古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

大学院の聴講

2007-04-06 | 放送大学
東大に3回合格した平岩正樹さん(53)という人がいるそうです。以下、3月11日の朝日の記事です。

『3度目の東大合格である。

工学部を出て就職したが、翌年再受験して医学部へ。・・・今回はまったく畑違いの文科系である。歴史学を学びたい。・・・
 工学部でも、医学部でも、実験が不可欠だった。

「実験は神との会話だった。神と会話せずに、どうやって真理をつかむか。それが人文化学の最大の謎であり、あこがれでもあった」』

 実は、私もかねがね「実験ができない人文科学は、どうして真実か真実でないかを判定出来るのだろう?真実を確認できないとすると、それは科学だろうか?」と疑問に思っていました。

平岩さんの「実験は神との会話。神と会話せずに、どうやって真理をつかむか。」も同じ意味だろうと思います。世の中、同じ発想をする人っているものですね。

 でも、放送大学で、「経済学」のゼミに参加してから、少し考え方が変わりました。
『科学とは「人間の知の体系」である。知とは、人類が知りたいと思ったことについて知りえたことの記述です。

人類が知りたいと思うことはいろいろある。中には、実験が出来ない分野もある。
そうした分野は、知ることを諦めるのか?そうはいかない。
 それが実験出来ない分野である場合、実験以外のなんらかの方法で真実を確認できないかを考えるだろう。そうして集められた知識の体系が人文科学なのだ!』
 人文科学で重要なことは、「この分野の科学においては、真実の確認はどうやって行うか?」です。

 話は変わりますが、司馬遼太郎さんのエッセイに「小説を作るにはマヨネーズを作るほどの作法もない」というくだりがあったことを記憶しています。

「経済学の論文作りには、マヨネーズを作るほどの作法ありやなしや」というのが、放送大学で、卒業研究のゼミに参加したときの私の疑問でした。

 ゼミの作業プロセスを通じて、実はこの「真実の確認をどうやって行うか」が、作法ではないかと思うに至りました。
ところが、そのように作法を定義した時、現在、経済学者の間に共通した作法が、実はない(と私は思う)のです。
ですから、その作法を、それぞれ個人が確立しなければならない。

 そうした思いで、放送大学院の新学期に入ります。
今日は大学院の授業の聴講に行きました。
新学期は法とシステム1(生命・医療と法)、法とシステム3(情報と法)を勉強します。70の手習いです。