先にご紹介した宝暦期の大奉行志水才助は、師である片岡朱陵の塾においてある日朱陵の講義も聞かずに縁側で寝こんでいた。
この様なことに意を介さない朱陵も、講義が終わると共に寝ころんだ。突然才助は「学校を作りましょう」と言い出した。
「それは良い」と朱陵とその門人たちは、計画書をこしらえて江戸にある秋山玉山に知らせた。
江戸では秋山玉山が藩主・重賢から学校建設の計画を持ち掛けられており、玉山は余りの偶然に驚き重賢に報告し計画は一気に実現へと向かった。
これが藩校時習館建設の逸話として語り継がれている。
秋山玉山が時習館の初代教授になった。ところが朱陵には不満があったようだ。
開講習討論という一文のさいごには「縦令賜由同此席、大息焦心應失明」とある。
そして次のような歌を作った。
けしつぶの中くりほぎて館立て 一間/\に細注を讀む
時習館きうりかづらのはびこりて 十三經の置所なし
朱陵はもともとは、細川家直臣・藪氏の家来であった。重賢はこれを召し出したわけだが、時習館の二代目教授は藪孤山が就任している。
朱陵は重賢の侍講に任ぜられるが、その時間を忘れるほどの異風者であったが、重賢はそんな朱陵を愛したという。
孤山(茂次郎)が若くして江戸へ遊学してきた折、「聖賢の學は、身を修るを大切と仕る」と諭すと、「此朱陵は片時も身を修むると云事は出来ませぬ」と答えたという。茂次郎としては、旧主として朱陵の放埓な行動が心配であったのだろう。
宝暦の改革に尽力した人々の中には、朱陵門下の人が多い。
堀平太左衛門の後大奉行についた志水治兵衛(才助)や、村山九郎次郎、蒲池喜左衛門、吉海市之允などを輩出している。
昨日の■細川幽齋公と宝暦の改革でご紹介した大奉行・志水才助という人物は、豪放な性格で知られるが、そのことを示すような発言をしている。
学問の師・片岡朱陵が「藩の御扶持を離れることになったら、どうして渡世をするか」と尋ねたところ、それぞれの人が手習いの師匠とか句読を教えるとか答える中、才助は「何の覚えもない人間なので、切り取り強盗をして渡世する」と応じた。
そして朱陵もまた、「吾等も至極同意」と膝を叩いたという。
才助は大奉行になったある時、重賢と酒肴の席に列し、大いに酩酊してあろうことか重賢の妾にもたれかかったという。
史料を見てみると才助は大奉行を罷免されている。しかしながら、しばらくして復帰を仰せい出された。
その間は謹慎でも言い渡されたのであろう。重賢はこの大酒のみの豪放な奔馬を、見事に操る御者であった。
重賢の元で宝暦の改革という事業を成し得たのは、このような「かぶき者」とも思える人たちが活躍したのだが、それらの人がほとんど片岡朱陵の門人であったという。
片岡朱陵は「徂徠学」の人だと言われる。細川家家臣藪家に仕える又者(陪臣)であった。
時習館二代目教授は、朱陵の主筋である藪孤山が就任したが、重賢は朱陵を召し出して侍講として遇した。
宝暦の改革は、このような成り上がりとも思える人たちが大いなる能力を発揮した。
三卿家老を初め、それまでの政を一手に握っていた勢力は埒外に於かれて憤懣を膨らませていく。
有吉家の家臣の呪詛事件などがその最たるものであろう。
かれらは、「座班」において高位に座して、ただこの鬱憤を晴らしたのであろう。
熊本史談会のN君が、先の史談会の後本妙寺を訪れ東光院で城家のお墓の写真を撮って送ってくれた。
城義核は私の母方の祖母の義弟にあたる。祖母は猿木宗那の娘だが、宗那には三人の兄弟があり、西村家・小堀家・城家に養子となりそれぞれが古式泳法・小堀流踏水術の宗家となった。
猿木宗那・西村宗系・小堀平七・城義核
猿木家の墓地は、本妙寺の花園墓地にあるが、城家については承知していなかった。
