地場・旬・自給

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終戦の日と靖国神社

2017-08-16 04:13:46 | Peace Cafe

戦争に敗れた日から72年が経った。やはり昨日は父がどんな思いで戦地にいたのかを思い出していた。父は8年間も中国の最前線で、下級の兵士として従軍した。長沙というところの自動車部隊というところに長くいたと話していた。自動車の運転のできない兵隊だったのだが、出来ない自動車の整備が担当で困ったらしい。長く兵隊でいると、めったに死ななくなる。死ぬのは新しく来た兵隊だと話していた。怖くてわざわざ弾の来るところに飛び出してゆくと話していた。父は主に食料の調達をしていたらしい。そういうことは得意だったと思われる。父はなかなかの商売人だったから、強奪するというより、上手く現地の人に入り込み食糧の確保をしていたらしい。中国語が普通に話せる人だった。中国人の友達も、尊敬する人もたくさんいたようだ。兵隊が中国人と友達になるというのもおかしなことだが、そういう不思議なところのある人だった。

終戦の日に靖国神社に閣僚の誰かが参拝をしていた。今年は稲田氏が防衛大臣を辞任していたので、何とか閣僚の参拝は無しになった。靖国神社に参拝する国会議員の会という異様なものがある。これは、あの韓国の従軍慰安婦像設置団体の裏返しのことになる。そのことを国会議員のご本人たちは自覚しているのかどうか。従軍慰安婦像を設置すれば、韓国では評判が上がるのだろう。日本でもまだいくらか靖国神社に参拝すると評判が上がるのだろう。従軍慰安婦像は良くないと思う。あのやり方は良い結果にはならない。韓国人というものに対する、不愉快な気持ちが溜まってゆく。そういう韓国人だけではないと思うが、残念なことだと思う。そして、靖国神社に行くのは一部の特殊な日本人だけだと私は言いたい。日本では困ったことに総理大臣が実は行きたい人なのだ。靖国神社の問題を考えると、様々な屁理屈が述べ立てられる。従軍慰安婦像でも、様々な屁理屈が並べ立てられる。確かに戦死された方々に対して、日本人全員が哀悼の意を持っている。それをわだかまりなく行うには、国立戦没者霊園が良いのだ。従軍慰安婦に対して日本人は謝罪しなければならない。賠償もしなければならない。しかし、大使館前に設置するのは許されない。

どちらにも言い分はある。歴史認識の問題というが、未来志向という視点を外してはならない。靖国神社には未来志向がない。靖国神社は明治帝国主義の亡霊の住処となっている。日本人が従軍慰安婦像に不愉快になるのと同じくらい、朝鮮中国の人たちは靖国神社が不愉快なのだ。靖国神社にぞろぞろと参拝する、国会議員を見ると何とも許せない気持ちになるのだろう。植民地にして、侵略戦争を行い、いまさら神としてまつるのかと我慢ならないのだと思う。相手の気持ちに寄り添う事だけが解決の道である。安倍総理をはじめ、靖国神社に参拝する国会議員の人たちは、近隣諸国の人の感じる不愉快な思いを考えてみる必要がある。日本を帝国主義に駆り立て、侵略戦争まで行わせた最大の原因は明治政府の富国強兵である。明治日本には大きな問題点があったのだ。確かに日本がいち早く近代化を果たしたことは見事なことであった。そのことが日本人を脱亜入欧という形で、アジアを軽視する思いを育ててしまった。遅れたアジアを日本が盟主となり近代化する。こういう気持ちで頑張ってしまった。アジア諸国を遅れたという不遜な評価をするようになってしまった。

日本という国はすべてを中国朝鮮から学んだ国と言ってもよい。稲作も、文字も、美術も、国づくりも。日本の素晴らしさは近隣諸国から学んだものが基盤となっている。それを一時期忘れていたのだ。靖国神社の存在が、中国、朝鮮で従軍慰安婦像と同じ意味になっている現実を認識しなければならない。靖国問題の解決なしに近隣諸国との友好関係を結ぶことは出来ない。それは明治以来の日本人のアジア諸国に対する蔑視的意識の払しょくという事でもある。年々薄れてきている。だから、多くの日本人にはすでに、なんでそんなに靖国神社に行きたいのかと不思議なことになっている。あの稲田氏をはじめとする国会議員の姿にアナクロな印象の方が強くなっている。もう一息である。そういうことを8月15日に思った。

 

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2粒のお米がご飯一杯になる。

2017-08-15 04:13:58 | 稲作

穂揃いした里地里山の田んぼ。左側が1本植の田んぼ、右側が4本上の田んぼ。左の方が少し穂揃いが遅かった。

一杯のご飯はお米の量にして約65グラム。1本植の苗が、16本に分げつし穂をつける。一つの穂に100粒のお米が実る。一粒のお米は0,02グラムほど。2株で3200粒のお米になり、それがちょうど一杯のご飯になる。つまり、種籾2粒が一膳のご飯になる。お米は1600倍になるのだ。お米というのは本当にすごい能力の植物だ。日本人の主食はお米だったのだが、毎年消費量が減り一年間に食べる量は50数キロになった。近い内に50キロを割ることになるだろう。もうそれでは日本人の主食がお米とは言えないという事になる。60キロのお米は100㎡の田んぼがあればできる。1畝30坪である。2人家族であれば、2畝60坪の田んぼがあれば足りるという事になる。60坪の田んぼくらい誰にでもできる。10家族で共同田んぼをやれば、600坪つまり2反の田んぼという事になる。これがだいたい平均的な農の会の田んぼの会の姿である。大小あるが、10グループくらいが活動している。

それくらいなら一人でもやれるという人も居る。いや共同でなければできないという人も居る。はっきりしているのは稲作技術がなければできないという事だ。1畝なら機械など全くなくともできる。やれるかやれないかは家族の暮らしぶりにもよる。暑い夏の草取りなど、誰にとってもなかなか厳しいものがある。忍耐の力が試される。収量も60キロのお米が100㎡で出来る技術もあれば、200㎡あっても足りない技術もある。農業は技術である。特に手作業中心の自給農業は技術が全てともいえる。技術がなければ4,5倍の労力が必要になる。謙虚に学ばなければ、技術は高まらない。その為の技術をわかりやすくブログに書き続けている。やる気持ちで読んでもらえば参考になると思う。すべて実践記録。間違えもたくさんある。間違え承知でやってみている日々の迷いも書いている。その方が参考になると思うからだ。自給など無理だと決めつける人も居るが、本当の技術力があれば、実はそれほど大変なことではないという事だけは分かってほしい。楽しみながら3000年の循環農業は行われてきた。

稲作を集落共同で行う。それは水というもので繋がる暮らしである。水は独り占めすれば、争いになる。水争いはきれいごとではない。命がけのもので、知恵を出し上手く分け合う事で地域全体の維持が可能になる。これが日本人の誕生だ。2粒で1食になる稲作。この素晴らしさに、協働する自給農業の意味を日本人は知ったのだと思う。協働することは結構我慢がいる。10人いれば、それぞれである。能力の多い人も居れば、能力の少ない人も居る。しかし、1食の量は同じである。子供もいれば、お年寄りもいる。鼻つまみもいれば、へそ曲がりもいる。それでもご飯1食は同じだ。助け合う日本人が田んぼで出来た。田んぼを通して日本人が出来た。武士道などと偉そうに言うが、到底百姓の暮らしに及ぶものではない。日本人の絵は瑞穂の国の農民の絵画だ。循環する自然の世界観に満たされているのだ。

