古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

2017年の夏(3) 中島飛行機

2017-08-10 | 経済と世相

 

 

8日午前、10時からNHKスペッシャル「中島飛行機」を見た。(BS③)

 

中島飛行機は、太平洋戦争の折、三菱重工と並ぶ戦闘機の大メーカーでした。真珠湾攻撃の97式戦闘機を作りました。創業者は中島知久平(1884~1949)。戦後富士重工業になるが、同社はその創立を「1953年(昭和28年)7月15日」とする一方で、創業は「中島知久平」が「飛行機研究所」を設けた「1917年(大正6年)5月」としている。

中島は明治17年群馬県に生まれた。海軍に入ったが。航空の将来に着眼し、航空機は国産すべきこと、それは民間製作でなければ不可能という結論を得た。これを大西瀧治郎中尉にひそかに打ち明けたところ、大西も大賛成で、中島の意図を実現させようと資本主を探して奔走した。大西も軍籍を離れて中島の会社に入ろうと思っていたが、軍に却下された。

中島の「飛行機製作会社設立願い」は海軍省内で問題となった。中島はこのとき「退職の辞」として、戦術上からも経済上からも大艦巨砲主義を一擲して新航空軍備に転換すべきこと、設計製作は国産航空機たるべきこと、民営生産航空機たるべきことの三点を強調した。

つまり、後期は戦艦の数百分の1のコストで生産出来て爆弾を落とすことで戦艦を沈めることが出来る。工業生産力に劣る日本は、戦艦中心の「大鑑巨砲主義」を止めて亘空機中心主義への転換をと説いた。

 大正6年(1917年12月1日、既に同年5月には「飛行機研究所」(のちの中島飛行機株式会社)を群馬県尾島町に創設していた中島は海軍の中途退役を認められ(予備役編入)。

その後立憲政友会所属の代議士となり豊富な資金力で党中枢へ登り、新官僚や軍部寄りの革新派を形成して勢力を伸ばした。アメリカの国力を知るところから、当初は日米開戦に消極的だった。開戦後は「米軍の大型爆撃機が量産に入れば日本は焼け野原になる」と連戦連勝の日本軍部を批判し、ガダルカナルの争奪戦では日本の敗戦を予想して、敗勢挽回策としてZ飛行機(いわゆる「富嶽」)を提言するが44年まで無視され、時期に遅れて計画は放棄された。当初、軍上層部も乗り気だったが、戦争が劣勢になると、1機の製造に戦闘機が数百機分を要することから計画放棄になったのだ。

空軍の創設も提案した。

近衛内閣では鉄道大臣を務め、昭和13年(1938年)12月2日に鉄道幹線調査分科会をつくり、同年には海底トンネルのための地質調査も始めさせ、その大陸連絡構想は戦後の新幹線に影響を与えた。その組閣3ヶ月後発足した「大政翼賛会」は立憲政治を侵すとして、強力な政党を作ろうとしたが、終戦まで果たせなかった。

昭和20年(1945年)東久邇宮内閣で軍需相、軍需省廃止で商工相。昭和21年公職追放となる。

昭和22年(1947年)A級戦犯指定解除。昭和24年、脳出血のため急死。65歳没。

という経歴だが、凄いとおもったのは、今後は航空機が先頭のしゅりょくになり大鑑巨砲主義は意味をなさないと知り、米国機の爆撃で日本が火の海になることを予見して、逆に大型航空機を開発して米本土の爆撃を計画するなど、後の戦争の推移を正確に予想していたこと。すごい人物がいたのですね。

面白い内容の放送でした。