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石垣島の1月

2018-01-17 04:03:20 | 石垣島

「冠ワシの来る田んぼ」朝7時30分で徐々に明るくなってきた。。 水が入り入り始めている。向かいの小高い丘の方から、水がわき出ている。木は琉球松の大木である。風が強いので大木は珍しいのだが、1メートル近くある木が描いている脇にある。

石垣島の1月は小田原の春。昨日は最低気温で20度で、昼間は24度あった。絵を描いていると暑くてシャツまで脱ぎたくなった。今回は冬を描いてみようと思っている。田んぼはもう水が張られているところがずいぶんとある。田んぼは田植えの準備に入っている。今年の書初めでは春夏秋冬と書いた。一年それぞれの季節の素晴らしさである。今回は設計の事務所と先生と石垣で家を作る打ち合わせもある。石垣設計室さんというところで今設計をお願いしている。石垣設計室さんはオープンシステムという事で家を建ててくれるそうだ。以前、小田原でも試みた、作り手の会と同じやり方のようだ。どんな設計の方なのかもわからないまま進めている。石垣に他に知り合いがいる訳でもない。乗り掛かった舟だから、このまま進めてゆくほかないという心境だ。基本設計は自分でしている。絵が書きやすい場所がほしい。今回は他のことはどうでもいい。がらんとした大きな空間の光の良いアトリエがほしい。

絵を描くのは今のところ田んぼのあたりの車の中だ。戻って絵を並べる場所がアトリエという事になる。後は年を取ってから困らないような家にしたい。小田原で少しオープンシステムと似たシステムにかかわった。設計の人、土木会社、建設業者、大工さん。そして、家を作ろうとしている人。家づくりにかかわる様々な人が、情報を共有化して対等の立場で、家づくりを行おうという考え方だった。ところが、私のような、家をこれから作ろうという人間と、建設側が同じ場には成れないものだと思った。業者と顧客という立場を変えることはできなかった。今回、まさかあの上手くなかなか行かなかった、オープンシステムに石垣島で出会うとは思わなかった。石垣設計室さんがオープンシステムと知っていてお願いしたわけでもない。実際にオープンシステムというものが、石垣でどの段階で機能しているのかも知らない。石垣市で購入した土地のご近所に石垣設計室さんがあった。石垣島は遠いい。家が作られている間、すべてをお任せするしかないので、近くの設計事務所の方が何かと良いだろうと思った程度だ。その後4回ほどお会いして打ち合わせをしている。今度が5回目になる。石垣島の地元の方である。

そもそも、部屋探しから始まったことだった。マンションの部屋で絵の描けるようなところはないかと散々探した。もしあればそれで話は終わっていた。20年くらいは絵を描きたい、描けるかもしれないと思うので、それなら家を建ててしまった方が安いとも思った。何しろ石垣に適当なマンションがなかった。石垣島にもマンションというものはない訳ではない。ある場所が海の近くのどちらかといえば、いわゆるリゾートマンションである。街から少し離れている。歩いて暮らせるような場所にはなかった。歳をとれば歩いて暮らせるところが良い。病院のそばが良い。農協のゆらてーく市場のそばが良い。ファミマがそばにあればなお便利だ。海は見えないでいいので、静かな場所で安全なところが良い。そこで今度はアパートや一軒家を探した。これに1年くらいは費やしたが見つからない。石垣風の家も貸家や売り家でない訳ではないのだが、絵を描く環境とは違う。天井が低いし、部屋がとても暗い。それを直してとも思ったが、直すなら、費用的にも結局新築の方が安いらしいという事になった。

1年ほど前から土地探しの方に方向を変えた。土地はそれなりに売りには出ていた。多くはリゾート地であるが、街場の物件もある程度はあった。希望は街場で歩いて暮らせる場所である。インターネットで探した。見つけてはグーグルで確認した。広い必要はない。庭もいらない。家は空けることが多くんるだろうから、ちょっと奥まっていて、防犯上安全なところが良い。車の出入りは出来ないと困る。80までの10年くらいは石垣なら車の運転もできるであろう。いつも描いている場所まで遠くはない方がいい。田んぼで描かせてもらえれば、あとは家は絵を並べられればいい。土地に方向を変えてから半年ほどで何とか土地は見つかった。桃林寺という臨済宗のお寺のそばである。早朝座禅など開いているようだ。孟母三遷ではないがこの歳になって禅寺のそばというのも何かの因縁であろう。音楽祭も開かれていた。散歩にはなかなか良い場所だった。購入を希望して署名捺印した。どういう訳かまた半年かかった。売主さんは大阪の方で、石垣でお会いして取引をしたとき、両者で何故半年もかかったのかと不動産屋さんに散々口説いた。まあ、今は石垣はそういうのんびりしたところなのだろうと、思っている。

 

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石垣で描いている。

2018-01-16 04:22:30 | 石垣島

石垣でいつもの場所で絵を描いた。小田原を出掛けてその日の午前中から、絵が描けるのだから、ありがたいことだ。小田原発4時30分の電車で羽田に向かう。羽田発6時35分の石垣行の直行便に乗る。10時過ぎにぱいぬしま石垣空港着く。飛行場にはレンタカー屋さんが待っていてくれる。今回はすぐにタントを借りることができた。いつもオリックスレンタカーハイビスカス店で借りている。ずいぶんの回数を借りた。そのたびにタントでないと困るということでお願いしている。それでも前回違う車しか借りられなかった。今回はタントが借りられた。途中ファミマによって食べ物を買う。水を分けてもらう。写生の場所に着いたのが、11時。いつもより明るかった。昼過ぎまでそこで眺めていた。車の中で食事をして、いつの間にか昼寝をしてしまった。午後から描きだした。昨日寒い小田原にいたことがまるで嘘のようだ。窓を全部開いてしまう暖かさである。

牧草地は一面濃い緑である。草の海というが、牧草地はうねりながら、波のように動いている。牧草地の先に田んぼがある。そして海に続く。この広がりは何度見ても迫るものがある。冬というよりまるで夏景色である。一面の緑である。遠くに見える海は春の色だ。青というより桃色に輝いている。いつもはエメラルドグリンの海なのだが、コバルトバイオレットが混ざっている。自然の色という物はすごいものだ。絵の色が及ぶわけもない。目の前にあるこの素晴らしさは絵にも描けない素晴らしさという他ない。これに似たようなものを描くということなら、写真にしておけばいいだろう。この眼前の風景から私という人間が何を受け止めて描きたいのかのほうが大切である。ところが描き出すとそのことを忘れてしまい眼前の風景をどうするのかという、技術的解決を目指してしまう。そいう絵作り的なことを抜け出ることだ。田んぼに向かい合う気持ちで、石垣島の田んぼを見る。そして何が自分には見えるのか。このことだけに集中しようと思う。

石垣島に始めて田んぼを開いた人がいる。その人の気持ちに至りたい。。マングローブの密林のわきの湿地に初めて種をまいた人がいる。大切な種もみが芽生えるまで、心配したことだろう。それから数千回の耕作が繰り返された。人間の作りだした景色ということに思いを至らせたい。人間が生きるということが風景にはあると思う。風景を眺める人ではなく、風景を作り出す人間の絵を描いてみたい。田んぼをやるときは絵を描くように、絵を描くときは田んぼをやるように。このことを実現したいので生きているようなものだ。せめてこのことを体感して生きていて、見ているということが絵に表われていなくてはならない。絵はそいう意志的なものにほかならない。絵は私という人間が描いたというところだけが問題なのだ。石垣島の田んぼであるというようなことは、どうでもよいことになる。田んぼが美しいということよりも、美しいと感じる自分のことを問題にするほかない。当たり前のことだな。

