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葬儀の形の変化

2022-11-15 04:04:23 | 暮らし


 近年、葬式は家族が執り行う物になった。葬式の形は民族や地域や時代で大きく変化をしている。江戸時代と今では葬式はかなり違うものである。それにしても、子供の頃の葬式と今行われている葬式はかなり違う形になっている。

 昔は地域社会で葬儀は行なわれていた。何故葬儀を地域社会が行うかと言えば、死んだ人が生前のことで恨んで化けて出ると大変なことになると考えていたからだ。村八分になっている家でも、火事と葬儀は別とされていた。村八分にされた恨みは重いことだろう。

 死という物は理解しがたい不可思議な物だったはずだ。死後の世界を想像する人間が多かった。昔の人は死んだ人が怖かったのだ。死体を縛り、上から大きな石の重しを載せた。獣に荒らされないようにと言うこともあったが、死人が出てこないようにしたというのが、実際の感覚だった。

 しかし、社会がすべてに明るくLEDになり電球も切れなくなった。社会全体が科学的になり、死んだ人が化けて出るなどと考える人もいなくなった。そうなればもう怖くないから、地域社会は徐々に引いて行くことになる。もう他人のことどころではない社会なのだ。

 その結果、死んでしまいましたので、と一応挨拶のために家族が葬式を取り仕切るが、地域で寄り合って葬儀を行うというようなしきたりは消え去った。これは良くなったことの一つだろう。その結果一切人を呼ばない、家族そうなるものも出来た。

 出来れば葬式はもっと簡易な形になるのが好ましいと考えている。子供の頃の葬式は3日はかかっていた。少なくとも通夜があり、本葬があって、2日普通だったが、最近は本葬の方を簡略化して身内だけで行うことが増えた。忙しいので、よるに通夜に行けると言うことを重視している。

 
 「家族葬」が55.7%で最多、次いで「一般葬」25.9%、「直葬・火葬」1日葬、11.4%で1日葬儀が増えてきている。葬儀に列席してもらうと言うことも余り重視せず、葬儀の形だけを整えるという意味での1日で良いという考えが普通になりつつある。これは葬儀にかける費用の下がってきていると言うことも反映している。

 中国政府でも同じ考えららしい。大げさな葬儀は止して、樹木葬などが奨励されているらしい。死んだらそれが終わりなのだから、死んだ当人にとって、今更葬儀などどうでも良いわけだ。死んじゃったのだから。残された物の踏ん切りさえ付けられる場が葬儀なのだろう。

 地域の共同作業の代わり出てきたのが葬儀会館である。老齢化社会だから、葬儀会館がタケノコのように出てきた。沢山あるのに、小田原ではそれでも満杯なので、葬式の延期などと言われていた。死んでからすぐには葬式が出来ない状態だった。

 昔はどの家でも自分の家で葬儀を行うか、家では行えないような場合は、寺院や地域の寄り合い所のようなとこで行った。そもそも曹洞宗の寺院が葬儀を行うようになったのは、江戸時代の檀家制度以来である。徳川幕府は檀家制度で住民も縛り、宗教も制御したのだ。まだ死んだ人の管理に不安と恐怖があったから可能な制度である。

 しかし、葬儀が形式化して、地域社会から家族で行うようになって以来、葬儀の場所は葬儀場が合理的と言うことになった。家族だけでやる葬儀では、とても家でやるというのは難しい。家でやると言えば家族葬と言うことが本来か。それでも家が手狭だし、家族は疲れているときだ。

 葬儀場で行うと言うことは葬儀社が行うと言うことになり、僧侶さえ葬儀社に所属契約をしている人が多い。寺院も持たない雇われ僧侶が行うことが多くなった。もちろん僧侶の居ない葬式も多い。これも死んだ人への畏れが失われた結果だろう。

 こう言う時代になると当然のことに家族葬という葬儀の在り方が増えてくる。家族葬とはつまり葬儀は改めてしないと言うことでもある。家でお通夜をやる感覚が家族総出人を呼びたくないというのが背景にある。人を呼べば大事になる。核家族時代に相応しくないことになる。

 しかし、今葬儀をやる年代の人達は難しい端境期というところで、案外社会的に生きている人もいる。そういう人の葬儀はやはり家族葬というのでは、死んだ当人の遺志にそぐわないという悩みが生じる。残された遺族が迷うところだ。その迷いももうしばらくという事では無いか。

 葬儀をしないと言えばさすがに聞こえが悪いから、葬儀はやるのだけれども、家族だけでやるので、弔問などはご遠慮させて頂くという形である。この位いの加減の葬儀が、今の社会には適当なのかも知れない。葬儀はどんどん軽くなって行くのだ。

 人間は生きている期間が重要であり、死んでしまえばそれでハイさようなら終わりというのが、共通認識になりつつある、と言うことかも知れない。それは核家族という言葉が表している。孤独死と言うことになれば、当然葬儀は行われないことが一般的なことになる。

 父や母の葬儀は私が行ったが、自宅で葬儀を行った。それが父や母の希望だったからだ。父は明治の生まれ、母は大正の生まれである。その時代の葬儀と今の葬儀はまったくに異なる。父や母は自宅で葬儀ができるような家に住み続けたいと考えて、時々葬儀のやり方まで行っていた。

 父も母もとても覚悟の良い人で、何気なくそういうことを私に告げていた。葬儀場はどうも嫌だよねとか何かの時に言い残していた。葬儀は当人の希望に従いたかったので、家で葬儀を行った。葬儀社というような物もとくにお願いしなかった。私も僧侶なので、一応の所は把握している。

 父の葬儀は三軒茶屋の自宅で行った。ビルの6階であった。そのビルは父が建てたビルでそこで葬儀をしたかったのだと思ったので、そこで行った。父は人の面倒をよほど見た人だったから、それは500人を超える人が訪れた葬儀になった。お墓は品川の海晏寺にある。

 母は小田原の自宅で葬儀をした。母らしい親密感のある葬儀だったと思う。母の弟に当たる叔父が葬式を執り行ってくれた。母はもっと長生きするつもりだったから、私も申し訳ない気持ちで切ない葬儀であった。父や母の亡くなった歳に近づいている。

 私の葬儀はどうなるのかと思うが、どうでも良いと言うほかない。面倒はかけたくないが、面倒をかける人もそのときになって、いるのかさえ分からない。という状態である。野垂れ死で結構とおもっていきているので、迷惑さえかけれないものであればそれでいい。

 石垣島でも葬儀場の葬式が多いようだ。離島の人が亡くなると、石垣島で葬儀をすると言うことがままあるようだ。火葬場も石垣島にあるからではないかと思う。どうせ後で石垣島に運ぶのであれば、石垣島の葬儀場で葬儀をした方が良いと言うことかもしれない。
 
 石垣島で死ぬつもりなので、石垣でお骨になり、簡易な葬式をしてもらうのだろう。お墓については両親も入れてもらった。海晏寺に費用を払えば入れてくれるだろう。生まれた向昌院に戻るというのもありかも知れない。

 
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ウチナンチュー大会

2022-11-14 04:24:09 | 石垣島


  移民については以前から様々に考えてきた。明治以降日本は移民を奨励してきた。日本が明治維新以後、南北アメリカ、中国大陸、フィリピン、南洋諸島など海外に送り出した移民の総数は百数十万にのぼる。そして、その移民の多くは国策として送り出された棄民と言うべきものであった。 

 日本の人口は、江戸時代には約三千万人で推移していたが、明治維新以後急激に増大し、1920年代末には六千万を越えた。この急激な人口増加が、人口過剰になり、土地を分ければ農家の維持が不可能になると考えた。農家の余剰人口を政策的に移民で解決しようした。 

 財閥支配と地主制に起因する明治の帝国主義の方向に問題があった。農地の人口増加に対応する分割が出来ない。富国強兵を目指し帝国主義政策を推進した明治政府は、国策により海外移民政策という、間違った方策を推進した。

 移民の募集にあたっては、甘い夢のような未来が待っているというような虚偽宣伝が行われ、現実の厳しさは覆い隠され、移住以後は日本政府はまともな対応を放棄した。ほとんど面倒を見ないという実態であった。まさに明治期から始まる、暗黒の棄民の歴史である。

 海外移民を推進し、海外に行ってしまえば自己責任とばかりに移民の保護を放棄してきた国は、人口減少による労働力不足のために他国人を呼び込もうというおかしな政策になった。日本の政治家・官僚・企業経営者達には、人間は口減らしの対象か、単なる労働力としか見えないという証拠である。

 戦後在外日本人の帰還が進み、荒廃した国土で職も確保できない状況が続いて、実際、帰還した移民に「祖国」は決して優しくはなかった。国内の寒冷地や高地に開拓移民として戦後開拓が用意されたが、再び過酷な開拓事業に取り組まなければならなかった者も少なくなかった。

【沖縄県の移民の歴史】 沖縄県は我が国有数の移民県であり、北米・南米をはじめ世界には約 42 万 人の県系人がいるとされている。戦前・戦後に海外へ雄飛した数多くの県民は、 移住先での困難の時代を不屈の精神で乗り越え、堅実な歩みを続けてきた。特 に、ウチナーンチュ(県系人)のチムグクル(思いやりの心)は、遠く離れて いても強い絆で結ばれ、戦前、戦後においては、仕送りや多くの救援物資によ り経済的困窮状態にあった故郷沖縄の復興を支えてきた。今では各国社会の一 員として信頼を築き、政治、経済、文化、学術等の様々な分野で活躍し続けて いるウチナーンチュは、海外、県外の地においても、故郷を忘れず、沖縄の文 化や精神を大切にし、県人会などでの伝統芸能や三線、空手等の文化活動を中 心に、ウチナーンチュとしてのアイデンティティを次世代に継承している。先 人たちが創り上げてきたこうした沖縄の文化については、沖縄県においても 11 月1日を「琉球歴史文化の日」に定め、沖縄の文化の継承と発展を図り、 もって心豊かな県民生活及び文化的で活力ある社会の実現に寄与することを 目指している。
 1990 年の初開催 以降、これまで概ね5年毎に行われてきた。前回6回の大会では、海外 29 ヶ国・地域から 7,353 名、国内 603 名が参加した。

 第7回ウチナンチュー大会が10月30日から11月3日まで開催された。沖縄のテレビではウチナンチュー大会一色と盛り上がっていた。いわゆる沖縄のアイデンティテーは他の地域にないものである。沖縄は移民に出る人が多い。当然移民から戻る人も多い。石垣島は共和国と言われて、様々な地域の人が石垣に来て島を形成している。

 一方で石垣島ではここ数十年流入人口が増加している。2006年は一年で 1840 人が県外から移り住んだとある。移住しても離れる人がかなりいるようだが、それでも1000人ずつが15年移住し定着すれば、島の人口の4人に一人が移住者と言うことになる。移住者の中には住民票を移さない、半移住状態の人もかなりいるらしい。