N君のお陰で墓地の所在を知ることができて感謝である。子飼の細川刑部邸の隣に江戸時代からの屋敷があって、私も幼いころ祖母の後について義核翁にあったことがある。
ヘビースモーカーだったのかもしれない。ピースだと思うが銀紙の包み紙を幾重にもかぶせて3~4センチのボール状にしたものを貰った覚えがある。
いろいろ逸話が残る四兄弟だが、私も古式泳法の勉強をしておけばよかったと悔やんだ時期もあった。
久しく本妙寺も訪ねていない。楼門下に新しい道路が通ったと聞くから、そのうちにその確認もかねてお墓参りをしてみようと思う。N君に感謝・・
「酒」と作家たちというエッセイ集がある。「酒」とは、佐々木久子が編集長を務めた雑誌「酒」のことである。
私は今でも、昭和52年発刊の佐々木氏のエッセイ「酒縁歳時記」を大事に書棚に残している。
酒縁の人たちが、佐々木の死後文章を寄せあったエッセイ集が「酒」と作家たちである。
この中に、藤島泰輔氏の「川端康成氏の思い出」という一文がある。(藤島泰輔の内縁の妻とされるのが、世間を騒がせている旧ジャニーズ事務所の故・メリー喜多川氏である)
藤島氏は酒は飲まないが酒席好きという、川端康成の付き添い役を務めていたそうだが、川端先生もミニスカートの女性を侍らせてご満悦だったというからなかなか面白い。
そんな川端のことを、盟友・今東光が気づかい「みみずくは夜寝ているか」と藤島に尋ねたと書いている。
川端が「みみずく」に似ているからと、今がそういっているのだが、まさか本人の前では言わないのだろう。
私はそんな毒舌家で洒脱な今東光という人が好きで、いろいろ著書に親しんだ。
つい最近も「お吟さま」を読了したところだが、お吟さまが生きた時代の会話というものはこのようなものであったのかと、今先生の力量のすばらしさに感嘆させられるのである。
作家であるとともに、政治の世界にも足を踏み入れられたこともあった。(川端先生も御同様・・)
天台宗の座主に就任され、天台宗大僧正となって法名 春聽を名乗られた。瀬戸内寂聴は法妹であり、寂聴の名は今東光大僧正の法名からきている。
随分以前東光先生は奈良本辰也氏と「南北朝」について対談しているが、その模様がある方のブログ「南北朝についての日記?」で公開されていることを承知していた。
久しぶりにググってみたら健在であった。ここに引用させていただき、御紹介申し上げる。
非常に得るところがある対談である。
18日の史談会例会では「儒学、そしてその変遷」をお聞きしたが、帰ってからふと司馬遼太郎の「春灯雑記」にある「護貞氏の話-肥後細川家のことども」を思い出した。
護貞さまによると、時習館を創立して初代教授となった秋山玉山は「朱子学はいけません」と言ったと言われる。
その証拠に官学である朱子学(新註)とともに、古義も併せて教えていたらしいことが学則でも見て取れる。
「諸生之業、嚴立過程、考經論語一科、易書詩一科、春秋三傳一科、ニ禮ニ戴一科、是爲正業、雖主古義、不廢新註、彼是参考(以下略)」
二代目教授・藪孤山は主に朱子学をもって教えようとしたらしいが、秋山玉山の名残があり苦労したと伝えられる。
昭和史の混迷の中に、近衛文麿の秘書官を務めた護貞氏だが、昭和10年あたり以降の混迷は「あれはすべて宋学(朱子学)のせいだと、恩師の狩野君山が言った」と語っておられる。
そして「朱子学というのは理気の学ともいい、理論を進めていくと感情というものが全く入ってこない。だから朱子学を(理気の学)をやった人は非常に人を責める、理詰めで人を責める。人情が入ってこない。江戸時代に徹底的に朱子学を教えた結果だ」と君山は言ったと語っておられる。
狩野君山が幼い時に学んだ「同心学舎」(濟々黌の前身)は、漢学を教えていたという。
これは宋学(朱子学)に対する古学で「漢・唐」の古注をさすが、まさに時習館草創期の教えであることが判る。