昨日描いた絵を考えている。自問自答して、何もできていないということになる。あまりにできないので、絵で出来ないことをやろうとしているのかと思う。それでも今日ももう一度できるまで描いてみたいと思う。せめて繰り返しにならないように試みたい。今回は昼間に少しお寄りして、実は珍しい方にお会いした。こちらで有機農業で熱帯果樹を生産されている方だ。その方の姪の方が、今台湾で暮らされている。まだ10代のころに養鶏に興味があり、小田原に訪ねてくれたのだ。その人は今台湾で農業をされているという。そして、今回日本に戻られた機会にお母さんと一緒に訪ねてくれたのだ。それは私が石垣に行くなら、叔父が石垣で農業をされているということを教えてくれたのだ。もうお会いすることができた。石垣の話をお聞きすることもできた。こうしてよい出会いをいただけるのは何かの因縁だろう。まだまだ石垣の空は暗い。小田原より1時間半夜明けが遅い。早く明るくなってほしい。田んぼが待っている。

 

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2年後には石垣島へ引っ越します。

2018-01-15 04:21:46 | 石垣島

石垣島へ引っ越すことを決めた。2年先の予定である。2年も先のことだからどうなるかは分からない所も多々あるが、70歳までは小田原で農業をやり、70歳からは石垣で絵を描くことにしたいと思うのだ。石垣では絵を描くつもりなので、水彩人に関していえば、今と変わらない関係だと思っている。小田原から東京に出かけて行くと同じように、動ける間は石垣から東京に出るつもりでいる。あしがら農の会については石垣から参加できる形は少ないと思うので、出れるのは自給祭と田植えぐらいだろうか。小田原にいたとしても70を過ぎれば身体を使う仕事は難しくなっていると思わなければならない。余り役には立たないかと思っている。引っ越しをする理由はおいおい書くつもりだが、これから引っ越しまでのことを折々記録しておこうと思う。沖縄が好きで通い始めたことはこのブログには時々書いている。養鶏をやめてから、遠くまで旅行ができるようになった。それまでは一日足りとて家を離れることはできなかった。

沖縄には長いこと興味があった。日本人の源流を想像している。沖縄には最初は本島に行った。あちこちグスクを歩いて楽しかった。あの何もないという空間感が、絶妙なのだ。空間に対する畏敬の念を感じた。どこまでも明る空の国。あの空間を自分の身体に降ろしてくるためには、ただ空間を造形するしかない。そのうち宮古島に行き、石垣島へ行き、石垣の田んぼの風景にはまさに出会いというような打たれるものがあった。石垣島を繰り返し描くようになった。石垣島の田んぼの景色に自分のやってきた、作りたい田んぼの姿があった。もう100枚くらいは描いただろうか。石垣の景色の面白さが尽きない。もっともっと描いてみたい。もうこれだけを描いてダメなら明らめられるだろうと、まで考えるようにまでなった。色彩や空気感が面白い。実に惹きつけられるものがある。何か自分のなかにある、絵を描きたくなる何物かが石垣島にはある。

石垣島で描いている内に、自分の絵が少し変わった。一歩進んだような気がしている。絵を描くことがこんなにも楽しいことなのかと思えるようになった。もう石垣で絵を描いているだけで十分であるという気になった。不思議なことだが、そう思い石垣島に通い始めた。石垣島に行くと必ずレンタカーでタントを借りる。タントに乗り移動して車を停めて絵を描く。ただ、ホテルでは絵を描くというのには不都合である。まあまあ使える、長期滞在型のマンションを借りたりしていていた。普通のマンションを改造して大きなワンルームにしてある。壁が8mはある。そこに絵を張り付けて並べていた。石の壁なので、上手く絵が貼れた。それでもさすがに荷物には困った。絵の道具を運んでまたすべて持ち帰る。どこか石垣に置いて帰れないかと、探しては見たが、絵の道具や紙を保管して於けるような場所はなかった。

そこで、部屋を借りようとした。ところがこれはずいぶん探したが、絵を描けるような部屋はまずない。本島ではマンションを借りていて、そこは絵を描くことができる部屋だったのだが、石垣にはそういう部屋がない。本島のマンションを引き払い、石垣にマンションを借りて改造できないかとも考えてみたのだが、これもできないことがわかる。そうこうしている内に、もう石垣に家を作る以外にないという事に成ってしまった。70歳以降の生き方を考えた時にその方がいいと思えるようになった。石垣に暮らしてみない限り分からないだろう。それは山北も、小田原も、暮らしてみてだんだんに居場所が出来た。ただ、暮らす場所を変えることで自分というものも変わる。それはあちこちで暮らして来て良く分かっている。自分の絵に石垣の暮らしが意味あるものになりそうだと今は思っている。具体的にどのように石垣暮らしにたどり着いたのかについては、土地探し、家づくりと、書いて置こうと思う。驚くことばかりであった。思うように進まないことも多くある。でも70歳まではまだ時間があるので、ゆっくりと進めることにする。

 

                

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田んぼの冬の管理

2018-01-14 04:13:31 | 稲作

菜の花がよく発芽してる。川沿いの寒い部分。

今が一番寒い時期だ。田んぼではマイナス5度まで下がった。朝は完全に凍り付いている。川沿いの日陰の場所は一日中凍り付いている。寒風に晒されることは土壌には悪いことだと思っている。畑の土壌は何かで覆われているという事が大切だと考えている。冬でも何か植物があるといい。小田原の冬ならば畑で何か作物が作られているという事が良いことだと思っている。田んぼでも冬場に何かを作ったいた方が良い。麦、ネギ、えんどう、空豆、あるいは菜種。小田原の気候であれば、冬畑をあけておくのはもったいない。もったいないし土壌にも良いことになる。今年は畑に菜の花を撒いた。この菜の花は実るまで持って行けば、菜種油は取れるのだろう。ただ食糧になる菜種油の品種ではない。冬の緑肥作物である。緑肥にはマメ科。麦科。アブラナ科と3種ある。これを畑の様子で使い分ける必要がある。肥料が不足しているなら、マメ科。土壌改善ならば麦科。アブラナ科は雑草の抑えには効果が高い。

どの緑肥も共通して腐植質の増加である。表土を露出させないで、湿度を保ち土壌微生物を守るという事もある。日当りの良いところではすでに緑肥が覆っている。種の蒔き方が悪かったこともある。稲刈りが終われば、出来るだけ早く秋起こしをする。秋起こしをするときにはそばかすを入れる。ソバカスの量は1反150キロ前後。稲の様子が8俵ぐらいの物足りないものであれば、300キロ以上入れる。秋起こしをしたら、緑肥の種をまく。蒔いたらレーキや熊手で種が埋もれるようにした方がいい。緑肥はなかなか良い発芽にならない場合が多いい。寒さや乾燥が強まる時期だからだろう。種を撒いたならば稲わらを田んぼにすべて戻す。稲わらで土を覆っておくことは土壌にとって良いことだ。また緑肥の発芽も順調になる。藁はほぐして撒き散らせば、春までにはほぼ腐食が進んでいる。田んぼに生藁を漉き込むことは良くない。コナギを呼ぶことになる。藁を戻すのは大切なことだが、腐食した藁を戻さなければならない。緑肥も麦科やアブラナ科の場合は追肥をしなければ十分には育たない。冬場は肥料の効果が遅れるので、必要な1か月前にはそばかすを追肥してやる。