 これだけ移住者が多くなると、石垣島にルーツのある人と出会うことの方が少ない。知り合いになった方で言えば、のぼたん農園の参加者30人の中で石垣島にルーツのある人はいない。地主さんの国仲さんも宮古島からの開拓移住の方である。

 私が石垣島に移住して4年間、今まで知り合いになった方でルーツが石垣島の方だとはっきりしているのは2人のみである。1家のお隣の泡盛の玉那覇酒造所は石垣島最古と言われているが、那覇から石垣に移住した方だと言うことだ。地域の組長さんは農家の方なので、たぶん石垣島の方かも知れない。

 たぶん今までに200人くらいの人と知り合ったと思うが、そのうち2人だけが石垣島の方なのだから、知り合いの1%としかルーツ石垣島の方はいないということになる。もちろんルーツ石垣島の人が多く暮らされているのだろうが、私の行動範囲ではまず出会うことがない。

 島に来る人もいれば出て行く人もいる。本島につまり、沖縄本島に出る人も多いし、本土に移住する人も多い。多くの人が進学や就職に際して出ることになるから、若い人が出て行くことが当然多いのだろう。その背景があって、移民として出て行く人が多かった時代がある。

 世界に42万人のウチナンチュールーツの人がいて、沖縄に里帰りして、大会を開いているのだからすごい。こうした活動は沖縄だけのことではないだろうか。たぶん、世界中でそういう出身国との繋がりを大切に維持すると言うことは珍しいのではないだろうか。

 それは沖縄県人の一つの特徴でもある気がする。石垣島では抑どこから来たと言うことが話題になる。私が山梨県生まれであり、東京で育ったとしてもそういうことがどれだけ意味があるのかと思うが、石垣島ではとても重視されることになる。

 あの人は宮古島だ。あの人は与那国島だ。こういうことがその人間の判断になっている。大体名字でどこの人なのかみんな分かるらしい。もちろん名字で最近の移住者であると言うことも、当然に分かる。出自によって付き合い方を変えているのだろう。

 どこの馬の骨か分からない私のような人間は、騙して、一儲けするのが賢いやり方だと言う空気を感じることがある。役所や農協やどこへ行ってもヨソ者はヨソ者扱いして良いと言うことのようだ。ただし、ヨソ者と観光客は又別の扱いになっている。

 こういう背景があるために、移住者は結局の所、移住者相互に関わるようになる。家を作るのであっても移住者に頼むとか、県外の業者に頼むと問題が起きないと聞いた。申請などの困難は業者が受けているのだろう。私も自分の家と、倉庫建築で色々な体験をした。

 移民による過酷な状況を乗り越えたウチナンチュウ達が、ルーツを大切に現地で活動をしている。故郷を懐かしんでウチナンチュウ大会に参加する。素晴らしい機会が作られている。どれほど過酷な条件であっても乗り越えて、暮らしを成り立たせた人達がいる。

 これからの日本は果たしてどうなるのだろうか。外国人労働者が来てくれるような状況は遠からず無くなると考えておいた方が良いだろう。世界のウチナンチューが沖縄の素晴らしさを伝えてくれていることを、忘れないようにしたい。

 
 
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第135 水彩画 日曜展示

2022-11-13 04:37:36 | 水彩画
第135 水彩画 日曜展示

10号前後の作品です。






973「半島」
2022.11








974「赤花」
2022.11






975「宮良川」
2022.11







976「白保のはずれ」
2022.11






977「名蔵シーラ原」
2022.11







978「角館サクラ」
2022.11





979「瀬戸内の島」
2022.11






980「漁師町」
2022.11







981「和布刈から」
2022.11


 毎日楽しく描いている。農作業の合間に描いている。種まきまで日にちが迫ってきたので、作業が占める時間が多くなった。それでも日に一枚は描いている。描こうと思えば時間は余り関係が無いようだ。

 絵にならないでも良いと思い描いている。自分の絵だなと思える絵に向かって何でもしてみている。過去の自分の描いていた絵を清算するような絵を描こうと思っている。それが出来ているかどうかは分からないが、簡単には行かない。
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第二期のぼたん農園の造成

2022-11-12 04:01:03 | 楽観農園


 のぼたん農園の第二期工事を2日間している。ユンボが11月10日に借りられたので、早速始めている。前のユンボよりは一回り小さいユンボだ。なるほどユンボは大きいほど作業がしやすいと言うことが分かる。大きいものは力があるから、ちょっと無理そうな作業でも何とかなる。

 大きいのは素人には難しいだろうと考えていたが、それは逆だった。下手な人ほど大きいユンボを使わなければならない。怖いのでつい小さい方が素人でも手が出ると考えていたのは大間違いだった。小さいユンボは大きいものより不安定なことになる。

 急な登り坂でも大きいユンボなら安定して上ることが出来る。小さいユンボはなんとなく不安定でひっくり返りそうだ。特に培土板で草を押すときなど、大きいものなら出来る作業が小さいユンボではまるで出来ない。しかもバゲットが一回り小さいと一度に移せる土の量が、半分以下になる。

 仕事がはかどらないことになる。焦らないでやることにした。2日作業をして、大きさと力のだし具合に慣れてきたのでもう大丈夫だ。ユンボ作業であと10日間なんとやり抜かなければならない。雑草の始末はもう飽きたので、道路の整備でもしようか。

 1,先ずは初日は新しいユンボになれるために、牧草地の細いススキのような雑草を根ごと抜く作業をした。この草があっという間に広がって来ている。牧草は水牛が食べるが、この草は余り好まないので食べ残す。するとあっという間にこの細ススキばかりがどんどん増えてしまう。

 なんと一日で狭い方の二反ぐらいの牧草地を片付けようとしたが、無理だった。時間がかかるのは驚くほどだ。それでも草を抜くには小さいユンボは案外に悪くない。小さい方が良い作業もある。バケットが小さいから草を的確にぬける。抜いた草をすくい上げて運ぶことにはコツがいる。2日目は大分成れて、抜く、すくうが一体化した。ユンボ技術が戻ってきた。

 それでも時間さえかければ何とかなりそうだ。どんどん作業をして、2日で雑草抜きは終わりたい。まだまだユンボ仕事が控えている。しかし草取りに2日で飽きてしまい、途中から溜め池作りにした。何とか溜め池は出来たのだが、草取りは残った。(2日)

 2,次にやりたいのは上ノ沢に溜め池を作ることだ。上手く出来るかは分からないが、溜め池が上の段の澤の下辺りに出来れば、4番田んぼぐらいの高さに導水が出来る。そうなれば、4番以下の田んぼが安心して耕作できることになる。場合によっては5番に送っても良いのだ。

 特に8,9,10,番田んぼへの水の量が安定するだろう。これはかなり重要なことになる。今の状況では8、9,10,番田んぼが少し不安がある。渇水期が長いと水が切れるだろうと思える。もう一つ溜め池はどうしてもいる。最後の5番溜め池が命の水になる。

 今まで4つの溜め池で一応は水は足りるとは思うのだが、出来れば5番目の溜め池があれば、かなりの渇水期にも対応が出来ると考えている。今年も8,9月はかなりの渇水だった。ただこの作業は私の技術で出来るかどうか分からないような工事になるので、福仲先生に見てもらってからの、最後に取り掛かった方が良いかもしれない。(2日)

 3,必ずやりたい工事が8番田んぼの上への移動である。これも出来るかどうか不安なのだが、田んぼを一つ果樹園の上で7番田んぼの下に増やそうと考えている。上の方が水を回すのにいくらか安心だからだ。しかし考えてみれば、5番目の溜め池が出来れば、低い方がむしろ水が安心かも知れない。

 この辺はまだ不確定な部分が多い。溜め池が出来るかどうかも分からないので、工事としてはこれも後回しにした方が良いかもしれない。後回しにしている間に、水牛に草片付けをやらせておこう。(3~4日)

 4,小麦畑は作りたい。上の段に5畝ほどの小麦畑を作るつもりだ。少し掘って平らにしなければならない。そこで出る土をたんぼの畦の畑の方に移動して、畦の畑が耕作できるようにしなければならない。しっかりした畦にするには土が足りないのだ。

 小麦畑作りで出た土で畦の畑を作る。これの方が作業としては大変なことになる。ユンボで土を軽トラダンプに積んで、運ぶつもりだ。小麦畑は平らでなければ、耕作がしにくいことになる。コンバインで刈り取れるくらいの平ら地にするつもりだ。土がいくらかでも余れば下の方に寄せて風よけの土手を作るつもりだ。

 この作業には人手がいる。ユンボ作業と軽トラ運転と手分けをしなければ進まない。人が来てくれる日に行うか、干川さんにお願いするかしなければならない。いずれにしても私はユンボだけでしばらく他のことは出来ない。まず草を除く作業を今日やろう。土壌の様子を見て人が来たら土運びをする。(2~3日)

 5,もう一つやりたいのは道路の整地なのだが、これはこのユンボで出来るかどうかもう一つ分からない。培土板で上手く土が削れるようなら、農園内の道路を平らにしたいと考えている。平らにしておかないと、フレールモアーで草刈りをするときにとてもやりにくい。

 2日間作業をしてみたら、何とか培土判作業もできそうだと言うことが見えてきた。この作業は、もう少し機械の操作に慣れてからにしたいと思う。一部傾斜が強くて、いくらか難しいところがあるので、機械に慣れてからの方が安全で良いかと考えている。(1日)

 6,牧草地内に溜め池を掘りたいとも思っている。これは絶対にやらなければならないと言うことでも無いので、余力があればなのだが。大きな方の牧草地内に、強い雨の時には水が集まって流れて行き溜まるカ所がある。ここに穴を掘っておけば、水牛が垈場にするだろう。

 自然に水が溜まるようになるはずだ。雑草抜きに引き続き、何とか作ってみたい。この作業は草抜きの次に楽な作業になるから、牧草地の作業の継続で3日目にやれば良いかと思う。これはすでにやってしまった。半日の仕事だった。(1日)

 7,田んぼの間の畑の整備土が足りないから、小麦畑の造成の時に出る土を運ぶ。土地を運び何とか畑のでこぼこを減らす。今のままでは歩くのも難しい場所がある。土が緩んでいるときでは危ないかも知れない。(1日)

 8,田んぼの間の導水管の設置。(半日)

 作業は順調にいって13日間はかかりそうだ。24日に小田原に行くので、それまでになんとしても終わらせなければならない。何とかなるだろう。心配するより、実行である。連日の終日の作業で体力の方が大丈夫かどうかが問題になる。

 1日か2日くらいの作業を、難しいところを福仲先生にお願いしなければならないだろう。田んぼの仕上げと一段上の溜め池の構想は福仲先生に頼む以外にない。最後の22日、23日当たりだろうか。調整をしなければならない。

 考えてみれば、19日20日は田んぼの均し作業になる。種まきまでの準備と重なっているので、この当たりの作業はみんなにお願いしなければ成らない。ユンボ作業の方を進めなければならない。軽トラダンプでの土運びも一人では出来ないので、どなたか来られる人を頼まなければならない。これはもしかしたら今日すこしできるかも知れない。

