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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■フェロン公!天晴だ!

2025-04-02 08:25:58 | 人物

 熊本史談会の先輩・福田晴男氏の「くまもとお大師廻り」(自家版・73頁)御労作だが、久しぶりに取り出して読んでみた。
慶八成る人物が熊本城下のお寺その他88ヶ所を巡る話を51話に纏められている。その27話に次のようにあった。
  「蓙打町の法雲院 かつてとまハれハ大師堂 布屋の裏の東岸寺 堀の外端廻れども 尋ねて聞けば内坪井・・・」

 ここに東岸寺というお寺の名前が出てきたが、このお寺は明治28年、天草の御所浦島に御寺がないという事で、島の有志によって移転している。
この無くなったお寺の目の前にラフカディオ・ハーンが熊本での二軒目の住まいがあった。

 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と節子夫人が、熊本大学の前身である第五高等中学校(のちの第五高等学校)の英語教師として島根の松江中学校から赴任したのは明治24年(1891)11月であり、明治27年10月までの3年間を熊本で暮らした。
最初に住んだ家が当時手取本町34番地にあったが、現在は鶴屋百貨店裏の蓮政寺公園の中に移転されている。
その後熊本市坪井西堀端町(現・坪井1丁目九)の東岸寺前の住まいに移転しているが、「八雲通り」の名前と、その跡地(A生命社宅用地)にその旨が立派な石碑として建てられておりその痕跡を残すのみである。
明治26年(1893)11月17日、この屋敷でのことである。ハーンと夫人節子の間に長男・一雄が生まれたとき、節子の祖父の稲垣万右衛門が喜びの声を上げ「フェロン公!天晴だ!生まれますたで(ママ)/\」(井上智重著・漱石とハーンが愛した熊本)とその出生を知らせたという。
節子は稲垣家から小泉家の養女となっていて、小泉の両親、稲垣の両親と祖父・万右衛門たちを帯同して熊本に入っている。

この東岸寺、井上智重氏は「廃寺の跡だった。そこには小さなお堂だけが残り、お地蔵さまが祀られていた。」と記しているが、28年御所浦に移転したというお寺の沿革からすると、一雄が生まれたころのこのお寺の状況はすでに解体されて材木などは運び去られていたという事だろうか?
そしてハーンゆかりの「東岸寺跡のお地蔵さん」のお堂は、近年その誼をもって、御所浦東岸寺に移されたとは福田氏のお話である。

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■小栗上野介と木村鉄太

2025-03-05 07:00:02 | 人物

 27年の大河ドラマは小栗上野介忠順を主人公とする「逆族の幕臣」だそうな。
来年の豊臣秀長も期待しているが、27年も大いに興味深い。精々健康に過ごして拝見したいものだ。
作家の司馬遼太郎は勝海舟と並べて「明治の父」と呼んでいるようだが、一方ではライバルであったという。

上野介は勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行を歴任した江戸幕府の能吏であるとともに、勝とは違い薩長に対する主戦論者と云われる気骨の人であった。
慶應4年(1868)斬首された。「逆族の幕臣」の逆族とはそのことを差すのであろうか。
そんな小栗は万延元年(1860)遣米使節団の監使(御目付)として、従者9人と共に参加している。
ご厚誼をいただいた高橋敏先生に「小栗上野介忠順と幕末維新ー『小栗日記』を読む」という著書があることは承知していたが、まだ購入には至っていない。この機会に読んでみようと思っている。

                           

 その遣米使節団の従者の中に、熊本藩の木村鉄太の名前がある。
小栗上野介の従者としてであるが、何故熊本藩士が小栗の従者となり得たのか、そんなことからしても大変興味深い。
随分以前、木村鉄太のお墓を史談会の皆さんと尋ねたことがあった。
鉄太は帰国後の文久二年(1862)には亡くなっており、その才能が散華したことに大いなる無念さを感じざるを得ない。
それ故に鉄太についての略歴なども詳しくは知られていないように思う。
詳細は松本寿三郎先生の論考に御頼りする。
要約筆記 木村鉄太 日本開国の先駆者 崇城大学教授 松本 寿三郎
この機会に更なる検証、顕彰が行われるべきであろう。