上に出た土はこのように乾ききっている。藁の下の土はしっとりとしている。

1月一杯はそれほど成育はしない。土に十分の力があれば、この間緑肥は根を延している。緑肥の生育で土壌の状態が分かる。その根が充分成育をしていれば、日差しが強くなるに従い目覚ましい生育を見せる。2月には一気に成育できる肥料分が土壌に備わっていなければならない。稲の状態で判断しきれない場合は土壌分析を秋に行い、土壌の状態を把握しておく必要がある。特に菜の花の場合は充実した土壌でなければ、良く育つものではない。有機農業でありながら、冬の緑肥の菜の花を育てることが出来れば稲作は安心してよいだろう。江戸時代の小田原では冬は菜種が作物として作られていた。それだけでも当時の農家の実力がいかにすごいのかという事がわかる。今の時代菜の花農法などと言いながらも、せいぜい花までである。油を取りながら、稲作も行う。これが出来なければ自給農法とは言えない思うが、出来たのは過去1回だけである。

 

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諏訪の原の新圃場

2018-01-13 04:52:22 | 自給

あしがら農の会では新しい農場を準備している。北から南を見ている写真。

諏訪の原にある2反6畝の素晴らしい圃場である。遠く相模湾が見える。日当りもよく、緩やかな傾斜で最高の農地ではないかと思う。フラワーガーデンがすぐ近くになる。そこで座学ができる所が素晴らしい。土壌は今度分析に出す予定で採取したが、真っ黒い土だ。私の家から500メートルほどの所だが、明らかに土質は違う。また田んぼまでは300mであるが、そことも違う。土壌というのはなかなか不思議なものだ。今までに野菜が耕作されていたことがあるようだ。そして、10年は耕作がされていなかった。今回ソバカスをここに53袋撒いて、トラックターで耕した。石は北西角にいくらかあったが、そのほかにはほとんど石のない畑だ。北の端に水を貯める大きなコンクリートの水槽があるところを見ると、その昔にはみかんが植えられていた時代はあるのだろう。みかんが切られその後畑になって、そして放棄されたという流れではないだろうか。いずれにしても、久野の畑としては2反6畝の平らの畑がまとめてあるという好条件な場所は少ない。

 

ソバカスを53袋撒いてからトラックターは作業を開始した。左には大工さんの大きな下小屋がある。小屋が日陰を作ることはマイナスになるだろう。北側の遠くに見えるのは丹沢山系である。小田原のフラワーガーデンまで200メートルぐらいの場所だ。広い道路があり、そこはほとんど車の通らない道で、駐車をしていても問題のない場所である。この畑では有機農業での市民農園をやりたいと考えている。農の会もだんだん技術力が向上し、有機農業をひと様に教えられるレベルにまでなったと言える。ただその前に畑をするためにも、自分たちで試行してみようというのが、今年のこの農場の目的である。一人が75㎡ほどの面積を受け持ち、10数名で一年半回してみる。それで問題が起きないようなら、一般の人たちを募集しようという計画である。ジャガイモを3月初めに植えるところから始めようと話している。その後はどのようになるのだろうか。楽しみであるし、いよいよ実力が問われるところだ。

 中央に道路をを作り、左右に畑が配置される。東側が根守さんの畑になり、西側が有機農業塾の農地になる。この道路の幅が2メートルである。全体を耕し終わったのが3時であった。さすがに広い畑だ。この地域には古墳が多く、この畑の隣には15号古墳がある。立派な石室がある古墳だ。看板も、道標もあるから、時々訊ねてくる人もいる。せめて古墳のの周りの草刈りなど管理をしようと考えている。何しろ30センチ以上の榎が生えていて、石室を壊し始めている。全く文化財の保護が成っていない。官地だというので役所の文化財課にきれいにして良いか確認に行ったところ、どうにもはっきりしない。国有地だから国に管理責任があるというようなことだ。国に管理責任はないと思う。国有地であろうがなかろうが、小田原の文化財である。小田原市民が管理しないで誰が管理できるというのだろうか。直径30センチにもなる大きな木が生えるまでほったらかしであるという事は良いことではない。

有機農業塾が出来れば、小田原の農業の未来が少し変わる可能性がある。この有機農業塾が新規就農者の窓口になる可能性がある。ここで学び、小田原の農地を紹介できる。なかなか大変な仕事になりそうだが、70歳までの2年間このことを精一杯やるつもりだ。有意義な仕事になる。あしがら農の会らしい事業にもなる。そして、その2年間で私自身の野菜の作り方の総まとめもしたいと考えている。いろいろ講師の先生もお呼びして、充実した有機農業の講座が出来ればと考えている。すでに参加者の定員はほぼ満杯になっている。この2年畑の会をやってきてつくづくよかった。そこで培ったことが、今度の農業塾に生きてくるはずだ。中心に動いてくれるスタッフとして、根守さん、吉宮さん、渡部さんと素晴らしい人材が揃った。これならうまく行くだろうと確信している。農の会でこうした人のつながりがあるという事が本当に幸運なことだ。

 

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山尾志桜里氏の改憲論の正しさ。

2018-01-12 04:02:08 | Peace Cafe

山尾志桜里氏の改憲論は良い提議だと思う。憲法を全くないがしろにしているアベ政権の改憲論に対峙している。憲法には変えた方がいいことがいくつかある。護憲勢力の中には、憲法論議を避けて、まるで神学のように憲法を守れとする勢力もある。守っている間に何が起きているかである。アベ政権は解釈を無限に広げて、憲法の精神を踏みにじっている。アベ政権の憲法に対する姿勢は、一言で言えば政権にとって邪魔なものという事だろう。憲法がなければ、日本の安全安心に責任が持てるとまで考えている気がする。憲法があるがゆえに、専守防衛という戦う事の出来ない条件にされている。そこを近隣諸国に付け込まれていると考えている。その角度から憲法を改正しようという考えなのだろう。ところが山尾氏の改憲論は、政権が憲法をないがしろにできないような憲法に、改憲すべきというのである。全文を読んでもらいたいのだが、有料記事になっている。

第2次安倍政権のもとでは、たとえば以下の現象が起きている。

 ① 憲法9条があるにもかかわらず、集団的自衛権の一部を認める安保法制が成立した。
 ② 憲法69条、7条のもと、大義なき解散が頻発している。
 ③ 憲法53条の要件を満たした臨時国会召集要求が無視されている。
 ④ LGBTの権利保障が不十分で、与党幹部から差別的発言がなされ、LGBT差別解消法が審議拒否され、同性婚も認められていない。
 ⑤ 国家が保有する情報に対する国民のアクセスが十分に保障されず、南スーダンPKOの日報問題や森友・加計問題の真相解明が進まない。
 ⑥ 共謀罪の成立により、捜査権力による国民のプライバシー権制約は侵害のレベルにまで達しようとしている。