 

 
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自分になると言うことが難しい。

2022-11-11 04:08:19 | 暮らし

 
  サジオモダカが随分大きくなってきた。枯れてしまいそうな株が3株在るが、何とか生きている。大きくなるものとそうでもないものがある。何でもそんな物だ、条件は同じでも何かしら問題があり、十分な成長はしない物がある。人間だってそうだろう。

 岐阜のお寺の表示板におもしろい言葉があったという記事が新聞に出ていた。「キムタクには成れないが、キムタクも自分には成れない。」大層な人出だった信長祭りにちなんで張り出した物のようだ。お寺の住職によると、どこかの飲み屋の便所に張ってあった言葉だそうだ。

 住職がそのように、飲み屋の便所で見付けたとに答えたところが良い住職だ。飲み屋の便所でと言え人だから、こんなおもしろい言葉を探し当てることが出来たのだ。言葉の力だ。言葉という物は時々、すごい力を出すことがある。まさかキムタクを使って、自己の存在の形を一気に示す事ができるとは。

 以前にたような言葉で記憶に残っているものがある。「郷ひろみを生涯貫くという、郷ひろみ」当人が演じているのであって、自分は他に居て、生身の郷ひろみでは無いと言いきるところがおもしろい。改めて考えればさまじい生き様である。実は誰でもそういう状態に生きているともいえる。

 この辺りに、曹洞禅というものは在るのかも知れないと考える。自分を演じるのではなく、自分として生きると言うことが大切なのだ。演じている間は安心立命は無いと言うことだ。阿字(あじ)の子があじのふるさと立ち出でてまた立ち返るあじのふるさと。

 人間とは自分のことなのだ。その自覚を問うのが、禅なのだと思う。しかし自分になると言うことほど、易しそうで難しいことはない。生きているというのは人まねで普通のことだ。子供が大人の真似をして、一日生きて、大人になってゆく。阿字の子として、無垢の自分として生きているわけではない。そこで改めて、自己本来まで至りたいという想いが湧いてくる。

 生まれて死んでゆくのは、他でもない自分のことだ。うかうかとしてはいられないということになる。自分の存在に気付くことなく、死んでゆくわけにはいかない。自分は自分をやらなければならない。それを生きる目標にしようと言うことになる。

 キムタクも、郷ひろみも、やれないが、笹村出なら出来る。と書いてみても、出来るはずの笹村出がなかなか見つからない。それを探しながら生きようというのが、お寺の標語だ。キムタクも、郷ひろみも、安倍晋三も、私たちの見ている姿は、それぞれの役を生きているのである。

 笹村出の自覚である。これが出来るようで案外に難しい。笹村出のものまねは出来ても、笹村になりきることは出来ても、本来の存在である唯一無二の笹村出を自覚して生きる。と言うことはなかなかのことになる。その自覚をするために禅の修行はあるのではないだろうか。

 絵を描くと言うことは笹村出の絵を描くと言うことになる。当たり前すぎるが、それがまことに困難なことなのだ。良寛の書がおもしろいというのは良寛という人間がおもしろいからなのだ。その面白さは生身の人間が生きているという面白さだ。道元禅師にはそういう感じは受けない。

 その良寛の人間が書を通して見えるからおもしろいのだ。その人間が現われていない物は絵のように見えるけれど、絵ではない。どれほど評判の良い絵であれ、他人の真似をしている絵であれば、その人本来の絵を描いたことにはならない。絵を描くということを、自分に向かう行にしてゆかなければならないと思っている。

 ゴッホの絵はゴッホの絵である。当たり前の事だがマチスの絵はマチスである。上手ではないが、両者それぞれにすごい絵を残した。そこにゴッホがいる。マチス以上のマチスがいる。二人とも会ったこともない人だが、二人の人間が生に感じられている。本物の絵のすごさである。

 その人間の絵を描く。簡単なようで出来ない。ああこの人の絵だなと思うような絵を最近見たことすらない。ただ描いたところで、どこにも笹村出はいない。絵空事ならいくらでもかける。人まねならいくらでも出来る。しかし、なるほどまごうことなく笹村出の絵だというわけにはいかない。

 原因はいくつか考えられる。自己の自覚に至っていないから、描くべき物がない。つまらない人間なので絵もつまらないと言うこともありうる。絵を描く技術が不足している。色々あるに違いないが、じわじわと少しでも良い方向に前進してゆくつもりだ。まだ時間はある。

 私の線だと言える線がすでに引けない。大体の線がよさげな人まねの線になる。手がすでに色々学びすぎている。私の色がおけない。私の絵にならない。この歯がゆさが常にある。先日日動画廊で梅原龍三郎の絵を見て、ああこの人は自分の線で、自分の色で絵を描いているというすごさを改めて思った。それでも若い頃はルノアール風を真似ていたのだからと思う。

 近づいたと思って顔を上げると、まだまだ道は遠い。そこそこの自分らしき物にしがみついて居たら、このまま終わるのだと深刻に自覚しなければならない。それで良しというところが終わりなのだ。褒められたら終わりなのだ。自己否定して進む以外にない。

 それが絵を描く。私絵画を描くと言うことなのだ。絵は眼前の事物になるから有り難い。自分という未熟が絵として示されるから有り難い。道元禅師のように只管打坐で自分に至るというようなことは、凡人には難しすぎることだ。当人以外には何も分からない世界だ。それでいいとしているわけだ。

 背伸びしても仕方がない。絵を描くことで自分に至れれば、それはそれで良いと思っている。良寛は様々な字を書いている。一つの描き方にこだわるところがない。随分勉強していると思われる。そうした技術の修練の上に良寛の字に至った。その良寛の字は一見何でも無い姿をしているところが恐ろしい。

 能力の如何を問う必要は無い。私は私であれば良いだけのことだ。他と比較するようなことではない。出来ないはずもない。人と競べると言うことには何の意味も無い。そんなことは他人の問題である。必ず自分に到達できると信じて日々を楽観する。

 
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楽観に立つ

2022-11-10 04:11:37 | Peace Cafe

 直ってきたトラックター。福仲先生が直してくれて随分調子が良くなった。その上に田んぼの均しの器具まで探してきてくれた。案外田んぼが平らになる。干川さんがトラックターに神輿も溶接してくれた。これでひっくり返っても命は無事だろう。

 皆さんがのぼたん農園に応援をしてくれている。作業していると、なんとこの神輿にカンムリワシが止まってくれたのだ。カンムリワシだって、のぼたん農園が出来て餌場が増えたのだ。それでずーと来てくれている。良い方向、良い方向が産まれている。

 生きる以上楽しく日々を生きてゆきたい。石垣での日々は実に楽しく、これ以上の暮らしはないだろうと思うほどだ。天国トンボと言われるのも良い。脳天気と蔑まれるのも良い。悲しいことはすぐに忘れて思い出さないようにする。楽しい明日を思いながら、今日を希望に満ちた一日として前向きに生きる。明日はさらに素晴らしい一日に成る。

 世の中は絶望的だ。ほぼ次の世界の可能性は消えかかっている。若い人は、大人を大いに怒って良い。こんな世界にしてしまった責任がある。世界の状態はさらに悪くなるだろうが、もう個々人の力でどうにかなるとも思えない状態になっている。大多数の人がこのままでは世界が崩壊すると言う危機意識を持つ時まで、待つ以外にないのだろう。

 危機意識を持たないまま滅びるのかも知れないが、たぶん人間はそれほどのバカではなかろう。楽観に生きるためにはそんな世界の問題のことなど考えないことにして、自分の生きる道だけを考える以外にない。最近そう考えることにした。

 世界を何とかしようなどと考えたところで、時が至るまでは誰にもどうにもならないことだと考えるようになった。自分とは何かを自覚し、自分らしい日々を送る。時間稼ぎのようなものだ。人類が終わるのかどうかは、個人の力でどうにかなるようなことではない。時代の渦がのたうちまわる。諦めて、つまり明らかにして、自分がいま出来ることをやると言うことになる。

 まず、一人で生き抜くことを考える。楽観に生きる源になる。人間は自分の力で一人で生き抜くことが可能だ。化石燃料など使わないでも、人間は自分の体力だけで、食糧を自給することが出来る。一日食料のために一時間働けば可能だ。後の時間は人のために使おうと、自分の好きなことに使おうと大丈夫だ。

 このことさえ抑えておけば、楽観に生きることが出来る。生きることは難しいことではない。よく生きるとは、自分という存在をはっきりと認識して、自分が望む一日を十二分に暮らすことだ。自分というものを日々やり尽くすと言うことだ。そうできればすがすがしく日々を暮らせる。

 まず、好きなことを見付けると言うことに始まる。私であれば、絵を描くことが好きだ。絵を十分に描けた日は、やり尽くしたという気持ちになれる日だ。それはどういう絵が描けたと言うことでも無く、全力で絵が描けたという日は、喜びの日になる。

 好きなことを探す。好きなことは個々人違うわけだが、やってみなければ好きなのかどうかなど分からないことだ。中学生の頃に絵描きになると決めた。好きなことを探すのが若い時代の仕事だ。そのように父がよく話してくれた。それで、はっきりはしなかったのだが、絵を描くことが好きらしいと言うくらいで、絵を描いてみることにした。やりはじめて絵を描くことの面白さをしった。

 絵を描く以外にも、様々なことをやったのだが、結局絵を描くことと動物を飼うことが残った。最初は絵を描くという面白さはよく分からなかった。叔父が彫刻家だったこともあり、藝術を行うと言うことは大切なことらしいと言うくらいのことだった。

 絵を描くことには終わりがなかった。絵を描くと言うことがどういうことかはまるで分からなかった。上手な絵という物があるのは知っていたが、自分がそういう絵を描けるわけではなかった。中学生でもそういう絵をくだらないと思い、好きでも無かった。一方に、マチスやピカソのような絵画あると言うのも知っていた。

 たまたまボナールの絵を見て、すっかりボナールに取り込まれた。良い絵という物がどういう物かは分からなかったが、ボナールのような絵は好きだと思えた。ボナールのデザイナー的感覚に取り込まれたのだと思う。ボナールのような描き方を真似ていたと思う。思うようには描けずに、絵描きになるためには石膏デッサンという物をやるらしいと言うことで、デッサンをやってみたりした。

 あれこれやるわけだが、上手くゆかないにもかかわらずおもしろいと思い、飽きることが無かった。どうもこれは本当に絵を描くのが好きらしいと言うことを考えるようになっていった。最初は好きらしいぐらいだった物が、絵を描いていられれば、他のことはどうでも良いと、いよいよ思うようになった。

 結局、絵ばかり描いている生活を送ることになった。絵描きでは生活は出来なかったが、何とか他のことで生活は出来た。学校で美術を教えていたこともあったが、絵を教える仕事はやりたくなかった。もう一つの好きだった動物を飼うと言うことを生かして、自然養鶏をやることで生計を立てることが出来た。

