古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

数学する身体

2016-02-10 | 読書
 『数学する身体』(守田真生著、新潮社)の書評を中日(2月7日)で見て読んでみることにした。
著者は、東大数学科を卒業、現在は「独立研究者」を名乗り、特定の組織に属することなく数学の研究に没頭している。
 『数えるという行為から始まった数学の歴史をたどりながら、20世紀の同時代を生きた数学者、岡潔(1901~78)とアラン・チューリング(1912~54)の二人に多くのページを割く。性格も研究も思想も異なる彼らだが、数学を通して「心」を解明しようとした点は共通している。
「数学は情緒だ」と繰り返した岡、彼の著書「日本のこころ」に出会ったことが、筆者の数学の道へ転じる(東大には最初文系で入学した)きっかけになった。
「数学者の基底にあるのは、『なんとなくわかる』という実感、心の働きだ」と岡の意を説明する。たとえば350年間難問であり続けた「フェルマーの最終定理」も「ほとんどの人は、なんとなく正しいとわかっていた。
しかしそうした実感だけでは数学にならない。わかったことを知的に表現するのに必要なのが数式」。
「美しい風景を見た時、自分以外の誰かと分かち合いたいと人間は思う。感動を共有するために、美術家は美術を、音楽家は音楽を、そして数学者は数学を用いるのです」。』
以上の中日の記述にチューリングに関する以下の記述を加えれば、この本の完璧な紹介になるでしょう。
 チューリングは、人間の心を「玉ねぎの皮」に例えて、こんなふうに語っている。
 人間の心、あるいは脳の機能の少なくとも一部は、機械的なプロセスとして理解できるはずである。ただし機械の振る舞いとして説明できるのは「本当の心」のごく表層に過ぎない。それは、隠された「芯」に辿り着くために剥きとられなければならない、表面の皮のようなものである。1枚1枚、皮を剥きとりながら芯に近づいていこうとするように、機械で説明できる心の機能を一つづつ「剥いて」いけば、私たちは次第に「本当の心」に近づいていくことだろう。
 しかし、目指すべき「芯」が、端から存在しないとしたらどうだろうか。皮を剥いていった果てに、最後にあるのが、中身のない皮であったら。その時人は、心ははじめから機械であったと知る。このようにチューリングは論ずる。
1936年彼は、およそ「計算」と呼びうるあらゆる手続きが、単純な機械的動作の組み合わせによって表現できることを示した。計算の機械化―――それは彼が剥いた際初の皮だ。
 むろん、計算が心のすべてではない。本当の心は、その奥に隠されている。チューリングはそれを承知していた。彼が次に関心を寄せたのは、ひらめきや洞察という人間の心の働きである。ひらめきや洞察のような能力こそが、機械と人間の心を隔てる分水嶺だと考える人もいる。それでも、チューリングは歩みを止めない。
 第二次世界大戦中、彼はボムという機械を作って解読不能といわれた暗号エニグマを解読、暗号解読という極めて創造的な作業を、機械的な「検索」の力を借りて、成し遂げたのだ。一見、知的なひらめきや洞察に見えることでも、ある種の効率的な「検索」によって実現できてしまう場合がる。彼はそれを暗合解読の過程で学んだ。チューリング・ボムも彼が剥いた皮である。
 次第に、彼は「間違う可能性」が、機械と人を分かつ重大な能力であることに気づく。