政権から独立したいわゆる「憲法裁判所」を設け、チェックを委ねることを、積極的に検討すべきである。

正しい見方である。まっとうな日本国憲法の下での、アベ政権のでたらめな政治のちぐはぐが分かる分析である。立憲民主党は山尾氏の観点から、憲法論議をアベ政権に対してぶつけてゆく必要がある。その根底に作り上げなければならないものは、武力を用いない平和主義で、どのように日本の安全保障を確保するかの具体策である。その安全保障の現実論の中で、自衛隊はどこに位置づければよいかである。ここがわかりやすく示さなければ、アベ政権に押し切られることだろう。私は警察予備隊は必要だと考えている。警察予備隊の基本となる活動は災害救助隊である。日本は災害列島の上にある国である。必ず毎年大災害があるとしなければならない。繰り返される自然災害に備えた安心を、そして対応策をとるのは政府の責任で行わなければならないことだ。災害救助隊は世界の災害にも駆けつける組織であってもらいたい。高い救助能力を持ち、また、被災国に日本が信頼され、受け入れにためらいが起きないような組織になる必要がある。

日本の救助隊が来てくれたから、もう大丈夫だと信頼されるような組織になる必要がある。それが日本憲法に示された平和主義だと思う。災害救助隊は第2の任務として、災害だけでなく国土の安全保障、防衛にもあたる。海上保安庁の役割も含むような組織に改編する。どれだけ平和外交を展開したとしても、何があるかはわからない。それに備えるのも政府の役割だ。警察だけでも、海上保安庁だけでも対応はしきれない部分がある。現在の自衛隊が担う役割であるが、自衛隊という名称はこの機会に止める。憲法には災害救助隊を明記したらいい。専守防衛を徹底する為には、現在の自衛隊はいつの間にか実質軍隊に変えられている。近隣諸国に不安を与えるような、装備はしない。その攻撃力を持たない国をどのように安全を保障するかを、世界全体で模索することだ。今の時代を武力が最小限で済む時代の角期と考える。

しかし、現実の世界は確かに戦争に突き進みそうな情勢である。そんな専守防衛論で、日本にミサイルが飛んできたらどうするのだ。このような不安が私にもある。イスラム国や北朝鮮の様な訳の分からない暴力主義の国が登場を繰り返している。この対応である。この対応をどうするかである。アベ政権は必要な時には先制攻撃をするという事だろう。ところが、それが解決にならないことは明らかである。さらなる狂気を持った集団や国家が登場する。力の対決という事は、一見明快な解決が待っているかのようだが、実は問題の解決には少しもならず、問題を深刻化させ力で黙らせているに過ぎない。抑えられたものは必ずどこかで再爆発をする。イスラム国は分解したかのように見えるが、テロに追い込まれた集団が世界に拡散したともいえるのだ。この悪の連鎖を断ち切る平和主義を日本は打ち出す必要がある。その一つの手段が国際災害救助隊の活動である。日米軍事同盟も段階的に解消する。むしろ近隣諸国との安全保障条約を締結を目指す。

 

 

 

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電話からメールに変わる。

2018-01-11 04:27:04 | 暮らし

電話がかなりの苦手である。電話を嫌う理由は2つある。電話はかける人の側の都合で、相手の了解なしに、お構いなしに、かける以外にない。またその様にかかってくる。かける人にしてみれば、こちらの状況が分からないのだから、当然のことだ。やむ得ないことであるのは分かっている。それでも困るのは絵を描いて居る時だ。四苦八苦しながら描いていることを遮られると、その一日が無駄になることさえもある。これはなかなか他の人には理解してもらいにくいので、どうにも仕方がないことだ。電話をかける側の人にしてみれば、やむ得ないことであるのだから、責める訳にも行かない。もう一つの困ることは確認事項が確実でない点である。電話のやり取りの誤解で何度か混乱したことがある。私が記録がきちっとできないという事もあるが、言い間違っているという事もあるのだろう。双方が思い込みで話していて、ずれが生じている場合もある。いずれにしても、電話のやり取りで何度か失敗をしている。

メールという連絡方法が出来て私には実にありがたい。メールの広がりには感謝している。メールで話し合いをするともめるから避けた方がいいということが初期には言われた。メールでの表現が下手だったのだろう。メールのやり取りであれば、こちらの都合で都合の良い時間に対応が出来る。絵を描いて居る日でも、一息ついた時にメールを確認できる。私の場合、3,4時間に一回はメールを確認しているのだと思う。緊急の事態以外はすべてメールで済ませている。それでもメールをしな人には電話をする以外にない。電話をしないでいるうちに、ますます電話が苦手になった。電話でどう話せばよいのか、顔色が見えないの苦手だ。それでもまだ固定電話がある。いつ固定電話を止めようか迷っている。社会全体が連絡はすべてメールを優先するという事にできないかと思う。歳をとればますますメールの方が確かになる。耳で聞いた事より、メールであれば何度でも確認ができる。まだ、メールの普及が完全でない所が残念である。

農の会が成立したのは、メールが出来たためである。農作業はお天気次第で度々変更が起こる。お茶摘みの朝になって100人に電話で変更を伝えるというのは不可能なことだ。それがメールであれば、朝7時にメールで最終確認の連絡を入れるとして置けば、間違いなく情報が伝わる。農の会でも初期の段階では、メールではなく、電話とはがきで連絡すべきだ、という主張が強くあった。メール以外では無理だと説明しても、それは差別だというのだ。メールをやらない人に対する差別だから、メール連絡は止めた方がいいと主張した人がいた。確かにその人はメールをしないのだ。もしその人の主張通りメールを止めていれば、農の会の活動は今頃成立していなかっただろう。どのようなことも、万全などという事はない。判断である。どこかで何かを切り捨てて、止む得ず判断せざる得ないのだ。ある集会に目の見えない方が参加された。その人は配られた文章が、読めないことは差別だと主張して、30分ほど抗議が続いた。しかし、小さな内輪の集会で、目の見えない人が参加することを想定して準備ができるだろうか。

メールで一番有難いのは、自分の書いたことが確認できることだ。私の場合、電話ではそこが一番危うい。その時その時で思いついたことを主張しているので、一貫しているつもりでも違って伝わっていて、自分が逆のことを話していたなどと言われることがある。そういう時にメールでは再確認できる。人間あやふやなものだ。思い込みも強いものだ。電話が不確かだからといって、すべての電話を録音するというのでは、電話してきた人にいちいち断らなければならない。その点メールは必ず記録として残るという点が良い。初期段階ではメールに慣れていないために、メールで真意を書き表すことが苦手な人が多かった。今は、メールでそこそこ話が通ずるようになった。有難いことだ。これからは固定電話というものは無くなるだろう。そして、携帯電話であれば、メール機能がある。緊急時以外は、言葉より文章の方が間違いがない。

 

 

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カヌー選手が禁止薬物をライバルに飲ませる。

2018-01-10 04:02:13 | Peace Cafe

日本カヌー連盟は九日、昨年九月のスプリント日本選手権に出場した鈴木康大選手(32)が、大会中に小松正治選手(25)の飲み物に禁止薬物の筋肉増強剤メタンジエノンを混入させ、小松選手がドーピング検査で陽性となったと発表した。

