18日の史談会例会では「儒学、そしてその変遷」をお聞きしたが、帰ってからふと司馬遼太郎の「春灯雑記」にある「護貞氏の話-肥後細川家のことども」を思い出した。
護貞さまによると、時習館を創立して初代教授となった秋山玉山は「朱子学はいけません」と言ったと言われる。
その証拠に官学である朱子学(新註)とともに、古義も併せて教えていたらしいことが学則でも見て取れる。
「諸生之業、嚴立過程、考經論語一科、易書詩一科、春秋三傳一科、ニ禮ニ戴一科、是爲正業、雖主古義、不廢新註、彼是参考(以下略)」
二代目教授・藪孤山は主に朱子学をもって教えようとしたらしいが、秋山玉山の名残があり苦労したと伝えられる。
昭和史の混迷の中に、近衛文麿の秘書官を務めた護貞氏だが、昭和10年あたり以降の混迷は「あれはすべて宋学(朱子学)のせいだと、恩師の狩野君山が言った」と語っておられる。
そして「朱子学というのは理気の学ともいい、理論を進めていくと感情というものが全く入ってこない。だから朱子学を(理気の学)をやった人は非常に人を責める、理詰めで人を責める。人情が入ってこない。江戸時代に徹底的に朱子学を教えた結果だ」と君山は言ったと語っておられる。
狩野君山が幼い時に学んだ「同心学舎」(濟々黌の前身)は、漢学を教えていたという。
これは宋学(朱子学)に対する古学で「漢・唐」の古注をさすが、まさに時習館草創期の教えであることが判る。
藩校時習館の訓詁中心の、重箱の隅を突つく旧弊な教育が維新に乗り遅れた要因の一つであるように思う。
彼の著「山鹿語録」に細川忠利の死後、阿部弥一右衛門同様殉死すべき人物と陰口をたたかれた人物について取り上げている。
加々山主馬可政の次弟・加々山(奥田)権左衛門なる 2,080石を領する上級家士である。
主人へ殉死致さずと云て、其家中にあしく云けるもの多かりしものあり。此者、主人の忌日に惣家中寺へ参詣仕りけるを、用所候
由にて留め置きて、惣衆相あつまれるとき罷り出て申しけるは、私事殉死仕るべきことなりと、此座中に入来候歴々にも御沙汰こ
れあるの由承り及び候。定て殉死仕るべき子細を御存じにてこれあるべし。吾等ことは殉死仕り御奉公に罷り成るべきの見付けこ
れ無く候。主人御取り立てのものは必ず殉死いたすはずと計の儀は、我等合点には及ばず候ゆへ殉死仕らず候。唯今にも其道理を
承り届けば、御奉公のことに候間、則ち殉死仕るべしと云けるに、座中一言の返答にも及ばざるに付きて、(後略)
此のごとく理りを尽すの処、とかくの仰せもこれなき上は、定めて各の御沙汰にてはこれなくと見え候。此上は、已来うしろにて
殉死の批判あられん方は、侍の本意にあらざる間、この心を得られ玉はれ。
まことに小気味よい話で、こう詰め寄られると陰口をたたいていた人たちも口をつぐまざるを得ない。
阿部弥一右衛門は殉死を選んでいるが、こちらは庄屋あがりの大出頭の人であったから、陰口もさることながら自ら深く思うところがあ
ったのであろう。
私は弥一右衛門の殉死と阿部一族の誅伐事件は別のものとして考えるべきだと思っている。
後者は嫡男・権兵衛の不届きなる行いによって引き起こされたものである。
「開かずの段ボール」ならぬ「開けずの段ボール」を久しぶりに開けてみたら、朽木家の史料や古文書が顔を出した。
ひところヤフオクで朽木家や朽木定彦なる人物に関する文書を五点ほど手に入れたものである。
一緒に朽木家と長岡與三郎家の先祖附も出てきた。
そのころ一生懸命これらの文書を読んだのだが、定彦氏が刑部家に入ったいきさつが解明できないままでいた。
この朽木定彦なる人物は朽木昭信なる人物の嫡子である。「細川藩主要家臣」をみると、この朽木昭信は朽木家7代・昭恒の
養子として朽木家に入ったが「病身につき実方に引取る」という記載がある。
それゆえ8代は、八代松井家から営之の末子・昭久が入っている。
昭信の実方とは宇土細川家であり、「細川和泉守の伯父」とあるが和泉守とは宇土細川家の8代目の「立之」のことである。
つまり、7代細川立禮(宗家相続して齊茲)の末弟・左膳である。
定彦は朽木昭恒の娘である生母と共に朽木家に残ったらしい。
そして、父が朽木家当主を継いでいないために、他家に養子に出ることを望んだらしい。
それが、数年前ヤフオクで手に入れた朽木家関係の文書にいろいろ書かれていたのである。
結果として定彦は刑部家に入っている。しかし嫡家ではない。
実は刑部家の6代は細川重賢の末弟・隼人が入って興彰を名乗っている。5代に男子があり興禎という人があってこれが嫡家
の後を継いでいる。
一方6代興彰の後は惣領の興度が別家を興した。定彦はこの別家の2代目となったのである。
細川宗家・宇土細川家の濃いDNAがこの別家に入った。
半世紀ほど前、泰勝寺にお住まいになっておられた、長岡度世様がそのご子孫であった。