欠ノ上田んぼの稲株を数えた。37170株である。ごはん18585杯分だ。一日50杯分という事になる。1日5杯食べる家族が10家族という事になる。面積が3反2畝ほどである。何故こんなことを数えてみたかと言えば、種籾を取るためだ。種もみは8キロいる。1キロで5万粒という事になる。だから最小限で言えば、1キロ蒔けば足りるはずだが、1キロの種もみでは1反は植えられない。3反で、5キロは必要になる。何故だろう。何株種籾用にすればいいかと考えてみていて出てきた数字だ。今のところしっかりとした種籾用の一株で40グラムと考えれば200株必要。他の田んぼでも欲しいという話なので、300株ぐらいは種籾用に収穫しようかと考えている。もち米の方は今年農協で喜寿糯を更新した。混ざらないように注意深く扱っている。まだ走り穂の段階なのに、すでにおかしな穂が混ざっている。種籾でありながら、すでに交雑しているというのはどいう事なのだろう。このレベルの種もみで許されているものなのだろうか。今まで自家採取していたものより交雑がひどい気がする。これでは毎年更新するべきという意味が分からなくなる。

 

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田んぼ穂揃い期

2017-08-14 04:01:01 | 稲作

写真はすべて8月12日早朝のもの。中央の2枚の田んぼは穂揃いになっている。手前はまだ出穂より少し前段階。湧き水で耕作している水が冷たい田んぼ。

今年の稲作は早く進んでいる。例年より、5日は早いのではないだろうか。8月8日を今年の出穂の日に決める。田んぼが棚田で繋がっているので、50%~60%穂が出た時期の判断が全体ではなかなか難しい。8月8日にはすでに9番では穂揃いに近い。しかし、3番などはまだ走り穂状態である。そこで、出穂期はあまり厳密に考えないで、全体で決めている。そして、出穂から1週ほどで穂揃いになるが、今の調子で行けば15日くらいか。天候が急速に悪化して、病気が心配の状態になっている。高温のこの時期の雨続きは稲の病気には危険信号である。何とかしのいでほしい。オロオロ祈るばかりだ。稲の病気はお天気次第だ。いかにも病気の出そうな株でも、好天が続けば何とかなる。雨続きとなれば、病気は全く出そうにもない株でも病気になる。窒素過多だと病気が出るとよく言われるのだが、土壌の状態が悪いと病気が出るという感じの方が強い。湿度があると病気が出ると言われているが、田んぼを乾かし気味にした方が、病気は出やすいような気もする。ともかく健全な生育を目指す。

追肥をした8番田んぼ。穂はこの時期は見えているが、もう少しするとすべて止葉の下に隠れる。奥の黒い色の田んぼが、12番の喜寿糯の田んぼ。現在、走り穂段階。

この時期の健全な稲の姿は、大きな止葉が出て、大きな穂が出ている状態だろう。穂は掌より大きく。止葉は肘までより長く。あちこち触りながら確認している。良い状態だと稲に癒される。穂が揃い、稲は障害で一番の大量の水を消費しながら、稲穂を重くしてゆく。垂直に立ち上がる止葉の立ち上がり方が着目点。太陽を突き刺すような強さで、天を指し示していなければならない。この時期垂れ下がるようなことはまずはない。葉の幅が20ミリあれば良い。葉はゴワゴワと硬くなければならない。止葉が充分であれば、少々の下葉枯れが来ても影響はない。根は田面全面を覆いつくし、白い糸状な状態である。水はどんどん吸い上げている。この時期の水がどのようなものであるかが大切になる。溶存酸素が豊富な生きた水であってほしい。という事は水温はある程度低い方が良い。夜は20度以下になってもらいたいが、それも難しい。水を温め手田んぼを作るという考えは切り替える必要がある。そして土壌には窒素分がなければならない。

先日の測定結果によると、欠ノ上田んぼでは入水の窒素より、排水の窒素の方が低かった。稲穂が出て今一番窒素の要求が高くなっているという事だろう。反対にリンの吸収がなかったのは、もうこの時期はリンは吸わない時期になっていたという事では無かろうか。稲の生育の段階が穂づくりに変わったという気がする。田んぼの水の変化で追肥の時期を決めるという事が可能かもしれない。子の神田んぼではリンの吸収がまだされていたのは、一段階前状態だからではなかろうか。今後の観察課題だ。穂肥を与えた、8番田んぼの穂の姿が他と比べて見事になってきた。背の高さも他とは変化がない。やはり穂肥を行う事には有機農業でも効果があることが見えてきた。同時に穂肥が倒伏には関係しないという事もわかった。問題はどの時期に与えるかである。有機農業では速効性の肥料という訳にはいかない。有機稲作では葉色で見れば窒素過多に見えるが、実はそうとは言い切れない。葉色の割に窒素不足に陥っていることもある。

写真に見える縞のある田んぼが苗代の田んぼ。その上がお隣の慣行農法の田んぼ。色の違いがはっきりとしている。

苗床の葉色が濃い場所が2度代かきをした場所であるという事ははっきりしてきた。2度代かきをすることで、窒素が出てくるという事はない。やはり2度代かきによって土壌の活性化が起きていて、稲の根にも良い影響があるように見える。代掻きのし過ぎは土壌をダメにするような心配があったが、どうもそうでもないようだ。田んぼの畔際はいつも稲が黄色っぽくなっていた。何処の田んぼでもそういう傾向がある。その原因も、代掻きが畔際は不足するから稲の色がさめやすいのではないだろうか。来年は田んぼ全体を2度代かきにしたい。稲刈りの時に、根を比較してみると少しわかるかもしれない。

 

 

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9条改定とシビリアンコントロール

2017-08-13 04:12:43 | Peace Cafe

自民党は次の国会で憲法改定案を示すとしている。アベ政権の支持率の低下で少し雲行きが変わってきたが、油断はできない。9条の改定に関して、自衛隊のシビリアンコントロールを明記すると高村氏が発言している。憲法に文民統制をあえて明記しなければならない理由などない。憲法で明記しなくとも、公務員というものはすべて憲法に従い、国民の権利を侵害しないように行動しなければならない義務を負っている。自衛隊が自らの判断で勝手な行動をしてはならいないのは当然過ぎることである。自衛隊が国民の意思を超えて行動してはならないのは当然のことで、いまさら文民統制の主張は、稲田氏と自衛隊の関係から自衛隊の内部統制の問題が見えてきているのではないだろうか。文民統制とは、政府や国会の指示のもとに自衛隊が行動する。という事が言いたいのだろう。元防衛大臣の稲田氏の行動や発言を見ていて、いかにも危うく、ぐらぐらなものに見えた。政治家が軍人よりまともだとは到底言えないうえに、今後自衛隊が現地情報を出さない可能性の方が怖い。

稲田氏も、安倍氏も靖国神社にどうしても参拝したい人である。その背景にあるものは明治日本を再現したい人たちへの忖度である。こんな人が指揮権を把握していてどこに安心があろうか。ソフト独裁では文民統制など無意味なのだ。憲法改定を主張しながら、一方で自民党は経済に専念すると発言する。経済をよくできれば、後のことは国民は気にしないと読んでいる。ソフト独裁の基盤は経済政策と領土の返還にあるからだ。それこそヒットラーから学んだことだろう。ドイツ経済を窮地から救い、領土の奪還を果たす。日本も経済さえ好転させ、領土が返還されれば、憲法改定など問題ないという読みだ。確かに、民主主義は経済や領土に踊らされる。選挙に一番影響がある。アベ政権が北方領土や、尖閣諸島を問題化する。そして、経済を回復させるという戦略の目標は明治日本の再現である。しかし、さすがにここへきてアベノミクスが眉唾だったことが見えて来たのではなかろうか。それが支持率低下の本当の原因。

