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地場・旬・自給

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豊洲盛り土問題

2016-09-15 04:39:46 | 環境関連

築地市場の移転がやたら揉めていた理由がやっと分かった。今問題になっている2008年は石原都政3期目であった。石原氏は国政に気持ちが移っていて、都政の現場がおかしくなっていたと思われる。石原知事の関心は常に都政より国政にあった。石原知事は保守政党の設立に関心を移していた。その後維新の会や次世代の党などと国政に戻る。都民の支持率は高く、2011年には4期目の当選をする。1999年から2012年まで続いた石原都政。2012年には尖閣諸島を東京都の土地にするという発言をワシントンで行う。そして猪瀬氏を後継に指名し都知事を辞職。舛添都知事が贅沢で批判されたが、石原知事の贅沢三昧はその比ではなかった。その上、都政は人任せで、都庁に行くのは週3回程度だった。石原氏はこの問題では騙されたと発言したそうだが、騙されたのは都民である。この人に批判が出なかったのは、圧倒的な国民的支持である。加えて、衆議院議員時代からの、大きな利権と保守勢力と結びついていた。マスコミは追及を怠った。

石原都知事の領分であるはずの都の行政はお役人にお任せになっていたのだ。その結果お役人の手抜きや、手落ちが蔓延した。今になって、豊洲の設計がでたらめだとか、建築工事が談合だったのではないかという話が出て来るのも当然のことだ。そもそも豊洲の土壌汚染が騒ぎになった一因は、汚染が取り除けないというような安全上の問題以前にある。築地に残りたいという仲卸などが、問題点として取り上げたことで深刻化した。科学的な汚染処理よりも、移転実現の説得が優先された。都知事はこうしたことに関心も薄かった。築地市場が卸売市場として限界に達していることは明白だ。しかし、その歴史の中で商売を成功させている業者にしてみれば、あえて、新しい挑戦をしろというのでは不安なだけだろう。その根底にあるものは、卸売市場というものの、歴史的転換期が来ているという事だろう。卸売市場の役割はあるにしても、その意味は変わらざる得ないという前提の中にある。

豊洲に移れば、新しい取引形態を新規に作り上げなければならない可能性がある。当然この機会を狙って、割り込もうという企業も登場しかねない。伝統的信用で構築されてきた築地市場の形態が、清算されかねない状況を感じたのだろう。こうした不安の中で、都の担当者はその場限りの対応を繰り返した。それが、土壌汚染、土壌の除去、盛り土。その後の環境調査。この流れを建前として、説得材料にしただけだ。汚染地に卸売市場が出来るというだけで、風評被害は確実である。清潔で安全な市場を作るというイメージ戦略の前提は、この時に崩れたのだ。築地からの移転の根本原因である。手狭になったという事と衛生上問題がある点では、世間的な説得材料を失っていた。問題は本質的な安全性よりも、建前としての説得材料問題であるから、盛り土の上に建物を建てるというようなことは、すぐ忘れられた。

市場の安全性は商売のイメージである。築地のようにコンクリートに直接生ものが置かれていても、歴史的な実績があり、築地仕入れが商売の売り文句になる状態の意味を考えなければならない。食品安全基準というものが、そもそもおかしいものなのだ。弱小の処理場を淘汰することが、安全対策というようなところがある。猪を山で撃ち、その場で解体して食べることは違法ではない。然し同じことを豚で行えば犯罪である。釣った魚をさばいて生で食べることは違法ではない。しかし、安全基準では問題ありとなり、将来禁止される可能性がある。安全の中に商売が入り込んでくるとややこしい。これに行政の管轄権が介入するから、なおさら訳が分からなくなる。食糧の安全の問題と、食糧の流通の問題の2つの課題が残る。業者には流通の問題と、既得権益である。安全は監督官庁の問題である。魚の安全管理と、食肉の安全管理は行政としては同じでなければ矛盾する。 

 

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障碍者殺傷事件

2016-09-14 04:17:17 | Peace Cafe

「わたしは7月26日に殺された19人のひとりだ」49日を迎えた追悼集会での言葉だ。相模原の障碍者施設で悲惨な事件が起きた。悪い前兆を感じる。この事件のことがどうしても頭から離れない。この先の社会の何かであることを指摘する意見が出てきている。犯人はいまだ自分の犯した罪に気付かずに、日本の為に行った行為だと考えている。ヒットラーの狂気は繰り返されるものだろう。それを迎え同調する社会であるかが問題なのだろう。報道は個人的な資質や、大麻の影響などを原因にしているものがまだある。それはこうした社会を作ってしまった自分たちの責任に気づかないからだ。社会の方角の不安は徐々に感じられてきている。社会の悪い流れに巻き込まれずに、自分を最後までやり遂げられるのだろうかと思う。大変なことが起きる知らせだと考えてみると、安倍政権がうまれたのも、又支持率が高いことも連動している。能力主義、金権主義に日本人が巻き込まれてもがいている。障碍者を差別する事は、天才的な人間を評価して、普通の人間は差別されて仕方がないということになる。

自分のことに集中し、一呼吸して、あと少し自分というものことを成し遂げたい。私と同類の人間で、若い人であれば、この先より辛いことであろう。団塊の世代が不甲斐なかったわけだ。申し訳ない気持ちはあるが、1970年にそのことは結論が出ていたのだろう。あの時気付かなかった社会がこうなるのは必然であろう。そのことは、誰が悪いというより、人類という生き物の問題点が表れているのであり、人間の宿命のようなものと考えた方が良いのかもしれない。原発事故も障碍者殺人も悪い道筋に並ぶ同類の事件だ。ヒットラーの登場はヒットラーという狂人を理由にはできない。原発を止めることができないところに、この文明の力学があり、人間自身に止めることができない運命のようなものを感じざる得ない。中国は北朝鮮の原爆開発は、アメリカの世界戦略の問題だとしている。あながち間違いではないが、中国のこの発言の奥にある思惑も、アメリカと同質と感じる。