 食糧の自給をしていたので、収入は少なくても何とか生きてくることは出来たことになる。好きなこと、好きなことを探して、やっていたら何とかなる。好きなことならどれほどやっても、楽しくてたまらないから、絵や養鶏の仕事をしたというような感じはない。遊び暮らしていたら今になったわけだ。

 自給農業をやっている内に、田んぼも好きになり、今も熱中している。石垣での自給のイネ作りの農法を見付けている。イネ作りが好きと言うより、イネ作りの探求がおもしろいという状態だろう。小田原でのイネ作りは年一回の試みだったのだが、石垣のイネ作りは年3回ぐらい試みが出来る。先のあまりないものには実に有り難い。今年一年でひこばえ農法のことがかなり見えてきた。

 毎日、のぼたん農園に行く。絵を描いている。昼寝もよくしている。そして、人が来たら話をして、一緒に田んぼをやる。一日5枚も描ける日もあれば、1枚も描けない日もある。それでも絵はすこしづつ動いている気がする。自分が描いたと言われても良いような絵に、本当にわずかづつだが向かっている。

 もう少しすれば、石垣のイネ作りも見えてくるだろう。ひこばえ農法も見つかるはずだ。笹村出の絵も現われてくるような気がしている。それほど楽観的なのだ。希望を持って今日も一日絵を描くぞと思っている。このままもう少し長生きすれば、自分の命がある間に、何かしらの所に行き着けると思っている。

 課題があり、それに意欲的に向かうことが出来る。ありがたい状況だと思う。石垣に来るときには考えても居なかったことだが、やはり石垣でも田んぼをやる暮らしがやりたかったのかも知れない。様々な人との出会いがあり、それに逆らわずに進んできたら、石垣島で田んぼをやり、絵を描いている。

 これ以上の幸運は考えられないほどだ。日々の流れに逆らわず、何とかなると暮らしている。明日の方が素晴らしいに違いない。そう考えて絵を描き、田んぼをやっていたら、こんな理想的な暮らしにたどり着いた。自分に至るにはあと20年ほどの時間は必要だと思う。それも何とかなりそうだと楽観している。
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イネ作り、直播き

2022-11-09 04:27:39 | 楽観農園
 



 イネ作りの一番自然な形が、直播きである。当たり前の事で今更のことだが、自然界の稲はすべて、直播きである。自給農業を志すとすれば、田植えが当たり前になっていることを覆す必要がある。それが私の35年のイネ作りの結論である。

 それが、石垣島で実現できそうになっている。自然の稲という植物は、河岸の水が季節によって上下する場所で水位に合せて発芽していたのだろう。苗を作り、田植えをするというのは、裏作があるとか、雑草の対策をするとか、特段の理由がある栽培側の事情で作られた技術である。

 始めて山北の山の中で、1畝の田んぼを作り、やってみたのが直播きの田んぼだった。苗を作り、田植えをするというのが、植物本来の形には見えなかったからである。自然農法と名乗りながら、田植えをする川口由一さんの本を読んで、どこか自然農法と名乗るのは違うような気持ちを抱いていたと言うことがある。

 直播きと言っても、いくつかの方法がある。乾田直播、湛水直播、折衷直播など様々な方法があるが、私は折衷直播きの30センチ角蒔きの方法を行っている。小田原と石垣と言う環境や土壌がまるで違うところでやってみて、成功しているから、大抵のところで可能な方法だと思われる。

 収量については、土壌が良くなるまでの間は直播きの方がむしろ多いという結果が出ている。それは田植え方式であると、どうしても苗作りが大変になるので、1本植えになる。田植え方式の土壌の出来上がったイネ作りは総合的に見ると一本植えが良いのではあるが、欠株の補植や、田植え著語の強風の被害など、障害が起きやすい。

 結果として一番省力的な農法が、直播きになる。しかも自然のままの栽培だから、田植えによる移植という稲に負荷を与えることがない。しかし、直播きは特別な技術が必要になることもある。雑草との兼ね合いや、鳥害は上手く避けなくてはならない。種まき時の土壌の状態や蒔く種の発芽の状態も難しい。

 一般にドローンなどを使う大規模農業の直播きは、大量の除草剤を使う農法になる。直播きの方が環境汚染を引き起こしやすい問題点がある。岡山県は直播きが多くて、問題が起きているという話を聞いたこともある。稲の種子が発芽して一ヶ月ぐらいの間、雑草が生えてこない状態を作る。そうしないと稲が草に負けてしまう。

 行っている折衷直播き法はもちろん自然農法である。JAS有機基準よりも徹底している物になる。自給用のものであるので、有機基準の認可は受けない。有機基準の制度そのものが納得も行かない、と言うこともある。国が制度を推進しているのに、認証費用が必要というところがおかしい気がする。

 問題になるのは雑草はコナギである。コナギは小田原にもあるし、石垣にもある。中国でも見た。イネ作りではコナギを入れないことが最大の目的である。ヒエについては8センチ以上の深水で防ぎきれる。コナギを防ぐ方法はアカウキクサによる抑草を今は試みている。

 ジャンボタニシでも完全に抑えられる。昨年石垣島で2期作期間だけ、イネ作りを行った。お借りした田んぼにはジャンボタニシがうじゃうじゃいたが、稲が食べられるようなことはなかった。ジャンボタニシの被害に遭うのは水管理が十分でないからだと思う。
 
 ジャンボタニシは集めて食べていた。食用で日本に導入された物と言うだけ在って美味しかった。水管理のやり方次第である。このことを回りの農家さんに話したが、少しも信じて貰えなかった。目の前で実際を田んぼを見て貰っても、信じたくない物は信じられない物なのだ。

 草の出やすい田んぼでは、直播きは除草が大変になる。そこで田んぼには雑草を入れない。直播き云々以前に、田んぼに雑草を入れないというのは重要な要素だ。簡単に言えば、出る雑草は一本残らず取ると言うことだ。一軒の自給は60坪で可能だ。60坪の小さな田んぼであれば、草を取りきることが出来る。取り切っていれば、草は出なくなる。

 のぼたん農園の農法は初めての子供でも、経験の無い年寄でも可能な、楽で簡単な方法にできる限りしている。そうでなければ、自給の田んぼの壁が高くなるからだ。田植えよりも、種まきの方が簡単というところがよい。体力もいらない。根気もいらないという誰にでも可能な技術の確立を目指す。楽しいイネ作りである。

 直播きの手順。まず前年のイネ作りが終わったら、荒起こしをして、すぐに代掻きを行い、10センチ程度の水を張っておく。通年通水が石垣の土壌では良い。土壌が通年通水しても緩くならない。そして、石垣であれば、12月に種まきをする。小田原であれば、5月に種を蒔く。石垣で早く種を蒔くのは、早く播けば台風に遭わないですむからだ。

 稲刈りのあと何もせずにそのまま水を張って置いた田んぼの代掻きを10月から始める。二ヶ月在れば、出ている稲などは、種まきに問題がグタグタな状態になる。石垣の気候は何でも分解が早い。11月の半ばに堆肥をれて、水をひたひたぐらいにして代掻きをして田んぼを平らにする。平らである事が、直播きには重要になる。

 12月に入ったところで、種まきの2,3日前に水を抜いて、田んぼに30センチの格子状の線を引く。格子の真ん中か交点か、どちらかの方法で種を蒔く。線を踏まないようにと指示した方が上手くゆくので、交点に播くのが普通。成れた人なら、線など無くても、播くことは出来る。しかし、初めての人にもやってもらいたいので、線は分りやすく引く。
 
 種籾は3粒前後播く。そのくらいが泥で汚れた手でもつかみやすいからである。1粒でも10粒でも問題は無い。結果はほとんど同じである。重要なことはしっかりした30センチ格子に発芽させることである。泥のついた手で種がつかみにくいので、タオルで手をふきふきやるといい。

 代掻きの終わった田んぼの中を歩くというのが大変なことになる。そこでせめて長靴くらいで歩ける土壌の状態にしたい。乾いてしまうと水が溜まらなくなり、まずいので天候にもよるが、水を抜いて3日目か4日目ならば、何とかなる。もし乾いてしまえば薄く水を入れれば良い。

 種を蒔いた直後に大雨になってしまったことがあるが、発芽には問題が無かった。何故問題が起きないかと言えば、発芽させた種を蒔くからである。普通の直播きは乾いた種を蒔いている。だから発芽まで時間がかかる。ドローンなどで播くなら、乾いている状態でなければ扱いが困難になる。

 しかし、手で播くのであれば、発芽させた種籾を蒔くことが出来る。発芽させた種籾であれば、少々泥に埋まっても問題が無く成長してくれる。種籾が発芽するためには、酸素が必要である。浸種して、鳩胸状態よりも進んだ種を使う方が良い。

 芽が一日も早く延びることが、様々な問題を取り除くことになる。播いて3葉期になるまでの時間が短いほど、鳥害やネズミの害などに遭いにくいことになる。発芽したのであれば、なるべく早く水を戻してゆく。水が戻るとネズミは来なくなる。

 ある程度の被害は覚悟して、補植のための苗を他に準備をして置く必要がある。一カ所苗床を用意して、苗代でも苗を作っておく。そうすれば、被害が生じても対応が可能になる。苗代の田んぼは苗代が終われば、一本植えの田んぼにする。種籾をとるには一本植えでなければだめだからだ。
 
 
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「良寛」立松和平著を読む

2022-11-08 04:49:26 | 


 立松和平氏は道元禅師を書いた。引き続きが良寛という本を書いた。道元の示した生き方を体現した人が良寛である。と立松和平さんは考えたので、良寛を書きたかったと言っている。ちょっとその感覚には驚きがあった。まさかのことである。

 そうだとすると、立松和平はやはり道元の正法眼蔵を読み切っていないと言うことだなと想像して、良寛についても読んでみることにした。良寛も道元に至ったつもりは無かっただろうし、道元が直接の師匠ならば、良寛は破門されている。破戒僧が悪いと言うことでは無いが。

 良寛と道元は本質的に僧侶としてまるで違う体質の人だ。対極の位置に立つ人だ。道元禅師は文化人的ななところなどまったく無い人だ。修行一本槍の狭い鋭い人だと考えている。ひどい想像かも知れないが、発達障害をもった天才ではないだろうか。到底人間が同じように生きることは不可能と思えるような徹底した人だ。

 良寛はどちらかと言えば、いかにも人間性の豊かな文化人だ。その書を見ればそのことが分かる。書のすばらしい人だと思う。書はこのように普通に自然に書く物だろう。私は絵をそういう物だと思っている。漢詩を書いたり、和歌を書いたり、沢山の書も残している。

 そういうことを行ってはならないと、道元禅師は繰返し書いている。ただ不思議なのは、何故正法眼蔵を残したのかという点である。正法眼蔵がなければ、道元は存在もしないだろう。菩提達磨のように伝説の人になったかも知れない。
 