私の姓が少々珍しいから、祖父のことを御存知で親しくしていただいた。
長岡與三郎家の先祖附を精読してみると、朽木定彦氏が大叔父・細川齊茲公の配慮によって、宜紀公の末子(重賢公末弟)
である與三郎家の2代目として養子となったことがよく理解できた。
略系図にしてみると以下の如くである。
+ーーー細川重賢ーーー治年==齊茲
+ーーーーーー左膳
⇩ 分家創立・初代
細川刑部家5代・興行==興彰ーーー與三郎ーーー●
‖・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・細川與三郎家
定彦
7代
宇土細川家6代・興文ーーーー+ーーー立禮(宗家に入って齊茲)
+ーーー昭信(病身ニテ実家へ引き取る)
‖-------定彦 細川刑部家・分家-與三郎家に入り2代
朽木昭恒ーーー+ーーーーー女
+ーーーーー女
‖・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・朽木家
松井営之・弟 昭久
■定彦さん、順養子なるか
■定彦さん、順養子なるか・2
■その後の定彦殿
■定彦さんのこと、謎解き
■定彦氏のこと
■定彦さんにこだわって
■定彦殿のこと・1「朽木内匠書状」
■定彦殿のこと・2「文化十四年七月十日付・米田監物書状」
■朽木家の血脈
■八代朽木家取扱之扣写(一)
■朽木家のこと「閑話休題」
■朽木内匠・定彦関係略系図
■八代朽木家取扱之扣写(ニ)
■八代朽木家取扱之扣写(三)
■先祖附にみる定彦殿
■八代朽木家取扱之扣写(四)御尋ニ付口上覚(一)
■懐具合と相談の上・・・
寛永六年五月十一日の奉行所日帳に次のような記録がある。
(正直) (正重)
一、河喜多五郎右衛門尉被申候ハ、黒田蔵人知行被召上候時、御借米滞分、村々百生未進分、到其時上納不相成ニ付、
五百石
次第/\ニ取立申候、猶残分ハ蔵人へ被遣、五百石ノ御知行にて取立申候処ニ、蔵人被申候ハ、主知行所〇にて、
弐千五百石二在ノ候未進分を被 召上儀候、御取立候て返し被下相当様ニと被申候、如何可在之哉と被申候、上
知分ハ御蔵納二成申候、然上ハ御蔵米にて返し候ハねハ不成候、御蔵米を返候儀ハ成間敷由、申渡候事、
頭注には「黒田正重知行召上ノ時ノ借米百姓未進分次第ニ取立ツ知行二五百石未進分二千五百石未進分ノ返弁ヲ望ムモ蔵納ハ返サズ」とある。
蔵人の知行は500石であったが、肥後入国後は知行の一部を召し上げられている。肥後入国前の寛永6年の借米の返済が滞ったのが影響しているのだろうか。
上記文章を読むと、百姓衆からの知行未進が影響しているが2,500石あるとしているから、知行の5倍にあたる。これでは借米に頼らざるを得ないだろうが、これも返すことができずに減知となったのだろうか。
さてこの黒田蔵人は肥後入国後は伊丹格助と名前を変えている。又、嫡男の伊丹半弥(黒田次左衛門)の項を読むと、「寛永十八年七月遺領をつぎ弐千五百石」とあるから、蔵人(伊丹格助)も2,500石拝領していたことになる。
黒田蔵人(=伊丹正重・角助)
豊前時枝城主・時枝平大夫二男。はじめ黒田孝高に仕。致仕後福島家に仕えるも福島家信州転封により牢人、大坂に
て細川忠興に召出さる。寛永十八年六月八日没
●黒田蔵人 (1)本名伊丹 頭衆五百石 (於豊前小倉御侍帳)
(2)五百石 (肥後御入国宿割帳)
参考:召し出しについて
・元和5年10月15日 大日本近世史料・細川家史料(1710)より
・元和6年正月10日、黒田蔵人召抱 (忠興文書・199)
・黒田蔵人事、抱可申由、得其意候事 (綿考輯録・巻二十 P95)
●伊丹角介 (3)人持衆併組迯衆 三百石 (真源院様御代御侍名附)
(4)三百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
(5) 長岡監物組・御中小姓頭 三百石 (寛文四年六月・御侍帳)
嫡男
●伊丹半弥(黒田次左衛門)
伊丹次左衛門 景重(かげしげ)始め黒田次左衛門、ついで伊丹半弥と改。黒田蔵人正重(のち伊丹角助)が嫡子。
豊前に於て忠興に別禄五百石で召出さる。寛永十八年七月遺領をつぎ弐千五百石、黒田を伊丹に改。鉄炮百挺頭、
のち佐敷番代。致仕後百人扶持を与えられる。83才にて没。年月不詳。
(1)御鉄炮頭衆 弐千五百石 (真源院様御代御侍名附)
(2)弐千五百石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・次左衛門
(3)万治二年十一月知行被差上候 弐千五百石 (※)・・半弥之助
(4)芦■ 御知行御合力米御御扶持方被遣衆・百石 (寛文四年六月・御侍帳)
流長院九重の塔
流長院に九重の塔があることは承知している。