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■織田氏庶流・津田氏

2025-03-04 07:03:42 | 人物

 大変唐突だが、今日は「津田氏」について復習する。同姓の方からお問い合わせをいただいたが先祖附が手元になく、少々時間をいただくことにした。
細川家家臣には織田氏庶流とされる数家の津田氏が存在している。
ウイキペディアによると、「織田氏の直系から見て庶流に当たる一門は津田氏を名乗り、主家との厳格なる区別を付けていた。」としている。

 細川藩においては、尾張守護で信長により官職停止となった名門・斯波義近(のち津川氏)の娘が信長の弟信包の息・信重に嫁いで、その息・三十郎が細川家に
仕えている。
義近の息・津川辰珍が先んじて忠利代豊前に於いて細川家臣となっており、三十郎の召し出しは辰珍の紹介によるものではなかろうか。

辰珍は甥・三十郎のために自らの知行1,000石の内300石を分知して、三十郎に与えたりしている。

   斯波義近---+-----近利-----数馬-----辰房
        |                                 ↓
        +---四郎右衛門辰珍===辰房---辰行・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川藩・津川家
        |
+---織田信長  +-----女
|             ‖--------津田十三郎長相・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川藩・津田家
+----------信包-------信重

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 一方、細川家の書簡などに時折見かける津田與庵なる人物がいる。
その子孫が同じく細川家家臣となっているが、津田家侍帳によると、織田大和守敏定(尾州岩倉城主)ー織田玄蕃(頭)ー七郎(七郎左衛門)ー小平太(興庵)と続
いている事が判る。信長に至る家系と関連付けると次のような略系図となる。

  敏定---+---信定---信秀---信長
     |
     | 五男・玄蕃頭
     +---秀敏---七郎---興庵 

津田興庵については、大日本近代史料・細川家史料の人物索引は次のように解説している。
  初正秀、小平次、興庵と称す、織田信長に仕え、滝川一益に属し、上野松枝城主。のち豊臣秀吉・徳川家康に仕う。慶長五、六年頃、
  四千十石余、奏者番。諸国の地図租税の員数改めに、関西三十三ヶ国を奉行す。元和二年、家康の没後剃髪して京都に退隠す。
  寛永十二年正月廿九日没。年九〇。

 その與庵の孫にあたる人を初代とする津田家が二家あった。
                           初代        8代
   南東25‐14 津田小平次(與庵)ー小平次(了庵)ー七左衛門ーーー克己       津田克己家

                               初代        8代
   南東25‐15 津田七郎(七左衛門)ー小平次(了庵)ー勘助ー勘左衛門ーーー政之丞  津田政之丞家

 そして今一家、一族と思われる津田太郎左衛門家(南東25-13)もある。

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■坂本龍馬殺害犯を知っていた高祖父・上田久兵衛のこと

2024-12-04 07:29:06 | 人物

 久々、高祖父・上田久兵衛のことに触れるが、久兵衛は一時期、京都留守居役として幕末の京都で活躍をした。
西南戦争の際には、西郷隆盛との関係が疑われて、熊本隊の池邉吉十郎と共に斬首の刑に会った。

昭和3年発刊の「肥後藩士・上田久兵衛先生略傳幷年譜 全」(熊本地歴研究會・鈴木 登編)に次のような記録がある。
慶応3年12月4日の日録「東大史料編纂所収蔵資料(コマ番号78参照)」

      土州嘗て上田に国事を託す
      「夜有中山書報儲駕登上京之儀、及坂下(本)龍馬逢暗殺、後藤象二郎走免之事、
       葢刺龍馬者土州人也、余於是疑念氷散、抑余之在京之日、容堂公窃令其大夫森下又平、
       託余以其國事、其議論吻合、今日土州之論 與前日相鉾楯、初知皆此輩之要之者也」

