朽木定彦殿の史料をいろいろ眺めているが、肝心の「先祖附」を読んでいないので、昨日図書館に出かけ取得してきた。
定彦殿は細川刑部家六代興彭隼人の分家與三郎家の二代目に養子として入った。初代・與三郎は藩主・重賢の同母弟・興彭隼人の実子(二男か)で分家を創家している。
興三郎には実子・松茂があったが病気を仕、回復したものの何らかの後遺症がでたのか、墓参をも御免されている状態である。
與三郎の死後、家督を継ぐことはなかった為、二人の妹のうち末妹の婿養子として定彦殿が養子となっている。
一朽木定彦儀 内匠養方之甥ニ而候 文政六年七月濱町(齊茲公)
御近習御座被 仰付五人扶持被下置他江
養子之取組等いたし候儀者不苦旨及達同八
年六月御櫛番被 仰付同年十月
與三郎跡目之儀ニ付而右及達候通候処
右之趣
濱町様被 聞召上与三郎儀者
霊雲院様(宜紀)
霊感院様(重賢)御以来御由緒之家筋
外ニ類茂無之儀ニ付相應之人茂有之
候者養子被 仰付家名相続被
仰付度致 思食上幸定彦儀
御由緒有之事ニ付抹茂妹ニ婿養子
被 仰付度 御内談被為在候付御列段之
思食(おぼしめし)を以與三郎末女ニ婿養子被
仰付家名相続被 仰付與三郎江被下置候
千俵之内七百俵被下置座席中着座
同列被 仰付濱町御側御取次被 仰付
濱町御近習御次支配頭之支配ニ 召加
文政九年八月座席持懸ニ而御用人被
仰付御足米百俵被下置濱町詰被
仰付同年十二月 濱町様御所労御床揚被遊
御祝御紋附御上下一具同御小袖一火下置旨
於中間申渡同十年三月御供ニ而罷登同年
十一月御婚礼被遊御整候付被遊御祝御紋附
御上下一具御小袖一被下置同十一年六月御供ニ而
罷下同十二年八月西山大衛跡御番頭被
仰付御足米貮百俵被増下置同十三年七月
病■■■且不勝手二付願之通御役儀被遊 御免座席元之通
中着座同列被 仰付御留守居大頭組
被 召加被旨天保三年六月松野匡組ニ組替
被 仰付同六年六月益田弥一右衛門跡御番頭
被 仰付御足米三百俵被下置同七年九月
為鶴崎御番代被指越同十四年三月
別段之 思召を以座席上着座同列
被 仰付座席弾之丞(續氏?)次座被附置同十五年
九月病気ニ付願之通御役儀被遊 御免座席
今迄之通ニ而御留守居大頭組被 召加天保
十六年正月
公義定例御祈祷之節阿蘇下宮
御名代被 仰付弘化五年二月有吉市郎兵衛(時展)組ニ
組替被 仰付嘉永四年五月
霊雲院様
霊感院様御以来御由緒之家筋ニ而追而ハ
被 仰付之筋茂有之度
諦了院様(齊茲=大伯父)思召之旨を被為■別段■■
御米百俵被増下八百俵高被 仰付
同五年八月座席持懸ニ而御用人被
仰付御足米貮百俵被下置同六年二月
御供に而罷登同七年三月
若殿様御婚礼御用懸相勤候付被遊
御祝御紋附御上下二具同御小袖一
若殿様よ里同御小袖一火下置嘉永七年
十二月與三郎と改名安政四年三月
御任官付而御祝御用懸相勤候付御紋附御長
上下一具同御半上下一具御小袖一被下置同五年
三月御供ニ而罷登同年十二月座席御留守居
大頭同列被 仰付大御目附被 仰付御足米五百俵
被増下為御家老代役秋迄直ニ御當地江
相詰候様於江戸被仰渡同六年十月罷下
同年十二月毎歳為御心附八木三百俵被
相渡(後)萬延元年十二月御凶年御用相勤候付御紋附 書き込みが前後している
御小袖ニ被下置(前)同年十一月
御家督御用懸相勤候付被遊御祝御紋附御上下
一具同御小袖一同縮緬御袷羽織一被下置(後)同二年 書き込みが前後している
二月御中老職被 仰付旨
御直ニ被 仰渡御足米千五百俵幷御役新米
並之通被下置旨仰渡(前)同二年二月
御入国御用懸且 御任官付而御祝御用懸茂
相勤候付御紋付御長上下一具同御半上下一具同
御小袖二同縮緬御袷羽織一被下置△同二年二月 黒文字部分重複
御入国御用懸且 御任官二付而御祝御用
懸を茂相勤候付御紋付御長上下一具同御
半上下一具同御小袖二同縮緬御袷羽織一被下置
文久元年六月先御供之節
御書出御用懸相勤候付御紋附御上下二具
御帷子一火下置同二年六月六十四歳ニ而
病死
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