『日本人へ』(塩野七生著、文春新書、2013年10月刊)を読みました。
一番面白かった箇所を、以下に紹介します。
【法律も政治も経済もまだ「学問」として成立していなかった時代のリーダーは、何を参考にして統治していたのか。私が書くのはそろいもそろってこういう時代の統治者たちだが、それでもけっこう上手くやっていたように思う。
紀元2世紀に入った頃のローマ帝国は、・・・この時期の皇帝だったトライアヌス帝はダキア(現ルーマニア)まで制覇し、ヨーロッパ・中近東・北アフリカまでも網羅したローマ帝国が、その領土を最大に広げた時代である。だが、大帝国のトップになったトライアヌスは、あることに気付く。帝国の領土は最大になったが、その帝国にとっては本国にあたるイタリヤ半島が、「空洞化」しつつあるのに気付いたのだった。
これも、彼も含めたこれまでの皇帝たちの苦労の果実でもあるのだが、「パクス・ロマーナ」(ローマによる平和)が帝国の全域にまで浸透したおかげで、ローマ市民の投資先が本国から属州に向かうようになっていたからである。
いまだローマが帝政に移行しきっていない共和制時代の末期、つまりユリウス・カエサルの時代、しばらくすればカエサル暗殺の首謀者になるブルータスは属州に投資していて、その”リターン“が48%にもなった。あの時代はまだパクス・ロマーナが帝国の全域にまで広まっていなかった。それで属州への投資はハイリスクを覚悟せざるをえず、ゆえにリターンも「ハイ」であったのだ。一方、安全な本国イタリヤへの投資は、ローリスクでローリターン。
ところが、それから150年が過ぎたトライアヌス帝の時代ともなると、帝国では辺境も平和を謳歌するようになり、とはいえ蛮族侵入の危険はゼロになったわけではないので、その地域への投資はミデイアムリスクくらいはあり、ゆえにリターンもミデイアムに留まったまま。にもかかわらず、本国への投資はあいかわらずのローリターン。
これではマネーどうしたって属州に流れてしまう。そして、それによる投資の減少は、雇用の減少につながる。失業者の増大をどうかしなければ、統治者としては失格だった。
皇帝トライアヌスは、あの時代にも経済学者やエコノミストがいたならば断じて反対したに違いない、非経済学的な暴挙を決定したのである。皇帝立案で元老院に議決をつまり法律化を求めて実現した政策だが、当時の基幹産業は農業で、ゆえに大規模農園は現代の大企業と考えてよく、元老院議員の多くはこの種の農園のオーナーだったので、元老院に法律化を求めたということは、現代日本なら経団連に加盟している大企業にすべてに求めたということになる。
毎年の収益の3割は、絶対に本国に投資すること、がそれだった。現代のように税制は複雑でないので、税金は経費などを除いた所得ではなく、除く前の収益にかけられていたから、稼いだカネの3分の1は本国に投資せよ、というわけだ。この法律の成立後には本国の農地の値段が上昇したと記録にもあるので、法律で決まった以上はしかたなく元老院議員たちも本国に投資するようになったのだろう。
だがこうなれば、ローマ時代の経営者とて頭をしぼる。頭を絞った結果は、付加価値が高いから単価も高くなる物産の生産になってあらわれた。本国イタリヤは、農産物でさえも輸出できるようになったのだ。パクス・ロマーナのおかげで属州でも経済力が向上していたから、高価でも需要があるように変わっていたのである。
しかし、増えた投資も雇用の増大につながらないかぎりは本国イタリヤの経済力の向上にはならない。そして、雇用の増大にはそれに応じられる質と量の人間が必要だ。トライアヌス帝は、今ならば少子化対策にあたる政策まで法律化する。ローマ時代の「成年」は、男子ならば17歳、女子ならば14歳だったが、成年に達するまでは毎月、平均すれば13セステルテイウスを与えると決めたのだ。ローマ軍団の兵卒の月給でも、その10倍前後であった。
100年前に皇帝アウグストウスが、力量が同等なら3人の子持ちのほうを登用するという、いわゆる「3人の子持ち法」を法化していたから、皇帝トライアヌスは、それを、成人後でも返す必要のない育英資金で強化したということになる。トライアヌス帝の治世は20年に及んだので、これらの政策を確たるものにする時間も充分であったのだった。
トライアヌスの後を継いだのは、ハドリアヌス帝である。この皇帝の業績で最大のものは、21年に及んだ治世の大半を費やして行われた帝国全域をまわる視察行だろう。それも、“SP“を大勢従えての旅ではなく、パクス・ロマーナが浸透していたことを実感させるような少人数の旅で、しかも滞在先は快適で安全な大都市ではなく、辺境に置かれた軍団基地の視察だった。
この視察行の目的は、再構築・再編成という意味ならばこれこそが真正のリストラだと思わせるもので、おかげでローマ帝国全域の防衛は、ハドリアヌスによってスリム化しつつも効率のほうも、格段に向上したのである。
このハドリアヌスの後に皇帝位に就くのは、アントニヌス・ピウスだが、この人物はこんな言葉を残している。「責任を果たしていない者が報酬をもらいつづけることほど、国家にとって有害な行為はない」というわけでこの皇帝は、治世の23年を使って、何も手を打たないと自然に肥大化してしまうという性質をもつ、公務員機構改革を進めたのだった。
この3人に、ネルヴァ、アウレリウスを加えた5人の皇帝の時代を、歴史上では「五賢帝の時代」と呼ぶ。(以下略)】