 二人の繋がりはどこにも感じられなかった。良寛は良寛である。道元は道元である。道元の思想を体現した人がいるとすれば、その人は必ず無名の修行僧のはずだ。人の前に現われることなど無い人だと思う。たぶんそういう人はかなりの数存在する。見たような気がしている。

 しかし、外界に表現しない人なのだから、他人には分からない。一切世間とは関係しない人と言うことになる。では道元禅師は何故、正法眼蔵を書き残したのかと何度でも思う所だ。しかも、顔の洗い方から、手ぬぐいの使い方。歯のみがき方まで細かく指示をしている。なんで他人にそんなにこだわるのだろうかと思う。異様な感じさえしている。

 良寛は江戸末期の曹洞宗の僧侶である。新潟の人だ。1758年生まれ -1831年遷化された。200年ちょっと前の人である。父親と弟が自死している。母親も早くなくなる。弟の継いだ庄屋も取り潰される。

 生きることの厳しかった幕末期を托鉢行で生き抜いた人だ。当時、良寛が評価された理由は文化人としてなのだろう。江戸時代という時代は治部煮文化人が評価された珍しい時代なのだ。

 良寛の墓には自作の漢詩が彫られている。その訳文はおもしろい。
今、僧たちは仏弟子と称しているが、僧としての行い(衆生済度の行動)もなく、悟りを求めることもない。
ただ檀家から受ける布施を無駄遣いし、身、口、意のすべての行為を顧みることもない
寄り集まると大口をたたき、旧態然のまま日を過ごしている。
寺の外に出ると、悟りきった顔つきで農家の婆さん達をだましている。
そして「私こそ修行を積んだ力量のある僧である」と高言する、ああ、いつになったら眼がさめるのだろう。
例え、子持ちの虎の群に入るような危険に身をさらされようと、決して、名誉や利益への道を歩いてはいけない
名誉や利益の念が少しでも心にきざしたら、海水のような無尽蔵の量を注いだとしても、なおその欲望は満たされない。

 こんな詩を書く人と、何故道元禅師が重なるのだろうか。その当たりを立松和平は何故掘り下げなかったのだろう。結局の所道元禅師のことを理解できなかったのではないかと思う。正法眼蔵を何度も熟読したと言うが、それならば何故良寛になったのだろうか。

 道元禅師であれば、他人のことなどどうでも良かったはずで、にもかかわらず他人の修行を指図した人だ。仏教界のくだらない人のことどころではないほど、自分の修行に邁進した人である。他人には無関心で、自分の詩的世界、哲学的世界に思考を巡らせ続けたのではないか。

 道元禅師には良寛のように子供と遊び暮らせる余裕など全くなかったと思う。良寛と対極にいるのが道元禅師だと私は思う。良寛のすごさは修行に明け暮れた上で自然体に戻れて、文化人になったところだろう。托鉢行で生きると決めたわけだが、道元ほど厳密に自分を律するような所は無い人だ。

 托鉢行にさえこだわりの無いところが、むしろ良寛のすごさだと思う。托鉢に出掛けたはずが、つい子供と手まりを突いて遊んでしまう。最も大切な行に生きるということすら、子供との遊びにかまけてしまい、こだわるところが無い。そんな風には生きることが出来ないものだと思う。私なら絵を描きに行って、子供と遊んではいられない。

 現代で言えば、故郷の知り合いの中で、路上生活をしているのがすごい。生まれた場所でネットカフェー生活をしていると言えば良いのか。そうでありながら、純真で天真爛漫で、ごくごく真面目で素朴な人。

 それは良寛の書を見れば分かる。付き合いやすい人だったと思う。近所のお百姓さんと割り勘で酒を飲んだという、ずいぶん良い酒飲みだったそうだ。偉い坊さんのような側面は見せることが無い。

 立松和平がほとんど触れなかった。良寛晩年の貞心尼との関係はどのように考えれば良いのだろうか。貞信尼は「きみにかくあひ見ることのうれしさも まださめやらぬ夢かとぞおもふ」 と初対面の歌を残している。

 以下臨終に際して良寛が貞心尼に送った歌。
 形見とて/何か残さむ/春は花
 夏ほととぎす/秋はもみじ葉
 うらを見せ/おもてを見せて/散るもみじ(良寛)
 貞心尼は良寛の遺した歌を集め「はちすの露」という良寛の歌集を自ら編み、残すことになる。

   生涯身を立つるに懶(ものう)く 騰々 天真に任かす
   嚢中 三升の米 爐辺 一束の薪
   誰か問はん 迷悟の跡 何ぞ知らん 名利の塵
   夜雨 草庵の裡 雙脚 等閑に伸ばす

    かぜまぜに 雪はふりきぬ
   雪まぜに 風はふききぬ
   うづみびに あしさしのべて
   つれづれと草のいほりに
   とぢこもり うちかぞふれば
   きさらぎも
   ゆめのごとくに すぎにけらしも

 良寛という人は江戸期の日本人中の最高の文化人である。その評価と僧侶としての良寛は又違う良寛から学ぶことと言えば、絵を描くと言うことは、絵描きの絵になってはならないと言うことだ。良寛はいわゆる坊さんのような僧侶では無い。良寛という仏教を貫いたひとだ。反道元禅師である。

 
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のぼたん農園の2023年の稲作の計画

2022-11-07 04:42:28 | 楽観農園


 のぼたん農園は始めて、10ヶ月が経過した。あと2ヶ月で一年目が終わる。今年は、12月3,4日に種まきをする予定を立てた。種播きに向けて、田んぼの準備を進めている。荒起こしが終わり、代掻きも2回はすべてに行った。

 種まきまでの予定。
 種籾を準備する。2キログラム。予備2キログラム。「とよめき」と「ゆがふもち」沖縄奨励品種の餅米
11月18日までに担当田んぼごとに石拾いと、草刈りを完了する。田んぼへのよみがえり堆肥を入れる。3袋。
19日20日 最後の代掻き、田んぼの間の水路の整備も行う。入水口や排水口の調整も行う。
28日 種籾を溜め池からの水が流れている所にバケツを於いて種籾を漬ける。
30日 田んぼの入水をとめる。排水口をすべて開く。
12月2日 田んぼ線を引く。
3日 朝から、できる限り直播きを進める。目標は田んぼ半分が終わること。
4日 引き続き直播きを行い。すべての田んぼが終わるように進める。終わったところから、紐を張る。
5日 終わらなければ引き続き直播きを行う。水をすこしづつ入れ始める。天候により違ってくる。

 周辺の草刈りももう一息という所まで来た。今年はすべてを直播きでやるので、残る作業を整理した。残る作業で一番重要なことは石拾いである。代掻きしていて、石が驚くほど多い。今までの所はまだ田んぼの形が出来ただけで、田んぼの土壌にはなっていない。

 2022年の田んぼは形が出来たので、とりあえず種を蒔いて、田植えをして進めた。形だけでも出来れば良いと思い暫定的にやってみた。案外によく出来たので、むしろ意外で驚いた。田んぼとしての条件があると言うことが確認できた。

 まだ始めて10ヶ月しか経っていないわけだ。それで2回目の田んぼになる。さすがに石垣島の田んぼは進行が早い。この間ひこばえ農法や、アカウキクサ緑肥の実証実験も出来たのだから、10ヶ月で学んだことは多い。

 これからは、少しずつ良い田んぼにしてゆくためにやるべき事をやりたい。石拾いの次は水漏れカ所が無くなるようにしたい。畦直しをする。畦の低くなったところを盛り土する必要もある。また、畦塗りも道路際だけは行い、渇水期に大切な水が無くならないようにしたい。

 このところ雨が降り続いているので、水は満水である。水が十分に在る間に、代掻きを十分に行う。すでに3回は各田んぼ行っているので、この点は良い所まで行って、去年より水の減衰が少ない。そして、田んぼを平らにする。田んぼの均しは20日までに終わりたい。

 12月3日に種まきをするためには、種籾を28日には浸種を始めなければならない。ため池から湧き出ている水を一度バケツに受けて、そこに種籾を入れておくことにする。丁度小田原に行っているときなので、準備をして置いて溜め池に入れるのはお願いすることになる。

「とよめき」を作付けするつもりである。とよめきがよいのかどうかまだ決定には至らないが、一応去年の経験があるので、ある程度石垣でも栽培可能な品種という安心がある品種だ。品種については今後も検討して行くことにして、二年目もとよめきで行くことにする。

 残念ながら、台湾のお米が特別許可が無ければ持ち出せないことが分かったので、日本のお米の中から選択するほか無い。日本の熱帯化の中で暑い気候用の品種が無いのは、かなり残念なことだ。沖縄県でやったらばいいと思うが研究者はいないのだろう。

 11月18日までに各田んぼに堆肥を入れる。堆肥を入れて、20日に最後の代掻きをして、均しをする。余り平らにならないようなら、ガードレールを使いたいが、無ければ、18日までに借りてこなければならない。

 12月3日に種まきをすると言うことは、11月30日に田んぼに入る水は止めなければならない。
 10月30日にすべての田んぼの水を止めて、排水口から水を抜く。
 1日に田んぼに鳥よけの杭を打ち、種籾が蒔かれたならば、すぐ紐を張れるようにする。
 2日に田んぼに線を引く。引ければ1日から線引きを始める。
 すべての田んぼに30センチ角の線を引かなければならない。
 3日は朝から、できる限り播種をする。半分が終わるのが目標。
 子供でも出来る種まきにしたい。以下準備と注意点。
〇田んぼは長靴で入れるぐらいの乾き具合が目標。
〇田んぼによって乾きが違うだろうから、乾いている田んぼから播き始める。〇短い横方向に播く。線の交点に播いてゆく。
〇播種する籾の数は3粒程度。多くてもかまわない。
〇線を踏まないようにする。
〇人によって一列でも良いし、5列でも多く蒔ける人は播いてゆく。
〇蒔き終わればすぐ梱包の幅広の紐を張り巡らす。高さは30センチ程度。バタバタ風にゆれて、鳥がしばらくは近づかない。3週間近づかせないことが目標。
〇天候や状態にもよるが、できるだけ早く水を戻す。
〇溜め池周囲の草も完全に刈る。鳥の隠れ家になっている。

 4日にはすべての田んぼで播種が終わるように進める。終わらなければ、引き続き5日も続ける。播種が終わった田んぼから、紐を張る。コンポービニール紐と紐を止める棒を準備。

 田んぼの準備と同時に、ユンボ作業も進める。ユンボは今日借りられる予定。
1,溜め池を作る。4つ候補地がある。
〇東の沢の一段上の土地に溜め池が作れないか。4番田んぼに入る水位。
〇一番溜め池を広げることが可能か。田んぼのままに行くか検討。
〇沢の一番下に溜め池が作れないか。
〇水牛放牧地の窪地を溜め池に出来ないか。
2,道路を平らに整地する。草を取り除くことと、傾斜を直すこと。
3,麦畑を整地する。その土の移動。
4,田んぼの間の畑を土を運び平らにする。
5,7番田んぼの下に新しい田んぼを作る。
6,放牧地の良くない草を取り除く。


