『脳には妙なクセがある』を読みました。もっとも印象に残った記述を要約します。
「心が痛い」、「胸が痛む」という表現があります。物理的な刺激があるわけでもないのに、「痛み」という比喩を使います。心が痛むのは人類共通の症状のようで、この隠喩は多くの言語に存在します。
米カリフォルニヤ大のアイゼンバーガー博士らの研究が有名です。
ボールトスのテレビゲームを用いた実験です。3人でバレーボールの練習をする。テレビゲームを通じて他のプレヤーとボールトスをする。相手の二人は実際にはヒトでなく、コンピュータです。
ゲームの参加者は、はじめは皆でボールを回して楽しんでいるが、相手の二人にボールお回してもらえなくなる。自分以外の二人だけが目の前で遊ぶ。つまり除け者にされる。グループからの孤立、社会からの孤立、心の痛む瞬間です。この時、脳はどう反応するか。13人の実権参加者の脳の活動を検査すると、大脳皮質の一部である「前帯状皮質」が活動することが分かった。前帯状皮質は身体の「傷み」の嫌悪感に関係する脳部位です。手足など、身体が痛む時に活動する脳部位が、心が痛む時にも活動した。
ヒトは社会的動物です。社会から孤立すると生きていくのがむずかしい。ですから、自分が除け者にされているかかどうか敏感にモニタする必要があり、そのための社会監視システムに痛みの神経回路を使っているのです。
最近、さらに示唆に富む実験デタが報告された。眼球を右に動かすときと、左に動かすときの「頭頂葉」の
活動を記録した。次に足し算と引き算をしているときの頭頂葉の活動を調べた。
「計算を行うとき、私たちは左右の伸びる数直線をイメージし、足し算の場合には、線上を右にシフトする仮想的な視点移動をおこなっている」と推測されるのです。
こうした一連の発見を推し進めると、「一見抽象的に見えるヒトの高度な思考は、身体の運動から派生している」という仮説が生まれます。
進化をさかのぼれば、もともと原始的な動物は物質環境の中で身体運動を行っていた。そして、この運動を統制するための装置として、筋肉と神経系を発明しました。この神経系をさらに効率的に発達させた集積回路が、いわゆる「脳」です。
ところが、脳がさらに進化したとき、身体を省略するというアクロバットをやってのける。つまりこういうことです。
脳の構造を眺めると、階層的になっている。この中で、「脳幹」や「小脳、それに「基底核」といった部分は進化的に古く、いずれも身体と深い関係を持っている脳部位です。こうした旧脳のうえに「大脳新皮質」が存在します。大脳新皮質は、しばしば「旧脳の上位にある高等組織」と言われるが、むしろ下部組織と解釈されます。
進化的に跡から生まれた大脳新櫃皮質は、すでに効率よく働いていた旧脳を、さらに円滑に動かすための「予備回路」あるいは「促進器」でした。ところが、進化とともに脳が大きくなり、脳内の圧倒的多数を大脳新皮質のニューロンが占めるようになると、旧脳よりも大脳新皮質の機能が優位になります。
大脳新皮質は、旧脳と異なり、身体性が希薄です。解剖学的にみても、身体と調節的な連携をほとんど持っていない。ですから、大脳新皮質が主導権を持つヒトの脳は、身体を省略したがるクセが主じます。その結果生まれたのが、計算力、同情心、モラルなどの機能です。
脳は、身体から感覚を入力して身体運動を出力します。身体運動は再び身体感覚として脳に帰ってくる。
ヒトの脳では、脳の自律性が高くなり、身体を省略して内輪ループを形成できる。この「演算」こそ「考える」という行為です。つまり、ヒトの心は、脳回路を身体性から解放して得られたものです。
生物は進化の初期の過程で、痛みや眼球運動などの原始的な生理感覚や身体運動の回路を作り出していて、これがきわめて効果的で汎用性の高いシステムであったため、後に身体性を排除してほかの目的に転用したのでしょう。
ヒトにみられる高度な能力のための脳回路を新たに作るより、すでにあるシステムをリサイクルする方が開発コストは少なくて済みます。痛覚回路を「社会的痛み」の感受に転用したのは、理に適っています。
このように、本来は別の目的で機能していたツールを他の目的に転用することを「コオプト」と呼びます。一見すると高次で複雑に見える脳機能は、意外と単純な神経システムがコオプトされたものと考えてよいでしょう。
ヒトの脳は、身体の省略という「芸当」を覚えたために「身体性」を軽視しがちです。
しかし脳は、元来は身体とともに機能するように生まれたものです。
手で書く、声に出して読む、砂場で遊ぶ―――生き生きとした実体験が、その後の脳機能に強い影響を与えます。
脳には入力と出力があります。あえてどちらが重要かと問われるなら「出力」。脳は「出力」することで、記憶します。脳に記憶される情報はその情報をどれだけ使ったかを基準にしているので
身体運動を伴うと脳のニューロンは、伴わないときの10倍活動するのです。
最後に、脳と言語について。
言語と脳はそれほど長い付き合いではありません。
脳の原型が完成したのは5億年ほど前と推定されます。一方、言語が生まれた時期は諸説あるが、およそ10万年前としましょう。
脳が誕生してから現在までの5億年を1年間に短縮したとすると、脳に言語が生まれたのは、12月31日の夜10時以降です。