知り合いの障碍者施設で働く人たちの、協働の精神は、心の優しさ、思いやりの深さは、常々感銘を受けてきた。養鶏のことで何か所かでお手伝いをさせてもらったが、働かれている人たちのまじめさに打たれることは何度もあった。ただ、障碍者施設も、独立採算制になり、外部委託の流れである。利益主義が入り込むことはないとは言えない。この社会で運営しているのだから当然のことだ。施設運営の経済主義が一人の職員の異常な思想に繋がった可能性がある。アベ政権の国際競争の農業という思想も、経済性のないものは不用なものだという思想が根底にある。経済性のないものに価値を見ることができない社会が広がっている。障碍者の施設も働けるものは相応に働いて、経済合理性で運営しろとい締め付けが働いている。そうした仕事を作り出す困難さが施設運営を大変なものにしている。

金権主義ではない人間同士助け合う、別の居場所を見つける以外に道はない。社会福祉施設に経済性を押し付ければ、結局のところ企業的な運営者が良い運営者になる。経済性と福祉的行為が両立しがたい場合もある。この過程で、福祉の精神が希薄に成る場合もないとは言えない。農業においても、祖先から受け継いだ土地や山を、未来に受け渡そうと生きてきた人たちが、その生き方を否定されている。経済性のないことは止めろという流れである。団塊の世代が消えてしまえば、ご先祖様から受け継いだ思いは、消えてゆくことだろう。何かが終わろうとしている。一体この国はどこに向おうとしているのだろうか。人間の心を失いかかっていないだろうか。この事件の残した暗い想いは、薄れてゆくことがない。

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金沢城を歩く

2016-09-13 04:11:55 | 身辺雑記

金沢に2年ぶりに行った。今回は大学を出て以来の友人に会う事が出来た。水彩人の地方展のことで、北国新聞社の文化部を訪ねた。翌日の新聞に写真入りで紹介していただいた。水彩人も少しづつ認識されたようで嬉しかった。夜には、美術部の同窓会があった。懐かしい人たちにあったのだが、私自身の心持の変化のなさに驚きがあった。学生の時のように、つい今から内灘に行ってみないか、などと言いそうになった。日曜日一日空いたので、金沢を久しぶりに歩いた。そして内灘にも行ってみた。浅野川線という小さな電車があって、これに乗る。昔、海に行けるという事だけで、わくわくしたものだ。今も楽しいのだが、記憶の中の自分に少し、辛くなる。おかしなものだ。

 

金沢城の尾山神社側に復元された玉泉院丸庭園である。私にはあまりに突然の変化で奇妙な混乱がもたらされた。一年ほどこの場所で暮らしたことがある。制作をするには良い場所だった。当時はここには県体育館と陸軍の馬小屋があった。その馬小屋の中に美術部の部屋を作って、寝泊まりをしていた。主にシルクスクリーンの制作をした。そのころはここにかなり広いソバ畑を作っていたおばさんがいた。なんとなく大学の中の不思議な空間だった。まさか日本庭園の後だったとは驚きだ。

このトンネルのあるところが、陸軍の弾薬庫である。この谷間に弾薬庫があったのか、そこに入るトンネルだったのか。それともこのトンネルが弾薬庫だったのか。煉瓦で出来た、高さの7メートルほどもある大きなトンネルである。この何とも言えない穴を良く絵に描いたものだ。あんなに描いたのだが、残っている絵は一枚もない。そいうものかもしれない。夏草に覆われている姿は昔も今も変わらない。

ここは重要文化財の古い倉庫だったらしい。鶴丸倉庫というのだろうか。昔は美術研究室の倉庫にも使われていた。中には面白いものがいろいろ仕舞われていた。卒業生の卒業制作などもここに入れられていた。卒業生に中に自分のものがある人は取りに来るようにと、はがきが来たことがあった。当時はこれが由緒ある建物とは思わなかった。この向かいにももう一つ似たような倉庫があり、そっちは陸軍が作ったものだったのだろうすでに壊されていた。

この地図の教育学部分館の3階に美術研究室はあった。2号教棟とある西側に陶芸の大きな部屋があった。さらに西の石垣の下に、陶芸窯が置かれていた。その北側には、旧生協跡という建物があり、そこの2階に美術部のアトリエがあった。そこでも寝泊まりしていたことがあった。詩吟やお茶の稽古をする畳の部屋があり、寝ようと思えばいつでも寝れたのだ。下宿に帰るのもこの辺で寝泊まりするのもさして変わりはなかった。制作もすぐできるので、ここで徹夜することの方が多いい位だった。それなら下宿はいらないと思い引き払った。

ここは確か図書館と法文学部の建物があり、その前にはテニスコートがあり、小柳さんが良くテニスをしていた。私はこのあたりで発掘のアルバイトをした。どこだったのかと思って探したが、全く発掘の結果はなかった。確かここに溝があり、様々なものが埋まっていた。苦労して、発見したのにそんな溝など作られてはいない。