藩校時習館の訓詁中心の、重箱の隅を突つく旧弊な教育が維新に乗り遅れた要因の一つであるように思う。
彼の著「山鹿語録」に細川忠利の死後、阿部弥一右衛門同様殉死すべき人物と陰口をたたかれた人物について取り上げている。
加々山主馬可政の次弟・加々山(奥田)権左衛門なる 2,080石を領する上級家士である。
主人へ殉死致さずと云て、其家中にあしく云けるもの多かりしものあり。此者、主人の忌日に惣家中寺へ参詣仕りけるを、用所候
由にて留め置きて、惣衆相あつまれるとき罷り出て申しけるは、私事殉死仕るべきことなりと、此座中に入来候歴々にも御沙汰こ
れあるの由承り及び候。定て殉死仕るべき子細を御存じにてこれあるべし。吾等ことは殉死仕り御奉公に罷り成るべきの見付けこ
れ無く候。主人御取り立てのものは必ず殉死いたすはずと計の儀は、我等合点には及ばず候ゆへ殉死仕らず候。唯今にも其道理を
承り届けば、御奉公のことに候間、則ち殉死仕るべしと云けるに、座中一言の返答にも及ばざるに付きて、(後略)
此のごとく理りを尽すの処、とかくの仰せもこれなき上は、定めて各の御沙汰にてはこれなくと見え候。此上は、已来うしろにて
殉死の批判あられん方は、侍の本意にあらざる間、この心を得られ玉はれ。
まことに小気味よい話で、こう詰め寄られると陰口をたたいていた人たちも口をつぐまざるを得ない。
阿部弥一右衛門は殉死を選んでいるが、こちらは庄屋あがりの大出頭の人であったから、陰口もさることながら自ら深く思うところがあ
ったのであろう。
私は弥一右衛門の殉死と阿部一族の誅伐事件は別のものとして考えるべきだと思っている。
後者は嫡男・権兵衛の不届きなる行いによって引き起こされたものである。
「開かずの段ボール」ならぬ「開けずの段ボール」を久しぶりに開けてみたら、朽木家の史料や古文書が顔を出した。
ひところヤフオクで朽木家や朽木定彦なる人物に関する文書を五点ほど手に入れたものである。
一緒に朽木家と長岡與三郎家の先祖附も出てきた。
そのころ一生懸命これらの文書を読んだのだが、定彦氏が刑部家に入ったいきさつが解明できないままでいた。
この朽木定彦なる人物は朽木昭信なる人物の嫡子である。「細川藩主要家臣」をみると、この朽木昭信は朽木家7代・昭恒の
養子として朽木家に入ったが「病身につき実方に引取る」という記載がある。
それゆえ8代は、八代松井家から営之の末子・昭久が入っている。
昭信の実方とは宇土細川家であり、「細川和泉守の伯父」とあるが和泉守とは宇土細川家の8代目の「立之」のことである。
つまり、7代細川立禮(宗家相続して齊茲)の末弟・左膳である。
定彦は朽木昭恒の娘である生母と共に朽木家に残ったらしい。
そして、父が朽木家当主を継いでいないために、他家に養子に出ることを望んだらしい。
それが、数年前ヤフオクで手に入れた朽木家関係の文書にいろいろ書かれていたのである。
結果として定彦は刑部家に入っている。しかし嫡家ではない。
実は刑部家の6代は細川重賢の末弟・隼人が入って興彰を名乗っている。5代に男子があり興禎という人があってこれが嫡家
の後を継いでいる。
一方6代興彰の後は惣領の興度が別家を興した。定彦はこの別家の2代目となったのである。
細川宗家・宇土細川家の濃いDNAがこの別家に入った。
半世紀ほど前、泰勝寺にお住まいになっておられた、長岡度世様がそのご子孫であった。
私の姓が少々珍しいから、祖父のことを御存知で親しくしていただいた。
長岡與三郎家の先祖附を精読してみると、朽木定彦氏が大叔父・細川齊茲公の配慮によって、宜紀公の末子(重賢公末弟)
である與三郎家の2代目として養子となったことがよく理解できた。
略系図にしてみると以下の如くである。