稲田氏がかなり能力のない人だったことは、日に日に明らかになった。弁護士だから能力があるとは到底言えない。弁護士の中に能力のある人が多いいという事は言える。稲田氏が能力がないにもかかわらず、安倍氏が育てようとしていた理由がある。安倍氏と同じで、役者として動く女優人間だからだ。セリフだけを語っていて欲しいという、明治日本の再来を意図する保守勢力があるのだ。自分の強い意見を持っていて、言いなりにならない人は困るのだ。安倍晋三という人間はうってつけの人間だった。セリフ回しは上手であった。ところが判断能力が低い。低いという自覚の為か、言われたように動く事は得意である。だから、同じ人間が同時にこのようなことを発言するわけがないというような、矛盾に満ちた発言をしても、平然としていられる。謝罪の演技をしたことなどもう忘れたようだ。

アベ政権のソフト独裁の背後にあるものが、文民統制を入れるという観測記事を出せ、と言う判断なのだろう。今も、背後にある鵺存在は得体が知れないのだが、世論分析部のようなものではないか。コンピューターも駆使しているのだろう。高村氏にこういう意味のないようなことを言わせて、ニュースがどのように取り上げるか、その結果国民の反応はどうだったか。稲田氏の防衛省での無能ぶりが表面化する前に、ぶつけようとしたのだろう。稲田氏は迅速に調査をさせ、報告すると主張していた。それは自分には及ばないという事だった。ところが防衛相内部調査は一向に埒が明かない。ごまかし調査で終わりになろうとしている。防衛省の前川氏が存在はないのだろうか。もう取引は終わったのだろうか。わずか、本当のところが流れ出ておわりか。北朝鮮の暴発の可能性はかなり高くなってきている。自衛隊が突然、というようなことが無いように願いたい。

 

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アベ氏の謝罪は本物か

2017-08-12 03:50:46 | Peace Cafe

安倍氏は4日の内閣改造後の記者会見冒頭、森友学園、加計学園、防衛省日報、の3つの国民の不信に対して、深々と頭を下げ謝罪した。総理大臣が国民に謝罪をするという姿を私は初めて見た。是非ともこの謝罪が演技ではなく、誠実なものであってもらいたい。と書きながらも、残念ながらいつもの口先だけの演技だったようだ。謝罪したのであれば、何故森友学園の名誉学園長を引き受けていたのか。総理夫人に参考人として国会に出席させなければならない。教育勅語の暗唱を何故評価したのか。100万円は寄付しなかったのか。総理大臣夫人の行動規範をどう考えるか。など国民に丁寧に説明する責務がある。何も、つるし上げようというのではない。総理大臣夫人がどうあるべきかは、国民全体で考えなければならない問題であろう。家計学園の申請を1月20日まで知らなかったというのは、大半の国民が疑っているところだ。国民に納得できるように説明する義務がある。自衛隊と防衛省の関係を把握していなくてはならないのは稲田元大臣である。その人を国会に呼んで事実をしゃべってもらう。当たり前のことをしない謝罪など、演技に過ぎない。

加計学園の獣医学部については、1年先送りして獣医師のこれからの必要数を精査する。獣医学部に対する補助金の在り方を再検討する。地方再生と高等教育の無償化についても、全国平等な形でどのようなものであるべきか再検討する。防衛省の日報が不自然に隠されようとしたのか、ジュバに戦闘はなかったと判断した根拠はどこにあったのか。日報問題が出てきて、部隊は引き上げたのではないのか。自衛隊という武力集団に対する、政治の統制が出来ているのか。徹底した調査が必要である。稲田大臣は日報について、いつ知り。どうするべきだと考えたのか。そしてそれに対して自衛隊内部では、防衛省に対してどのような対応をしたのか。厳密に調査すべきだ。今後、自衛官は日報に真実を書くことは出来ないと考えただろう。もしまたPKOで国外に自衛隊が行くことがあれば、その時は現地の状況、自衛隊の行動、これを日本の国民に報道できる、報道機関、あるいは第3者機関の同行を義務付ける必要がある。

北朝鮮はミサイル訓練をグゥアム周辺で行うとしている。アメリカの報復もエスカレートしそうだ。先制攻撃を出来るように、日本も攻撃的武力を保持するべきだという意見が出てきている。たぶん安倍内閣や自民党の議員がそういう考えに傾いてきているのだろう。ミサイルに対して、迎撃するという事は完全に行うことは不可能である。アメリカが先制攻撃をするべきだと考えるのは、迎撃の限界を認識しているからだ。防衛する側が完全な防衛に備えるなど不可能である。1発でも日本に到達すれば、もう終わりである。現状は深刻な危機的状況と考えなければならない。日本が核武装し先制攻撃を出来るようにしたとしても、北朝鮮が自滅的な最終手段に出ることを防ぐことなど出来るわけがない。イスラム国の自爆テロを完全には防げないこと以上に深刻な問題なのだ。アメリカが北朝鮮に核爆弾を落そうとしたとしても、その時は日本も核爆弾が落とされている確率も高いのだ。

この状況を前にして、出来ることは日本の核武装ではない。日本が世界に対して核放棄を呼びかけることだ。それ以外にもう道はない。それを主張できる最も適任の国が日本だ。平和憲法がある。被爆国である。日本が核保有国に核削減を呼びかけるこれ以外に、世界の崩壊を止める手段はなくなりつつある。このまま、北朝鮮の軍事緊張が高まれば、核戦争が起きても不思議ではない。もちろん、そんな平和的手段は無駄なことに過ぎないと鼻先で笑われる理想主義である事は承知している。しかし、その理想主義の摸索以外道はない状況に至っている。どれほど日本が武力強化しようとも、北朝鮮の核ミサイルは防げないのだ。日本が先制攻撃したとしても、反撃で日本に核ミサイルが来る可能性があるのだ。核保有国は徐々に増加している。許されないという事では、アメリカも北朝鮮も変わらない。人類は核戦争など出来ない状況だという事を気づく必要がある。武力によらない平和の模索が理想論である以上に、軍事力による平和の維持は困難になったという事を認識する必要がある。

 

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石原由紀子・石原瑞穂ふたり展

2017-08-11 04:03:45 | 水彩画

石原由紀子・石原瑞穂二人展を見せて頂いた。秦野の[ぎゃらりーぜん]というところだ。二人はご夫婦である。そしてこの2人展はどちらかと言えば、石原由紀子さんの個展に、ご主人の瑞穂さんがホローするというような企画になっていた。二人の作品はめったにないような、絵画作品であった。そして、絵が向かおうとするところは両者がずいぶんと感覚が違うと思え、最初は少し驚いた。飾られた絵が作品であるという事は当たり前のことのようだが、私にはとても珍しいことだ。少し説明を要するのだが、絵画が表現されたものになっているという事が作品の意味だ。当たり前のようだが、絵を沢山見ているが作品というものにはめったに出会うものではない。表現であるという事は作者の思念に基づいて、描かれているという事だ。ますます当たり前のことなのだが、この当たり前のようなことが行われている絵が本当に少ない。絵らしき装飾の再現である。自己表現がされた作品でないものばかりである。絵を真似て描いている絵ということだ。

