古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

1995年という年

2014-02-08 | 読書
『1995年』(速水健朗著、ちくま新書2013年11月刊)を図書館でみつけました。1995年と言えば神戸大震災と地下鉄サリン事件の年ですが、小生が現役引退する1年前でもありました。あれからもう20年近いのだと、目を通しました。
 以下、「あぁそうだった」と気づかされた事毎を、読みながらメモしました。
『日本で製造業従事者の数が農林水産業従事者数を超したのが東京オリンピックの翌年に当たる1965年のこと。そして、その製造業従事者の数がサービス業に抜かれるのが、1994年である。』
『村山政権の数少ない業績に「村山談話」がある。
当時、中国や東南アジヤの経済成長とともに、貿易相手としてのアジヤの存在感は急速にたかまりつつあった。1995年時点での日本の輸出入総額を見ると。貿易相手国の第1位は断トツでアメリカ(18兆4094億円)である。全体に占める割合は、25.2%。2位の中国は、7.4%(5兆4428億円)にすぎない。
だが、2011年の貿易相手国の順位を見ると、中国が27兆5441億円で1位占める割合は20.6%、2位のアメリカは、15兆9491億円で11.9%に落ちている。』
『1月1日、WTOが発足し・・真っ先に追求されることになったのは、焼酎である。
焼酎の低い税率を問題にしたのは、EUだった。EUといっても実質的にこれを問題にした当事国はスコッチウィスキーを日本に輸出していたイギリスである。
日本の蒸留酒税率の問題は、史上初となるWTOによる仲裁案件に持ち込まれた。
この話の後日談。焼酎vsスコッチ、バーボン、ウィスキーのグローバルな市場競争において勝利を収めたのは日本の焼酎だった。
九州の地場産業だった中小の焼酎の酒蔵は、酒税のアップを控え「本格焼酎」のブランデイングに乗り出す。安い値段で愛される庶民の酒という方向性を捨てた。焼酎をスコッチなどと同等の酒として飲まれるような高級酒に育てようと考えた。
2003年には、約50年ぶりに日本酒の出荷量を焼酎が超えるという快挙まで達成した。』
1995年の新食管法で、スーパーやコンビニでコメが販売されるようになった。
マクドナルドは、それまで210円だったハンバーガーを130円に
変更した。』
『満20歳人口のピークは1994年だったが、日本が生産年齢人口のピークを迎えるのは1995年(8716万人)のことだった。96年は生産年齢減少社会元年だった。』
自動車で言うと、『「プリウス」のプロトタイプが初めて発表されたのは、1995年10月に開催された東京モーターショウである。』
1995年は、秋葉原が家電の街でなくなった年である。雑誌『東京人』の1995年9月号、1994年に秋葉原ではパソコンの売り上げが家電を超えたことを伝えている。翌年の1995年はパソコンの出荷台数が初めて500万台を超えた年だった。』
『携帯電話が急速に普及し始めたのが1995年である。94年の時点では430万件程度に過ぎなかった契約数は、95年には1000万件を突破する。この年を機に携帯電話は年間1000万台以上のペースで加入数を増やしていくことになる。』
『グーグル創業者のラリー・ページとセリゲー・プリンが大学でやっとであったのが1995年の出来事だった。』