似は、オスマン社会の経済的健康にとって不吉な兆しであった。
インド洋においても、ヨーロッパの商人たちは、系統的で組織化された利潤追求をはじめて、アジアの経済に変化を与えはじめていた。ヨーロッパの大貿易会社は、より多くの物質をインドに輸出し、その結果銀の流出を防ぐようにと絶えず本国から圧力を受けていた。しかし、毛織物その他のヨーロッパのマニュファクチャー製品は、インド海岸地方の暖かい気候の下において大量に販売するには一般にあまりに品質が悪かった。そこで、オランダとイギリスの商人は、アジアの港間で、利益を上げる物質の輸送を広げようとした。これだけが、ヨーロッパに輸送されるアジア産の物品に対し、大量の金銀をひきかえにインドに輸出することなしに支払いをすることのできる唯一の方法だったからである。オランダもイギリスも、これによってかなりの成功をおさめた。
例えばイギリス人たちは、インド西部において、小額の資金を紡績工や職工に前払いして、綿布の製造を組織化した。そのかわり、彼らは生産させたいと思う布の種類を定め、前払い金の額を規制して、市場に搬入される布地の量を調整することができた。このようにして、イギリス人の指定によってつくられた“キャラコ”は、アフリカとアジアの海岸地方のいたるところで、商人たちがひきかえに商業的価値のあるものを提供すれば売られるようになった。この種の貿易は、それまでは比較的単純な自給自足的な社会が圧倒的に多かった、東南アジアの海岸の多くの地方に、素晴らしい発展を促した。そのような体制の下で、例えばビルマやシャムの海岸地方およびフィリピン諸島は、ジャヴァ、スマトラとともに、ひじょうに急速な商業発展――主に農業上の発展を遂げた。しかし、東アフリカは、人間を輸出する方が容易だと思った。アフリカの海岸地方は、一連の奴隷狩りを行う国々や港市の所在地となり、イスラム世界に奴隷を供給した。それは南北アメリカに対する西アフリカの奴隷貿易と相並ぶものであったが、規模においては比較にならなかった。
香料諸島の中で、オランダの支配下に入った諸島は、さらにそれ以上の強力で体系的な経済的変容を経験した。オランダ人たちは、早くから軍事征服の政策をとり、地域の王たちに、世界市場で販売可能な農業生産物の量を指定して納入させるように圧力をかければ、行政の費用が賄えるということを知った。このようにしてオランダ人は地方の有力者を大農園の支配人にし、耕作者たちを、一種の半農奴状態においたのである。新しい種類の作物が、系統的に導入された。アラビアのコーヒー、中国の茶、インドのサトウキビなどは、オランダ人たちの高圧的な要求によってジャヴァ人たちに押しつけられた。オランダ人たちの政策は、絶えず変化する市場の需要に合うように商品を最もよく組み合わせて、最大の利益を得るよう計算して行われた。
インドの織工やジャヴァの農民の生活にとっては、インドや東南アジアで伝統的な行政形式を通じて行われているイスラムの政治的主権よりも、新しい、市場を志向する資本主義的な企業のほうが明らかにずっと重要だった。こうした企業は、ロンドンやアムステルダムに本拠をおく法人組織の会社から派遣されたイギリス人やオランダ人の代理人の手で運営されていた。そうした会社の所有者たちがそれとわかるのは、株式証券と呼ばれる、浮出し紋様の紙片を持っていることによるのである!しかし、一七〇〇年にはこのことは理解しにくかった。イスラムの政治家や宗教の専門家が、10ここで扱っている時代のはじめに、はるか昔の中世の十字軍と同じくらい深刻な脅威と思われたイベリア半島の十字軍に対して、試練を経た真のイスラムの制度が抵抗するのに成功したことを喜んだとしても、それはまったく当然だったと言えるだろう。中世の十字軍にせよ、イベリアの十字軍にせよ、その動きは弱められ、しかる後にうまく阻止できた一方、イスラムの領域は拡大し続けたのである。アラーの恩寵とイスラムの他のすべての信仰に対する優越性を示す証拠としてこれに勝るものが求められるであろうか?