さらに分かり難くて申し訳ないのだが、絵らしきものという、世間や時代が作り出した価値感に保証された絵らしきものを、やってみましたというのは作品ではないという事だ。絵画というものはまったく当たり前のことだが、創作物なのだ。世間が作った絵画らしき価値をなぞることは、お習字や代書屋さんの文字のようなもので書という文字表現とは違う。言ってみれば模写画という事だ。そっくりに移すのではないとしても、絵らしきものという価値に沿って、絵を作るという意味では習い事の範囲である。かつてないもの、自分の内なる酒井間に従うもの、そういう他から写し取るような価値ではない、絵画を発見しようというのが、作品という事になる。以前、石原瑞穂さんの作品は見せて頂き、その奥にあるものを探っているという事は知っていた。

石原さんの絵は、問題の解決ではなく、問題の在りかを指し示すことなのだろう。人間というものが問題の在りかだ。アカデミーというものは、人間を研究するところだと聞いたことがある。人間が存在するということを、浮かび上がらせようとしている。この探る危うさのようなものを描いている。はっきりとさせることで、見えなくなるという真実。というようなことが前回の個展の感想に以前書いた。改めて今回、同じ感想を持った。見えないという問題点を、この奥は見えないと描くことで指し示す表現。本当のことは見えていない。真実というものはなかなか厄介な闇だ。言葉ではこういう一言になるが、石原作品ではこれがもう少し複雑に、難解に行われている。

石原由紀子さんはまるでご主人と真逆の世界である。見えている以外のものは何もない。と言い切ろうとしている。これがまた、すがすがしいほどに徹底している。その奥にあるものを切り捨てることで、見えている表面性が、表現として徹底して示されている。切り捨てれば切り捨てるほど、実は奥にある世界が暗示されてゆくのかもしれない。一歩間違えば没個性という事になる。しかし、没個性に徹することで、自己表現というものを花開かせている。年代順に掲載された作品集を見せいて頂き、その想像が間違っていなかったことがよく分かった。作品が大変難しいだろう世界に歩み始めている。これ以上切り捨てられない表面性というものがあれば、それは実はご主人の模索している、その背景にある見えない世界の深い闇と、少しも変わらないのではないかという予感だ。そういうただならぬ世界の入り口にあるのかもしれない。

このブログは書くのが遅くなった。今日11日で会期は終わりとなる。

 

 

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タミフルの格下げ

2017-08-10 04:13:34 | 暮らし

抗インフルエンザ薬のタミフルが、6月に公表された世界保健機関(WHO)の新しい「必須医薬品」リストで「保健システムに最低限必要な薬」から「補足的な薬」に格下げされたと英医学誌BMJが9日までに報じた。

新しい薬は常に検証され、見直されてゆく必要がある。製薬会社の利益主義による国際的な暗躍がある。「国民の45%に相当する量を目標としてタミフルを備蓄する。」と日本政府は決めている。こうして日本はタミフルの備蓄と廃棄を続けている。その主目的は製薬会社の経営と考えるほかない。これはタミフルだけの問題ではない。製薬会社は社会にある先行きの不安感を、意図的にパニック化させる傾向がある。それが不要な医薬品の販売に繋がるからである。テレビは薬コマーシャルを禁止した方が良い。訳の分からないサプリメントも同様である。薬まがいのサプリメントが横行している。ゴマが良いならゴマを食べればいい。あくまで食用の量が健全な姿である。サプリメントとして飲み続けたら、身体が対応力が衰退するに決まっている。肝臓がやられる可能性もある。宣伝というものは怖いもので、私のような薬拒否人間でも、ついつい宣伝を見ていると気弱になって飲みたくなったりする。年をとっても気弱になってはならないと思い直す日々だ。

人間の身体は死ぬときには必ず死ぬ。この明らめる覚悟が弱いと、薬に依存したくなる。健康サプリメントに引っかかる。タミフル等さしたる効果がある訳ではない。それは当初から言われていたことだ。いまさらながらのWHOの判断である。このブログでもタミフル備蓄の無駄遣いは、何度か書いた記憶がある。素人の私でもあまりに馬鹿げた、製薬会社の策謀には気づいた。政府は承知しながら国民を欺いたのだ。医療については不安を煽られごまかされやすい。WHOの鳥インフルエンザの人ひと感染のリスク判断は科学というより、思い込みで動いていた。確かテレビで英雄扱いされたシングルマザーのWHO日本人女性医師は、「その後国会議員になったはずだ。自分が製薬会社の販売マネキンにされていることに気づいていたのだろうか。意図的であれば、犯罪に近い。製薬会社の支援を受けての立候補だったのだろうか。」これは私の間違った思い込みでした、申し訳ありませんでしたましてタミフルは服用後異常行動が起こる可能性がある薬だ。何人もの飛び降り事故が起きている。こんな危険で効果の薄い薬など私は拒否する。

医療費が国の財政を破たんさせかねない。不老長寿を願う意識は病だ。健康の為ならお金も命も惜しまない日本人。薬を止めてきちっとしたものを食べるべきだ。サプリメントより食事に気を使うべきだ。暴飲暴食をしてサプリメントを飲み、病院通いする人間が、医療保険を無駄遣いしているのではないか。運動をしたら保健料の5%下げる。良い食事をしている人は5%保険料を下げる。まず健康になる努力を国はバックアップすべきだ。そしてどれだけ努力をしても人は必ず死ぬ。当たり前すぎることなの覚悟と自覚が必要だろう。死ぬことは決して悪いことではない。もちろん有難いことでもない事は確かだ。人間死ぬという事があるから、死ぬことを自覚するから、生きている今を充実させる。かならず死ぬという自覚があれば、無駄な医薬品に騙されることはない。延命治療の費用も保険負担か。

豊かになると不老長寿の医療を夢見る。誰もいつかは死ぬという運命がある。それを受け入れ良しとするところから、真剣に生きるという事が始まる。死ぬ自覚をするところから、人間は人間になる。人間になるために絵を描く。人間だから田んぼをやる。精一杯生きると言いう事が実に愉快になる。効果も不確かなサプリメントに依存しているようでは、精一杯に生きるという事の方がおろそかになる可能性が高い。健康である努力は大切であるが、健康で何をするのかの方がもっと大切である。国は医薬品よりも、健康な暮らし作りである。予防医学である。不安の強まる社会では政府がむしろ、健康不安を払しょくする活動をすべきなのだ。製薬会社に加担するなどはとんでもないことだ。そんな無駄なお金はどこにもない。

 

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オスプレー又墜落

2017-08-09 04:11:06 | Peace Cafe

オスプレーが又墜落した。オーストラリアでの事故だが、沖縄米軍所属のオスプレーである。こうも事故が連続するオスプレーを海外で訓練するというのは、ひど過ぎないか。アメリカ国内で十分訓練して、問題が無くなってから海外で使用すべきだ。危険性が高いので、沖縄で訓練しているとしか思えない。アベ内閣が日米安全保障の下、在日米軍に対して、事故原因の分かるまで飛行を控えてくれるようにお願いをした。しかし、米軍は全くそのお願いを無視して、沖縄で訓練飛行を継続している。何たることか。これがアメリカ国内であれば、飛行は中止になっているだろう。世界で一番危険な普天間基地で、世界で一番危険なオスプレー機が、訓練飛行を続けている。日本という国をアメリカはどう考えているのか。そこに沖縄の人たちが暮らしているのだ。このことについて、河野外務大臣は、アメリカ政府に直接話す機会を持ちながら、何の発言もしないという事は、何とも腰抜けではないか。河野外務大臣は単なる内弁慶だったのか。期待はずれた。河野洋平氏ならこんな時絶対に黙っていない。