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第134 水彩画 日曜展示

2022-11-06 04:37:24 | 水彩画
第134 水彩画 日曜展示

今回も10号前後の作品です。





962「名蔵アンパル」
2022.11






963「医王山の田んぼ」
2022.11





964「のぼたん農園」
2022.11





965「篠窪」
2022.11





966「紀伊の漁港」
2022.11






967「花咲くのぼたん農園」
2022.11






968「海」
2022.11






969「名蔵田んぼ」
2022.11






970「のぼたん農園」
2022.11






971「岬の家」
2022.11


 色々の描き方をしている。意識しているわけでは無い。描き始めてその時そうなったと言うだけのことである。なんとなく始まり、描くことに集中している間に、気付くとそのように描いていると言うことになる。

 良くなることもあるし、だめなときもある。まったく絵を描けない日は少ないのだが、おおよそ日々の1枚になる。10号ぐらいだと日々の1枚よりは多くなり、中判全紙だと一枚描けないことも多い。このくらいの描く早さで良いとしている。

 色も随分変わる。紙が違うと言うこともある。色々の紙を使っている。紙によって描き心地が違うので、絵が違って行くと言うこともある。途中まで描いていた絵を描き継ぐことが多いので、絵がその日によって変わると言うことになるのかも知れない。
 
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Jアラートの不具合

2022-11-05 04:32:14 | Peace Cafe


 北朝鮮がミサイル3発を発射したとして、Jアラートを発令した。そして、日本上空を通過して、太平洋上に落ちたと発表をした。ところが、この3発はICBMではなかった。ところが同時もう一つICBMが発射されていた。このミサイルは実は日本海に落下していたらしい。

 日本海に落ちたにもかかわらず、こちらは日本を通過して、太平洋にすでに落下したというJアラートが出たわけだ。日本海にすぐ落下したと言うことがあとになって判明した。日本のミサイル防衛システムの不具合を世界にさらしたことになる。

 前回青森県の上空を通過したときは、Jアラートが発せられたときにはすでに、青森県を過ぎて、太平洋にまで行っていたとされた。要するにJアラートは機能していないと言うことが明確になった。日本にはミサイルの発射を正確に捉える能力はまだ無いと言うことだろう。

 機能していないにもかかわらず、避難を要請して、列車は止まることになる。何という迷惑なことだろう。国民に迷惑をかけているにもかかわらず政府のコメントでは、謝罪の一言も聞かなかった。聞き逃したのだろうか。日本の防衛能力はこれほどに低い物だ。

 これでは敵基地先制攻撃というのはどこの判断で行うと言うことになるのだろうか。たぶんアメリカ軍が北朝鮮が、あるいは中国が、日本に向けてミサイルを撃とうとしているとか教えてくれると言うことになるのだろう。外国の発言に基づいて、日本が先制攻撃をすることになるのか。

 アメリカが間違っていて、日本が反応してしまい敵基地を攻撃してしまえばどういうことになるのか。日本のように平和主義で行く国こそ、どこの国よりも情報収集は進んでいなければならない。ミサイルの発射ぐらいたちどころに分かるので無ければ、平和主義国家は維持できない。

 これはミサイル防衛という物が無理だと言うことを表している。こんな状態では、飛んでくるミサイルを打ち落とすことなど、先ずは無理だろう。日本のミサイル防衛システムの見直しを早急にすべきだ。東北三県にはすぐ避難しろという指示がなされた。

 頑丈な建物か、地下室である。それが無い場合は家の中にいて、窓から離れろとかなり緊張した指示が出された。Jアラートでは政府が隠れるべき指定の場所の指示があるらしい。そんな場所を知っている人がいるのだろうか。私は知らない。

 こんかいのJアラートでそこに逃げ込んだ人はいたのだろうか。まずいないと考えて良いのだろう。日本の防衛システムはシステムとはいえないほどお粗末な物なのだ。先制攻撃ミサイルよりも、まずは飛んでくるミサイルを捕捉する為のシステムをまともなものにしなければならない。

 政府指定の避難場所に逃げ込むなどした人がいるはずが無い。Jアラートの脅しは繰り替えさえていて、馬鹿馬鹿しいだけだ。何故こんなことをやって、日本の防衛システムの弱さをさらさなければならないのかと思う。何か茶番のような感じなのだが、戦争ごっこを自衛隊がやっていると言うことか。

 やたらに警報を発して、日本の再軍備意識を高めようと言うことが一番近いような気がする。北朝鮮の暴挙と言うが、日本だって大陸間弾道弾と匹敵するロケットの打ち上げを繰り返している。これに爆弾を乗せれば、ICBMと何も変わらないと言うことになるのだろう。

 日本が打ち上げれば、平和のロケットで北朝鮮のロケットはICBMというのも何か変な気がする。日本もスパイ衛星は結構打ち上げている。そんなことは改めて言わないだけである。日本のミサイル防衛も茶番のレベルに違いない。

 北朝鮮は潜水艦から撃ち出せるミサイルを確立しようとしている。これが出来たら、アメリカのそばまで行ってミサイルを撃ち込めると言うことになる。ミサイル防衛がかなり変わると言うことになる。当然日本にもそういう考えがある。

 その前にまず正確な情報の把握が出来るシステムを確立しなければなら無い。平和国家はまず情報把握能力を高めなければならない。敵を知り己を知ることで、戦争にならないことが多いはずだ。ロシアはウクライナのことを把握しているつもりが、少しも分かっていなかったから、戦争を始めたのだ。

 今のロシアの状況に陥ることがわかっていて戦争は出来なかったはずだ。アメリカやNATOので方についても判断ミスがあった。中国がもう少し援助をしてくれるかと考えたのかも知れない。北朝鮮とかイランはロシア支援をしているようだ。

 日本の安全保障全体を見直すべきだろう。
1,自衛隊は敵基地攻撃可能なミサイルを持たないと言うことが、日本の安全には重要になる。日本が攻撃できないという前提こそ、重要になる。
2,次に重要なことが敵の撃ち出したミサイルが日本に届く前把握できるシステムの構築。
3,専守防衛のための武器の開発。
4,避難計画の実現可能な形の具体化。
5,食糧自給輸率の向上
6,エネルギー自給の確立。

 敵基地攻撃など、日本の安全保障には害があるばかりで、何の益も無い。日本は他国を攻撃する武力が無いと言うことが、日本の安全に繋がる。台湾を攻撃するのに日本は無視して置いても大丈夫だという状態の方が安全なのだ。まず日本を叩いてからと考えないようにしなければならない。

 台湾の国家統一の問題は一義的には平和的に行うと習近平も発言した。台湾を攻撃させないためには、日本も平和的な統一のために力を貸すべきだろう。中国が独裁国家で無くなり、民主的な国家になれば、自ずと台湾も一緒になりたくなるだろう。

 中国人はロシア人よりも賢い人達だと思っている。今経済が上昇中だから、習近平に対する批判が出ていない。中国の経済成長は素晴らしいことだ。日本も見習うべき点が沢山ある。中国批判ばかりしている内に日本は先進国から脱落しかかっている。

 中国が悪くならざる得ない原因の一つがアメリカの姿勢だ。アメリカが中国と協調するようになれば、世界も大分安定する。平和国家である日本は平和を求めて行動を始めるべきだ。茶番のように見えても努力するところからしか平和は来ないだろう。

 まず、資本主義競走から抜け出ることだ。日本は日本という国家として、日本列島で自立した国家を作る。他国に一切依存しない国家になることだ。日本人が幸せに暮らせる事を第一義として、競争主義から抜け出すことしか日本の安全保障は無い。

 世界は不安定化が増している。このまま進めば、世界が終わってしまうような危機が近づいている。日本は方角を変えて、真の平和国家を目指すことだ。現状では様々な困難が周辺に起きているので、軍事的対応も必要だとは思う。しかし、将来の平和国家の方角を国民の合意形成をする必要がある。

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台湾侵攻が今年中にあると主張している自民党議員。

2022-11-04 04:01:03 | Peace Cafe


 中国台湾侵攻が今年中にあると主張した自民党議員がいる。あり得ないことだ。安倍氏の弟の岸信夫議員や青山繁晴議員である。アメリカの軍人の主張の尻馬に乗って発言しているのだ。アメリカを忖度して発言しているともいえる。自民党に多いえせ右翼の人達だ。

 もし台湾侵攻があと2ヶ月なかったときにはデマを流したということで議員辞職してもらおうじゃないか。石垣島に暮らしているものにしたら、はた迷惑な深刻なデマと言うことになる。あり得ないデマを流すことは生活に不安を与える騒乱罪があたるのだろう。

 ここ数年の間には台湾侵攻はあり得ない。断言する。もしあったら議員辞職しようじゃ無いか。議員では無かったか。台湾有事が近いと騒いでいるのは、日本の再軍備推進議員である。普通の国になろうという議員達である。日本は普通の国では無く、特別の平和憲法を持つ世界で唯一の素晴らしい国であると言うことを忘れては成らない。

 日本の平和憲法は世界の希望である。攻撃的軍事力を持たないで、平和を75年維持できた。特別な国なのだ。先ずは100年を目指そうでは無いか。もちろんアメリカの核兵器の傘の下に隠れて平和を維持できた側面もあるが、日本国平和憲法がある事によって、戦争に参加を控えたと言うことも大いにある。

 もし敵基地先制攻撃兵力を保持するとなると、状況は大きく変わってくる。日本が他所の国の脅威になる。脅威になれば相手方も先制攻撃を加えようという話になる。軍事力はいたちごっこなのだ。常に相手よりも強くなろうと言うことになり軍事競争になる。

 必ず核兵器の保持にまで話が進んでゆく。平和憲法を持つ日本が崩れてゆく。世界の希望も失われる。自民党では平和憲法を間違っているとして、変えようとしている。国会における員数的な客観情勢は熟しているのだから、いつでも開始しかねないわけだ。国民投票では跳ね返さなければならない。

 ウクライナ侵攻がこうした日本の軍事派に勢いを付けている。こういう問題が起きたときにこそ日本は平和的手段を持って国際問題の解決にあたると憲法で決めてある。日本は再軍備するのではなく、平和的手段を先ずは模索することだ。何もしていないでは無いか。

 話し合いが持たれることなく、軍事侵攻するほど、習近平は狂ってはいない。狂気のプーチンですら、まず話し合いをしようとしていた。今もってロシア国内から反戦のうねりが起きないという意味で、世界中がロシアという国を読み違っていたのだ。

 ロシアが侵略戦争を始めなければならないほど、追い込まれていたとは思わなかった。そう考えなかった理由はロシアには世界の情報がもっと入っていてl、世界情勢を知っていると考えていた。報道の自由も中国ほど制限されていないと考えていた。世界を知っていれば、まさか軍事侵攻は無い考えて普通だ。