+ーーー細川重賢ーーー治年==齊茲
+ーーーーーー左膳
⇩ 分家創立・初代
細川刑部家5代・興行==興彰ーーー與三郎ーーー●
‖・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・細川與三郎家
定彦
7代
宇土細川家6代・興文ーーーー+ーーー立禮(宗家に入って齊茲)
+ーーー昭信(病身ニテ実家へ引き取る)
‖-------定彦 細川刑部家・分家-與三郎家に入り2代
朽木昭恒ーーー+ーーーーー女
+ーーーーー女
‖・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・朽木家
松井営之・弟 昭久
■定彦さん、順養子なるか
■定彦さん、順養子なるか・2
■その後の定彦殿
■定彦さんのこと、謎解き
■定彦氏のこと
■定彦さんにこだわって
■定彦殿のこと・1「朽木内匠書状」
■定彦殿のこと・2「文化十四年七月十日付・米田監物書状」
■朽木家の血脈
■八代朽木家取扱之扣写(一)
■朽木家のこと「閑話休題」
■朽木内匠・定彦関係略系図
■八代朽木家取扱之扣写(ニ)
■八代朽木家取扱之扣写(三)
■先祖附にみる定彦殿
■八代朽木家取扱之扣写(四)御尋ニ付口上覚(一)
■懐具合と相談の上・・・
寛永六年五月十一日の奉行所日帳に次のような記録がある。
(正直) (正重)
一、河喜多五郎右衛門尉被申候ハ、黒田蔵人知行被召上候時、御借米滞分、村々百生未進分、到其時上納不相成ニ付、
五百石
次第/\ニ取立申候、猶残分ハ蔵人へ被遣、五百石ノ御知行にて取立申候処ニ、蔵人被申候ハ、主知行所〇にて、
弐千五百石二在ノ候未進分を被 召上儀候、御取立候て返し被下相当様ニと被申候、如何可在之哉と被申候、上
知分ハ御蔵納二成申候、然上ハ御蔵米にて返し候ハねハ不成候、御蔵米を返候儀ハ成間敷由、申渡候事、
頭注には「黒田正重知行召上ノ時ノ借米百姓未進分次第ニ取立ツ知行二五百石未進分二千五百石未進分ノ返弁ヲ望ムモ蔵納ハ返サズ」とある。
蔵人の知行は500石であったが、肥後入国後は知行の一部を召し上げられている。肥後入国前の寛永6年の借米の返済が滞ったのが影響しているのだろうか。
上記文章を読むと、百姓衆からの知行未進が影響しているが2,500石あるとしているから、知行の5倍にあたる。これでは借米に頼らざるを得ないだろうが、これも返すことができずに減知となったのだろうか。
さてこの黒田蔵人は肥後入国後は伊丹格助と名前を変えている。又、嫡男の伊丹半弥(黒田次左衛門)の項を読むと、「寛永十八年七月遺領をつぎ弐千五百石」とあるから、蔵人(伊丹格助)も2,500石拝領していたことになる。
黒田蔵人(=伊丹正重・角助)
豊前時枝城主・時枝平大夫二男。はじめ黒田孝高に仕。致仕後福島家に仕えるも福島家信州転封により牢人、大坂に
て細川忠興に召出さる。寛永十八年六月八日没
●黒田蔵人 (1)本名伊丹 頭衆五百石 (於豊前小倉御侍帳)
(2)五百石 (肥後御入国宿割帳)
参考:召し出しについて
・元和5年10月15日 大日本近世史料・細川家史料(1710)より
・元和6年正月10日、黒田蔵人召抱 (忠興文書・199)
・黒田蔵人事、抱可申由、得其意候事 (綿考輯録・巻二十 P95)
●伊丹角介 (3)人持衆併組迯衆 三百石 (真源院様御代御侍名附)
(4)三百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
(5) 長岡監物組・御中小姓頭 三百石 (寛文四年六月・御侍帳)
嫡男
●伊丹半弥(黒田次左衛門)
伊丹次左衛門 景重(かげしげ)始め黒田次左衛門、ついで伊丹半弥と改。黒田蔵人正重(のち伊丹角助)が嫡子。