河野外務大臣への期待は、自民党内でアベ批判ができる存在としてであろう。野田総務大臣と同じだ。自由に安倍氏をいさめることのできる人も居るではないか。まだ自民党は大丈夫だという事で、支持率を回復させようという安倍氏を動かしている集団の演出である。河野氏が安倍氏のお友達になりたい。そして甘い汁を吸いたいというのでは、話にならない。やっぱり忖度政治家かという事になり、アベ崩壊とともに河野氏の眼もなくなる。河野外務大臣は自分の考えも持たなければならない。日米韓で北朝鮮に圧力をかけるなどというような、使い古されたやり方では何の効果も上げられない。実力を高めている中国も実に手ごわい。いったい日本外交はどこを向けばいいのか。これをさすがという政策で乗り切れれば、日本の為にでもあるし、次の総理大臣の道も開けてくる。今度河野氏は外務大臣として長崎に行く。ここで、国連核廃絶条約への日本のかかわりを各国の大使と話してもらいたい。

菅官房長官はオスプレーの飛行中止を申し入れた訳ではない。と言い方を変えた。汚いやつだ。アメリカが要請に応じないので、仕方がなく国民に対してごまかしをしている。日本がアメリカという国に対して、属国の立場にいることが明白になる。「みっともない、情けなくなる。」それはアベ総理の日本国憲法に対するものであったか。みっともなく情けないのは安倍総理あなただ。日本国民の不安に対して、明確にアメリカに対して発言もできない。アメリカを忖度しているのだろう。こんな時に江崎沖縄担当大臣は、見事に失言をした。「日米地位協定の見直しが必要だ。」記者会見で明確に本音を話した。最近のアベ政権では本音が出ると大体は失言取り消しになる。確かにこの人は朗読大臣だ。小田原ではオスプレーが来る予定が取りやめになった。住民の不安があるからだそうだ。土台オスプレーが防災訓練にやってくるようでは話にならない。

以前から書いているように、オスプレーという飛行機の発想は悪くない。日本向きだと思う。狭い空き地に離着陸出来て、長距離を移動できる。将来はこういう飛行機を日本が開発したらいい。現状では弱点が多すぎる。操縦がかなり難しいものらしい。長時間の訓練を積まないと操縦できないものとある。その訓練中に事故が繰り返されている。事故が多いいので海外で訓練をしているというのが実態であろう。本来であれば、構造を根本から発想を変えるべきものなのではないかと思える。人間の操縦技術の熟達に期待するのではなく、自動操縦が可能な方向に行くべきではないか。もう一つは騒音である。実際に見た人から聞いたのだが、余りの騒音に驚いたといっていた。遠くに見える程度なのに音だけは、話ができないほどだったそうだ。この点でも、構造上に無理があるのではないだろうか。普通のヘリコプターレベルの騒音に抑えられるまで、一般の場所での飛行は無理だ。

 

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獣医学部の必要性

2017-08-08 04:40:42 | 自然養鶏

獣医学部の新設に基本的に賛成なのは、鳥インフルエンザで遭遇した、つらい経験がある。このブログを熱心に書き出したきっかけの一つも、鳥インフルエンザの流行にあった。この流行には疑問が生じたままだ。そして、鳥インフルエンザに対する対応がまるででたらめであったことは何度も書いてきた。鳥インフルエンザが見つかると、発症した県の家畜保健所はその対策の先頭に立つ。しかし、感染が広がり始まると、とても担当部署だけでは済まなくなり、その県の他の部署からも応援が出ることになる。それでも足りなくなると、近隣県の家畜保健所などから応援職員が派遣されることになる。しかし、それでも対応しきれない為に自衛隊の出動が要請され、その地域の感染拡大の阻止のために活動する。そして、一方でその県の警察も動くことになる。私の場合、家畜保健所から呼び出された。注意喚起のために養鶏関係者を集めて注意をするというのだ。そして警察が、養鶏場に物々しく何か事があったかのように現れた。

行政や警察の対応自体が、感染症に対する基本がまったく出来ていない。まず、鳥インフルエンザの流行が始まった地域で養鶏業者を集めるようなことは、最もやってはいけないことだ。私はすぐにもやめろと抗議したが、聞く耳を持たなかった。行政は努力を形で表したいだけなのだ。感染が広がれば養鶏場同士の接触が混乱を深めることになる。それに加えて鳥インフルエンザに関して無知な警察官が、養鶏場を次々に回り始めた。私は警官に基本事項を質問したが、何も答えられなかった。鶏の死亡など何か隠していないかを調べようとしたのだろう。こうして警察官が感染を広げた可能性もある。しかも、警察が出動しなければならない緊急事態という事を住民に告げることになり、養鶏場に対する差別が始まった。地域の住民から、養鶏業は危険だからやめてほしいという声すら出た。今でも、小学校で鶏の飼育は出来ない状況が続いている。こうして、日本の天然記念物でもある鶏の文化は途絶えようとしている。鳥インフルエンザの騒動においては、報道機関も病気について理解できないまま、でたらめ情報を垂れ流した。何でも大げさに取り上げるのを得意とするテレビ報道は、明日にでも人に感染するかのような騒ぎにエスカレートさせた。海外で起きた特殊な詳細不明の事例が、あたかも明日には日本のことになるかのような、無知な対応が続いた。この騒動を悪用し、巨額の利益を上げた製薬会社やWHOはその後収賄罪で逮捕者が出た。人間のインフルエンザ問題でのタミフルの備蓄という、製薬会社の陰謀に鳥インフルエンザが利用されたということだ。

この問題の根底にあったことは、科学的な情報の不足である。今でもまだ鳥インフルエンザの世界的流行の科学的な理解はできたとは言えない。獣医学が学問として遅れているという事がある。人間の医療との連携が取れていないという事もある。そして、感染症専門の獣医師が不足している。つまり、街のペット病院の数は増えても、行政の職員としての獣医師は十分とは言えない。例えば、ことが起きた時に、国の感染症対策の獣医専門職が県の家畜保健所と協力して行動するような体制がない。その為に、知識のない行政職員や、警察官、自衛官が動員され、感染を広げかねない結果になった。茨城県では、現場に行かなかった職員から抗体反応が出て、人ひと感染が疑われた。あれはその後なかったことになった。いずれにしても、ヒアリではないが、これからの世界は海外から、感染症が家畜由来で蔓延する可能性は日に日に拡大している。家畜の飼料は大半が輸入なのだ。感染予防のためには、日本においては水際作戦の強化以外にない。専門知識のある職員を、輸入業務の部署に数多く配置する必要がある。

狂犬病などでも、現在、ワクチン接種が義務付けられているが、これは対策が間違っている。犬に予防注射を打つのではなく、日本に狂犬病の疑いのある犬を入れないようにすることだ。つまり、もし日本国内に狂犬病の動物が持ち込まれたとすれば、怖いのは犬ではなく、外来種のあらいぐまだ。ここに感染が広がれば、もう防げないことになる。犬にワクチン接種している愚かさを認識しなければならない。これは野鳥にはワクチンが打てないのにもかかわらず、養鶏場の鶏にだけワクチンを義務化している愚かさと同じだ。そんなところに費用をかけるより、海外から絶対に国内に入れない、防疫体制を強化しなければならない。国の職員として、相当数の獣医師が必要である。またその獣医師の感染症に関する、海外の新しい状況に敏感に反応している人材である必要がある。鳥インフルエンザに関しても、学問的研究が全く不十分で、ただすべてを淘汰するという原始的な方法だけで対応している。鳥インフルエンザに関しての学問的水準を上げるという意味でも、専門の学部は必要になる。鳥インフルエンザの元凶は大規模養鶏にある。大規模畜産を継続すれば、さらなる新しい感染症が出現する可能性が高い。つまり、100万羽が一か所に飼われているという事は、そこで、ウイルスが変異する可能性が高いと思われる。それは人類の新たな危機にもつながる。獣医学の進歩の為にも新しい大学ができることは悪いことではない。