竜馬殺害の犯人は「土州人也」としている。
「久兵衛は竜馬殺害の犯人を知っているのではないか」という疑いをもって、斬首されたのではないかという穿った見方がある。
明治10年9月29日、久兵衛は無念の内にこの世を去ったが、久兵衛が知りうる竜馬殺害についての事柄は、永遠の謎となった。

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■西村敏行氏を偲んで

2024-10-23 06:55:16 | 人物

                                                                                 

 俳句に関する本を色々所蔵している中に、田辺聖子氏のこの「ひねくれ一茶」がある。
548頁に及ぶ大部だが、面白くて一気に読める小説である。1992年8月の初版だがいつ購入したのか定かな記憶がない。
「大川へ吹きなぐられし桜かな」という句が、まず書初めに登場するが、文中に次から次に一茶の俳句が登場していて、一体何首登場するのだろうかと唖然とするほどだ。

 この小説は、2002年1月に先に亡くなられた西村敏行氏が一茶にふんして、「おらが春~小林一茶~」はとしてドラマ化された。
小林一茶の生涯がつづられるヒューマンドラマである。石田ゆり子が若い奥さん役で出演している。

名優・西田敏行氏を偲び、土曜の夜はこの作品を拝見しようと思う。皆様もどうぞご覧ください。

        おらが春~小林一茶~ NHK BS 2024年10月26日(土)19:30~21:29

 

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■細川家家臣・乃美氏と義弟・村上景則

2024-07-29 06:38:17 | 人物

  乃美景嘉と「乃美文書」(1) - 伊予の戦国史 - SSブログ
  乃美景嘉と「乃美文書」(2) - 伊予の戦国史 - SSブログ

今般、細川家家臣・乃美氏を調べる中で、上記ブログに接することができた。
大変貴重な知見を得ることができ感謝である。先祖附にも反映させていただきたいと思う。

     乃美宗勝ーーー景嘉(主水)
             ‖ーーーーーーーーーー 一郎兵衛(勝嘉)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 細川家臣・乃美氏
          +ーーーー
          |
 村上隆重ーーー景広ーーー+ーーー景則(長岡河内)細川三斎死去後、離国

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■細川家家臣・真下氏と八代松井家家臣・澤井氏

2024-07-21 06:56:05 | 人物

 くまもと文化振興会の月間総合文化誌の「KUMAMOTO」を、史談会会員のN君からご恵贈給わった。御礼申し上げる。
実はここにN君の、江戸時代から現代まで続く地誌の世界『平成肥後国誌』についての記事が掲載されている。
平成肥後国誌の編著者・高田Drの最晩年大変かわいがられて、Drno死後は自ら膨大な資料の整理に関わり、一部の貴重な資料・膨大な写真やネガを遺族の了解のもとに頂戴して、整理している。誠に奇特な行いで頭が下がる。
                                                                 

 さて、この「KUMAMOTO」に、松井家家臣・澤村氏のご子孫が、代々受け継がれてきた武家屋敷「澤井家住宅及び長屋門」の継承とその活用について報告を為されている。八代市の有形文化財に指定されており、これらの活動はインターネットでも紹介されている。
           武家屋敷 澤井家住宅 生涯学習館/寺子屋「西小路」

澤井家は一色義有に召抱えられていたが、義有は細川幽齋女(伊也)を妻に迎えている。
その後、細川家はその結婚の祝いの宴を催したいとして義有を呼び寄せて謀殺するという黒歴史をつくった。
梶之助(25歳)は一色氏の居城に攻め来たった細川勢と相対し、米田是政と戦って戦死した。
不憫に思った是政は、その遺児等を助け育てたという。女・佐井はのちに細川忠興の御側に上がり、六男・岩千代を為している。
幼くして、のちに八代城主となる松井興長の養嗣子となった。松井寄之である。
その後佐井は細川家重臣・沼田勘解由にお下げ渡しになっているが、このことについては勘解由の苦悩ぶりについて過去に触れさせていただいている。■忠興側室を沼田延元内室に

