Life in America ~JAPAN編

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引き金。

2007-04-20 09:55:28 | アメリカ生活雑感
週の初めに起こった衝撃の事件で、全米が陰鬱な気分に陥っている。
テレビではどのチャンネルも報道特集を組み、やれ犯人像はどうだの学校側の初期対応に問題があっただの、もううんざりごめんだ。
言ってしまえば、どこでいつ起きてもおかしくない事件だった。被害者の数を数えて“過去最大の悲劇”と大騒ぎしてはいるけれど、人数比較の意味など無に等しい。「学生による学校での銃撃事件。犯人は自殺」という、怒りと裁きのもっていきようのないパターンは、根本的な社会の仕組みを変えない限りこれからも続くだろう。そこに触れる報道はこれもまた、無に等しい。

今回の事件でまっさきに頭にうかんだのは“Hate Crime”の連鎖だった。
ヘイト・クライムとは、人種や宗教などによる差別・偏見からくる憎悪犯罪。9・11の直後、ターバンを巻いた人たちが何の理由もなく襲われ、あるいは命を落としたことを思い起こした。「犯人は○○人」とアメリカ以外の国名が入ると、そこに入るすべての人たちが居心地の悪い思いを強いられる。これが、人種寄せ集めの“自由な”社会でありながら目に見えないヒエラルキーが存在するアメリカという国の宿命なのかもしれない。(事件後の犯人に関する第一報は「昨年、学生ビザでサンフランシスコから入国した中国人留学生」だった。何を根拠にここまで決めつけたのかはいまだに定かではない。)バークレーのような全米一のリベラルな街でも、9・11後のHate crimeは存在したのだ。私は少し、身をすくめた。

次に思ったのは、銃社会のこと。
同様の事件の背景には、身分証明書ひとつで簡単に銃が買えるという社会のしくみが潜んでいる。そして何度同じような事件が起ころうと、アメリカは銃規制を決してやめようとしない。Gun Lobby(銃規制反対団体)がアメリカ社会を牛耳っているからだ。のどもとすぎれば熱さを忘れてしまう、いや忘れさせようとしているのかもしれない。「銃所持は自己防衛であり正当だ。(殺された)被害者はたまたま運が悪かった」という悪魔の声が、そうだそうだという闇の合唱にのって聞こえてくる。アメリカが繰り返している戦争もまたそっくり、同じこと。
銃が存在する限り、この手の事件は決してなくなりはしない。少なくとも、銃という武器を手に入れることがなければ彼(犯人)があそこまで大胆な行動を起こす勇気はなかったかもしれない。凶器が銃でなければ被害者も交戦することができただろう。

ここでふと、昨今の日本社会のことが頭をよぎった。もし日本に銃規制がなかったらどうなっていただろう、と。
陰湿ないじめや学校でのストレスで鬱積した気持ちを一気に晴らせる簡単な武器が手元にあったとしたら・・・子どもたち、いや大人でも一瞬の衝動にかられる可能性は高い。もしかすると、病み果てた日本はたちまち世界一の犯罪国になってしまうかもしれないと思うとぞっとした。



水曜日の新聞(Sanfrancisco Chronicle)には、被害者ひとりひとりの顔写真とプロフィールが紹介されていた。読むのもつらい内容だった。
被害者のひとり、Liviu Librescu教授はナチスの迫害をのがれた生き残りだった。
彼は犯人を教室に入れまいと自らが扉の前で楯になり、教室内の生徒全員を窓から非難させ息絶えたという。


今日、久々に大学(UCバークレー)構内を歩いてみた。
新学期の新入部員の勧誘があちこちで盛んに行われていた。平和そうには見えてもVirginia Tech.事件も人ごとではない。


UCバークレーは現在、学生の50%超がアジア系。


手前が“モスラム学生会”、その横は“パレスチナにおける正義研究会”。
いかにもバークレーらしい図。

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