 

 

 

 

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日本国憲法に感謝

2017-08-07 04:12:22 | Peace Cafe

広島原爆の日に改めて日本国憲法に感謝した。日本国憲法は世界で最も優れた憲法だと思う。こんなに素晴らしい憲法の国に生まれ、暮らしてこれたことは、どれほど有難いことであったかと思う。おかげで戦争の危険を感じずに68歳まで生きてこれた。これは不安定な世界情勢の中、感謝する生涯だったのだと思う。徴兵制度のない国で暮らせたことは実にありがたいことだった。こんな素晴らしい憲法を、安倍晋三氏は「みっともない、情けない憲法」と、発言している。アメリカに押し付けられた憲法という認識なのだろう。確かにアメリカとの戦争に負けた結果、占領下に明治憲法を変えさせられた事は事実である。敗戦国が、世界から新しい憲法を作れと言われ、再出発の思いで、練り上げた憲法でもある。だから、「いじましい、情けない」という安倍氏の思いは、実は日本が戦争に敗れたという事にあるのだ。敗戦国が占領されたことは、実に情けないことだ。愚かな戦争をして負けたという、情けない現実を忘れてはならない。

日本は世界から、今の北朝鮮のようなみじめな扱いを受けた。無謀な侵略戦争を行った。アジアにおいて、何千万人もの戦争犠牲者を生んだ。この反省と懺悔の気持ちから、日本は平和憲法を作ることで、国際社会への復帰を願った。当時の幣原内閣もこの憲法を積極的に協力して、作り上げたのも事実である。だから、この憲法は日本再生の思いが託されている。天皇制の維持を日本人の大半の人が願っていた。戦争責任を天皇がとらされ処刑される。天皇制が無くなるという事を日本人は全体が怖れていたと想像される。天皇制の維持を認めてもらえるのであれば、一切の武力の放棄を憲法に書き込んでも良いというのが、幣原内閣の思いであったようだ。そして押し付けられたと言えば、民主主義であろう。アメリカは日本に民主主義を根付かせなければならないと、本気で考えた。今に残る公民館制度や、青年団、生活改善クラブ、婦人会。そして、財閥解体と農地解放。こうして封建主義から抜け出し、民主主義国家に日本を生まれ変わらせたいと考えたことは間違いがない。

安倍氏は日本が封建制度を止めさせられたことを、いじましい情けない事実と考えている可能性がある。安倍氏は瑞穂の国、美しい日本とも発言している。このブログで徹底して安倍批判を続けているのは、日本国憲法に対して、こんなにひどい発言をしている人間を総理大臣にしている日本という国家をの情けなさにある。確かに安倍氏を選んだのは日本国民である。これは21世紀の日本人の大失敗だと思う。経済不安からこういう選択をしてしまったのだろう。競争に負けるという不安から、アベノミクスに期待を抱かされた。しかし、アベノミクスというものが、いったいどういうものなのかわからないまま、ここまで来た。そして、日本国内の格差はさらに広がった。弱者が虐げられる競争社会に転換し、国際競争力を強化すように発破をかけられている。そして、瑞穂の国のはずが、美しい農業の姿など日に日に失われ、地方創生どころが、地方は消滅の危機に陥っている。

安倍氏がみっともない、情けないと蔑視した、平和憲法のある日本国であることを、私は心から有難いと考えている。武力を捨てるという国際的公約をした、理想主義の国家に生まれたことは、実に素晴らしいことだ。平和憲法を尊敬するし、この憲法の理想に行きたいと思う。世界平和のためには、武力を捨てるしかないという理想主義だけが、世界の希望なのだ。それは確かに夢に近いのかもしれない。しかし、現実は日に日に危うさを増している。核戦争が近づくほどに、日本国憲法の真髄が光ってくる。科学技術の進歩によって、北朝鮮が核ミサイルをアメリカにまで打ち込める日が近づいている。もしこれがイスラム国であれば、ためらわずにすでに核戦争が勃発して、世界は崩壊に進んだことだろう。日本が今やれることは、核廃絶を核保有国に呼び掛けることだ。それが平和的手段による紛争の解決という、日本国憲法で示された方角だ。

 

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農の会と専業農家を目指す人

2017-08-06 03:59:34 | あしがら農の会

農の会は地場・旬・自給の会である。それは立ち上げた時からの思いであった。農業者というものは地域の維持に大切であるが、この地域では今後農業経営が不可能になるだろうと、25年前に考えていた。地域の農地を守るためには専業ではない人を、農地の維持に呼びこまなければならないと考えてきた。専業農家に農地の維持ができないのであれば、自給的な人に農地管理をしてもらわなければならなくなる、といというのが、農の会を作った時の発想であった。それでも専業の農業者になりたいという人が、年に一人ぐらいは現れ続けた。農の会に自給者としてかかわる中で専業に変わる人も居れば、初めから専業を目指す人も居た。農の会はこうでなければならないということはない。その人その人のかかわり方で様々なかかわり方が自由に出来る。今の時代に農業をやろうと考える人は、独特の人ばかりだった。今数えてみると30人近い専業農家になった人と出会った事になる。中には自分では農の会等とかかわったとは少しも思っていない人も居るだろう。足柄地域を離れて遠くで農業を始めた人も居る。

いずれにしても、毎年1人くらいの新規就農者に出会ってきたことになる。どの人が来た時にも農業は大変だからやめた方が良いと話したと思う。家も農地も機械もある地域の農家の人が、不可能だからやめようと考えているのが、農業という仕事だ。親ならできれば子供には継がせたくないとまで考えている仕事だ。普通では不可能なことと考えなければならない。自分だけできるなどと思うのは何かが間違っている。自給農業にした方が良いと話して来たと思う。他に収入の道を確保しておいて、自給農業をやる。これは楽しいし打ち込める。自給農業は1日1時間100坪の土地でやれる。などと話すが、農業をやりたいという人の思いはまた別で、結局のところやる人は何を言われようがやることになる。農の会は自給農業の会なので、あくまで新規就農者は農の会の周辺の人と考えざる得い。互いに助け合わなければならないが、生産者は最終的には自力でやらなければならない。農の会がかかわれるのはせいぜい最初の3年間くらいと言ってきた。

直接農の会とは別に、養鶏の方でも10人を超える人が研修に見えたと思う。今も全国のどこかで養鶏業をしている人も居るかもしれない。私の所での研修が少しでも役立ってくれていればありがたい。しかし、農業でやって行くのはよほどのことでなければ無理だろう。養鶏業であっても困難なことは変わらない。だから今でも、専業農家になる道は誰にも勧められない。それほど日本の農業を取り巻く環境は良くない。私が始めた25年前よりさらに悪くなっている。それでも農地は守らなくてはならない。農地が無くなれば、特に田んぼが無くなれば、日本という国柄が失われると考えている。小学校で道徳教育を正課にするという事らしいが、それくらいなら田んぼの農作業を授業に取り入れた方がよほどためになる。そう思えるほど田んぼは学べる場だ。絵を描いている人なら、必ず絵が自分のものになる。音楽をやっている人なら、自分の音の音楽家に成長できるだろう。詩人であれば詩が生まれる。経営者であれば経営の目的が見えてくるだろう。そのように日本という国は出来上がったのだろう。日本が方角を失い始めた今、田んぼをやってみることで方角が見えてくるかもしれない。だから、自給農業には意味が有ると考えている。安心立命である。