シーア派の反乱
以上のような精神的態度から生まれたひとりよがりの自己満足は、十六世紀のちょうどはじめにイスラムが深刻な宗教上の衝撃を経験していたことを考えると、ひじょうに注目すべきものであった。イスラムの諸地方は、様々な宗教的セクトに対して寛容さを示してきたが、大きく分けて、スンナ派とシーア派の二大陣営に分かれていた。シーア派の多くの集団は、外見上はスンナ派の信仰形式に従っていたが、時としてあらゆる形態の組織化された宗教に根本的に敵意を示す、ベクターシー教団の修道者のように、信頼すべき初心者に対しては、秘密の教義を教え込んだ。大部分のイスラムの統治者たちは、スンナ派の立場を公に支持し、異論を唱える集団に対しても、公の宗教的制度に対してあからさまな攻撃を加えないかぎりこれを黙認した。
この暫定的共存は、一五〇二年に大揺れとなった。この年、トルコ人の部族の狂信的なシア派のセクトが、急速に一連の勝利をおさめた結果、その指導者であるイスマーイール・サファヴィがタブリーズでシャーとして王位についた。それにすぐ続いて、イスマーイールはバグダードを占領し(一五〇八年)、やがてブハラのウズベク族を壊滅させて、東翼の安全を確立した。一五一四年、彼の軍は、オスマン帝国が召集した軍隊とトルコのチャルディランにおいて対戦した。イスマーイールは戦場では負けたにもかかわらず、オスマン軍のトルコ兵たちが前進を拒んだため、せっかく勝利を収めたスルタンの軍隊が撤退するのを見て、満足した。イスマーイール王の戦歴は、それ自体あまり目ざましいものではなかった。ティムール(1三三六?|一四〇五年)その他の中央アジアの武将たちは、彼より以前に、それと変わらぬくらいの速度をもって大国家の建設に成功している。イスラム教徒にとって、サファヴィ帝国の建設が不安に感ぜられたのは、王の盲目の追従者たちが、彼をアラーの化身と信じたからであった。そして、そのような考えを冒瀆と感ずるような、もっと学識があり、神学にも通じている彼の支持者たちですら、イスマーイール王が、イスラムの十二の正当な支配者のうちの七番目の子孫として、全イスラム社会の長であることにまちがいない、と論じたのである。そのような主張が、完全な確信をもってまったく狂信的に唱えられ、一連の目ざましい軍事的な成功によって裏付けられると、イスラムの領域には、ひじょうな混乱がおこった。なぜなら、もしサファヴィの主張が正しいとなると、他のイスラムの支配者たちはもちろん簒奪者ということになるからである。イスラム世界の多くの地方に、そのような考え方に共感をもって耳を傾けることのできる、重要なシーア派の集団があった。事実、イスマーイール王の支持者は、一五一四年、アナトリアで大規模な反乱を引きおこし、狂信的な熱狂をもってオスマンの権威に挑んだ。
オスマンの反応は、素早く効果的であった。スルタンの残酷者セリム(在位一五一二―二〇年)は、アナトリアの反乱を鎮圧し、その後不満を抱く諸地方の残存者たちを無慈悲に駆りたてた。このため、オスマン帝国の他の地方にいたシーア派の集団は公然と反旗を翻す力を失った。セリムは、次にイスマーイール自身に対して圧力を加えたが、前に述べたように、トルコ兵が異端の王に向かって前進することを拒んだので、災いの根を断つことができなかった。
その後の戦闘で、セリムは、シリア、エジプトおよびアラビアを併合し、それらの地方の統治者たちがイスマーイールと同盟を結ぶのを防いで、メッカおよびメディナの、宗教上の戦略拠点に対する支配を確立した。彼の後継者である“立法者”スレイマン(在位一五二〇―六六年)は、本国においてスンナ正統派を組織化して、シーア派の異端と戦うことに勢力を注いだ。彼は、スンナ派の宗教教育機関に国の指示を与え、帝国のすべての主要都市における宗教上の公職者を国家の管理の下においた。もっと以前の時代ならば、このような政策は激しい抵抗を招いたであろうが、スンナ派の神学者たちは、ひとつには国家から支払われる給料の魅力のゆえに、またひとつにはイスマーイール王の宗教革命がイスラム世界全体に広げようとしている狂信と無秩序を恐れたため、スレイマンの規制を異論なく受け入れた。
一五一四年ごろから、イスマーイール王自身も、宗教革命の炎を統制する必要があると感じた。彼は、イスラム世界のすべての地方から、十二の派に属するシーア派の立法学者を招集し、彼らの援助のもとに、宗教上のあらゆる誤りの痕跡を除去する仕事を開始した。この目的を達成するため、彼はスンナ派や、異論を唱えるシーア派の集団を弾圧し、その財産を没収した。
同時に、イスマーイールの権力がもともと拠りどころにしていた、強力な大衆宣伝が、もっと正統的な傾向に近い者たちに対して向けられた。ちょうどそのころ、プロテスタントの宣教者たちが信者の心に強く刻みつけていた“小教義問答書〟にまさしく当たるものが、イスマーイ―ルのほとんどすべての臣下たちの間に、十二イマーム派の教義を分かりやすく広げたのであった。