豊前に於て忠興に別禄五百石で召出さる。寛永十八年七月遺領をつぎ弐千五百石、黒田を伊丹に改。鉄炮百挺頭、
のち佐敷番代。致仕後百人扶持を与えられる。83才にて没。年月不詳。
(1)御鉄炮頭衆 弐千五百石 (真源院様御代御侍名附)
(2)弐千五百石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・次左衛門
(3)万治二年十一月知行被差上候 弐千五百石 (※)・・半弥之助
(4)芦■ 御知行御合力米御御扶持方被遣衆・百石 (寛文四年六月・御侍帳)
流長院九重の塔
流長院に九重の塔があることは承知している。
是もまた資料整理の中で、我が家の初代庄左衛門の姪(兄・磯部長五郎女)のことが記されている、新坪井にあった宗嚴寺の一枚資料が顔を出した。
元禄七年(1694)二月十九日に70歳でなくなったというから、生まれは元和九年ころであろう。
幼くして三齋公に侍し、三齋公の八代城入りに伴い八代城に入っている。「獻湯藥之勞」を執ったと記されているが、三齋公死去後は熊本に至り結婚、死別後宗嚴寺というお寺を創建している。
延寶九年(貞享元年=1688)だというから、66歳位になっている。寺地はまず京町台の岩立に創建し、のち寺原に移り、最終的には新坪井(現・坪井5丁目1)に在ったが、西南の役で焼失し廃寺となった。
俗名は熊(当家先祖附)、龍源禪尼と称したが、資料をよく読むと、「建九重石塔流長精舎」とある。
つまりこの記録を信ずると、流長院の九重の塔を建立したのは、当家初代の姪・俗名熊ということになる。
一度お寺をお訪ねして、寄進者の銘などないか調べてみようと思っている。
現在ヤフオクにこのような文書が出品されている。名前を見てピンときた。
差出人の人物は水戸徳川家の家老職を勤めた人物だが、最上義光の四男でかっての山野辺19,300石の城主であった山野辺義忠の嫡男・義堅(方)の筆だと思われる。
いわゆる最上騒動で改易になった最上一族である。
最上騒動は12代・家親の跡目を嫡子で12歳の義俊を推す一派と、人望厚い義光四男・義忠を推す家臣一団の争うところとなったが、解決せず幕府の介入するところとなった。
幕府は義俊の後継を定めたが、それでも義光の弟・楯岡光直が甥の義忠の後継を目指し、ついに名家最上家57万石は改易となり近江大森1万石に移封となった。
その光直はこの事件により小倉細川藩にお預けとなった。
■預人の報告:寛永十九年八月五日付 「松平伊豆守・阿部豊後守宛--細川光尚書付」抜粋
最上源五郎家来楯岡甲斐守、元和九年亥之正月ニ越中守ニ被成御預ケ候、
寛永六年巳之五月ニ於豊後國小倉歳六十ニ而病死候、其子孫一郎歳廿二、
弟蔵之助歳十五、孫一郎姉歳四拾四、家中村井内蔵助と申者ニ女房ニ遣
シ、于今熊本ニ罷有候事
(大日本近世史料・細川家史料十五 p162)
その他多くの資料が残されている。
書状の主・義堅は義忠の嫡男だが、一時期父・義忠と共に岡山藩池田氏に12年間にわたりお預けとなった。
そのご許されて、家光により水戸藩主・徳川頼房に預けられ家老職についた。
息の義堅は頼房の七女・利津姫を正室とするが子がなく、妹に小倉に配流となった、大叔父・楯岡光直の息・又市郎定直の子・義清を養子に迎えて跡目としている。
其後も山野辺家は代々家老職を勤めている。
又、細川綱利室・久が徳川頼直九女であることから、山野辺義堅は水戸徳川家を通しての相聟ということになる。
11代 12代・父義光により殺害
最上義守---+--義光---+--義康
| | 13代 14代・断絶
| +--家親---義俊(12歳)
| |
| +--義親
| |(山野辺)
| +--義忠---義堅==義清
|
| 甲斐守 孫一郎・