 ところがプーチンもロシア人も不安意識が高まり追い込まれていたのだ。そのことに気付かなかったことが問題である。だからこんな馬鹿げた侵略戦争でも、ロシアでは反戦の空気は産まれないのだ。日本にとって最重要な国、中国はどうだろうか。中国を追い詰めているのはアメリカである。アメリカの焦りだろう。
 
 アメリカはウクライナでの戦争に軍事物資で参加している。軍事物資提供にはアメリカの代理戦争という意味もある。ヨーロッパ各国も軍事物資の提供や兵隊の訓練という形で、ウクライナの防衛に参加している。ロシアにウクライナが負けたらば、次は我が身という不安がヨーロッパ諸国にはある。これは現実で台湾侵攻どころではない。

 軍事物資提供の代理戦争で何とかロシアを止めて、ロシアが敗北することだけが自由主義諸国の今の目標だろう。それは日本にとっても重要な選択になっている。世界が不当な侵略戦争になれば、一致団結して、侵略国を許さないという結果をウクライナで残さなければならないからだ。

 中国は自由主義諸国の連帯を見ている。どこが弱いかを見ている。特に経済制裁の実効性を見ているはずだ。ロシアよりも中国は経済封鎖には弱いはずだ。食料もエネルギーも輸入国である。ある意味戦争がしにくい巨大国家なのだ。中国は侵略戦争をする情勢では無い。しかし、狂気になるほど追い詰められれば別だ。

 日本は敵基地先制攻撃基地を沖縄列島の各島に配備しようとしている。自衛隊基地はほぼすべての島に作られた。すでに島嶼防衛の日米協力という形で、自衛隊基地のアメリカ軍の共同使用が言われている。沖縄の米軍基地の軽減が、自衛隊基地建設に置き換えられているのだ。

 こうした米軍基地の建設の自衛隊という名の代替行為は極めて危険なことになる。もし自民党の軍事族の主張するように、台湾軍事侵攻があるならば、米軍の駐留する自衛隊基地に当然先制攻撃を仕掛けるだろう。まったく無意味に石垣島の危険を高めている。

 石垣島は防人の島では無い。米軍の最前線基地では無い。中山市長ですら、米軍の共用は無いと主張していた。まったく空言である。基地が出来るまでのごまかしである。基地が出来れば、日本の本土の安全の為に、石垣島の基地に米軍に駐留してもらおうという話に必ずなる。

 それはすでに米軍の指示に従って進んでいることだ。アメリカは中国の拡大を抑えたいと考えている。それはアメリカ本土の安全保障である。沖縄台湾は対中国のアメリカの前線基地なのだ。沖縄が火の海になろうと意に介さないだろう。

 ここで中国を押え込んで、アメリカ本土の安全を守ろうという作戦である。アメリカにとっては日本を焦土作戦の場所にしたところで問題が無いのだ。その尻馬に乗せられている自民党軍事族の情けなさを痛感する。日本の右翼は愛国主義者では無い。

 先日の習近平の3期目就任の時の長い宣言文でも、台湾併合は平和的手段で行うとしている。ただし、軍事的手段は放棄はしないという言い方である。先ずは平和的手段がパイナップルのいちゃもんである。そしてバナナのいちゃもんである。何とも情けない。

 中国はプーチンから随分学んだはずだ。中国はロシアとは違って資源大国ではない。戦争を始めれば、ロシア以上の経済的ダメージがあるはずだ。中国で習近平が支持されているのは経済的な成長の恩恵である。自由は奪われて息苦しいが、なんと言っても生活を楽にしてくれているのだ。これが無くなれば話は違うだろう。それが中国人だ。

 
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半眼について

2022-11-03 04:45:19 | 水彩画


 半眼というのは余り適切な言葉ではないと思う。他の言葉を探せば、空眼の方がまだ近いような気がする。半眼とは座禅の時の眼の状態のことを意味している。仏像の多くの目は半眼だと言うことだ。薄く瞼を開いて、少し前の床当たりに視線を落としている状態。

 半眼の理由として、一般的に言われていることは外の世界と内の世界を同時に見ることだという。私の解釈としては、目には移っているがそれを意識としては見ていない状態が半眼だと思っている。半眼は分りやすいことだが、5感すべてを半眼状態にするのが空の状態。
 
 唯識では眼・耳・鼻・舌・身の五つの感覚器官に加えて、意も加えて六番目の感覚器官とする。目は機能としては外界が映っているのだが、見てはいないという状態である。耳には音が聞こえているが、聞いていない状態。鼻は匂いを感じているが、匂いを感じていない。

 意は心があれこれを感じているが、その感じていることを意識していない状態。座禅では我が身を空洞にするのだから、あらゆる感覚器官が機能はしているが、どの感覚にも意識を集中周させて活性化させることが無い状態を保つ。私には出来ないが、そういう物らしいと言うことは知っている。

 目が物を見ているのに、何であると言うような意識はしないと言うことになる。鐘の音が聞こえているのに、何の音がしているのかと言うことは意識しないと言うことになる。感覚に通り過ぎるすべてを通り過ぎるままにして、あらためて何であると言うような、リカするような意識はしないという状態。これを半眼は象徴している。

 中でも最も重要な物が心の動きである。意の動きを空にすることである。すべての心に浮ぶ物が通り過ぎている。が、それを意識して思考するようなことが無い状態。心に浮ぶ物を浮ぶままにして、どのこともを考える対象にしないこと。そう考えて努力をしてきたが。なかなか難しい。

 そこで私は半眼ではなく、眼を閉じて動禅をしている。これは半眼に至る過程だと思って眼を閉じている。いつかは半眼でやろうと思う。太極拳に於いては、重心の移動がとても重要になる。重心の移動を目を頼らずに行いたい。足を上げて均衡をとるときも、目に頼らないで行いたい。

 無意識に目を使ってついバランスをとるだろう。無意識であってもそれをしないようにと思っている。それが空の状態だと思うからだ。それが出来るようになるまで、眼を閉じて行うほかないと思っている。太極拳は半眼で行うのが動禅であれば本来である。

 身体の移動自体を無意識に行なわなければならない。そして三半規管も使わないで、身体の安定を保てるようにならなければならない。出来るわけではない、いつか出来るようになりたいと思っている目標である。ただし、不十分でもかまわないと思っている。

 ヨガの系統の瞑想法の多くも眼を閉じて行うことが多い。その方が意識の集中できるからだろう。意識が何かに流されてゆくことを重視するようだ。音楽などを流して、その音に聴覚が集中するようにしているのかもしれない。ヒーリングミュージックなどという物がある。

 岡田式正座法では眼は軽く閉じて行う。父の方の母は大正時代肺結核になり、生死をさまよったが岡田式正座法をひたすら行い、完治したのだそうだ。正座をしていると力が足にこもってきて身体が跳ね上がってしまうらしい。静かに座っていることが出来なくなり、跳ね上がる。たぶんそれを空中浮遊というのかもしれない。

 それを抑えるのが座禅の結跏趺坐という足の組み方になる。座禅の形で身体が跳ね上がることはない。太極拳でも中国風の音楽をかけながら行う。この音楽を聴いていると、中国の太極拳は精神修養の意味は無くなったのだと言うことが分かる。

 座禅は意識を空の状態にするのだから、目も当然見ていて見えない状態の半眼と言うことになる。これは本当に難しい物だ。音は聞こえてはいるが聞いていない状態になれているので可能だ。目の方は人間は常に使っている。かなり頼って生きているといえる。それをどう放擲するかである。

 集中して考えごとをするとき、人は視覚を閉じている。絵を描くときも実は半眼なのだ。何かを見ているのではなく、何かが目に映る状態で、何も判断をせず、絵を描く状態。いつも絵を描くと言うことが中心にあるので、動禅を行うときも、絵を描くときに心の置き所を見付けている。

 風景を前にして絵を描いている。と言って目の前の風景を写しているわけでは無い。半眼で心に、あるいは脳に浮んでくる景色を描く。筆が作り出している風景に従っている。もちろん目に映る風景を写すことから始めることも多い。描いている内に、まったく別の物になることもある。

 目に入った一つの色から始まることもある。それを解釈しないで、黄色の色であればその黄色に従って描き始める。それが土であるとか、花であるとか、そういうことは考えない。海に映る月であるとかそういう解釈はしないようにしている。

 目は薄めにしているわけでは無い。はっきりと見開いて見ている。しかし、その視覚の置き所が解釈や、認識や、感じると言うことから、解き離れた物として、見ようとしている。ただ在るものを画面の上に作り出そうとしている。

 画面にはそ言う心の中のりかるかんが必要なようだ。絶対的に存在はしているのだが、それは心の中に存在しているだけで、眼前にあると言う、現実感とは違う。記憶の中の現実の深さ。見ている世界よりも、凝縮された世界が心の中に漂っている。

 心の中の無意識の記憶が絵に現われてくるように描いている。絵に塗られた色や形が、その心象風景のような物を引き出してくる。それが私の風景だと考えて描くことを繰り返している。未だその領域に進んではいない。あくまで目標としていると言うことだ。

 先日も小田原に行った時に篠窪に描きに行った。5枚も絵を描いたのだが、篠窪の絵は1枚だけだった。どの絵も実際にある風景であるが、その時見て描いたわけでは無い。見ている風景が心の中にある風景を呼び覚ましてくれているようだ。

 心の中にある景色を描く。それは心象風景と言われている物に近いのだろう。具体的にはシャガール絵とか、松本就介の絵もそんな感じがある。どことなくもの悲しさが伴うような場合が多い。私の心の中の景色はあっけらかんとした物だ。

 明るい楽観に満ちた絵だ。そうありたいと考えている。自分が楽観に満ちなければ悲しい絵になるだろう。世界は実に悲惨で悲しい物だ。だから心が悲しさで満ちてしまう。しかし、禅の向かう世界は希望の世界だ。世界が救済される姿だ。私はそういう絵が描きたい。
 
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円安と暮らし

2022-11-02 04:01:40 | 暮らし


 日銀は円安政策を進めている。果たしてこの先大丈夫だろうか。円安は何といっても大企業の為のものだ。企業が業績を回復しなければ、日本経済はさらに落ち込むという考えを政府と日銀が持っている。しかし、円安でなければ輸出が出来ないという日本製品では先行きは暗い。

 日本の金利だけが世界と較べて低いために、投資マネーが日本から海外に逃げてゆく結果となっている。その結果円安が進んでいる。かつての円安では日本製品が海外に不当に輸出されるというので、世界から批判を浴びた状態であった。ところが現状は世界は日本の円安を何故か容認している。

 つまり円安で日本製品が安く入ってきたところで、大した影響が海外ではないという程度に日本製品の影響力が落ちたのだろう。という事はもしかしたら円安ではなく、今のレートが日本の実体経済という事になるのかもしれない。そうかも知れないが、そうだとすればかなり深刻なことだ。

 円安誘導が不当に日本の利益になるという状況ではないという事だろう。海外生産に移行している産業も多い。何故日銀が0金利政策によって円安を必要に進めるかと言えば、企業が利益を上げられるようにするためだろう。企業が良くならなければ、日本が衰退するというのが、アベノミクスという政策である。