この写真はお城の一番高いところだ。生物科の植物園になっていた。ここはまるで深山幽谷の感があり、なかには湧水があった。たぶん兼六園と同じで、サイホンの原理で辰巳用水から引かれていたのではないかと想像していたが。お城と水のことを考えると、この水の確保と兼六園の関係は重要なはずだ。昼休みになると、ここまでハイキングしてきて昼ご飯を食べる。たいていは大浦君と一緒だった。大浦さんはそいう事を楽しみたい人だった。大浦さんは大きな農家の人で、お父さんを無くし、彼が中心になって農業をしながら学校に来ていた人だ。

お城の方から兼六園を見たところ。ほぼ高さは同じくらいである。そういえば兼六園で花見をしたのも大浦君の誘いだった。

教育学部のあったあたりを植物園の方から見ている。今工事が行われていた。これだけの大工事をして城跡が整備されてゆくが、金沢の観光客作戦なのだろう。江戸時代は加賀の殿様が居て、明治になって陸軍が来た。そして、戦後の民主主義社会で大学が出来た。そして今は観光資源である。なんとなく時代の変化が表れている。 

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アベノミックスの評価

2016-09-12 04:24:38 | Peace Cafe

アベさんはリオ五輪の閉会式にマリオの振りをして奇術師のように登場した。やはりアベ人形だと再認識した。経済が国の基本だという考えに異論はない。日本の経済は,特に財政状況は相当危機的な状況だろう。それでも日本国民はアベノミクスを繰り返し選択している。自らの選択の愚かさも忘れることになるだろう。G7の国の中では極端に悪い。欧米はそれほどの財政危機ではない。中国やロシアや韓国、そして日本の経済が危機的な状況なのだ。アベ氏はアベノミックスが悪いのではなく、世界経済が悪いというすり替えを行った。財政が悪いのも世界経済のせいだと言いたいところだろう。世界全体で言えば経済は凸凹が目立つ。中国や韓国が急成長して、そして減速をした。これは誰が見ても自然の成り行きである。安い労働力や今までにない工業製品を創出して競争に勝利してきたからである。当然安い労働力はそれなりの水準に上昇する。競争力のある製品も横並びになる。

やはり、資源大国や社会インフラの完成している国とは違うのである。違う条件を前提にして、世界の中で日本の位置と方角を見出す必要がある。その時に世界企業をどう日本という国との関係を考えるかを、整理しなければならない。アベノミクスは日本出身の世界企業に依存した極めて保守的な経済のことだ。為替と株価をいくら操作したところで、実体経済としての新産業の創出が出来なければ、経済は平均値まで下がるという事だろう。外国のことは見えやすいことだが、日本が欧米先進国とは違う経済状況の国という事なのだろう。ではどうしたらいいのか。日本らしい国づくりに方向を変えるべきだという事である。日本の経済政策は、欧米先進国とも、後から追撃する中国や韓国、そしてアセアン諸国とも違うはずである。欧米的要素も持ちながら、アジア的な伝統も残している国である。

経済を考えるうえで最も重要な要素は、今の日本人の暮らしと未来であるはずだ。暮らしを大切にして、競争に翻弄されない社会構造を作ることだ。その一歩が食糧自給である。すべては食糧自給を達成したうえで考えればいいことだ。食糧生産を輸出産業にしようという事がアベノミクスの主張なのだが、その前に食糧自給を達成するための、日本農業全体の計画を示さなくてはならない。大型農業であれ、小農であれ、どうやって40%で停滞している食糧自給を立て直せるかである。世界は不安定化している。中国も背伸びを続け、いつヨロケルカわからない。日本自身の安全保障はまず食糧自給である。軍備をする云々の前に食糧の安定供給が出来なければ、まともな国とは言えない。まして、瑞穂の国美しい日本をアベ氏は目指していたはずだ。食糧自給の具体的な政策を考える。農家所得の倍増など適当なことを口にする前に、きちっとした農業政策を出さなければならない。

食糧生産をないがしろにして、輸入に頼り、外国人労働者に頼るようでは、安定した暮らしはあり得ない。これがアベのミックスの最大の失敗の方向である。日本帝国が満蒙開拓に国の未来をかけたように、これから日本は世界企業の為に暮らしを犠牲にしてゆくことになる。日本にも貧困階級と富裕階級が出来ることだろう。そして貧困層は暮らしの苦しさゆえにさらに弱い者をつくり不満をぶつけることになる。その暴力的気分が軍事的傾向を高めてゆくだろう。政府は国民の目を隣国に向け、不満のはけ口を作ろうとする。これは悪い予測である。国家として競争から降り、世界企業と国の関係を見直すことである。今の日本に在る状況で、日本が競争に勝たないでもやって行ける範囲を見極めることだ。無限に発展する未来など地球にはないのだ。何処に世界の安定を見つけるかである。日本は日本らしい文化国家になればいい。暮らしを充実させ、日々を落ち着いて豊かに暮らす道を見つける。幸い人口も減少を始めている。十分の農地が確保されている。自給的な暮らしをそれぞれの生き方に織り込んでゆけばいい。