是もまた資料整理の中で、我が家の初代庄左衛門の姪(兄・磯部長五郎女)のことが記されている、新坪井にあった宗嚴寺の一枚資料が顔を出した。
元禄七年(1694)二月十九日に70歳でなくなったというから、生まれは元和九年ころであろう。
幼くして三齋公に侍し、三齋公の八代城入りに伴い八代城に入っている。「獻湯藥之勞」を執ったと記されているが、三齋公死去後は熊本に至り結婚、死別後宗嚴寺というお寺を創建している。
延寶九年(貞享元年=1688)だというから、66歳位になっている。寺地はまず京町台の岩立に創建し、のち寺原に移り、最終的には新坪井(現・坪井5丁目1)に在ったが、西南の役で焼失し廃寺となった。
俗名は熊(当家先祖附)、龍源禪尼と称したが、資料をよく読むと、「建九重石塔流長精舎」とある。
つまりこの記録を信ずると、流長院の九重の塔を建立したのは、当家初代の姪・俗名熊ということになる。
一度お寺をお訪ねして、寄進者の銘などないか調べてみようと思っている。
現在ヤフオクにこのような文書が出品されている。名前を見てピンときた。
差出人の人物は水戸徳川家の家老職を勤めた人物だが、最上義光の四男でかっての山野辺19,300石の城主であった山野辺義忠の嫡男・義堅(方)の筆だと思われる。
いわゆる最上騒動で改易になった最上一族である。
最上騒動は12代・家親の跡目を嫡子で12歳の義俊を推す一派と、人望厚い義光四男・義忠を推す家臣一団の争うところとなったが、解決せず幕府の介入するところとなった。
幕府は義俊の後継を定めたが、それでも義光の弟・楯岡光直が甥の義忠の後継を目指し、ついに名家最上家57万石は改易となり近江大森1万石に移封となった。
その光直はこの事件により小倉細川藩にお預けとなった。
■預人の報告:寛永十九年八月五日付 「松平伊豆守・阿部豊後守宛--細川光尚書付」抜粋
最上源五郎家来楯岡甲斐守、元和九年亥之正月ニ越中守ニ被成御預ケ候、
寛永六年巳之五月ニ於豊後國小倉歳六十ニ而病死候、其子孫一郎歳廿二、
弟蔵之助歳十五、孫一郎姉歳四拾四、家中村井内蔵助と申者ニ女房ニ遣
シ、于今熊本ニ罷有候事
(大日本近世史料・細川家史料十五 p162)
その他多くの資料が残されている。
書状の主・義堅は義忠の嫡男だが、一時期父・義忠と共に岡山藩池田氏に12年間にわたりお預けとなった。
そのご許されて、家光により水戸藩主・徳川頼房に預けられ家老職についた。
息の義堅は頼房の七女・利津姫を正室とするが子がなく、妹に小倉に配流となった、大叔父・楯岡光直の息・又市郎定直の子・義清を養子に迎えて跡目としている。
其後も山野辺家は代々家老職を勤めている。
又、細川綱利室・久が徳川頼直九女であることから、山野辺義堅は水戸徳川家を通しての相聟ということになる。
11代 12代・父義光により殺害
最上義守---+--義光---+--義康
| | 13代 14代・断絶
| +--家親---義俊(12歳)
| |
| +--義親
| |(山野辺)
| +--義忠---義堅==義清
|
| 甲斐守 孫一郎・
+--光直---+--定直---+-----義清
| |
| +--七左衛門----------------------→(楯岡小文吾家)
|
+--蔵之助--------------------------------------→(楯岡三郎兵衛家)
熊本市横手の禅定寺に加藤清正の有力家臣・庄(莊)林隼人の大きなお墓がある。
飯田覚兵衛・森本儀太夫とともに加藤家三傑と呼ばれた人物である。
この庄林隼人が、まさに現在の大河ドラマを騒がせている道長の兄・道兼の三男のご子孫であるということを御存知の方はそう多
くはあるまい。
庄林家の名誉のために申し上げると、藤原道兼が紫式部の母を殺害したという事実はなく、ドラマの脚本家・大石静氏の創作である。
庄林隼人のご子孫に関わる資料が二つあるが、一つは(1)「御擬作高百石・庄林曽太郎」家の先祖附である。
もう一つは、(2)「庄林氏由来」という庄林家四代にわたる詳細な記録で、明治32年当時醫科大学教授・近藤次繁氏が所蔵されていた
ものが写本となっている。東京大学図書館所蔵印が押されている。
初代隼人佐を除き、全く異なる資料が二つあるというのは、家系が二つ在ったことを示している。
(1)、「御擬作高百石・庄林曽太郎」は、旧熊本史談会の機関誌「石人」№243に掲載されている山田康弘氏の「莊林隼人佐について」
に詳しく説明されている。
まずは菊鹿町(現山鹿市)の原という部落に隼人佐の荼毘塚があることに触れ、曽太郎家の先祖附から庄林家の歴史を辿っておられる。
男子が早世し、隼人佐の娘聟が庄林家を継いだが火難に遭遇し没落するも、隼人から四代をへて細川家に仕官し家勢を取り戻し今日に至
っている。ご子孫で菊池市旭志にお住いの Y 様から種々資料を拝受した。