+--光直---+--定直---+-----義清
| |
| +--七左衛門----------------------→(楯岡小文吾家)
|
+--蔵之助--------------------------------------→(楯岡三郎兵衛家)
熊本市横手の禅定寺に加藤清正の有力家臣・庄(莊)林隼人の大きなお墓がある。
飯田覚兵衛・森本儀太夫とともに加藤家三傑と呼ばれた人物である。
この庄林隼人が、まさに現在の大河ドラマを騒がせている道長の兄・道兼の三男のご子孫であるということを御存知の方はそう多
くはあるまい。
庄林家の名誉のために申し上げると、藤原道兼が紫式部の母を殺害したという事実はなく、ドラマの脚本家・大石静氏の創作である。
庄林隼人のご子孫に関わる資料が二つあるが、一つは(1)「御擬作高百石・庄林曽太郎」家の先祖附である。
もう一つは、(2)「庄林氏由来」という庄林家四代にわたる詳細な記録で、明治32年当時醫科大学教授・近藤次繁氏が所蔵されていた
ものが写本となっている。東京大学図書館所蔵印が押されている。
初代隼人佐を除き、全く異なる資料が二つあるというのは、家系が二つ在ったことを示している。
(1)、「御擬作高百石・庄林曽太郎」は、旧熊本史談会の機関誌「石人」№243に掲載されている山田康弘氏の「莊林隼人佐について」
に詳しく説明されている。
まずは菊鹿町(現山鹿市)の原という部落に隼人佐の荼毘塚があることに触れ、曽太郎家の先祖附から庄林家の歴史を辿っておられる。
男子が早世し、隼人佐の娘聟が庄林家を継いだが火難に遭遇し没落するも、隼人から四代をへて細川家に仕官し家勢を取り戻し今日に至
っている。ご子孫で菊池市旭志にお住いの Y 様から種々資料を拝受した。
(2)「庄林家由来」は、初代隼人佐(一心)が養子を迎えている。こちらは曽太郎家とは違い、道兼のDNAはまったく入っていない。
二代目・隼人(一方)は山口(加藤)与右衛門の男子(太郎平)であり清正の娘を室としたとある。
加藤時代、名家・庄林家の名を絶やさないようにとの配慮があったことが伺える。
太郎平の姉が清正の養嗣子・百助(のちに離縁)の室となって、若上様と呼ばれていたことが記されている。
「庄林曽太郎家・先祖附」「庄林家由来」ともに初代・隼人佐の没年は不明としているが、禅定寺の墓碑には寛永八年没とある。
細川家が肥後に移封されて入国した時に、御城の案内役を勤めた隼人は二代目ということになる。
そして、正保二年細川三斎が死去すると細川光尚の意により離国することになる。
嫡男・隼人一吉は志水伯耆守(日下部与助)女・菊を妻女とした。
姉娘は矢部城主・加藤越後室、妹娘は大友宗麟二男道孝孫・松野亀右衛門に嫁いだ。
宗孝公江戸城殿中で凶事に遭遇された際、介抱のために殿中に入ることが許された供頭で小姓頭の生田又助のことに触れておきたい。
その後熊本に帰国した際、自宅に帰るより早く藤崎宮に詣で、「日頃は弓矢の御神といとも崇み奉りつれども、萬民の事は扨置、君(宗孝公)の御身一人をだに擁護し玉はねば、此後は敬ひ奉る事も候はじ」といいて絶交をつたえた。「生田の神義絶」というが、又助の無念のほどがひしひしと伝わる話である。
享保19年家督、560石、元文2年2月川尻奉行、其後御使番に召直、寛保元年8月御奉行、延享元年9月御小姓頭、延享4年8月15日・宗孝公逝去、同5年7月御役御断、寛延4年2月御番頭、宝暦2年5月同役御断、同年10月隠居43歳、号・長風。
養子の又兵衛が跡を継いだが、いつの頃か御暇となり生田家は断絶している。又助隠居後の約32年間どう過ごしたのだろうか。
天明4年10月22日歿・75歳 墓・高麗門禅定寺。
御小姓・御使番・大阪御留守居 御使番・御側弓頭・同筒頭 御切米触頭