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水彩人展はなぜ公募展になったのか。

2016-09-11 04:22:53 | 水彩画

水彩人展はグループ展として始まった。春日部洋先生と批評会を月次でやっていた。10名ほどの仲間がいた。先生が亡くなられてからも、批評会は続けていた。そして、ある時、上野でやった水彩連盟展の中のグループ展の帰りに、水彩連盟展では絵の話が出来ないということになった。そこで、本気で絵の勉強をする研究会を作ろうという話になった。そして研究会展をやるという計画を立てた。絵の勉強をしたい、その為に絵の仲間は集まるのではないかという気持ちだった。その時の仲間で水彩人に残っているものは、今では5人である。その時10回までは研究会展をやろうと決めた。研究をするのに最低でも10年は必要だ。銀座の比較的大きい会場で年一回の展覧会を開催した。メンバーは新しく加わる人も毎年一人ぐらいは居た。辞めてゆく人も居た。10回展が終わった時に、これで水彩人を終わりにするのか、話し合いをした。今後グループを拡大して行くのか。終わりにするのか、今のまま行くのか。

そして、研究会としての在り方は継続しながらも、仲間をもう少し増やしながら進むことになった。そして、11回、12回とやるうちに銀座の大きな会場が無くなってきた。場所を変えながら続けた。水彩人とは別にしるべ展という周辺のメンバーの増加もあり、東京都美術館でやることになった。このころはまだ公募展を始める気持ちは全くなかった。グループ展の会場として、都美術館を利用していた。今は都美術館はグループ展でも開催できるように規則が変わったが。当時は公募展以外には開催できない規則があった。そして、東京都美術館の建て替えと、水彩連盟から、公募展をやっているので退会させるという事の2つ問題が出てきた。現実には公募展はやっていないのだが、周りから見れば誤解を生じていた。受け入れられないまま水彩連盟は退会になった。その時期に都美術館の改築に合わせて、新しいメンバーの募集が行われた。その条件が公募団体だけが応募できるという明確な基準があった。そして、切羽詰まって公募団体化に踏み切った。

公募団体になり大きく変貌した。水彩人らしい水彩画が徐々に明確になった。水彩画の公募展と言っても、アクリル画を受け入れている団体もある。アクリル画は会場作品になりがちである。大作で目立つとか、素材の新規さで目立つとか、工夫の絵画になりやすい。公募展会場では、目立つ方が有利という事で、いつの間にか水彩画が凌駕されることになる。水彩人では素朴に水彩画を深めて行こうという考えで、一見目立たないような作品に目を向けてゆく方針である。水彩画の特徴である、紙に水彩絵の具で素朴に描くという奥にある、それぞれの人間の芸術を見つけようとしてきた。公募展としては成立するのか疑問もあったのだが、今や作品の質においては、本質的なものを見せ始めている。それは時代の変貌もある。絵画が会場芸術から、私絵画に移行を始めている。コケ脅かしのような絵画が力を失った。そして、描く人自身の心の底の問題としての絵画が、人に訴えかけ始めた。

水彩人で新しい仲間に出会えた。自分が絵を描くうえで大きな刺激になっている。18回展が近づいているが、ぜひ私絵画を描いて居るものに、応募してもらいたいと思っている。そのむかし、福島の会津の牧師さんで生涯絵を人に見せたことがなかった人の絵画展を見たことがあった。自分の為だけに描いて亡くなられた。だからひっそりと夜の景色を中心に描いた。水彩人は公募団体と言っても、それぞれが自分の絵の研究を深めるためという当初の精神を忘れていない。現代の絵画は意味を変えてきていると思う。職業としての絵かきと、自分の絵を探求する私絵画である。私絵画の到達点は自分を知ることである。自分の絵を模索するには一人で孤立するより、仲間と研究する方が良いというのが、水彩人である。搬入は19日である。今からでもふだん描いて居る絵を出すことができる。

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憲法9条は日本の提案

2016-09-10 04:26:20 | Peace Cafe

日本国憲法が世界に誇れるものは「武力放棄と不断の努力」にある。憲法は大いに論議すべきものだ。ただし、日本が立憲主義国家だという大前提に立って、論議しなければ、議論も百害あって一利のないものになる。憲法を時の権力がその時々の都合で、無理な解釈変更をするのでは立憲主義の民主国家とは言えないだろう。憲法は国民が決めるものである。憲法に従って国の運営を行えと権力に命じているものだ。憲法は政権が解釈を広げることは出来ない。憲法の解釈は国民全体の民主的合意でなければならない。しかも、時の政権が自民党憲法草案という、全く質の違う革命憲法をもっている。その自分の理想に合わせて、無理やり憲法解釈を広げてしてしまうというのでは、立憲主義国家とは言えない。

自衛隊の解釈と9条の整合性はない。9条の武力放棄に関していえば、防衛的武力も放棄しているというのが、通常の日本語の理解の範囲である。しかし、解釈で防衛的武力は別物であると、読み方を広げた。次に出て来ているのが、防衛的武力の範囲の拡大である。専守防衛と言えども、相手がミサイル発射をしようとしているときに、それを攻撃するのは防衛であるという理解である。確かに文字的に言えば、その通りだろう。しかし、相手が日本に向けてミサイルを発射しようとしたという事実認定をするのは、防衛省であろう。相手を武力によって押しつぶしてしまいたいと考える組織が、自分の考えで判断をすることになる。微妙な判断となるだろう。時間をかけて検討する余裕もない緊急事態。こうして、日本が先制攻撃を行い、戦争に突入する可能性がある。どんな武力的覇権主義国でも、表面的には防衛的武力と口先では主張する。あの北朝鮮でもアメリカの核爆弾攻撃を防ぐ為に、原爆を開発しているとしている。