農の会を始めて良かったことは、こうして多くの人と出会えたことだ。自給的に農業をやる人とは200人を超える人と出会ったのだろう。しかも同じ目的の作業で共に汗を流したのだ。こんな不思議なことをやれたという事がうれしい。私は70まではやりたいと考えている。あと2年農業に頑張り、70からは絵に専念する。70までは何とか動けるからである。今も昔の山北での開墾時代のようには、身体が続かなくなっている。それでもあと2年は何とかやれるかと思っている。農の会が多くの新規就農者の、何らかのきっかけに成れたことは、良かったことだ。その人たちがどこかで次の人の始まりのきっかけになってくれればうれしい。鶏を飼って生きることができた事は、それはそれは面白いことであった。自分の鶏種による養鶏の夢は出来なかったが、出来ないという事を証明できたのかもしれない。今でも鶏の研修をさせて欲しいという問い合わせがある。残念ながら、今は終わっている。自給農業であれば、あと2年間はすべてをお伝えできると思う。

 

 

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わたくし絵画の意味

2017-08-05 04:04:14 | 石垣島

 

石垣島の道 制作途中 中盤全紙 こちらはたて構図、どうなんだろう。なぜ絵は縦と横があるのだろう。

 自分の絵を深めるために一番障害になっているものが、頭の中にある自分の絵である。自分が必死の努力の末到達したと考えている世界が、新しい世界に進むことを阻害する。自分が作ったと考える世界が邪魔をする。自分が自分を縛ることになる。安井賞受賞作家で作家になった人は2人くらいのものだ。その二人は、安井賞を受賞した時代の絵とはまったく違う絵を描くようになった人である。若いうち評価されるという事は、絵を描くものにとっていかに危険なことかと思わざる得ない。幸いというか、不幸にもというか、私は全く評価をされたことがないので、過去の絵にしがみ付くようなことだけはしないで済んだ。しがみ付きはしない。むしろ否定しようとしてきたのだが、それでも絵を描けば、自分の絵というものが立現れる。この表れてしまうものは自分の感覚であり、自分の観念なのだろうとおもう。それが新しい世界に自分を進めることの障害である自覚がある。

それまでの自分という人間が自分を邪魔している。自己否定という意味で始末に負えないのだ。その現状の自分というものの上に自分の絵を積み上げようとしている。ついつい今までの自分ではダメだと思いながらも、どこかで評価をして、その上積みを狙おうというような浅ましいことになる。自分をやり尽くすためには、今の自分をどう否定するか。それ以外に道はない。今までの自分でいいなら、何も絵を描く必要もない。未だかつてない自分に至るために絵を描いて居るはずだ。それを邪魔しているのが自分という我である。これは個性主義の先入観ではないかと思っている。個性的であれというような、訳の分からないまま刷り込まれた価値観がいつの間にか自分の道を閉ざしている。自分らしいというように一見見えるものに、一番自分が影響を受けてしまう。人と違おうが、同じであろうが、どうでもいいことのはずだ。

絵の進歩には自分と思い込んだ何かこそ危険だと考えるようになった。自分をやり尽くすためには、自分というこびりついたものから、柔軟になれるかである。今までこうやって描いて居たという事を、描くたびに消去できるかである。これができる人が本物の絵に近づける人だ。長年描いて来た人間が初めて絵筆をとったような気持で、画面に向えるかである。いつものやり方などではなくやれるかである。自分でも何故こういう絵を描いたのかわからないようなことがやれるかである。全く、意味不明な自分の絵に耐えられるかである。絵は自分の描く意思を超えている。思わず新しい世界に抜け出るようなものだ。絵は人と自分との間にある。自分の中にある訳ではない。絵を描き始めるときにどこに行くかが全く分からないような、自由な精神に至れるかである。良い絵とか、名画とか、好きな絵とか、好きな色とか、そういう絵の前提になるようなものを一切払しょくできるかである。そしてゼロになって画面に向かい合えるかである。

ゼロの世界から生まれてきた。ゼロの世界に戻ってゆく。生きている自分というものが、今ゼロの場に立ち、何を描くかである。そんなことは不可能であろう。不可能であるのは承知で、そういう事を思う。それでなければ自分の奥底の絵には至れないと思う。「いつも何度でも」という歌を1000回くらいは唄ってそういう事を考えた。心が柔軟であるという事だけが、前進できる方法である。かつて獲得したというものの意識が新しい発見を阻害する。成功体験が前進を阻む。出来ないと思う先に、何かがある。田んぼならごく当たり前のことだが、絵を描く時にそれが分からなくなる。ついつい、いつものやり方を繰り返している。これが前進を阻んでいるのだ。絵を描くという事は職人仕事から最も遠くにあるものだのだ。職人と絵描きは似ているので間違いやすい。絵を描くという事は何かの完成を目指し、磨きあげてゆくようなものではないのだ。どう本当の自分を味わうかの発見の旅だ。その為には今の自分という存在をゼロにして立ち向かわなくてはならないと、改めて思う。

 

 

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経済至上主義中国という現実

2017-08-04 04:52:30 | Peace Cafe

お隣に中国という経済大国が、出現した。日本は何かにつけ、商売にいちゃもんが付けられ、怯えながらも従う道しか選べない毎日である。中国に行った、温泉業者はどうなったのだろう。何がどう怪しいのか一向に見えない事件だ。政府の方が何か対策をしているのだろうか。一人は返されたのだから、大体の事情はつかめたはずだ。それでも政府が行動を起こさないのは、何か不都合な真実があるのだろうか。いずれにしても世のネトウヨ氏は中国のバブル崩壊を願い、有ることないこと騒いできたのだが、走行している内に、もう経済では到底追いつけない状況ははっきりした。これはまだ序の口で、すぐにも日本の2倍くらいの経済規模の国になるだろう。もう日本の国際競争力は中国には及ばない現実を認めざる得ないだろう。もちろん中国だって必ず頭打ちになるが、日本のように衰退気味の人口減少国家とは状況が違う。まだまだ成長余力がある。個人所得で日本の半分くらいになるまでは、国際競争力は強い。

アメリカ大統領トランプ氏は、とんでもない柄の悪さだが、アメリカファーストの方がアメリカ人の暮らしにとって有利だという現実を踏まえている。他人のことなど経済の材料ぐらいにしか考えないでいられれば、アメリカファーストが一番という事になる。本当に恥ずかしいことだが、安倍氏が籾手をして頭がを下げているのも、すごい忍耐力だ。何でもするから見捨てないでというのでは、さすがに見るに見かねる。日本国民の為に、出来ない我慢もしてくれているとすれば、見事な忍耐だ。韓国では文大統領の指示が高まっているらしい。北朝鮮の暴発が切迫化すれば、もう大統領に権力を集中させるほかないという考えになる。