 確かに円安によって、企業収益は過去最高と言われるほど伸びている。円安は日本の企業全体から見れば悪いことではないのだろう。問題は円安で潤う企業がある一方、円安で消費者物価が上がり、生活が苦しくなっている状態である。アベノミクスは一部の富裕層だけをさらに豊かにする結果になっている。

 円安誘導を続けている日本銀行の黒田東彦総裁が「家計の値上げ許容度が高まっている」と発言して問題化して、謝罪することになった。貧困層の家計は相当に厳しくなっている。許容度はない。政府も緊急に10万円支給という事らしいが、これでは一時しのぎである。

 企業が潤ったとしてもなかなか労働者の賃金に反映しない。新しい製品開発にも回らない。企業は内部留保を高めて、身を固めてこの先の危機を乗り切ろうと考えているのだろう。企業だって危うい状況に違いない。守りに回っているという状態なのだろう。

 一般の人は生活が苦しくなる。自営業者や農業者はひどい状態にますます追い込まれる。それを仕方がないと容認しているのが、今の日銀と政府の方針なのだ。企業がだめになれば、日本がだめになるのだから、我慢してもらうほかないと言い続けている。アベノミクスはひどい経済政策である。

 果たして企業が良ければ良くなるのだろうか。問題の根本は新しい産業が創出できないという日本にあるのではないだろうか。幾ら円安誘導をして、現状の企業を潤わせたところで、次の新しい産業の展望が生まれてこないところに課題があるのではないのか。

 今まで比較的評判が良かった昔の絵を繰り返して描いている状態。過去の自分の絵を否定して、次の一枚にすべてをかけてみる。それでも新しいものを作るという事は難しい。今の状態を否定しない限り次のものは出てこない。これは極めて難しいことになる。

 どうしても今の延長上に今よりましなものがあると思いたい。今の絵を磨き上げることで、少しは良くなると思いたい。ところがこれではだめなのだ。いつも過去を振り払って、過去とは関連なく未来を切り開くつもりで絵に向わなければ、新しいものは出てこない。だめだと思うところに切り込まなければならないから苦しい。

 この絵を描くときの心構えが難しい。覚悟が必要である。今の私の絵なのだから、たいした意味はないのに、大したものなのだと思いたいという心理がある。客観的に見れば、大したことがないくらい分かりそうなものなのに、それが出来ないのが人間である。

 北斎は確かに死ぬまで挑戦し続けたのだが、技術という壁を抜けることがなかった。技術を高めることが、次につながると思っていたようだ。傍から見れば芸術における技術は、たいした意味がないくらい誰にでもわかる。技術は確立したうえで忘れなければならない。

  北斎ほど技術の高い人が、技術を忘れる所まではいけなかった。弓の名人が弓を見てこれは何に使うものですかと聞いたという。そこまで行かなければならないのが、芸術というものだろう。東洋の芸術の崇高さはその理論を越えたところにある。

 円安から話がそれたが、また舶来品の時代が来たという事である。外国人労働者ではなく、お抱え外国人様の時代になるという事である。もう一度基本からやり直すという事だろう。しばらくあまちゃんの時代が続いたのだろう。日本の絵画が世界に誇れる時代は明治の文明開化以降でもある。

 もう一度初めからやり直す時代に入ったという事ではないだろうか。この円安時代はそういう事を示している気がする。日本列島という災害は多いが、なかなか魅力的な島国でもう一度、日本人はやり直しなさいという事のような気がする。

 人はどこから来て何処に行くのか。そのことを思う。命は有限なものだ。人類という命も無限ではないのだろう。科学が進歩してむしろ人類の終焉が見え始めているような気がする。プーチンを見ていると、人間の狂気の方が、人間の英知を上回るようだ。

 欧米の自由主義が能力主義になり、国家資本主義との対立を生んでいる。国家というものが正しいものであれば、国家資本主義の方が優れている。習近平にはぜひその正しさを示してもらいたいところだが、今のところ悪い方向にしか進んでいない。

 共同富裕の思想をどう現実社会で実現するのか。新しい資本主義は国家資本主義の中にあるのか。中国が本当に農村部の貧困層を無くすことが出来るのか。重大な局面にある。今のところ、一時避難以外にない社会情勢ではないか。

 生活の自己防衛である。地方に移住する。食べる物を自分で確保する。若い人は新しい生き方を探す以外にない。都会でくだらない競争に巻き込まれれば、大切な時間を無駄にすることになる。自給的に生きれば、円安の影響は小さい物になる。



 
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高齢化社会と人口減少

2022-11-01 04:15:00 | Peace Cafe


 人口減少は続いている。まだまだ序の口である。一方で高齢化社会が問題となっている。これもまだ当分の間続く問題である。これからの日本の社会で生きていく者がどのように考えればよいのか重要なことだ。政府は少子化担当大臣まで置いて、人口減少を止めようとしている。

 高齢化は角期の問題である。子供が2人産まれる時代に戻れば、人口は安定する。高齢化は終わるという事になる。100歳を越える人が増えて年寄りが多くなったとしても、それは高齢化ではない自然な良い姿だ。今の日本は1.4人くらいだ。もう少し減少するまで、人口が8000~6000万人ぐらいになるまで、それでいいように思っている。

 たぶん国民の過半数の人が少子化は困ったことだと考えているのだろう。なんでも日本の先を行くのがアメリカだった時代がある。アメリカがくしゃみをすると日本が風邪をひくと言われたものだ。今日本の先を言っているのは韓国である。韓国を見ていると日本がこの先どうなるのかが見える気がする。

 ーーー 以下引用「出生率が変わらなければ、3世代のうちに韓国の人口は現在の6%になり、大部分が60代以上の高齢者になるだろう」という内容だ。 韓国の人口は、2020年を基点に減少し始め、2100年の時点で、現在の5,164万人から2,678万人まで減少する。


 韓国を日本に置き換えれば、似たようなことが日本でも起こる可能性がないとは言えない。韓国が何故これほどまでの人口減少が起きているのかを考えてみる必要がある。韓国の出生率は0.7日本の出生率は韓国の倍ほどはあって1.3~1.5 である。

 韓国で出生率の下がった一番の原因とされているのが、就職難である。日本の場合有効求人倍率は、継続的に1以上の水準を維持している。一方、韓国の場合、求職者数に比べて求人数が半分にも満たない状況が続いている 。0.5と言う状態が続いている。

 就職が出来ないから、就職年齢の上昇が起きて、大卒の新入社員の平均年齢が、30歳を越えているのだそうだ。これではやっと仕事を得て、結婚して家庭を持つという年齢が30代半ばになるだろう。就職難は極端な進学競争となり、結果として学歴社会がうまれ、社会の階層化につながっている。大企業と中業企業の賃金格差が2倍といわれるほど格差が大きい。

 韓国は日本をはるかにしのぐ競争化先端社会なのだ。 徹底した能力主義を行い、経済成長を遂げ、日本を追い抜いた分野が生まれたのだ。競争が激化して社会の階層化が極端に進んだ結果、少子化が起きた。競争には必ず、勝者の10倍以上の敗者がいる。

 自分の未来に希望が持てなくなれば、結婚して子供を産むなどと考えない人が増加する。能力競争がどういう事になるかの一例だろう。社会が義すぐすするのも当然のことである。そのはけ口が反日で、反日が一種の踏み絵になっている。

 韓国が日本と違うもう一つの要因は、極端なソウル一極集中である。その為地方の衰退がはじまっている。競争の激化が効率化を求め、ソウル一極集中を招いた。世界企業である数社のみが韓国の経済をけん引している。そこに就職できなければ敗者になる社会。

 翻って日本のことを考えてみれば。少子化を抜け出すには競争化社会を和らげて行けるかである。どうやって能力主義を抜け出すかにかかっているという事になる。競争の結論が出てしまえば、社会の活力が失われてゆく。競争が大企業への就職というように、単一化させてはならないという事だ。

 農業や肉体労働で生きてゆくことも夢があるという社会でなければ、少子化になってしまうということだろう。農家の嫁取り問題は少子化対策である。地方の衰退は若い女性が生まれた土地から離れてゆくところから始まる。

 大企業に勤めなくとも、普通に生きて行けるという環境がなければ、社会は活力を失う。日本でも地方が消滅しかかっている。しかし、まだ元気のある地方都市というものは存在する。地方都市の周辺が消滅の危機にあるわけだ。

 盛岡だって、金沢だって、名古屋だって独自の活力を持っている。地方で暮らして行ける形を作り出すことが、日本全体の為だという事を国民全体の合意として形成しなければならない。特に東京に暮らす人が、まずそのことを合意しなければならない。

 地方の暮らしは農業と結びついている。地方都市がありその周辺に農業地帯がある。ある意味日本の地方都市は機能としてバランスがとれている。地方都市が東京と経済競争しない形を見つけなければならない。生活のインフラ。教育の多様性。医療の充実。地方都市と、東京が競争しないで共存するのでなければ、韓国の後を追う事になる。

 日本の場合まだ十分に間に合う。東京に暮らす人たちが、日本には東京だけでいいというような考えを持たないことだ。世界と競争してゆくためには、東京一極集中の合理性はある。しかし、国の政策として日本全体に機能を分散することを、社会の安全保障として考えてゆく必要がある。

 気になるのは京都の人口減少が大きいことである。京都を文化都市として集中してゆく。東京にある機能を分散すべきだろう。京都の郊外に現在の国立博物館や国立美術館を移転したらいい。皇室も京都に戻られた方がふさわしいと思う。伝統芸能全般が京都で上演されるようになるといい。

 税金の都市集中がある。県民税は当然東京に集中している。ふるさと納税はある意味集中の緩和になっているのだろう。企業の地方分散にもっと力を入れてもいいのではないだろうか。地方都市ごとに特徴を決めて、移転費用など、政府が出してもいいのではないかと思う。

 日本全体が競争から、一人一人の暮らしの豊かさへ変わっていくことだろう。豊かな暮らしをすることで人間が育つ。都市ごとの教育も特徴を付けて、北海道ならば次の農業の先進地域になる。都会に勝る教育が地方の暮らしの中にあるという事を、見直す必要がある。

 東京で暮らしていたけれど、金沢の大学に行った。この4年間で得たものは生涯の方角を定めた。金沢に行って良かったと今でも思っている。地方の教育機関なら、大学寮の費用も無料で行けるというようなことを政府が考える必要がある。

 競争させなければ人間は能力を伸ばせない。これは間違った考えである。人間をもっと信頼することだ。人間は自由に生きるときにその能力を伸ばすことが出来る。自由主義とはそういうものだ。強制的ないやいやの競争の中で延ばせる能力は、自己本位の他人には迷惑なものばかりだ。

 金沢大学では稲作農家を支えながら、通っていた友人が何人もいた。その人たちから学んだものは実に大きかったと思う。金沢くらいの規模の街で暮らせた幸せを今でもかみしめている。今では大学が郊外に移転して残念なことになってしまったが。
 

 
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