まったく世も末である。こんなひどい事件は聞きたくもなかった。一流選手の賭博事件もあった。何か日本のトップ選手の世界がおかしくなっている恐れがある。競争に勝つために、日本のトップ選手が、仲間の有力選手に禁止薬物の飲ませたのだ。何のためのスポーツなのだろう。ソビエトでも東ドイツでもない。日本までこんな国になってしまったのだ。全く聞きたくない事件だ。これはアベノミクスの結果だ。そこまでして、他人に勝利して何になるというのだろう。競争が完全に人間をゆがめている。ゆがめられたような人間が勝ち残る社会を想像させる。日本人が間違った方向に歩んでいる一つの事例だろう。たまたま露見したが、こういうことはをやりかねない、空気は広がっていると考えた方がいいだろう。オリンピックとまでは行かないでも、学校スポーツでもこんな考え方が蔓延していないだろうか。結果だけを重視して、教育がなおざりにされていないか。良い大学に入る。良い会社に入る。結果が良ければ、良い人生が遅れると思い込んでいるのではなかろうか。

人間性が腐りきった卑劣な事件である。スポーツマンシップはどこに行ったのだろう。こんなことならオリンピックなど止めた方がいい。スポーツを行うのは心身ともに健全な人間になる為だ。それがただ勝てばいいとここまで人間をゆがめてしまった。この事件は氷山の一角と考えた方がいい。強い選手は汚い選手という言ことになりかねない事件だ。スポーツを行う事で、ゆがんだ人間が作られている可能性が否定できない。スポーツが素晴らしいのは人との戦いに勝つという事以上の目的がある。自分との戦いに勝つからである。卑劣な行為をしてまで他人に勝ちたいという背景にある社会。それは競争を正義とする社会である。このブログではその間違いを百回以上書いているかもしれない。スポーツに限らず、あらゆる分野で勝つことのみが価値であるという風潮だからだ。負けたっていいじゃん。ダメでもいいじゃん。

他者との競争に勝つためでなければ、力を出し尽くさないと人間を安く見ている。この人間観が資本主義の考え方だろう。競争させ努力を引き出す。この人間観は実に浅いことだ。人間が本当に力を出せるのは、自分の為の努力ではなく、他人の為の努力である。私はこのことをあしがら農の会で学んだ。一人ではまあいいかとなることを、みんなの田んぼだと思うから、やり尽くすことができる。自分というものを絞り出すためには、仲間が必要なのだ。価値観を共有できる仲間が必要なのだ。これは昔から言われる、百姓根性とは一番遠いいものだ。同じ農業者でもずいぶんよくなった点だ。人のために頑張れる社会を作ることが政治の目的である。自分のことに追われてしまい、人の為どころではない社会であれば、卑劣な勝ち方を画策するような人間が現れてくる。

人の為にも頑張れる人間は増えてきたと思う。自分のことだけでない人間は増えてきた感じがする。50年前よりは、人の為を考えられる上質な人間が増えていると思う。しかし、こういう卑劣なスポーツマンが登場するように、人間の格差も顕著になっている。競争の中で、倫理を育めない人間である。一人で全てがやれると思い込んでいる人間なのだろう。人間が一人でやれることなど知れている。人間は弱い。だから励まし合い、助け合い生きてゆく必要がある。力のある人も、力のない人もいる。子供もいる。年寄りもいる。お互いを補い合い、出来ることで助け合う。このことが良い環境を作る。誰かに勝つためではなく、自分の精一杯が人の為にもなる。これが当たり前になる社会を作るのが、政治の目的のはずだ。ところが、政府自体が競争に拍車をかけている。倫理もない。それはトランプ大統領を見てみれば、良く分かる。室伏選手が、自分が食べるものから目を離すなど、選手としての自覚が足りないと語っていた。そんなひどい環境の中でスポーツなどやるべきではない。東京オリンピックでさらにこんな悪い風潮が広がらないことを願うしかない。

 

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オウム事件菊池直子氏の最高裁無罪

2018-01-09 04:52:48 | Peace Cafe

菊池さんの無罪が最高裁で決定された。当然のことであると思うが、17年の逃亡生活。そしていまだつきまとうサリン事件の犯人という、世間の思い込み。99人の犯人を取り逃がしたとしても、一人の冤罪を産んではならない。菊池直子さんは高校を卒業してオウム真理教団に入信する。それは、オウムの後継教団に今もって信者が入信する現実から見れば、今現在の社会がそういうものと考えるしかない。それは若年層の自殺願望が深刻化している社会の現実にも見られることだ。オウム地下鉄サリン事件が、あまりに深刻なテロ事件だったがために、オウム教団全体に対して、世間に大きな偏見が生じたのだ。オウムはサリン生成を教団内部でも極秘事項として進めていた。空から毒ガスがまかれているなどという、ウソを信者に思い込ませてサリンガスの洩れてくる被害をごまかしていたのだ。菊池直子さんの手記がヤフーニュースにある。手記を読んだうえで真実をそれぞれで判断するべきだ。サリン事件には全く関与していないという事は、起訴さえされていないのだから当然であるが。

世間というものは悲しいことに生贄を求めている。サリンテロ事件という理解しがたい事実を前に、判断能力を失う。どのようなことが起きたのかを判断できないことに対しては、誰かを悪人にして、血祭りにあげることが社会の常だ。あの松本サリン事件の冤罪においては、個人がサリンなど住宅内で生成できるわけもないのに、そばに住んでいた被害者の一人を犯人と名指してしまった。その人のプライベートを洗いざらい報道して、この事件を何とか報道の理解できる枠内に収めようとした。この時に、もしこの事件に直面した報道の中に科学的知識のあるものが一人でもいれば、地下鉄サリン事件は防げたかもしれないのだ。訳の分からない報道の様子を見て、オウム教団はしめしめと思ったはずだ。それが地下鉄サリン事件に繋がっていった可能性も否定できない。地下鉄サリン事件の起こる1時間前に、あの日は水彩連盟の搬入係で、あの地下鉄に乗っていた。他人事とは思えないのだ。

なぜ、今も菊池さんへ誤解が解けないのであろうか。それは裁判というものが、藪の中だからだ。真実は一つである場合でも、様々な見方が起こる。現実社会においては、真実が1つではない事件もままある。例えば爆弾を運んだとしても、運んだものを爆弾と認識していたかどうか。こうしたことは本人にも知らなかったという証明できないこともある。安倍氏が国会で悪魔の証明と弁明したことと同じである。裁判においては、怪しきは無罪という事になっている。しかし一人一人の人間というものは、勝手な判断を行ってしまう。真実は藪の中だと。曖昧なままでいられないのだ。ああ言うが本当は犯人だよ。むしろ、怪しきを犯人と思い込みがちなものだ。その為に起訴さえされなかったことでも、検察が調べきれなかったとしても、本当は犯人だよ。こういう恐ろしい思い込みが行われる。それは報道による冤罪事件。週刊誌は販売部数増加の為に、面白い方に傾く。だから、17年も指名手配で逃げつづけた人物という事が面白おかしく取り上げられる。いつの間にか、サリン事件犯という汚名まで付け加えた。