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絶対正義は疑う

2017-08-04 04:09:08 | Peace Cafe

小泉劇場と呼ばれた郵政民営化は、絶対正義のように国民の前に提示された。国民はいつの間にか巻き込まれて、郵政民営化の結果起こることよりも、民営化即正義と考えてしまった。郵政民営化に反対する人たちは守旧派として問答無用に排除された。そして郵政選挙が行われ小泉自民が大勝し、小泉チルドレンと呼ばれる訳の分からない国会議員が乱造された。あの時は野田聖子議員は自民の公認から外され、刺客を送られたのだ。こうしたやり方の反動で自民党はその後おかしくなり自滅した。では現時点で、郵政民営化は絶対正義だったのかと検証してみれば、そうでもない。郵便事業は新たな曲がり角にある。インターネット時代の中で郵便事業はどうあれば、国民にとって良いのかである。すべてのことは良いと悪いが混然としている。人間の世の中に絶対正義のことなど一つもない。私は田んぼを正義のように掲げるが、田んぼも良い側面と悪い側面が当然ある。絶対正義を掲げて、強弁する人はまず疑う必要がある。今でいえば、「岩盤規制の打破」が正義として言われている。アベ政権の売りが岩盤規制をドリルで穴を開けるである。岩盤規制と呼んでしまえば大抵のことが悪に見える。例えば農協問題。農業者の組合という原点が論議されることなく、解体されつつある。

そして、加計学園問題である。獣医学部の新設でが岩盤規制とされている。獣医学部は文部省の許認可権によって新設が認められないできた。それが岩盤規制の象徴とされたのである。そして細かな検討議論を抜きで、加計学園の獣医学部新設が、ドリルの一点突破になり、後に続けという事である。文部省が認可しないというのもどうかと思う。やりたいならやればいい。但し、加計学園に補助金を出す必要はない。文部省が獣医学部に対して出している補助金を加計学園には減らしたらいい。どうしてもやりたい。補助金がなければ不可能というなら地元自治体がその分を負担したらいい。地方創生の事業でもある。獣医師が必要か必要でないかの議論も十分されたとも思えない。岩盤規制を突破することが目的化している。岩盤規制の打破そのものが絶対正義になっているように見える。そこに議論を拒絶する匂いがする。政治の劇場化現象である。

法科大学院は次々と閉鎖されている。弁護士や法律家が不足すると政府は予測した。アメリカのような訴訟社会になるというので、今の数倍の弁護士が必要と政府が考えたのだ。日本も国際化されてゆく。海外との交流も増える。日本も訴訟社会になる。法科大学院を作り、弁護士を倍増しなければ次の社会には対応できない、と諮問会議が答申したのだ。ところが法科大学院数も定員も、ピーク時より半減している。訴訟の数自体が減少している。司法試験合格者数を9,000人まで増加させると考えたが、現在の合格数は2000人未満である。諮問会議の予測が甘かったがために、大きな無駄遣いがされたのだ。規制緩和が絶対正義という考え方は危険である。あらゆることに正しさと間違えがある。獣医学部の新設を岩盤規制の象徴としてとらえ、充分な検討をしないという事に問題がある。たぶん安倍氏はその昔、親友の加計氏から獣医学部の新設必要性とその困難さを教えられたのだろう。こういう規制を打破することが政治と考えたに違いない。そのこと自体は悪いことではない。ただその絶対正義の為に、冷静な議論が抜け落ちている。

初めから岩盤規制の打破の正義が、論理を超えてことが進められている。今の時点で獣医師の将来の必要数が話されているが、やりたいなら獣医師の必要数など考えずに自由にやるべきだと思う。岩盤規制など要らない。ただし、補助金は無しだ。補助金を当てにして獣医学部を開くというところに規制が必要になる。補助金政治こそ問題にすべきだ。森友学園も同じだ。籠池氏はいまや補助金詐欺師と呼ばれている。それなら安倍氏だって補助金差配師ではないか。加計学園も理念として四国に獣医学部が必要と考えるなら、補助金を返納すればいい。自力でやると言えば、誰も文句は言わないだろう。ところがどうも学校経営が優先されていることが見え隠れする。これが狡い。総理大臣との親しい関係を利用して、優先的に認可を自分だけが受けたのではないかと疑われて当然である。内閣改造の目くらましで、アベ政権の忖度腐敗を見逃してはならない。

 

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絵を描くこと、農業をやること

2017-08-03 04:07:24 | 石垣島

石垣島 製作途中 中盤全紙

絵を描くことが一番生きているんだなあと思う。農作業をすることも生きることだ。この二つが少しの変りもないという事が、少しわかってきた。絵を描けば、絵という作品が作られる。農作業をすれば、農作物が生産される。いずれも自分の為のことだ。だから、私絵画になり、自給農業になったわけだ。養鶏業をやった。売られていた卵としては日本で一番優れた卵だった。2種類の発酵飼料。草むらでの放し飼い。自家系統の品種の養鶏。この3つだけなのだが、今でも誰もやっていない。良い卵を作りたいというところから、良い卵とは良く孵化する卵だという事に行き着いた。今稲作を突き詰めようとしているが、やはり一番のお米は、良い種籾であるお米ではないかと考えている。最高の種が、最高の食糧であるはずだ。絵でも同じではないか。良い絵を描きたいから始まり、自分にとって良い絵とは、見ることでは無く自分を生み出す絵なのではないか。それは絵を描くことそのことにあるという事に至った。

農作業をすることは、食糧生産の為だけかと言えば、そうでもない。蒔いた種が発芽する喜びは、発芽するという自然力から受ける喜びがある。この喜びを体験したいから農作業をするという事もある。いろいろ工夫し、様々な対応をしながら、自然にはぐくまれる作物。そして収穫に至る。収穫物を頂く。それが生きてゆくことになる。食べてしまえば消え去るのだが、それは自分という存在の生命を動かしている。食べ物は命の基本をなす、それを作る喜びが農作業にはある。絵を描くという事も、命の基本という意味で、同じなことではないだろうか。出来上がった絵は一体何なのだろうか。絵を描くという行為の意味するもの。描かれた絵はどういう意味が有るのか。絵という存在は、極めて不確かである。しかし、確実に目の前に創造物として存在する。不思議だと思う。

絵を描くという行為は、作物が芽生えると同じように、自分の意思によって何らかなのものが立現れるものだ。その無から立現れるものは、自分が純粋に生み出したものだ。そして又、消え去るものでもある。自問自答しながら、創造してゆく行為が絵を描くという事になる。何かが作り出されたと感じた時の喜びは、作物の芽が芽生えた時以上に大きな喜びがある。何もないところに、自分の行為によって何らかの意味あるものを作り出した喜びがある。それが、より純粋に自分というものの存在に触れあう事になる。浮かび上がる自分という人間存在、そこから出て来たものであれば、喜びは何とも深い。それが、通俗であったり、ただの描写であれば、何とも自分のつまらなさにぶち当たる。注文仕事のようなものであれば、この喜びは失われる。

こう考えると自分という人間の証明になるような、新たな創造物を作れないかというのが、絵画制作の目標になるのではないだろうか。いまだかつてないものを願う気持ちは、未知なる自分に出会うという事なのだろう。自分という人間を探索し、その思考や感性を創造する。これが絵を描くという事ではないか。作物を作るという事は自分の食糧を確保するということになる。そうしなければいきれないのが人間である。絵を描くという事は、自分という人間の生命を輝かすという事になるのだろう。命が続く限り、命の輝きを最高に保ちたいという事だ。そして自分の命が生まれ、生きて、死んでゆくという存在を何処までも探求したいという事になる。その羅針盤のようなものが絵を描くという事であり、出来上がった絵という事のようだ。食べ物を作るという事の喜びは、自分が生きるという事を自分が支えるという事だと思う。そして絵を描く喜びは、自分が生きているを確認するという事ではないか。生きているという事が、息をしているというのではなく、生命として輝くという事。命が新たなるものと出会えるという事。絵を作り出すという事には、結局何をどう考えようとも厳然と、描いた絵があるというところが良い。冒頭の絵が結局私なのだ。そこから進む以外にない。

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