津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

八代通い・第三週目

2005-10-22 19:02:38 | 熊本
 今日の講座、福原透氏の「細川忠利と数寄-知られざるそのお庭焼き」には大感激をしてしまった。かって花岡興輝氏が熊本市史にわずか一行(その半分)、その存在を紹介された熊本城下にあったという牧崎窯について福原氏は着目され、あらゆる文献を調べられてその存在を確かなものとされている。その場所は加藤清正が眠る熊本・本妙寺のお膝元牧崎だという。「目利き」の三斎が激賞したというこの牧崎窯で作られた陶器は、将軍家にも献上されている。三斎もこれを求める為に忠利に書簡を贈り、そのやり取りは一日で熊本八代を往復している。氏の推論は、「細川家史料」や「日帳」などを読み解かれて素晴らしい成果となり、我々を納得させるに十分なお話だった。文書研究の醍醐味を見た思いがする。しかしながら「物」が残されていない。氏がおっしゃるように牧崎の地で、「陶器のかけら」が何時の日か発見されることを切に願うものだ。牧崎の地は、かつて私が約30年程住んだ地でも有り、驚きでもあるし嬉しい話でもある。
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Unknown (Unknown)
2005-10-29 09:57:19
寛永十五年、金森重頼から牧崎窯の水指しを所望された忠利は「今程焼申候者果・・・」と、腕の立つ職人が死んで困り果てた様子を、息光尚に手紙している。福原先生はこの職人は「加藤侯分限帳」に出てくる「五人扶持・焼物師 弥太夫」であろうと推測されている。

「真源院様御代御侍名附」を見ていたら、最後尾に近い処に、「寛文十六年ニ御(切レ)イ(目見) 三人扶持 弥太夫」と云う記述を発見。

焼物師弥太夫の子が、父の名弥太夫を名乗り御目見えしたというのだろうか。裏はない。
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