イスラムのスンナ派とシーア派との間の対決は、サファヴィとオスマンの両君主の間の派手な衝突となって現れたが、それは他のすべてのイスラム国家と民衆に選択を迫って、困惑させた。いたるところで、スンナ派とシーア派の間に古くから成立していた伝統的な地域協定が、激しい争いに爆発する気配となった。宗教上の原理が、政治的忠誠心を表す指標となった。インドのムガール帝国は特に困惑した。ムガール王朝の創設者のバーブル(一四八三―一五三〇年)やその子のフマーユーン(一五〇八―五六年)などは、低迷期において、ひじょうに必要としていた援助をイスマーイールから得たいと思って、公然とシーア派を信ずる旨を宣言していた。のちインドにおける自分たちの地位が強固になると、彼らは、シーア様式のイスラムを否定し、スンナ派の教義を取り入れて、サファヴィ朝からの独立を宣言した。ムガールの権力を最初に確立する政治を行ったアクバル(在位一五五六―六〇五年)は、自分自身、独立した宗教的権威があると主張したがった。アクバルは、イスラムの信仰形式だけではなく、ヒンズ―教やキリスト教のそれをも試みてみて、一再ならず皇帝が改宗しそうだと確信していたローマ・カトリック教会の宣教者たちを苦しめ憤慨させた。
サファヴィ国家の力は、アッバース大王(在位一五八七一六二九年)のとき絶頂に達したが、宗教的革新の火は少なくとも宮廷内においては少なくとも宮廷内においてはそのころまでに衰えていた。オスマン側の恐れもこれに応じて少なくなり、一六三八年には、スルタンの政府は、かつての敵と継続的な休戦協定を結んだ。実際、宗教的な緊張はひじょうに緩和されたので、一六五六年、改革された政府がコンスタンティノープルで力を掌握した以後、新たな首相となったムハンマド・クプリリは、隠れシーア派が、オスマン社会で再び自由に活動することを許しさえした。そのひとつの興味深い結果は、それまでの二百年来、はじめて異端の修道者の共同体が特に活動的になった、クレタ島、アルバニアおよびブルガリア南部において、キリスト教からイスラムへの改宗が再び大規模に行われるようになったことである。
知識の後退と芸術の進歩
イスラム内部のスンナ、シーア派の分裂の文化への反響は、政治、軍事的な結果と同じくらい大きかった。ペルシャの知は、その根源から枯れ果ててしまった。それは、従来のペルシャの知の基礎にあった神と人間の愛の間の微妙な曖昧さが、イスマーイールに従う厳格な信徒にとっては呪わしいものであったからである。おそらくもっと重要なのは、スンナ派の学者たちが、根本的な意味で、社会的責任を果たせなかったことであった。スンナ派イスラムの学者は、シーア派の挑戦を、それ自体のものとして――つまり真理であると主張する宗教上の教義として受けとらなかった。そうではなくて、彼らは世俗の武力に頼り、いたるところで、自分の競争者や批判者を力で抑圧した。そこで、後になってヨーロッパの思想や知識がイスラムの伝統的な学問の多くを疑問視したときに、オスマン帝国の知識階級は、これに応えて新しい諸観念を調査する立場にはなかった。こうした挑戦に対して、オスマン国家の警察力の影に隠れて身を守った神聖な立法の学者たちは、第二の挑戦に対しても、まともにとり組むことを拒んだ。たぶんキリスト教世界の新しい知と取り組もうとしている間に、イスラム社会内部の宗教的な攻撃に側面をさらすことを恐れたからであろう。それよりは、コーランをくりかえし唱え、神聖な立法に関する注釈を暗記し、その結果アラーの行為をたしかに自分のものにすることの方がずっといい、と彼らは感じたのである。イスラムの軍事力が、あらゆる侵入者と対等に戦えるほど強力である間は、そのように確固とした保守的態度や、反知性的態度は、もちろん有効であった。しかし、イスラム国家の力が、いたるところで新しく生まれてきた競争者たちに抵抗できないことがわかった一七〇〇年以後になって、はじめてイスラムがどんな代価を払ったかが明らかになったのである。
主として公の政策がもとで知的な無能力化が顕著になったが、このことは必ずしも芸術が衰退したことを意味しなかった。それどころか、イスラム世界で大きないくつもの帝国が成立したために、あらゆる種類の建築家や芸術家たちに対する充分な、比較的安定した保護が可能になったのである。例えばイスファハーンがアッバース大王の命により、庭園都市として建設された。これは、世界中でも最も印象的な建築と都市計画の大記念碑のひとつである。それに比べると小さくはあるが、それでもなおたいへん規模の大きいインドのタージ・マハルが、ムガール皇帝の趣味に合わせて、一六三二年と五三年の間に建てられた。同様に、ペルシャ美術も、十七世紀に入って開花しつづけた。インドでは、画家たちがペルシャの技巧を用いてヒンズー教の宗教的な主題を描いたときに、新しい発展がおこった。そのような絵画は、“ラージプート族〟の地主階級に訴えた。彼らは、ペルシャ風の文化をもち、ムガール帝国に仕えていたにもかかわらず、先祖伝来のヒンズー教の信仰を捨ててはいなかったのである。
とても変な本 右から左ではなく 左から右の本 『教養 読書 図書館』表紙が右側にきている 通常 表に来る図書館のラベルが右に貼られている ちなみに ナチの焚書の写真
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今週の22日にせーらのブログが消滅します 遡って読むと 結末の分かってる小説を読んでいる感じ 結末は終わりではなくまだ続く またいつか 続きを聞かせてください #早川聖来