初代・生田又助ーーーーー 2代・又助(坂崎清左衛門三男)ーーー 3代・又助(小坂半之允三男)ーーー 4代・又助(上月十郎大夫二男)ーーー5代・又兵衛
(貴田角右衛門二男)御暇・断絶
(寛永五年正四月)十二日
| (長元)小笠原備前家二代・長基、ガラシャ夫人に殉死した少斎の嫡子 6,000石
小笠原長元困窮シ |一、小笠原備前殿御手前不成ニ付而、寛永四年ニ 御袖判壱枚被仰請、上方にて銀弐拾貫目御借用
借銀二ツキ忠利ノ | 候、左候て、当春被成御請返、 御袖判被差上候、則飯田才兵衛を以、 御前へ上申候処、御前
袖判ヲ乞ウ | 〃
銀二十貫上方ニテ | 判御やふりなされ御出候、又備前殿右之 御袖判請返上可申との請状、 御前ニ上被置候をも、
ノ借状ヲ請返ス | (松井興長)
忠利借状ヲ破棄ス | 同前ニ 御前ゟ出申候、明日上方へ便宜御座候ニ付、式ア殿ゟ備前殿へ御上せ可有由、■■被仰
| 越候間、則式ア殿へ持せ遣候、
頭注には長元とあるが、長基が本当だと思う。豊前時代の話である。
寛永四年に家政が立ち行かないので、忠利公の袖判をお願いして上方で銀20貫を借用したが、その返済が済んだので借用書を受け
取り返上したというのである。
すぐさま破却(焼却か)するようにとの仰せつけであった。
この時期の金と銀・銭の関係は、1両=銀50匁=銭4,000文といわれるから、銀20貫=20,000匁/50=400両、1両=10万円とす
ると4,000万円という膨大な金額である。
なぜこのような借銀が必要であったのかは良くわからないが、6,000石の御大身ともなれば家臣その他相当数抱える必要があるから
その経費は莫大であったろう。
しかし、1年ほどで返却ができたということは、ざっと米400石+利息がコメ相場を見ながら返却されたのだろう。
袖判とは、藩主の確実な保証があることを示すために、藩主の花押が入った借用書の事である。
6,000石の大身であるとともに、ガラシャ夫人に殉死した小笠原少斎の嫡子であるということもあるだろう。
袖判での借銀だから利息は普通より安いのだろうが、それでも10%くらいは取られたのではないか。
侍の借金は年率18%だともいうから、身代はつぶれてしまう。
■沖津九郎兵衛、米田家馬乗り衆を殺害す (上妻文庫-風説秘話から)
忠利公御代沖津九郎兵衛とやらん四尺斗の長刀を差ける
か法花(華)坂ニ而小便を志けるま監物殿の馬乗通り懸り小尻を
蹴沖津振返て何者そと咎しに馬乗却而悪口せし故
沖津抜打ニ二ツに斬殺けり 夫より今の榭の後四角迄来 榭 = 時習館の東・西榭のことか?
りしに早此事監物殿江聞へ討手を向らる様子ニて大勢
門前ニ集り既二可押懸躰なれ者沖津引返シて大頭志水
伯耆殿江行 今の小笠原大部殿屋敷 只今ケ様/\の訳ニて手打仕候処監物
殿ゟ討手を被向様子ニ見へ候故差圖を受可申ため参
上仕候と云しか伯耆殿聞て早々御通りし得とて沖津
を座敷江通し扨有合家来共に下知して門を打せ鉄
砲を持て長屋の屋根に上らせられし中早監物殿の者共ハ
沖津伯耆殿江馳込たりとて志水殿門前江押寄監
物申候 沖津何某手前家来を討て其元江罷在由早々
御渡可被成と云しか者伯耆殿返答ニ御家来不届之儀御座
候而沖津九郎兵衛討果申候然るを相渡申候儀決而不相成
申候と云れしかとも監物殿家来共猶ニ強而御渡可被成と
云募しか者伯耆殿被申たるそ一應不相渡旨理り候を強而
受取度候て何様共被致候へ被見通鉄砲をも賦置候条可被
致覚悟と云れしか者監物殿家来共ハ俄の事ニて着込
抔せし者も無く勿論鉄砲も不持者兎や角と暫く猶豫し
たる中使を馳て主人の方江云遣ハせしかハ監物殿怒られ
自身行向て請取べしとて大騒動なりしかハ此事早
尊聴ニ達シ俄ニ沼田殿を召て被仰渡しハ監物者家来の