母方の姓を名乗っていた元重の流れはそのまま真下姓を名乗り細川家につけた。
二男の流れは本姓・澤井をなのり松井家に仕えて明治に至った。松井興長が八代城主となり、佐井のなした子が興長の養嗣子として後には八代城主となり、澤井氏は親しくこれに仕えたのであろう。

忠興の死後、八代城に誰を置くかという一大事は、細川光尚を大いに悩ませたが筆頭家老・松井興長をしてその城主とした。忠興の溺愛した五男・立允は忠興より早くなくなり、その嫡子に八代藩を立藩することを遺言としたが、このことは光尚の受け入れるところとはならず、宇土にうつして3万石の宇土支藩となした。
その光直が死去すると、今度は肥後54万石の屋台を揺るがす継承問題が大問題となった。
その時活躍したのが、松井寄之沼田勘解由である。不思議なめぐりあわせともいえるが、江戸へ下り幕府に対してのこの二人の努力により、その後の細川家の安泰がもたらされた。

こうしてみていくと、歴史のめぐりあわせの不思議さを感じざるを得ない。澤井家の御安泰を願うばかりである。


                     細川忠興
                       ‖ーーーーーーーーー岩千代(松井寄之
                   +ーーー女・佐井
                   |   ‖
                   | 沼田勘解由(再嫁)
                   |
 澤井元家ーーー+ーーー真下元重(梶之助)ーーー+ーーー七兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川家家臣・真下家
      |
      +ーーー澤井重包ーーー+ーーー重豊・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→松井家家臣・澤井家
              |
              +ーーー正重             

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■新美八左衛門召し放ち

2024-07-19 06:34:25 | 人物
「松江城秘録」という文書の中に、新美八左衛門に関する光尚の文書が残されている。
これは八代城の三齋の死去後の八代城御附衆のうち、村上河内・庄林隼人・そして新美八左衛門を追放するにあたって光尚が家老・長岡佐渡へ通達したものである。
「今度の仕合奉公振りが気に入らないから扶持を召し放つ」という文言が強烈である。
三斎の死後七ヶ月経過して、八代城御附衆の処分も終盤に入っている。

 新美八左衛門等今度ノ仕合奉公振気二入不申扶持を放候段可申者

  正保弐年七月十九日之御書御飛脚持下八月三日ノ夜頂戴仕候
   猶々馬場三郎左より其方迄きり志たん改之儀諸
   事ニ至迄心入之段満足申候通礼状を遣申候き
   り志たん仕置之儀ニ付何とそ替様子も候ハヽ被
   仰聞候様ニ天野かたへ其方より申遣可然候以上

    追而之状披見候道家帯刀八代より罷帰候由ニ而帯
    刀状披見候其方内見候由尤候
 一、新美八左衛門妻女長崎へ遣其身ハ上方へ罷上江戸
    へも可罷越之由得其意候庄林義者筑後立花
    殿領内ニ居候由是又得其意候兎角今度之
    仕合常々奉公振気ニ入不申候而扶持を放レ候段
    迄を相尋候かたへ被申可然候事

       (中略)

    七月十九日         肥後 光尚御判
              長岡佐渡守殿

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■朽木定彦関係‐5「御尋二付御上覚」ー1

2024-07-17 06:50:30 | 人物

           朽木内匠・定彦関係略系図

     この文書は三渕嘉門(9代・松井営之四男・澄昭)が松井帯刀(営之嫡男)に当てたものである。
     尚、ここに登場する朽木内匠は松井営之の末子である。
     又定彦は朽木家7代・昭恒(雄山)の養子となった昭信(宇土細川家立禮(細川齊茲)の末弟)の子である。
     昭信は病身で朽木家を継ぐことなく宇土家へ帰っている。故に8代を松井営之末子内匠が継承し、甥にあたる
     定彦を順養子にしようとしているが難儀している。

        四月五日之夕紫英私方被罷越申聞候趣ハ
        定彦事内匠順養子ニ被致度由内匠ゟ
        以口上書紫英江被申向候 右之儀ハ當春
        二月之比雄山ゟも紫英承り候由其
        趣意は雄山深ク思惟仕候処先祖大和守
        血筋と申候は乍女系守居計ニ付願クハ
        定彦事内匠順養子ニ被致候様有御座度