(2)「庄林家由来」は、初代隼人佐(一心)が養子を迎えている。こちらは曽太郎家とは違い、道兼のDNAはまったく入っていない。
二代目・隼人(一方)は山口(加藤)与右衛門の男子(太郎平)であり清正の娘を室としたとある。
加藤時代、名家・庄林家の名を絶やさないようにとの配慮があったことが伺える。
太郎平の姉が清正の養嗣子・百助(のちに離縁)の室となって、若上様と呼ばれていたことが記されている。
「庄林曽太郎家・先祖附」「庄林家由来」ともに初代・隼人佐の没年は不明としているが、禅定寺の墓碑には寛永八年没とある。
細川家が肥後に移封されて入国した時に、御城の案内役を勤めた隼人は二代目ということになる。
そして、正保二年細川三斎が死去すると細川光尚の意により離国することになる。
嫡男・隼人一吉は志水伯耆守(日下部与助)女・菊を妻女とした。
姉娘は矢部城主・加藤越後室、妹娘は大友宗麟二男道孝孫・松野亀右衛門に嫁いだ。
宗孝公江戸城殿中で凶事に遭遇された際、介抱のために殿中に入ることが許された供頭で小姓頭の生田又助のことに触れておきたい。
その後熊本に帰国した際、自宅に帰るより早く藤崎宮に詣で、「日頃は弓矢の御神といとも崇み奉りつれども、萬民の事は扨置、君(宗孝公)の御身一人をだに擁護し玉はねば、此後は敬ひ奉る事も候はじ」といいて絶交をつたえた。「生田の神義絶」というが、又助の無念のほどがひしひしと伝わる話である。
享保19年家督、560石、元文2年2月川尻奉行、其後御使番に召直、寛保元年8月御奉行、延享元年9月御小姓頭、延享4年8月15日・宗孝公逝去、同5年7月御役御断、寛延4年2月御番頭、宝暦2年5月同役御断、同年10月隠居43歳、号・長風。
養子の又兵衛が跡を継いだが、いつの頃か御暇となり生田家は断絶している。又助隠居後の約32年間どう過ごしたのだろうか。
天明4年10月22日歿・75歳 墓・高麗門禅定寺。
御小姓・御使番・大阪御留守居 御使番・御側弓頭・同筒頭 御切米触頭
初代・生田又助ーーーーー 2代・又助(坂崎清左衛門三男)ーーー 3代・又助(小坂半之允三男)ーーー 4代・又助(上月十郎大夫二男)ーーー5代・又兵衛
(貴田角右衛門二男)御暇・断絶
(寛永五年正四月)十二日
| (長元)小笠原備前家二代・長基、ガラシャ夫人に殉死した少斎の嫡子 6,000石
小笠原長元困窮シ |一、小笠原備前殿御手前不成ニ付而、寛永四年ニ 御袖判壱枚被仰請、上方にて銀弐拾貫目御借用
借銀二ツキ忠利ノ | 候、左候て、当春被成御請返、 御袖判被差上候、則飯田才兵衛を以、 御前へ上申候処、御前
袖判ヲ乞ウ | 〃
銀二十貫上方ニテ | 判御やふりなされ御出候、又備前殿右之 御袖判請返上可申との請状、 御前ニ上被置候をも、
ノ借状ヲ請返ス | (松井興長)
忠利借状ヲ破棄ス | 同前ニ 御前ゟ出申候、明日上方へ便宜御座候ニ付、式ア殿ゟ備前殿へ御上せ可有由、■■被仰
| 越候間、則式ア殿へ持せ遣候、
頭注には長元とあるが、長基が本当だと思う。豊前時代の話である。
寛永四年に家政が立ち行かないので、忠利公の袖判をお願いして上方で銀20貫を借用したが、その返済が済んだので借用書を受け
取り返上したというのである。
すぐさま破却(焼却か)するようにとの仰せつけであった。
この時期の金と銀・銭の関係は、1両=銀50匁=銭4,000文といわれるから、銀20貫=20,000匁/50=400両、1両=10万円とす
ると4,000万円という膨大な金額である。
なぜこのような借銀が必要であったのかは良くわからないが、6,000石の御大身ともなれば家臣その他相当数抱える必要があるから
その経費は莫大であったろう。
しかし、1年ほどで返却ができたということは、ざっと米400石+利息がコメ相場を見ながら返却されたのだろう。
袖判とは、藩主の確実な保証があることを示すために、藩主の花押が入った借用書の事である。
6,000石の大身であるとともに、ガラシャ夫人に殉死した小笠原少斎の嫡子であるということもあるだろう。
袖判での借銀だから利息は普通より安いのだろうが、それでも10%くらいは取られたのではないか。
侍の借金は年率18%だともいうから、身代はつぶれてしまう。
■沖津九郎兵衛、米田家馬乗り衆を殺害す (上妻文庫-風説秘話から)
忠利公御代沖津九郎兵衛とやらん四尺斗の長刀を差ける
か法花(華)坂ニ而小便を志けるま監物殿の馬乗通り懸り小尻を
蹴沖津振返て何者そと咎しに馬乗却而悪口せし故
沖津抜打ニ二ツに斬殺けり 夫より今の榭の後四角迄来 榭 = 時習館の東・西榭のことか?
りしに早此事監物殿江聞へ討手を向らる様子ニて大勢
門前ニ集り既二可押懸躰なれ者沖津引返シて大頭志水
伯耆殿江行 今の小笠原大部殿屋敷 只今ケ様/\の訳ニて手打仕候処監物