武力主義によるバランスの平和論には専守防衛は存在しない。日本国憲法の向かおうとする武力放棄による世界平和は、理想主義に基づくものだ。現実の国際情勢には適合しない、と私でも思う。崖っぷちに立った平和論である。同時に武力による平和論は綱渡りの平和だ。どちらの考え方も平和に暮らしてゆくには、危ういものなのだ。どれだけ武力で身を守ったところで、北朝鮮の潜水艦ミサイルが飛んでくるのを防ぐことは出来ない。武力で相手を抑え込んだとしても、テロの芽は必ず芽生える。自暴自棄になり、暴発する北朝鮮やイスラム国を防ぐ手段がない。理性があれば、攻撃をすれば自滅することは分かるだろう。しかし、イスラム国は自滅の道とテロ攻撃を進めている。原爆やミサイルを持っていないのが救いだ。中東諸国に北朝鮮がミサイルや原爆を販売しないとは限らない。北朝鮮が自暴自棄にならないように、自制を促す以外に日本に道はない。日本が武力を少々増強したところで、北朝鮮の抑止力にはならない。

日本がやるべきことは、日本国憲法に基づく平和主義を世界にアピールしてゆくことだ。日本が武力を放棄した国であり、相手国にとって軍事的な脅威にならないことを示してゆくことだ。独善と言われようとも、武力主義に加担しないことだ。国際紛争の種は、平和的手段で解決することを、世界に訴えることだ。周辺にある領土問題は外交的な話し合いで解決する。2国間で話し合いができないのであれば、日本にとって不利益が予想されるとしても、国際司法裁判所に提訴し解決を計る。天皇に関しては象徴ではなく元首と考えているという事を表明している。天皇に関してはあくまで象徴としての天皇を尊重する。元首と象徴のどこが違うのかという問題があるが、大差ないなら改憲の必要がない。それでも憲法を変えたいとする以上大きな違いがあると自民党では考えているのだろう。象徴天皇の問題と武力放棄は同じ問題だ。元首という言葉には、象徴という言葉よりも解釈の幅がある。元首を超法規的な権力という意味にも解釈できると意図しているのだろう。

以下引用。

マッカーサーはやはり幣原による提案だと書いていた。今年になって、堀尾輝久東大名誉教授が見つけた新史料である。

 <提案に驚きましたが、心から賛成であると言うと、首相は、明らかに安どの表情を示され、わたくしを感動させました>

 幣原側にも史料がある。五一年に亡くなる十日ほど前に秘書官だった元岐阜県知事平野三郎に東京・世田谷の自宅で語った文書である。

 <風邪をひいて寝込んだ。僕が決心をしたのはその時である。それに僕には天皇制を維持するという重大な使命があった>

 <天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案することを僕は考えた>

戦争放棄は日本の提案だった。

国民への信託は憲法一二条とも響き合う。自由と権利のために国民に「不断の努力」を求める条文である。憲法は権力を縛る鎖であるから、憲法を尊重し、擁護する義務に国民は含まれない。だが、信託によって、国民は道徳的に、そして道義的に「不断の努力」が求められる。

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焼き印

2016-09-09 04:20:08 | 楽器

タングドラムに押した焼き印

タングドラムに焼き印を押した。一時間ぐらいで20のタングドラムに焼き印は押せた。初めて焼き印というものを使ってみたが、案外簡単なものだ。鎌倉にあるタイガー刻印製作所で作ってもらった焼き印である。長年作りたいと思いながら実現しなかったのだが、ついに作ってした。 子供の頃たぶんお滝のお祭りか、世田谷のぼろ市だったか、焼き印を買ったことがある。それは丸に出という文字が入った焼き印だった。どこから持ってきたのか、寅さんのような人が様々な焼き印を売っていたのだ。〇に「出」は出荷とかいう印として、箱に押したのではないかと思った。〇に出の屋号に使うというようなものかもしれない。どこから出たものか不思議なものだったが、たまたま出という字があるのを見て思わず買ってしまった。それは鉄でできていた。たぶん鋳造という事だろう。どこかで出荷というような印をリンゴ箱にでも押したのかもしれない。昔は段ボール箱などなかった。木で出来た箱に荷札をつけて送った。工場から箱が出るときでも、出荷のしるしで出などという焼き印を作った可能性が高い。あるいは、鍬や鎌などの柄に屋号の焼き印を押すような習慣があったのだろうか。それで田舎の農村を廻って歩く人がいたような気もする。

原稿である。三角を重ねた出である。絵に使っているサインと同じものである。サインは最初は「SASAMURA」と入れて、次には「IZURU」と入れていた。それでも落ち着かないで「出」と入れるようになった。水彩画になってからはその出も三角を重ねたものに変えた。だからサインで描いた時代がわかる。ローマ字では自分のサインのような気がしない。なぜ日本の洋画はいつまでもローマ字表記なのだろう。パスポートのサインでさえローマ字の人も居る。普段使っている文字をサインにする。それが私絵画では普通のことだと思う。それで漢字にしたのだが、漢字だといかにも文人画風になって、これは嫌味を感じてしまう。それでいろいろ考えた末に、記号でいいのだから、△を重ねた。出という字を記号化したものだ。出来る限り、シンプルで嫌みのない形にした。

鉄で出来た焼き印というのは、炭の中などに入れておいて、捺したのではないだろうか。真鍮の場合はそんなことをしたら溶けてしまうだろう。真鍮の場合はもっと細かなことができるのだろう。然し私の焼き印はシンプルなものだ。タングラムに押して分かったのは、杉と樟では調子が違うがどちらも美しい焼き印になる。ローズウッドとか黒檀だと、樹脂が解けるような感じになる。あまりきれいには押せない。発揮し捺そうとすると、周りまで焦げてくる。こういう時は濡れたタオルで人付記してから押すといいという事だが、これは案外に難しい。