最高裁の無罪決定後、菊池さんはテレビ画面で短いコメントを出した。菊池さんという人間は、オウム入信するという様々な苦悩があったのであろう。オウム体験。逃亡。ひどい世間の冤罪攻撃。そして逮捕、収監。この中でこの人は、人間を磨いたのだと思った。大変なことではあったが、前向きに向かい合っていた。立派な人のようだとお見受けした。冤罪から、世間の思い込みを受けて、いまだ大変つらい状況であろうと思う。そうであっても、これからの人生をより有意義なものとして生きられるに違いない。確かにオウムに入りたくなるような、歪んだ社会なのだ。オウムは良くないとは思うが、そこに追い込んでしまう、過酷な競争社会がある。ダメでもいいじゃん。私は繰り返しそう思うことにしている。ダメをダメであるとわかり、それなりにやってゆく。絵描きになるという夢を子供のころ抱いた。しかし、残念ながらダメだった。ダメだけど絵は止められなかった。それなら、ダメな絵をダメなように描いてみようと今を生きてゆく。

 

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日本の人口減少

2018-01-08 04:15:56 | Peace Cafe

日本は人口減少が急速に進んでいる。平均寿命はまだ伸びている。戦争や人口に影響するほどの災害もなかった。それでも自然現象のように人口減少が進んでいる。少子化現象が極端化してきている。少子化は社会の空気を反映して起きている。このことを日本の不幸として、何とか食い止めねばというのが一般的な風潮ではなかろうか。人口減少は日本人の不安意識の反映で、実に健全な反応ということだ。今の日本で人口が増えるとしたらそれこそ恐ろしい。生き物のとしての人間は自分の子供が幸せな生涯を送れないだろうと思えば、子孫を残さない。日本の方角が危ういがために、子供が減ってきている。国は少子化対策とか、女性活躍社会とか、言いながらも待機児童すら一向に減らすことができないでいる。こんなことはたちどころに解決するくらいの、姿勢がなければだれも政府など信用するはずもない。稲作に補助金がずいぶん投入されたが、結局はそういう事では稲作の問題は解決されなかった。

子供世帯に補助金を支給するも悪いことではない。そんなことより、補助金などなくても子供が幸せになるだろう未来社会が見えるかどうかである。それはもちろんアベ政権だけの問題ではない。世界中がおかしな方向に動き始めている。この事態に対して、和え政権はむしろ飲み込まれるかのような、愚かなかじ取りをしている。これでは子供が増えるようなことになる訳がない。大きな見方で言えば、資本主義による競争主義の問題である。競争が教育でも、スポーツでも善として奨励されている。競争に勝つことが資本が利益を生むことになる。人間は競争に勝てる能力があるものが、価値あるものとされ。その評価が日に日に決定的なものに変わりつつある。売れる絵を描いて居れば価値ある人間で、売れない絵を描いているような輩は人間の屑という事になる。親が昨日まで子供がやるのを止めさせたいと考えた、ゲームの世界に1億円プレーヤーが現れれば、急に顔色が変わる。このままでは囲碁や将棋のように国民栄誉賞のゲーマーという人も現れるのだろう。

このお金が人間の幸せであるという、資本主義の考え方がある到達点まで来たのだ。到達点は限界点でもある。国家資本主義といっても良い形の国づくりが変わってゆく。アメリカも、中国も、競争に勝利するために国と企業が一体になり、国益と企業利益を連動しようとしている。そうなれば、強い国はより強くなり、弱い国は虐げられることにならざる得ない。いま日本は弱い方の国に入りかかっている。資本主義を抜け出れない、この状況では子供が増えてくるはずがない。アベ政権はアベノミクスは買いだと馬鹿話を叫んだが。アベ政権は明からに売りだ。このままでは日本自体が投げ売りになりかねない。単純なことだ。お金が人間の幸せとは違うという、ごく当たり前の倫理に戻ることだ。人間の幸せが競争に勝つという事ではなく、とっもに暮らす人間と共感を持てるという事だとおもう。価値を共有できる人間たちと、共に未来を切り開ける。ここに人間の幸せがあるのではないだろうか。

社会全体のことはひとまず置いておくしかない。身近なところに同じ目標を持てる仲間を作ることだ。私には水彩人とあしがら農の会がある。水彩人の仲間の間では、互いの絵を尊重し、切磋琢磨している。何も誰かに勝とうとか、負けるとかいう世界ではない。絵を描くという人間としての深い思いがあれば、誰も同じであるという立脚点で話ができる。あしがら農の会では地場・旬・自給の緩やかな連帯である。自給の田んぼを、励まし合いながらやり遂げる。これは何とも厳しいことだが、実に喜びが湧いてくる。その喜びは仲間とともに成し遂げることができたという事で倍増する。誰もが、身近にそういう仲間を探せれば、お金の価値から一歩離れることができる。社会には期待薄ではあるが、自分の周りが変われば、いつかその響きが波及していくかもしれない。そう思い日々を生きてゆきたい。

 

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福島の子供たちの甲状腺がんの報告

2018-01-07 04:49:45 | Peace Cafe

「福島の子どもは、大丈夫です」

――甲状腺検査の現場から

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アベ政権の憲法改定の道

2018-01-06 04:34:02 | Peace Cafe

安倍氏は憲法改定に熱心である。憲法改定でも9条にある武力否定を覆すというところに熱心である。今の拡大解釈でも足りないというのだから、よほどの武力主義改定と考えねばならない。そのほか4つの付け加えたものがあるようだ。それらも無意味とは言わないが、武力を否定した憲法の本質を変えてしまうというところが、すべてに優先して問題にしなければならない。そして付け加えている4つは、維新の党や公明党を改憲発議に引き込むためである。公明党は看板を教育費削減に変えている。両党とも話はついているとみなければならない。憲法改定を曖昧にごまかすための付け加えと考えて間違いないだろう。問題は9条をどのように考えるかである。安倍氏はこれを自民党総裁としてと断りを入れて発言している。つまり、公務員には憲法を遵守する義務がある。そのように憲法に示されている。そこで遠まわしな身分発言になっているが、総理大臣の年頭所感で憲法改定を述べているのだから、同じことである。憲法をこれほどないがしろにした総理大臣が、拡大解釈を続けている公務員が、このことでは戌年の念頭に猫かぶりである。

伊勢神宮にての安倍総理の年頭所感、憲法改正について「戌(いぬ)年の今年こそ、新しい時代への希望を生み出すような憲法のあるべき姿を国民にしっかり提示し、憲法改正に向けた国民的な議論を一層深めていく。国のかたち、理想の姿を示すものが憲法。自由民主党の総裁として私はそのような1年にしたい。」