殿ゟ討手を被向様子ニ見へ候故差圖を受可申ため参
上仕候と云しか伯耆殿聞て早々御通りし得とて沖津
を座敷江通し扨有合家来共に下知して門を打せ鉄
砲を持て長屋の屋根に上らせられし中早監物殿の者共ハ
沖津伯耆殿江馳込たりとて志水殿門前江押寄監
物申候 沖津何某手前家来を討て其元江罷在由早々
御渡可被成と云しか者伯耆殿返答ニ御家来不届之儀御座
候而沖津九郎兵衛討果申候然るを相渡申候儀決而不相成
申候と云れしかとも監物殿家来共猶ニ強而御渡可被成と
云募しか者伯耆殿被申たるそ一應不相渡旨理り候を強而
受取度候て何様共被致候へ被見通鉄砲をも賦置候条可被
致覚悟と云れしか者監物殿家来共ハ俄の事ニて着込
抔せし者も無く勿論鉄砲も不持者兎や角と暫く猶豫し
たる中使を馳て主人の方江云遣ハせしかハ監物殿怒られ
自身行向て請取べしとて大騒動なりしかハ此事早
尊聴ニ達シ俄ニ沼田殿を召て被仰渡しハ監物者家来の
敵ニ討手を向候由尤左も可有事也 然るに若伯耆様討れ
候ハゝ監物か討手ニ者汝を差向候間早々其覚悟致居候得との
上意也 沼田殿警なから御請申上退出し斯成行てハ以の
外の大事也と直ニ監物殿江内々ニて此由云送られしかハ監
物殿聞て我忠義を忘たりとて大ニ後悔し早速手の者
共を被引取たるとなり
この事件に於いて知行召し上げ等の目立った処分は為されていないが、後始末はさぞかし大変だったろうと思われる。
殿様の近くにあったと思われるが外様に出されている。この事件がきっかけで出頭の道は閉ざされた。
この事件の時期は、以下に記すごとく九郎兵衛は天草島原の乱で戦死するから、入国の寛永9年の暮れから14年の暮れあたりの5年の間の話である。
知行は弟・弥五右衛門が引き継ぐが、この人物も寛永5年ころ(新資料による私の見解)横田清兵衛を殺害している。
又、弥五右衛門の嫡男・才右衛門は綱利の大なる勘気を蒙り(■推参者・・・おれも 真源院様御子)知行召し上げになるなど、九郎兵衛と弟・弥五右衛門、その嫡男・才右衛門などの共通する荒々しい性格が見て取れる。
■天草島原の乱における、死者の報告
口上
今日八ッ過ニ御人数不残御本陳へ御引取被成候、
松平右衛門佐殿手ニ未弐百ほとも有之由候を、爾
今御せめ被成候、もはや弐百迄ハ御座有間敷儀ニ
候へ共、有之との被申分ニ而御座候、今度討死衆
之書立御陳場ニ而立なから書進候
尾崎金左衛門 岩越惣右衛門 小坂半之丞
山川惣右衛門 平野弥平太
野瀬吉右衛門 沖津九郎兵衛 神足八郎右衛門
弓削与二右衛門 猿木勘左衛門 楯岡孫市
西沢文右衛門 松岡久左衛門 外山平左衛門
此外ニも可有御座候へ共、未与々より差出不参候、
手負ハ殊外御座候、与七郎殿・角助殿御無事ニ候、
角助殿ハ石疵少御おい候
一五郎右息八助殿石疵ニ而候、少ハ御痛可有之と相
見へ申候、其外之御息ハ御無事之由
一椋梨殿御息も無事
一ゑへの四郎首も参候事
何も/\手柄を被仕候、跡より可申上候
二月廿八日 堀江勘兵衛
判
監物様
河喜多五郎右衛門殿
椋梨半兵衛殿
沖津作大夫殿 (九郎兵衛三弟)
以上
元NHKの名物アナ・鈴木健ニ氏が亡くなられた。深甚なる敬意を表しお悔やみ申し上げる。
写真は私の雑記帳だが、ここに「知るは楽しみなり 知識をたくさん持つことは人生を楽しくしてくれる」と、高い視聴率を誇る名物番組「クイズ面白ゼミナール」の冒頭の、鈴木アナの言葉を記している。
氏はNHKを退職後、熊本県立劇場の館長に就任されたが、招聘したのは当時の知事・細川護熙氏であった。
江戸っ子の鈴木氏がなぜ熊本にと当時の熊本県民はびっくりしたが、氏にとって熊本赴任は二度目であり、一度目はNHKアナウンサーとしての任地としてである。昭和28年の熊本水害を、城見町にあったNHK熊本放送局から、二階のスタジオに水が上がってくる状況を実況放送された。
その後のNHKでの活躍はすごく理事待遇のエグゼブティブ・アナウンサーをへて、二度目の赴任地として熊本県立劇場・館長職につかれた。
県下各地の伝承芸能の発掘などに勤められたが、清和文楽の復興は特筆すべきものである。
細川知事の熊本アートポリス事業による清和文楽館の建設と相まって全国区の評判となった。
「知るは楽しみなり」の精神はそれ以来私のバックボーンとなっており、この雑記帳に判らぬことを書き綴り、PCを駆使して調べ、図書館に走り調べて人生を楽しんでいる。そういう意味で、私の生き方を導いていただいたと感謝している。ご冥福をお祈り申し上げる、合掌。
参考サイト:風のコンパス、清和文楽館公式サイト、アートポリス・清和文楽館
それぞれリンクを張ろうとしましたが、「本文に不正な書式が含まれています」というコメントが出てしまいますので、
恐れ入りますが上記文言で検索をお願いいたします。