        存候間内匠江去年十二月雄山ゟ以書付
        申向宜候段申聞候 然共紫英も一通ニ
        相心得候其上雄山とも段々咄合宜候筋合も
        有之候ニ今に成右之通変替りニ相成候
        事紫英存候は雄山儀最早老年
        万端志■ニ而之事と相心得等閑(なおざり)ニ
        當居候処近比内匠ゟ不計致書付俄ニ
        順養子之儀申聞候間甚行當申候 併内匠も
        厳養父挨拶ニは是非一通ハ手数事故
        左も可有御座然レ共紫英ゟ委細之以訳
        断申候ハゝ相謹可申候と存候 前内匠ゟ猶又
        以書付存念委細申向候間従是も又
        書付を以相断候得共一向承引無御座
        既ニ今晩ハ頼藤栄を招キ委細申含
        尊兄様江も申上近日ニ願書差上申候
        との事ニ而紫英大ニ驚申候其訳は
        

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■津川四郎右衛門殿「常々病者」

2024-06-10 07:09:18 | 人物
 管領斯波氏は左兵衛儀近の代、織田信長と不和になり永禄二年感触停止となった。
二男津川辰珍は蒲生氏や蜂須賀氏をへて、忠利代豊前細川家に客分として召し寄せられた(1,000石)。
肥後入国にあたり250石加増、寛永19年には妹(織田信重室)の子・細川家家臣津田三十郎に700石分知している。
万治元年に亡くなっているが、以前から病気がちであったらしい。
「大日本近世史料・細川家史料25」のp264「五三七八」にその消息が見える。寛永十六年六月十日付けの宮木越前以下
6名に宛てた書状である。
   一筆申入候、我等内津川四郎右衛門尉と申者、歳五十六ニ罷成候、常々病者ニ御座候間、
   乗
物ニ乗せ申度候條、被成御赦免可被下候、恐惶謹言
「病者であるから乗り物に乗る事をお赦しいただきたい」というのだが、名門の人成るが故の忠利の配慮が見て取れる。

寛永十六年(1638)56歳とあるから、没年である万治元年(1658)は76歳であることが判る。
一病息災で長生きした。辰珍には男子がなく、兄・近利の孫・辰房を継嗣としている。
 
 斯波義近---+-----近利-----数馬-----辰房
      |                                 ↓
      +---四郎右衛門辰珍===辰房---辰行・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川藩・津川家
      |
      +------女
織田信長弟      ‖--------津田十三郎長相・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川藩・津田家
 信秀----信包----信重
        
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■漱石先生の結婚式の謎

2024-06-05 06:34:18 | 人物

 漱石夫人・鏡子さんが嫁入りのために父親と共に熊本に就いたのは6月8日の晩である。
プラットホームには、宿とした研屋の番頭が迎えに来ていた。漱石も来ているだろうと探してみると、しばらくしてから、二階の待合室
からのこのこ顔を出したという。

鏡子夫人の「漱石の思い出」にそう記されている。
処で漱石にその結婚についてつくった句がある。
   
       衣更へて 京より嫁を貰ひけり 愚陀仏(漱石)

漱石の孫娘(松岡未利子さん)聟である半藤一利氏の「漱石俳句を愉しむ」を読むと、結婚式は「六月九日(一説に十日)」としてある。
一方鏡子夫人の「漱石の思い出」には、九日は一休みして買い物に走り回り「どうやら間に合せものを整えて、明くる十日となりました。
この結婚が・・・」とあるから、十日で間違いないのではないか。