国民の一人として是非とも、「新しい時代への希望を生み出すような憲法」を提示してもらいたいとこちらからお願いしたい。国のかたち、理想は変化するとしているが、では一体安倍氏の理想の姿としていた、「瑞穂の国美しい日本」はもう忘れてしまったという事なのか。安倍氏にしてみれば、自民党憲法草案を示す為のいい方に過ぎないのだろう。本来、自民党憲法草案を大いに議論すべきところだ。ところがこれを議論すれば総理大臣による革命行動というような、改正ではとても治まらない革命政権樹立という事になる。今の憲法下それに従うことを約束して総理大臣になった人間である。ところが、自民党憲法という全く異質ともいえる、時代錯誤の明治憲法に擬するものを今の時代に、改正案として持ち出してもさすがに無理だ。この認識はまだ残っているようだ。本音と、現実に大きな乖離がある。立場にも矛盾があり、本音においても矛盾がある。そこで、実に中途半端な、お得意の憲法の精神を踏みにじる、改定後の拡大解釈方式を前提にした憲法改定を目論んでいるのだ。自衛隊さえ明記すれば、普通の軍隊まで拡大解釈するだろう。

自衛隊が9条に書き加わり、武力主義の国に実質変わるという事が、新しい時代への希望になると言うのだろうか。自衛隊が普通の軍隊になれば希望に輝く国になるどころか、不安と圧迫の社会が想像される。これは希望というより、安心安全の分野の問題であろう。武力がなければ安心できないという人にとっての安心である。希望というのは、日本が憲法を守る国になるというところにある。民主主義、恒久平和、個人の自由、人権尊重。どれもが希望に満ちている。その希望を文字どおりに実現するのが政府に命じられた責務である。そもそもそうした、憲法の精神に従う気持ちなどない人間が、何故総理大臣になりたいかといえば、その憲法を変えたいからである。日本人の希望を砕く憲法改定と言わざる得ない。憲法を希望というのであれば、憲法を変える前に憲法裁判所を作ることだ。そして、憲法の精神に従い、国を運営することだ。少なくともそれが憲法を変えるまでの姿勢ではないか。その時々に自民党総裁になったり、総理大臣になったりしなければ、つじつまの合わない理由は、安倍氏がデクノボウ総理大臣であるからだ。ご都合によってなんでも演ずるのだ。

憲法を変えるための議論はしてもらいたい。1、総理大臣による一方的な解散権の問題。2、集団的自衛権と憲法9条の関係。3、情報の管理が政府の気ままにおなわれ、様々な行政のかかわる疑惑が浮上した。情報監理と公開について。4、国民一人一人の情報の保護を憲法で保護できるのか。5、憲法裁判所設置について。以上の5点を憲法審査会で議論を始めてもらいたい。しかし、自民党と、公明党と、維新の党と、たぶん希望の党の思惑では、そんなことは議論する気はないだろう。結論ありきの議論では、国民的憲法論議とは到底言えない。

 

 

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小豆とササゲの話

2018-01-05 04:38:52 | 自給

今年は偶然のことで、小豆とササゲを混ぜて蒔いてしまった。ササゲの種を小豆だと思って蒔いてしまった。小豆は種子屋さんで購入した大納言小豆。しかも播種機に両者を入れて蒔いてしまったのだから、ごちゃまぜであった。その結果、小豆とササゲの違いを研究せざる得ないことになった。花が白っぽい黄色が小豆、花がピンクなのがササゲ。草の段階での見た目で言えば、かなり違う。ササゲは蔓性である。小豆は蔓では伸び図全体に小さい。葉っぱや茎に小さな毛のあるのが小豆であった。ササゲは少し葉の緑が濃く、全体に大きくなる。実が付けば違いはさらに明瞭で、ササゲの鞘は長く20㎝にもなる。小豆は10センチほどのものだ。粒の大きさは大納言小豆はササゲより大きかった。赤茶の色も濃かった。しかし、これは品種にもよるから一概には判断材料にはならない。ササゲの方が多収である。小豆の数倍実る。子供のころの記憶で当てにはならないが、山梨では小豆よりササゲの方が多く取れるので、ササゲを作るという話に記憶がある。そして水ようかんを作るのにササゲで我慢したという事があった。

煮てみればよく分かる。粘りが出てあんこになるのが小豆で、赤飯に入れても形が崩れないのがササゲである。と書かれている。ササゲはいくら煮てもあんこのような粘りが出ない。だからササゲで作った水ようかんにはササゲの粒が残っていた記憶がある。実は今はこの記憶が怪しくなっている。ササゲはアフリカの豆で、小豆は昔から東アジアにあった豆という事だ。私は小豆の味が好きだ。あんこが好きという事がある。あの餡子のべたっとした感じは何とも言えない。美味しい餡子は絶品である。餡子を練るのは、職人技と言われている。中学の頃の同級生に和菓子屋さんの息子がいたのだが、彼は中学生だがやっていた。今も、三軒茶屋で和菓子屋を続けている。難しいなら面白いので挑戦したことがある。まあそれなりにはできた。結局は良い小豆が良い餡子を産むのだろう。映画「あん」の樹木希林を思い出す。餡を練りながら、その小豆が吹かれた風を、陽ざしの強さに思いめぐらせる。と語っていた。物を作る極意のようなことだろう。それは良い小豆を育てるときにこそ重要なことだ。その植物の気持ちになるという事は、実に大切なことだ。私には難しいことだが、畑に行ってそんな気にはなる。

今年の正月は、ササゲでお汁粉を作った。さして煮た訳でないが、これがまたなかなかおいしいお汁粉になった。昨日見えた台湾と静岡からのお客さんもそれなりに評価してくれた。子供のころササゲと言っていたものとどうも違うのか。ますます分からなくなった。粘りが少ないと言えばそうとも思えるが、明らかに餡子になっている。7日の新年会では皆に食べてもらおうと思う。昨年の収穫祭ではみんなで作った、沢山の中から選んだ大納言小豆でおはぎを食べさせてもらった。これは確かに絶品であった。今回のササゲも、出来ないはずのあんこが美味しくできている。そうかもしれないと思ったのは、ササゲも、小豆も心を込めて作ったのだ。心をこめなければ、小豆も、ササゲもできるものではない。餡を煮るときに思いをはせるだけではないのだろう。モノを作るという事はすべてに、作る人の気持ちが入るかどうかである。小豆の眼が出たと言って飛び上がって喜んだ思いが、小豆の実りになる。そしてその小豆を餡子にしていただく。それこそがおいしいという意味なのだろう。

食べ物の味というものも考えてみれば不思議なものだ。美味しいという事は本来食べることができるという事だ。安全だという感覚なのだろう。美味しいという事は体に良いという事なのだろう。身体がその本能を失ったので、美味しさに客観評価が必要になった。他人のおいしさなど何の意味もない。私の身体にある食べ物があり、それを美味しいと感じる身体になっているかである。日本で一番おいしいものを毎日食べている。自分の食べるもの心をこめて作っているからだ。自分が食べるために作ったお米が、他の人にもおいしいかということはまた別の話だ。それでいい。私にとってこれ以上のお米はない。これが食べ物を作る喜びである。私のお米はあくまで自給である。私のササゲも素晴らしいものだった。人に食べてもらうために卵を作っていた。手を抜けるものではない。だから、66歳で止めた。みんなの自給こそ最高の物が作れるという事だ。そして、みんなでその美味しさを共有できるのが、みんなの自給農業の喜びである。これほどの幸いはないだろう。

 

 

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2018年の書初め

2018-01-04 04:01:16 | 水彩画

 