清源院とは細川重賢の同母妹で、宇土支藩興生に嫁いだ。興生が結婚生活10ヶ月、わずか21歳の若さで亡くなるが、弟・興周(おきちか)を急養子にたて相続せしめた。これが名君の誉れ高い興文(おきのり)である。
このように細川宗家と宇土支藩の間では婚姻によるつながりが深く、重賢の世子・治年には興文女・埴が正室として入っている。
さてこの治年が天明七年の参勤の際に長旅の疲れが病となり病床に就いた。病状が好転しない中、宇土支藩藩主・立禮は本藩重役・長岡主水(松井営之)から極内密の懇請を受けた。
義兄・治年にもしものことがあったときの為の継養子の話である。
細川宗家は綱利の男子が亡くなり、弟・利重の新田藩から利重の次男が綱利の継養子・宜紀が入ったことから新田藩の血が宜紀・宗孝・重賢・治年と四代続いており、立禮はこれを慮って固辞し続けた。
その際、立禮の祖母・清源院が「此義はいか躰にも御断は相立不申候」と強く説得し、ついに承諾するに及んだ。清源院の政治的才覚が細川宗家の危機回避に大きな力となった。
清源院もまた新田藩の血を受け継いだ人ではあるが、重賢公の妹として、また治年公の伯母として強力な助言であったろう。ここに細川宗家10代・斎茲が誕生することになる。
一方、宇土支藩は嫡子・立之がわずか4歳で相続することになる。
その後、斎茲の子斎樹に継嗣子がなく病床に就くと、宇土支藩・立之の嫡子・立政が本藩を相続し斎護となる。
これはもう、単なる隙つぶしに他ならない。必ずしも慶長・寛永期とは限らないが、禁裏や時の権力者と細川家との関係を略図にしてみた。
それでも一応資料を見ながらのことだから、例えば後陽成帝は三宮・後水尾帝には譲位したくなく、弟宮(八条宮)を望まれたとか、東福門
院の入内に当たっての徳川家のあまりにもひどい行動などを知ることになる。
細川家に関しても、幽齋の田邊城解放や八条宮の古今伝授など、後陽成天皇の強い意向があったこと、また光尚室の逝去後、八条宮家との結
婚話があったことなどを考えると、略系図の一本の線はいろいろの事柄や、当事者の心情などが絡み大変面白い。
綱利以降、徳川家周辺との婚姻が見られるが、三斎忠興の思いからは遠いものとなっていく。
東福門院と細川萬を朱書きにしたのは、その着物道楽によって京都の織物文化が昇華したという寛永文化の一面をあらわしたかったが故である。
三宮 すがのみや・つぐひと
+ーーー後陽成天皇ーーーーーーー後水尾天皇ーーーーーーーーーーーーーーーー素鵞宮・紹仁
| ‖ ⇩
| ‖ーーーーー明生天皇===後光明天皇
| 徳川家康ーーーーーーーーー秀忠 ‖
| ‖ーーーーー和子(東福門院)
| 織田信長ーーーお市ーーー江
|
+ーーー八条宮智仁親王ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ●
古今伝授 ↓(結婚話が持ち上がったが立ち消えとなったー天草島原の乱・忠利の死)
+ーーー細川藤孝 ーーー+ーーー忠興ーーー+ーー忠利ーーー光尚
| | | ‖
| | +ーーー 万 ‖
| | ‖ーーー弥々(男子出生するも死去・後男子も死去)
| | 烏丸光廣ーーー光賢
| |
| +ーーー伊也
| 吉田神道 ‖ーーーー萩原兼従(豊国廟初代社務職)
| 吉田兼見ーーーーーーー兼治
| 兼見卿記著者 慶長18年(1613年)、後陽成上皇に神道を講ず。
|
+ーーー ●
‖
土御門久脩
(前出、東右近太夫、一万石)
一、長岡河内義ハ三斎様御存生之内如何様共御奉公之趣、御頼被成候。立允様なき跡ニ被為成候は、一入御老躰之御身ニ候ヘハ、御朦氣之所
御察被成、是段別而無御心許被思召候との御事候。宮松様御事茂御頼被成度思召候得共、三斎様江之御奉公トひとつにハ難成事ニ思召候
との被仰置也。
一、立允公は三万石之御格ニテ御在府也。常々御家老志方半兵衛相詰申候所、此節八代江罷在頭立候者少々相詰候得共、万事御用向は池田弥
八郎、井門文三郎両人江被仰付候也。
一、八代江文三郎不罷下内、御遺言之御様子、御家中共ニ如何無心元可存と察候ニ付、早飛脚ヲ以右之趣文三郎より与左衛門、半兵衛、主膳
方江申遣候。此段直ニ申渡候ハ面不叶義候得共、公儀江被指上候物之儀ニ付、滞流被仰付候。其内各中無心元可被存と如斯候由委細申遣候。
追付肥後守様より御暇被下次第罷下、直ニ可申渡候と申遣候。然所主膳は其内ニ江戸へ参候ニ付、文三郎直ニ申渡候。相残両人は連判ニ而
返答在之、則与左衛門自筆ニテ奉畏候との義申越候也。
一、閏五月十日堀田加賀守様江御出被下候様ニと被仰進、即刻御出、御直ニ宮松様御事御頼被成、其上近年御奉公ニ御出被成候此かた、諸事御
志之儀共御忘不被成候由、様々御禮共被仰上、其上ニ而従信長公 三斎公拝領、数陳御吉礼(例)之御旄、是ハ右之被仰立ニテ加州様江被
進候御遺物二テハ無之候。数年御心入之御礼ニテ候。御遺物は一色(式)被仰置候間、御死骸ニ井門文三郎持参仕候様申付置候との御事也。