一方半藤氏の論拠は、漱石が子規に送った6月11日付けの手紙からきている。
「中根(鏡子夫人)事去る八日着昨九日結婚略式執行致候(中略)右は御披露まで餘は後便に譲る 頓首」として、上の句を添えた。
こうなってくると、どちらが本当なのか半藤先生ならずとも迷ってしまう。
そして結婚式を挙げたのが「光琳寺の家」の家である。藩の家老の妾の家だったというが、この家老なる人が誰なのか、それもその妾が不
義に走ったとかで手討にしたという話さえ残っている。
無礼討ちは、明治4年の太政官布告で正式に廃止されたから、この話はそんな時代の話なのだろう。
だとすれば20~30年前の事件で、この事件も、家老なる人物についても私に謎解きは出来ていない。

そんな家だから9月20日には、二番目の「合羽町の家」に引っ越しているが、次のような句も残されている。

       すずしさや 裏は鉦うつ光琳寺  漱石

 熊本の秋の訪れは「随兵寒合(ずいびょうがんや)」が訪れるという九月中旬位のことである。
案外この家を離れる時の感慨かもしれない。
この光琳寺は西南戦争で焼失し廃寺となり、光琳寺町という名が名残をとどめているが、これとて今では正式な住所表記には使われていない。

今では、繁華街のど真ん中で夜な夜な酔客が行きかう街である。

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■けしつぶの中くりほぎて・・・・・・・

2024-05-30 06:58:25 | 人物

  先にご紹介した宝暦期の大奉行志水才助は、師である片岡朱陵の塾においてある日朱陵の講義も聞かずに縁側で寝こんでいた。
この様なことに意を介さない朱陵も、講義が終わると共に寝ころんだ。突然才助は「学校を作りましょう」と言い出した。
「それは良い」と朱陵とその門人たちは、計画書をこしらえて江戸にある秋山玉山に知らせた。
江戸では秋山玉山が藩主・重賢から学校建設の計画を持ち掛けられており、玉山は余りの偶然に驚き重賢に報告し計画は一気に実現へと向かった。
これが藩校時習館建設の逸話として語り継がれている。
秋山玉山が時習館の初代教授になった。ところが朱陵には不満があったようだ。
開講習討論という一文のさいごには「縦令賜由同此席、大息焦心應失明」とある。
そして次のような歌を作った。
    けしつぶの中くりほぎて館立て 一間/\に細注を讀む
    時習館きうりかづらのはびこりて 十三經の置所なし

 朱陵はもともとは、細川家直臣・藪氏の家来であった。重賢はこれを召し出したわけだが、時習館の二代目教授は藪孤山が就任している。
朱陵は重賢の侍講に任ぜられるが、その時間を忘れるほどの異風者であったが、重賢はそんな朱陵を愛したという。
孤山(茂次郎)が若くして江戸へ遊学してきた折、「聖賢の學は、身を修るを大切と仕る」と諭すと、「此朱陵は片時も身を修むると云事は出来ませぬ」と答えたという。茂次郎としては、旧主として朱陵の放埓な行動が心配であったのだろう。

 宝暦の改革に尽力した人々の中には、朱陵門下の人が多い。
堀平太左衛門の後大奉行についた志水治兵衛(才助)や、村山九郎次郎、蒲池喜左衛門、吉海市之允などを輩出している。

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■切り取り強盗

2024-05-27 13:30:18 | 人物

 昨日の■細川幽齋公と宝暦の改革でご紹介した大奉行・志水才助という人物は、豪放な性格で知られるが、そのことを示すような発言をしている。
学問の師・片岡朱陵が「藩の御扶持を離れることになったら、どうして渡世をするか」と尋ねたところ、それぞれの人が手習いの師匠とか句読を教えるとか答える中、才助は「何の覚えもない人間なので、切り取り強盗をして渡世する」と応じた。
そして朱陵もまた、「吾等も至極同意」と膝を叩いたという。
才助は大奉行になったある時、重賢と酒肴の席に列し、大いに酩酊してあろうことか重賢の妾にもたれかかったという。
史料を見てみると才助は大奉行を罷免されている。しかしながら、しばらくして復帰を仰せい出された。
その間は謹慎でも言い渡されたのであろう。重賢はこの大酒のみの豪放な奔馬を、見事に操る御者であった。
重賢の元で宝暦の改革という事業を成し得たのは、このような「かぶき者」とも思える人たちが活躍したのだが、それらの人がほとんど片岡朱陵の門人であったという。
片岡朱陵は「徂徠学」の人だと言われる。細川家家臣藪家に仕える又者(陪臣)であった。
時習館二代目教授は、朱陵の主筋である藪孤山が就任したが、重賢は朱陵を召し出して侍講として遇した。
 宝暦の改革は、このような成り上がりとも思える人たちが大いなる能力を発揮した。
三卿家老を初め、それまでの政を一手に握っていた勢力は埒外に於かれて憤懣を膨らませていく。
有吉家の家臣の呪詛事件などがその最たるものであろう。
かれらは、「座班」において高位に座して、ただこの鬱憤を晴らしたのであろう。