焼き印を熱するのはガスバーナーである。良くあるカセットボンベを下に付けた、簡単なバーナーである。台所のガスバーナーでもいいのだが、捺す物の方に移動して作業するには、これが便利だ。4,5分熱すると、うまく木が焦げる熱さになる。余り熱くすると溶けてしまうの注意書きがあったので、徐々に熱してみた。一度熱くなれば、2回目からは20秒ほど熱して又押せばいい。木によって少し感じが違うがなかなか良いものだ。今度あれこれ農機具に押してみようと思う。鍬鎌、鉈、木製品なら何でもいいだろう。

 

 

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築地市場移転問題

2016-09-08 04:02:30 | 暮らし

築地市場が老朽化し、生ものを扱う現代の衛生管理で考えれば外れている。日本中の食肉処理場が、衛生管理の為に統廃合している中、最大の築地市場の近代化が出来ないのは問題である。小池都知事が延期を決めたのには驚きである。選挙における、公約が影響しているのだろうが、延期は間違っていたと言えないところに、人気取り政治の限界がある。都議会の闇を暴く政治をやろうというのが、小池氏の主張だったから、つい築地市場の豊洲移転を延期せざる得なくなったのだろう。土壌汚染、地下水汚染をうんぬんしているが、それは単なる理由付けに過ぎない。きちっとした市場設備を作れば、改良された土壌で十分安全である。現在の築地市場のように野外の常温の床の上に生ものが置かれるという、前近代的なやり方の方が問題だ。豊洲市場も全体構想が悪いという事が移転反対派から盛んに出ているが、誠にばかばかしい議論だ。おかしいなら直せばいいだけのことで、移転反対とは別問題だろう。

築地市場の移転延期で浮かび上がるのは、政治の劣化である。東京都知事は、石原、猪瀬、舛添と問題を起こしては辞めていった。新銀行東京問題、5000万円猫糞問題、公私混同のケチジ。なぜこうなるかと言えば選挙の人気投票化である。注目を浴びるだけのような選挙が、まともな知事を作ることを妨げている。それが、都議会の闇を作り出しているのだろう。問題なのは、都議会だけでない、全国の議会が無意味化し、号泣議員でも十分やれる世界である。都知事選は大統領選挙のようなものになっている。それが1か月にも満たない間に決めなければならない。小池都知事の選挙戦略は確かに優れていた。自民党をぶっこわせ的成功である。厚化粧発言の石原親父。息子は小池支持者は自民党除名と宣言した。親子で小池氏を当選させたわけだ。受け狙いの発言が裏目裏目に出た。受けを狙うのが今の選挙なのだ。

築地市場は今となっては移転せざる得ない。と同時に日本の市場の仕組みの整理が必要なのだ。それは大田市場を含めたものにする必要がある。大田市場を野菜の市場にして、豊洲を魚の市場に分離しなければならない。市場関係者のだれもが気付いていることだ。ところが、築地市場の利用者の利便性から、豊洲にも野菜の市場を作ることになる。つまり、レストランが築地で魚を仕入れて、ついでに野菜も仕入れる。それが習慣化していて利便性があるという事になる。逆に大田市場にも言えることで、大田市場にも魚の市場がある。たぶん昔からの既得権益があり、あちこち立てなければならない事情なのだろう。合理性から言えばあちこち矛盾だらけという結果になる。この既得権益と政治が結ぶつく。テレビもおもしろおかしく、豊洲市場のダメな設計をあげつらって入るが、既得権益にかかわるところの調査報道はない。

このように大きな流通の混乱の中、実は市場を通さない流通が動き始めている。市場が混乱すればするほど、生産者と販売者が新しい流通を作り始めることになる。全国的に見れば卸売市場は取扱量が年々減少している。築地移転に見られるような旧態依然とした体質が、新しい流通に対応能力不足に繋がっている。そこに劣化した政治がちゃちゃを入れる。若狭氏を厳重注意しにして、自民党の公認候補にするというのでは、自民党が闇だ。一体自民党は政党としてまともなのだろうか。小池氏を支持したら自民党を除名するとまで騒いでおいて、小池氏が当選したら、小池氏も自民党であるし、小池氏を熱烈支持した若狭氏も自民党の候補だ。政権政党がこんな無原則な対応をしているから、小池氏は豊洲移転を延期など、後で撤回するに決まっているような、無意味な方針を主張できるのだ。何を言っても人気者は許されるとのぼせ上がっている。こういう状態を作ったのは、選挙民である。

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木鼓を敲く

2016-09-07 04:21:02 | 楽器

音楽好きが集まって作ったスリットドラムの合奏をした。数えなかったのでよく分からなかったが確か12名は集まった。予定では森の中で敲こうという事だったが、雨の予報で急遽南足柄の公民館に集まって敲いた。ただただ楽しかった。こういう一日が持てる仲間がいるということは幸せなめぐりあわせだ。生きていることの喜びの形だと思う。忘れられない思い出になった。音楽を楽しむという習慣が、暮らしから失われてしまった。の祭りには歌や踊り、太鼓はなければならないものだった。急にそういう場面になると太鼓や笛で目立つ人が現れたものだ。普段の暮らしから晴れの日の祭りの世界に、転換するには音楽や踊りは必要不可欠なことだ。音楽の力が日常から解き放ってくれる。日常の音楽は労働歌である。田植え唄、草取り唄。子守歌。そして盆踊りの先祖に繋がる唄。昔の日本人は音楽と伴に暮らしていたのだと思う。