其後、文三郎手前之義久敷奉公仕、有馬之刻茂首尾好相勤候。已来御見知被下置様ニとの御事ニテ、則加州様御相應之御挨拶、扨々御病氣
甚敷候處慥成義共、常々御理知義(律儀)程御座候。旄之儀は已後御子息江進入申ニテ可有御座、抔と被仰候。サテ立允様御寝成候所ヲ
御足之裏迄御さすり被成候得は、立允様加州様之御手ヲ御いただき被成、忝思召候段被仰候所、加州様文三郎へ被仰聞候て、あれ程之御
病氣ニ慥成事と御感被成候。其後御暇乞、御落涙ニテ漸御立被成候也。
一、宮松様ハは其節御九歳也。京都萩原兼連卿江被成御座候。立允公御大切之段、井門文三郎方ヨリ追々申上、依之閏五月十五日京都御立
被成、同月廿五日江戸江御着被成候。
一、御骨無程八代江御下シ被成候様ニと従 肥後守様御意ニ付、餘宮内、川口新九郎、其外御侍共末々迄大勢御供仕候。江戸被差立候御日限不
分明候。大方閏五月末か。
御骨八代江御下り、初は洞家泰岩寺ニ被成御座候。其後同派久岸寺江御移被成候也。於宇土御寺宗功寺之御作事、慶安元戌子十一月廿
七日出来、御移被成候。住持不哲、御寺領百三拾石、万治四辛丑宮ノ庄村之内轟山ニ行孝公御見立、御寺引ヶ御造営有之、同年十月
十八日御移被成候也。山号今年ヨリ行孝公思召ニテ三車山ト号、隠元禅師手跡也。寛文十庚戌年ヨリ碩翁入院、貞享ニ乙丑年ヨリ御寺
号泰雲寺ト改、ガクハ綱利公御筆也。
一、追腹之者四人也。山下太郎兵衛、河野久左衛門、佐々木八兵衛、此三人は閏五月十一日之昼切腹仕候也。矢嶋權三郎義ハ御骨之御供ニテ
罷下り、於八代切腹仕候也。
一、御病中肥後守様、稲葉能登守様、切々御見舞、御懇意也。堀田加賀守様別而御心入也。御逝去七八日前ヨリ表は大勢之御客、松平阿波守
様、森内記様切々御出、御心入ニ候也。
一、御醫師、初ニ内田玄勝、二番ニ半井喜庵、其後養安院、盛方院、壽命院、五雲子、板坂朴斎、御薬被召上候也。
一、右之節圓通院様(生母)、惠照院様(夫人)、長命様(嫡女)、慈廣院様(嫡男・行孝生母)愛宕下御屋敷ニ被成御座候也。
一、御病中於八代承り、即時江戸江罷越候者共、長岡河内、福地主膳、佐方源助、上羽又右衛門、村上金右衛門、守田与惣右衛門、清田与三
右衛門是ハ刑部様(同母弟)ヨリ為御見廻被差越候。右之内河内、主膳、又右衛門、与三右衛門、此者共ハ江戸江罷越候。守田義は御奉
公人ト申ニテハ無之、御病中之義承り罷越候也。村上、佐方義は駿州江尻ニテ御骨上り候ヲ奉見、夫ヨリ御供ニテ御国江参候也。
公方様家光公江 百矢 幽齋公如古法被仰付、矧手茂昔之名人也。古作之根色也。
大納言家綱公江 作之御鞍鐙。
肥後守様江 にしきの御羽織、和泉守ノ御脇差。
堀田加賀守様江 正宗御小脇指、此正宗ハ忠利公ヨリ被進候御道具也。
右之通被仰置候也。
一、有時立允公江堀田加州公被仰候は、御無官二テハ如何敷候。諸太夫抔は罷成申間敷義ニ而も無之候間、御望ニ思召候ハ(ラハゝ)取持可申
由也。立允公御望無之とのご挨拶ニテ候故相止申候由候。立允公御心底ハ、細川之御家ニ御先代ヨリ終ニ諸太夫無之、輕キ義と被思召候。
自然侍従ニテ候は御望ニ思召候得共、光利公さへ侍従故、御望被成候事中々以及難被成義故、御無官ニテ候也。
立允公御逝去已後御影出来申候。長上下ニテ候ニ付見分如何敷、何とそ御贈官ニテ御装束ニ被成度由、行孝公於上方公家衆ニモ御内談被遊候へ共、是又御内證にてハ不被為成由ニ付、其後青襖ニ御改、狩野養卜ニ被仰付圖之候也。
〇寛永十五戊寅ヨリ寶暦七丁丑年迄百二十年二成候也。
〇正保二年乙酉ノ年八代ヨリ宇土江御所替寶暦七丁丑年迄百十三年二成候也。
一、有馬ヨリ御開陳已後越中様江立允公被仰上候は、今度於有馬表肥後手之内ニテ本丸之一番乗は立允ニテ御座候。此段急度御吟味
被成被下候様ニト度々被仰上候得共、忠利公御内證ニテノ思召ハ、先八代御一手之儀は三斎公御人数ニテ候所、為御陳代立允公御
出陳之御事ニ候得は、八代ハ何事にても各別ト計被仰、熊本トひとつニ不被遊候。是ハ偏ニ被對 三斎公ニ御遠慮之由、若立允
公ヲ一番乗ト御定被成候テハ、益田弥一右衛門一番乗ニ差合候由、立允公ヲ一番乗ニ御立不被成段、御内證二テハ御不足ニ被思
召候由、併五月五日、忠利公御直之御意之趣ニ候得は、一番乗御同前之御事也。
一、立允公未江戸江御下向不被成已前、有馬表之首尾之儀ハ達上聞候由、其子細は、 公方様於御前、有時御夜咄之砌、御伽之御衆
中江上意之趣、今度有馬ニテ首尾善悪之義大名分之者之事ハ不残御存被遊候。自然未御目見不仕庶子なとノ内に勝タル者ハ、御
目附之輩之咄二テハ不承候や、との 上意也。其節御前ニ佐久間将監殿御入候が御請被申上候は、松平右衛門佐庶子ニ黒田市正、
細川越中守弟細川立允、只今法躰之躰ニ而罷在候。いまた御目見不仕候。是等ハ委細之儀不承候得共、今度有馬表之内二テハ殊