今年の書初めである。

今年は暮れから正月の間も絵を描いていた。描きたくなったので描いていた。描きたくなることは、あまりないのだが、水彩人北陸展があるので気持ちが盛り上がったのかもしれない。やはり私にとって金沢は特別なところだ。絵を描きたくなるなら、北陸展も悪くない。仲間が石川県にいる。少しつながりが復活したのが何よりである。何かと懐かしいことだ。今度は雪の季節だからなおさら楽しみである。絵を描いている勢いもあり、2点書初めもした。毎年何か書くことにはしている。ただ墨を擦ったり、布やら、紙やら、毛氈をだしたり、用意するのがなかなか大変である。特に猫が来ないようにしながらというところが大変である。今年の書初めは、結城紬の白地の布を柿渋で染めたものに書いた。布の調子と、墨色が何とも言えず良い調子になるので、字の上手下手関係なく気持ちの良いものになる。書を書くことには、練習もしない。下書もしない。そんなことをするとうまい字を書かねばという気持ちになってしまい、楽な字にならないから嫌なのだ。

「春夏秋冬」と書いたのは、農業にするものとして巡り巡る季節への思いが強いからだ。当たり前のことだから書いた。言葉を選ぶ方が時間がかかる。教訓めいたことが書いてある書は特に嫌いだ。良さげに見えるから嫌だ。至西三里箱根宿というようなものが好きだ。もう一つ考えて書いたのが、「日月星光」ニチゲツセイ、ひつきぼし、そのまま世界というか宇宙を表していると言ってもよいのかもしれない。だから光を付けて宇宙にある光のことを書いた。中国では日月星辰にちげつせいしんという事になるらしい。今度はこっちを描いてみよう。しかし、本当のところは日本語訳の日星月となると鶯のことらしい。大雄山の参道に石の道標があり、気になっていたのだ。その道標は日月星の下は地面に埋もれてしまっているので、何が書いてあるのかはわからない。そこで今回は光を付けた。一六年前に書いた時は愛卵土と付けた。養鶏場の名前である。やはり辰が埋もれているのだろうか。

「日月星光」鶯が通り過ぎる影 あるいは宇宙の光り

こちらは書いてから洗ってみたのだ。だいぶ薄れた。薄れた感じの方が良いかと思えたのだ。これがさらに時間の経過で、布色が濃くなる。しばらく置いても濃くならないなら、もう一度柿渋で染めるつもりだ。そしてもう一度洗ってみたい。消えかかるようなものになればと思っている。字が良く見えないくらいになれば一番良いと思っている。だから、サインまで入れてあるのに、途中というのがずるい感じ。備前の茶碗が使っていて良い色になるというところを、池に付けて置いて時間短縮するという姑息に似ている。もちろん時間に勝るものはない。「南海雲北山雨」と昨年は書いた。用のないもの意味のない感じが良い。お寺の玄関に天気予報を掲げたという名残を少し変えたもの。

 書というものに専門家がいるというのが不思議だ。書道家というのではなく代書屋さんである。書はその人であることが大切である。その人の何かを感じたいから所を見るのだ。描かれた字の上手い下手など大した問題ではない。世界に書というものを認めさせた井上有一氏は小学校の校長先生まで勤められた方だ。最近テレビで見る書家と自称されている人は、まさに代書屋さんだと思う。注文に応じて必要な字を書ける巧みな人という意味だ。看板屋さんでもいい。書に道まで付け加えるというのがそもそもおかしいだろう。書いた人の縁にしたいから、その人の書をたどるのである。絵画とデザインとは違うと思うところと似ている。もちろん中川一政氏の書は凄い。私にはそう見える。私には中川一政氏が人として素晴らしいと考えられるからである。人間に行きあたり、人間の絵を目指したい。

 

 

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どう見えるのか、そして何を作り上げるか。

2018-01-03 04:54:40 | 水彩画

年賀状11

昨日の続きである。絵を描く為には世界というものがどう見えているのかという事が始まりになる。そして、その見えているものを使い何を作り上げるかという事が、制作という事になる。今まで世界を見るという事にかけてきた。見るという事には見える為の自分という存在が必要である。目に映るという事が見えるという事の始まりで、真実を見る、見抜くという眼がなければならない。見るという事には深く生きるという事がなければ、見えないものがあるという事なのだろう。10年前見ていた景色と今見ている景色は違っている。山北に越してきた30年前とは完全に違う。見えている世界の理解の仕方で、異なって見えるのである。だから絵がその本当の人間が見ている世界を、見ているままに指し示していると、絵から世界を気づかされるのだ。それが絵画というものの意味なのだろう。子供の頃目に映ったものと、今見えている景色とは異なる。もし異ならない同じものであれば、成長がないという事になる。しかも年齢に伴い見え方が深まるのであればいいのだが、たいていの場合は見え方は新鮮味を失い、観念的なものに陥り陳腐になる。

年賀状12

絵を描くという事を通して、人間に対して何を作り上げるのかが芸術作品の制作の問題である。芸術は人間を人間らしくするものでなければならない。作品が人間をよりよく成長させるものでなければならない。制作は人間が生きるという事の真実に向かい合うための仕事となる。人間の為の何かを作り出すことが芸術作品の制作である。制作は新たな世界を創造するということになる。これは極めて難しいことだから、制作は過去の良き作品を繰り返すことになりがちだ。自分の絵を描いているつもりでも、どこかで学んだ何かが画面に出てきているに過ぎないことになりがちである。それで描いては描いてはがっかりする。自分というものがなぜ必要かと言えば、自分でなければ、他者に対して意味あるものにならないからだ。自分であるという事はどうでもいいつまらないものであるという覚悟がいる。良さげな自分を模すのであれば、作品にはならない。ここに覚悟がいる。ダメでもいい。ダメだからこそいいという覚悟。

年賀状13

同じものであれば、意味を理解することによって見え方が違う。月を見る。花を見る。山を見る。海を見る。その意味を知り。そこにある文化や歴史を知るという事により、同じものが違って見えてくる。その先にある世界の真実を見るという事が絵を描く目で見るという事になる。その見えるためには、実は自分が放光しなければならないという事のようだ。見るという意識の光をぶつけることで、そこから自分に反射してくるものが絵の眼で見るときに見えるものである。絵を制作するとはその自分という人間の眼が見抜いた世界を、どのように絵画にするかである。それはただ写し取ることも難しいものだ。自分の絵画手法というものを持ってその見えている世界の創造になる。画面という世界にあらたな空間を作り出すという事だろう。見えているものを出発点にするが、それを組み立て直して世界を画面として出現させなければならない。

年賀状14

今年も石垣の田んぼを描いてみようと思っている。田んぼを写生しながら、制作というものを模索したい。見えている物とは、自分が発した反射なのだという見え方。こうして年賀状の絵を並べながら絵のことを考えてみたのは、自分の絵を目の当りにしながら絵を考えるしかないということをおもってのことだ。これしかできていない。こんなものだという現実。それは同時に、絵が自分というものを超えているという事でもある。上にある14番の絵もどうやって、どうして、このように描いたのかが、全く分からない。どういう手順だったかもよく分からない。ただこうなったというだけである。見てみれば、これが絵なのかどうかも怪しいものである。それでもここから始めるしかない。石垣に行くのは今から楽しみである。そして、写生は制作が絵空事にならないように、するためという事を確認したいと考えている。

年賀状15

 

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