敵ニ討手を向候由尤左も可有事也 然るに若伯耆様討れ
候ハゝ監物か討手ニ者汝を差向候間早々其覚悟致居候得との
上意也 沼田殿警なから御請申上退出し斯成行てハ以の
外の大事也と直ニ監物殿江内々ニて此由云送られしかハ監
物殿聞て我忠義を忘たりとて大ニ後悔し早速手の者
共を被引取たるとなり
この事件に於いて知行召し上げ等の目立った処分は為されていないが、後始末はさぞかし大変だったろうと思われる。
殿様の近くにあったと思われるが外様に出されている。この事件がきっかけで出頭の道は閉ざされた。
この事件の時期は、以下に記すごとく九郎兵衛は天草島原の乱で戦死するから、入国の寛永9年の暮れから14年の暮れあたりの5年の間の話である。
知行は弟・弥五右衛門が引き継ぐが、この人物も寛永5年ころ(新資料による私の見解)横田清兵衛を殺害している。
又、弥五右衛門の嫡男・才右衛門は綱利の大なる勘気を蒙り(■推参者・・・おれも 真源院様御子)知行召し上げになるなど、九郎兵衛と弟・弥五右衛門、その嫡男・才右衛門などの共通する荒々しい性格が見て取れる。
■天草島原の乱における、死者の報告
口上
今日八ッ過ニ御人数不残御本陳へ御引取被成候、
松平右衛門佐殿手ニ未弐百ほとも有之由候を、爾
今御せめ被成候、もはや弐百迄ハ御座有間敷儀ニ
候へ共、有之との被申分ニ而御座候、今度討死衆
之書立御陳場ニ而立なから書進候
尾崎金左衛門 岩越惣右衛門 小坂半之丞
山川惣右衛門 平野弥平太
野瀬吉右衛門 沖津九郎兵衛 神足八郎右衛門
弓削与二右衛門 猿木勘左衛門 楯岡孫市
西沢文右衛門 松岡久左衛門 外山平左衛門
此外ニも可有御座候へ共、未与々より差出不参候、
手負ハ殊外御座候、与七郎殿・角助殿御無事ニ候、
角助殿ハ石疵少御おい候
一五郎右息八助殿石疵ニ而候、少ハ御痛可有之と相
見へ申候、其外之御息ハ御無事之由
一椋梨殿御息も無事
一ゑへの四郎首も参候事
何も/\手柄を被仕候、跡より可申上候
二月廿八日 堀江勘兵衛
判
監物様
河喜多五郎右衛門殿
椋梨半兵衛殿
沖津作大夫殿 (九郎兵衛三弟)
以上
元NHKの名物アナ・鈴木健ニ氏が亡くなられた。深甚なる敬意を表しお悔やみ申し上げる。
写真は私の雑記帳だが、ここに「知るは楽しみなり 知識をたくさん持つことは人生を楽しくしてくれる」と、高い視聴率を誇る名物番組「クイズ面白ゼミナール」の冒頭の、鈴木アナの言葉を記している。
氏はNHKを退職後、熊本県立劇場の館長に就任されたが、招聘したのは当時の知事・細川護熙氏であった。
江戸っ子の鈴木氏がなぜ熊本にと当時の熊本県民はびっくりしたが、氏にとって熊本赴任は二度目であり、一度目はNHKアナウンサーとしての任地としてである。昭和28年の熊本水害を、城見町にあったNHK熊本放送局から、二階のスタジオに水が上がってくる状況を実況放送された。
その後のNHKでの活躍はすごく理事待遇のエグゼブティブ・アナウンサーをへて、二度目の赴任地として熊本県立劇場・館長職につかれた。
県下各地の伝承芸能の発掘などに勤められたが、清和文楽の復興は特筆すべきものである。
細川知事の熊本アートポリス事業による清和文楽館の建設と相まって全国区の評判となった。
「知るは楽しみなり」の精神はそれ以来私のバックボーンとなっており、この雑記帳に判らぬことを書き綴り、PCを駆使して調べ、図書館に走り調べて人生を楽しんでいる。そういう意味で、私の生き方を導いていただいたと感謝している。ご冥福をお祈り申し上げる、合掌。
参考サイト:風のコンパス、清和文楽館公式サイト、アートポリス・清和文楽館
それぞれリンクを張ろうとしましたが、「本文に不正な書式が含まれています」というコメントが出てしまいますので、
恐れ入りますが上記文言で検索をお願いいたします。