之外勝申候由、御目附ニ罷越候林丹波咄ニテ承候由、荒々言上在之候得ハ、上意ニ、嘸三斎様悦可申との御事也。此趣ハ御目附
之市橋三四郎殿ヨリ三斎公江被仰知候。是ハ三四郎殿常ニ三斎公ト御心安ニ付、御申越候様子ハ御隠密之儀ニテは無御座候得共、
御前沙汰之儀御座候得は、御役儀ニ對シ少々御遠慮にハ存候得共、是ハ武勇之儀ニテ各別目出度儀故、御知せ申進との御事也。
一、同十六已卯二月五日、立允公江三斎公御隠居之御家督御譲可被成との御内意ニテ、吉日を被撰、八代御本丸デイノ間ニテ御父子様
御座被成、壱番ニ朽葉之御指物佐方与左衛門持出、二番ニ御旄志方半兵衛持出、此御サイ(采)ハ従信長公、三斎様御拝領被成、
度々之御陳ニ無越度、目出度旄なれハ御譲被成候。サテ御樽肴、御銀五百枚、是ハ従 上様御拝領成候御銀也。長岡河内披露之、
其御座ニテ御はやし被仰つけ、御家中之侍不残御酒被下候也。
御旄被進候時三斎様御意ニハ、休無ニ遣テモ不苦物なれど浪人ニテ不入もの也。越中ハ大名也。其方江ゆづる、ト被仰候也。
一、右之節三斎様御意ニハ、御隠居領之内㝡前ニ三万石被進置、残テ三万七千石之儀ハ只今迄ハ如何様とも御定不被成候。此分ヲ茂此
度立允公江被進、先代ヨリ之城付三千石茂御加被成、都合七万石御譲被成旨、三斎公御直ニ被仰渡候。依之御家督御譲被遊奉教悦候
由、御家中一同御祝儀申上候也。
右之御意ニ候へ共、立允公御心任ニ曽テ不被成候由、越中守忠利公肥後守光利公江急度御極置不被成候故、慥ニ證據證人も無
之、三斎公、立允公御逝去已後何角指支、行孝公江七万石ハ相立不申、御父立允公初之御知行三万石計漸ニテ御拝領也。
一、右同日従 三斎公御使者長岡河内ヲ以、御者頭廿五人立允公江御附被成候、何茂河内召連、御本丸ニテ御目見被仰付候。為御禮北
ノ丸江御出被成御物頭共御目見、其役々三斎公江御直ニ被成御意候也。
一、同年之春於八代三斎公御意被成候ハ、立允公江御隠居之御家督御譲被成候得ハ、思召被残候御事茂無之候。此上は江戸へ御願被仰上、
吉田江永ク御逗留被成、二度八代江御下被成間敷、との思召ニテ、北ノ丸ヲ被為明ヶ、御女中衆不残被召連、吉田江御上り被遊候也。
又御様子替り、翌年辰八代江御下り、北ノ丸江被成御座候也。
一、同年五月五日立允公八代御立被成、京吉田江被成御座候也。色御勝不被成、是ヨリ御逝去マテ御食事御進兼、米ハスキト上り不申、
粟類計被召上、■(此字不明=月編ニ夏)ノ御煩也。依之吉田江暫御逗留、其内三斎公江戸御首尾御繕被成、御左右次第御下可被
成由ニテ御待合被成御座候所、江戸より御左右有之、八月二日吉田御発駕、木曽路御下被成、同十三日江府江御着、新馬場之中屋敷
江三斎様ト御一所被成御座候。御着前三斎公御作事被仰付候也、此節ヨリ御名中務太輔ト御改被成候也。同年冬 公儀家光公へ初
御目見被成四ヶ年御在府、同廿癸未年之春八代江御下被成候也。
刑部興孝公三斎公為御證人永々御在府、愛宕下中屋敷ニ御座候所、立允公卯ノ年江戸江御越ニ付、御代りニテ肥後江御下り也。
此時之御屋敷、
上ハ七千坪有之、其後千五百坪 上屋敷ハ 龍ノ口。
増、都合八千余坪有之由ナリ。 中屋敷ハ 愛宕ノ下。
下ハ坪数不知。 下屋敷ハ 芝、只今新馬場邊也。
白銀之御屋敷添地共ニ 右新馬場之下屋敷、御用ニテ忠利公御代
四万坪有之由。 ニ揚り為替、白銀ノ御屋敷御拝領也
一、同年立允公江戸御下向ニ付、御前様ニモ御同道也。同十八年辛巳六月五日御姫様御誕生。長命様ト奉号。立允公御逝去之時御前様
御歳二十三、長命様御年五ツ也。御前様此時ヨリ恵照院様ト申候也。右ヨリ三ヶ年目、同四丁亥年惠照院様御年廿五、長命様御
七歳之時御同道御上京、岩崎ト申所ニ御屋敷御求被成御座候也。惠照院様江従 光利公御合力三百石被進候。御内用は行孝公ヨリ
御合力也。貞享戊辰七月十四日御逝去、御年六十六。御法名惠照院殿月故宗印。
一、同十八辛巳家綱公御誕生。此節為御祝儀、従立允公信國御脇差一腰御献上、代金百貫、御使者熊谷権太夫。
一、正保元甲申春八代御發駕、江戸江被成御座、段々
公儀向之御首尾宜被成御座候処、翌年酉ノ五月十二日ヨリ御煩付被成、色々御療治被尽候得共、無御快気、閏五月十一日卯ノ刻於
愛宕下御屋敷、御歳三十一ニテ御逝去也。即夜祥雲寺ニテ御葬禮也。木翁御引導、御戒名清岩和尚御付候也。
泰雲院殿立允宗功大居士。
一、御遺言ハ御逝去前日井門宗中文三郎江被仰置候事
宮松様御事、肥後守江御頼被成候事。
公方様大納言様江御献上物之事。
肥後守様、堀田加州公江之御遺物等之事。
有馬江御供仕候者共之儀、已後迄悪敷不被成候様ニとの段々被仰置候也。
身上千石 千石 四百石
右之節佐方与右衛門、志方半兵衛、福知主膳、此三人宮松様家老ニ御頼被成候間、物毎心まゝに御奉公難仕儀可有之候。然共三斎
様御仕置之趣毛頭違輩(背)不仕様ニ覚語(悟)相極、宮松様江御奉公御頼被成候との御事なり。