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■猿木四兄弟と城義核

2024-05-24 16:55:23 | 人物

 熊本史談会のN君が、先の史談会の後本妙寺を訪れ東光院で城家のお墓の写真を撮って送ってくれた。
城義核は私の母方の祖母の義弟にあたる。祖母は猿木宗那の娘だが、宗那には三人の兄弟があり、西村家・小堀家・城家に養子となりそれぞれが古式泳法・小堀流踏水術の宗家となった。
     猿木宗那・西村宗系・小堀平七・城義核

猿木家の墓地は、本妙寺の花園墓地にあるが、城家については承知していなかった。
N君のお陰で墓地の所在を知ることができて感謝である。子飼の細川刑部邸の隣に江戸時代からの屋敷があって、私も幼いころ祖母の後について義核翁にあったことがある。
ヘビースモーカーだったのかもしれない。ピースだと思うが銀紙の包み紙を幾重にもかぶせて3~4センチのボール状にしたものを貰った覚えがある。
いろいろ逸話が残る四兄弟だが、私も古式泳法の勉強をしておけばよかったと悔やんだ時期もあった。
久しく本妙寺も訪ねていない。楼門下に新しい道路が通ったと聞くから、そのうちにその確認もかねてお墓参りをしてみようと思う。N君に感謝・・

              

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■川端康成・藤島泰輔そして今東光

2024-05-23 08:20:31 | 人物

 「酒」と作家たちというエッセイ集がある。「酒」とは、佐々木久子が編集長を務めた雑誌「酒」のことである。
私は今でも、昭和52年発刊の佐々木氏のエッセイ「酒縁歳時記」を大事に書棚に残している。
酒縁の人たちが、佐々木の死後文章を寄せあったエッセイ集が「酒」と作家たちである。
この中に、藤島泰輔氏の「川端康成氏の思い出」という一文がある。(藤島泰輔の内縁の妻とされるのが、世間を騒がせている旧ジャニーズ事務所の故・メリー喜多川氏である)
藤島氏は酒は飲まないが酒席好きという、川端康成の付き添い役を務めていたそうだが、川端先生もミニスカートの女性を侍らせてご満悦だったというからなかなか面白い。
そんな川端のことを、盟友・今東光が気づかい「みみずくは夜寝ているか」と藤島に尋ねたと書いている。
川端が「みみずく」に似ているからと、今がそういっているのだが、まさか本人の前では言わないのだろう。

 私はそんな毒舌家で洒脱な今東光という人が好きで、いろいろ著書に親しんだ。
つい最近も「お吟さま」を読了したところだが、お吟さまが生きた時代の会話というものはこのようなものであったのかと、今先生の力量のすばらしさに感嘆させられるのである。
作家であるとともに、政治の世界にも足を踏み入れられたこともあった。(川端先生も御同様・・)
天台宗の座主に就任され、天台宗大僧正となって法名 春聽を名乗られた。瀬戸内寂聴は法妹であり、寂聴の名は今東光大僧正の法名からきている。
随分以前東光先生は奈良本辰也氏と「南北朝」について対談しているが、その模様がある方のブログ「南北朝についての日記?」で公開されていることを承知していた。
久しぶりにググってみたら健在であった。ここに引用させていただき、御紹介申し上げる。
非常に得るところがある対談である。

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