楽器も自分で作るという事が良いと思う。自給できる楽器と言えるようなものが木鼓である。タングドラム、スリットドラムだと思った。誰でも敲けるし、プロのミュージシャンの高いレベルの希望にもかなう楽器。それを未経験の私でも作ることができたところに、この楽器の無限の可能性と、面白さがある。沖縄の三線は本来太鼓の代わりだという。古い時代は太鼓を敲いて、歌を唄った。中国から三線が渡ってきて、徐々に太鼓の代わりとなる。だから三線は演奏楽器ではない。あくまで唄三線であり、伴奏楽器である。太鼓のようなリズム楽器であり、あくまで踊りや歌をサポートする楽器である。しかし、三線は太鼓より音階がある。太鼓も音階のあるものが作り出される。オーケストラのチンパニーは音程の指定に合わせて鳴らす。木鼓も高音、低音、止音の3つ位はあった方が面白い。合奏したときなど演奏の可能性が広がり、面白いのではないか。これが私が作っている木鼓である。

木鼓は大木の中をくりぬいて作るものだ。東南アジアから、ポリネシアやミクロネシアのものが有名だ。村同士の連絡などにも使ったようだ。中国では木魚、アフリカではタムタム。ある程度の音階が有る木鼓もある。木が響く音自体が心地よいものだから、これを敲きながら歌を唄うということになるのは当然なことなのだろう。木鼓に革を張ったものが、日本の太鼓だ。皮張りの太鼓は音が響いて迫力はある。木鼓は音は大きくはないが、懐かしい柔らかな響きがある。森の響きそのもののような、染み渡る味わいがある。そういう音を何とか作り出してみたい。みんなで敲いたもので、又木鼓開発に力が入った。早速2つの試作を始めた。一つは大型の4面パドックで、スリットの入れ方の究極形である。もう一つは小型の4面パドックで、小さいながらもそこそこの音が出るものだ。今年中には作り上げたい。

唄や楽器は子供の頃から好きだった。ハーモニカを子供の頃吹き続けていた。縦笛も学校でならった。中学の頃はなぜかフルートをやった。大学の頃はみんなで何かと歌を唄った。フランスにいた頃は集まっては歌を唄った。フランス人が唄うと低音部、高音部と、いつの間にか合唱になるのには驚いた。日本人も頑張って日本の唄を練習したものだ。結構いい線行っていたと思う。もちろん今でも唄は好きだから、三線を弾いて、毎日大声を出している。今は老化防止のようなものだが、いつか西表の仲良田節を唄えるになろうと努力している。音楽というものが演奏するという立場から、受け身の聞き手、消費者になった。確かに良い歌い手の唄を聞くというのは、良いものだが、聞くより唄う方が良いに決まっている。

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サッカーが弱くなった理由

2016-09-06 04:10:45 | 身辺雑記

サッカーワールドカップ最終予選初戦で日本チームは負けた。ホームの初戦で負けた。ワールドカップに出場は難しくなった。運が悪かっただけなどと考えない方が良い。抜本改革が必要である。理由は3つ考えられる。 1、日本チームとしての練習ができない混成チームになっている。2、プロチームは出来たが、強くなることに繋がっていない。3、日本人監督が継続して日本チームを作り上げることができない。 すべての団体球技が弱くなった。団体球技はオリンピックに出場もできないほど弱い。現在の力量では開催国枠で出場しても、競う事も出来ない。強かったバレーボールは全日本というチームを組んで徹底したチームプレーの練習が出来たからである。今の日本の状況は全日本が組めない球技が多いい。企業がスポーツチームを持つ余裕がなくなった。これは企業にスポーツにそそぐ余力が失われたというより、スポーツに向う情熱が失われたのだ。会社という組織の誇りを追求する姿勢が弱くなった。

企業が日本という国を超えたものになったという事なのだろう。トヨタのチームが日本を代表するわけではない。企業に代わって、プロスポーツの登場である。専守は大金を得るためにスポーツを行う。日本の誇りの為に頑張る訳ではない。サッカーなどでは2日前に帰った選手が代表選手として何人も出場し、体力不足を露呈した。全日本として招集して基礎体力から、一緒に積み上げるような地道な練習が必要になる。外国のチームが何故上手く行くかと言えば、チームプレーというより個人技が頭抜けている。個人技で勝負するには日本人の体格からして限界がある。日本人の特徴は連携の阿吽の呼吸だ。なんとなく他の選手の動きを読む力が高い。この特徴をチーム全体の物として生かしたときに強くなれた。日本の選手の良さが発揮できるとしたら、集団としての読みの力だ。それは共同生活しながら、伸ばす以外に難しいだろう。こうした力は徐々に失われてきているという事もあるだろう。日本人の暮らしも個人主義的になってきている。その影響もスポーツに出ている。

肉体的に日本人は少し劣る。平均身長も、筋肉量も、劣るところがある。それを補う集団の力が特徴のはずである。日本人というものをよく知らない、外国人監督の問題がある。なぜ外国人監督であるのかと言えば、サッカー協会のお家の事情ではないか。女子サッカーが強かったのは日本人監督が選手の個性を把握して、チームの強化を行っていた。お雇い外国人で追いつけ追い越せは初期段階のことだ。今外国人監督にしているのは、Jリーグを何とか維持したいからではないか。外国人監督でも日本人監督でも采配は変わらない。問題は外国人監督が選手を育てるのでは、日本人の特徴が分かりにくいという事である。現在の監督は選手の育成をしない。育成された選手を寄せ集めて混成チームを作る。これで日本人の特徴を生かしたチームは不可能である。だから弱いチームしかできないのだ。分からないからいいという事もないではないが、