正しい経済政策は、経済学を知らなくとも実行できるのですね。
一番面白かった箇所を、以下に紹介します。
【法律も政治も経済もまだ「学問」として成立していなかった時代のリーダーは、何を参考にして統治していたのか。私が書くのはそろいもそろってこういう時代の統治者たちだが、それでもけっこう上手くやっていたように思う。
紀元2世紀に入った頃のローマ帝国は、・・・この時期の皇帝だったトライアヌス帝はダキア(現ルーマニア)まで制覇し、ヨーロッパ・中近東・北アフリカまでも網羅したローマ帝国が、その領土を最大に広げた時代である。だが、大帝国のトップになったトライアヌスは、あることに気付く。帝国の領土は最大になったが、その帝国にとっては本国にあたるイタリヤ半島が、「空洞化」しつつあるのに気付いたのだった。
これも、彼も含めたこれまでの皇帝たちの苦労の果実でもあるのだが、「パクス・ロマーナ」(ローマによる平和)が帝国の全域にまで浸透したおかげで、ローマ市民の投資先が本国から属州に向かうようになっていたからである。
いまだローマが帝政に移行しきっていない共和制時代の末期、つまりユリウス・カエサルの時代、しばらくすればカエサル暗殺の首謀者になるブルータスは属州に投資していて、その”リターン“が48%にもなった。あの時代はまだパクス・ロマーナが帝国の全域にまで広まっていなかった。それで属州への投資はハイリスクを覚悟せざるをえず、ゆえにリターンも「ハイ」であったのだ。一方、安全な本国イタリヤへの投資は、ローリスクでローリターン。
ところが、それから150年が過ぎたトライアヌス帝の時代ともなると、帝国では辺境も平和を謳歌するようになり、とはいえ蛮族侵入の危険はゼロになったわけではないので、その地域への投資はミデイアムリスクくらいはあり、ゆえにリターンもミデイアムに留まったまま。にもかかわらず、本国への投資はあいかわらずのローリターン。
これではマネーどうしたって属州に流れてしまう。そして、それによる投資の減少は、雇用の減少につながる。失業者の増大をどうかしなければ、統治者としては失格だった。
皇帝トライアヌスは、あの時代にも経済学者やエコノミストがいたならば断じて反対したに違いない、非経済学的な暴挙を決定したのである。皇帝立案で元老院に議決をつまり法律化を求めて実現した政策だが、当時の基幹産業は農業で、ゆえに大規模農園は現代の大企業と考えてよく、元老院議員の多くはこの種の農園のオーナーだったので、元老院に法律化を求めたということは、現代日本なら経団連に加盟している大企業にすべてに求めたということになる。
毎年の収益の3割は、絶対に本国に投資すること、がそれだった。現代のように税制は複雑でないので、税金は経費などを除いた所得ではなく、除く前の収益にかけられていたから、稼いだカネの3分の1は本国に投資せよ、というわけだ。この法律の成立後には本国の農地の値段が上昇したと記録にもあるので、法律で決まった以上はしかたなく元老院議員たちも本国に投資するようになったのだろう。
だがこうなれば、ローマ時代の経営者とて頭をしぼる。頭を絞った結果は、付加価値が高いから単価も高くなる物産の生産になってあらわれた。本国イタリヤは、農産物でさえも輸出できるようになったのだ。パクス・ロマーナのおかげで属州でも経済力が向上していたから、高価でも需要があるように変わっていたのである。
しかし、増えた投資も雇用の増大につながらないかぎりは本国イタリヤの経済力の向上にはならない。そして、雇用の増大にはそれに応じられる質と量の人間が必要だ。トライアヌス帝は、今ならば少子化対策にあたる政策まで法律化する。ローマ時代の「成年」は、男子ならば17歳、女子ならば14歳だったが、成年に達するまでは毎月、平均すれば13セステルテイウスを与えると決めたのだ。ローマ軍団の兵卒の月給でも、その10倍前後であった。
100年前に皇帝アウグストウスが、力量が同等なら3人の子持ちのほうを登用するという、いわゆる「3人の子持ち法」を法化していたから、皇帝トライアヌスは、それを、成人後でも返す必要のない育英資金で強化したということになる。トライアヌス帝の治世は20年に及んだので、これらの政策を確たるものにする時間も充分であったのだった。
トライアヌスの後を継いだのは、ハドリアヌス帝である。この皇帝の業績で最大のものは、21年に及んだ治世の大半を費やして行われた帝国全域をまわる視察行だろう。それも、“SP“を大勢従えての旅ではなく、パクス・ロマーナが浸透していたことを実感させるような少人数の旅で、しかも滞在先は快適で安全な大都市ではなく、辺境に置かれた軍団基地の視察だった。
この視察行の目的は、再構築・再編成という意味ならばこれこそが真正のリストラだと思わせるもので、おかげでローマ帝国全域の防衛は、ハドリアヌスによってスリム化しつつも効率のほうも、格段に向上したのである。
このハドリアヌスの後に皇帝位に就くのは、アントニヌス・ピウスだが、この人物はこんな言葉を残している。「責任を果たしていない者が報酬をもらいつづけることほど、国家にとって有害な行為はない」というわけでこの皇帝は、治世の23年を使って、何も手を打たないと自然に肥大化してしまうという性質をもつ、公務員機構改革を進めたのだった。
この3人に、ネルヴァ、アウレリウスを加えた5人の皇帝の時代を、歴史上では「五賢帝の時代」と呼ぶ。(以下略)】
正しい経済政策は、経済学を知らなくとも実行できるのですね。