団体球技で強くなった女子サッカーにヒントがある。澤選手の存在である。核になる日本人選手がいて、日本人監督と良い関係を形成する。そして全日本チームとして、一丸となってチームプレーを磨き上げる。どの球技にも同じことが言える。それ以上にすべての分野で自分の力を向上させるには、仲間の存在が大切になる。みんなでやれば、気力が湧いて来る。陸上競技や水泳のような個人種目であっても、チームとしての競い合いが、思わぬ力を生むことになる。駅伝で培った力から、マラソンの選手が産まれるような形である。400メートルリレーでアメリカに勝利する日本は想像できなかった。チームになった時に湧き出る力は、日本人の可能性だと思う。スポーツだけでなくあらゆる分野で生かすべきことだ。農業でも、水彩画でも、同じことだと思っている。自分を磨き上げる良い仲間を持てるかどうかである。

 

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タマネギの苗土を作る

2016-09-05 04:23:37 | 自給

9月4日苗土の準備を進めた。

私はタマネギの苗がうまくできたことがない。一番の原因は雑草との関係だろうと思っている。草取りがまめにできない。今年は12人でタマネギの会として挑戦している。8月初めに苗土を仕込んだ。苗土は山土と、ソバカスを混ぜたもので、雑草の種は少ないはずである。山土は家の裏に擁壁を作った時に、出た残土を運んだものだ。山の赤土で3年ほどたっているので雑草の種は混ざっているかもしれない。まず、土を良くトラックターで攪拌した。そしてソバカスを3袋撒いた。またトラックターでかなり良く攪拌した。その上から透明のビニールで覆い。1か月高温にしておいた。9月初めになってビニールを外した。雨が降りそうになるとブルーシートで覆った。そして、9月4日苗土を8ミリのふるいにかけた。振るいに残った赤玉土のようになったものや木っ端、小石を、苗箱の下の方に入れるようにした。

苗箱の底には荒い土等を入れて、上には細かい土を入れた。苗箱蒔きと苗床での作りと2つ試みることになった。一つはセルトレーで作ろうと予定していたのだが、持ち帰り管理するとなると、セルトレーより苗箱の方が確かだろうという事になった。セルトレーを置く地面の状態が家に持ち帰るとそれぞれのようだ。コンクリートの上に置くのではセルトレーはダメだろう。苗箱を2箱持ち帰る。水やりは静かに十分やるという事だった。各自11月まで家で管理してもらう。ひと箱に100ぐらいの苗が出来るのではないかという話だった。たぶん150は十分作れる面積のはずだ。2箱で300株になると区切りが良い。今回燻炭を混ぜる予定だったのを忘れていた。種を蒔く前に苗土に燻炭を混ぜ入れてもう一度調整したい。

一方苗床に残りの種一人分が300粒を蒔き、苗作りをする予定である。苗床は2メートル×6メートルあるから、12平米である。ここに300×12=3600本の苗を作ることになる。ラインで行くかバラ蒔きにするか、ここにも燻炭を混ぜるつもりでいる。はんぶんにまぜてはんぶんはそのままでひかくするというも興味がある。こちらは苗床を均して様子を見ることにした。どの位草が生えてくるだろうか。18日の種まきの前に、もう一度耕して整備をしてから、種を蒔きたい。作業の後青蜜柑取りをした。青蜜柑は香りが良いし、特に泡盛とのカクテルが良い。今、沖縄では泡盛カクテルレシピを募集しているから、応募しようかと思う。さらに、黒小豆の収穫までしてもらった。これで収穫祭では、欠ノ上田んぼでお汁粉が提供できるかもしれない。

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第18回 水彩人展近づく

2016-09-04 04:16:28 | 水彩画

水彩人出品作を選んでいる。ここ1年くらいの間に描いた絵が100枚ほどであった。その内、中判全紙のサイズの絵の中から里地里山を描いた24枚を選んでみた。それを写真に撮った。写真で見てみてみたかったのだ。別のことが見えるような気がした。そして、写真を見ながら選んでみたら、10枚ほど水彩人展に出したい絵が残った。それを、並べてみているのが上の写真である。もう2ヵ月も見ていて、呼ばれる絵があれば少しづつ描いて居る。この間新しい絵を描いて居ない。ただ、どの絵もその時は一応完成のつもりだった絵なので、よほどのことでなければ手を入れることはない。すでにどの絵も写真を撮ってあるので、そのまま絵葉書の制作に回すつもりぐらいの状態である。いつも写真を撮るときはうす曇りの日に撮影するのだが、今年は炎天下写真を撮ってみた。結構よく撮れていた。少し赤が強く出た。これは印刷の時に指示すれば治ると思う。

これはテーブルに並べた10枚の絵の写真である。回りの黒い枠は大きな平らな沓脱石である。もう少し白っぽい石なのに、なぜか黒く写っていて驚いたが、絵の方はそこそこの色に撮れている。3点出品するつもりなのだが、どの3点の組み合わせが良いかである。左下の立て絵2点並んでいるのが、欠ノ上田んぼの絵でどちらかを出すつもりだ。あとは篠窪を描いた絵である。冬から春の頃の絵だ。そのうちからどれか1点にしようと考えている。一点だけは田んぼの絵のすぐ上の絵なのだが、下田の庭の畑の絵がある。この絵は何か、気になるところがある。篠窪は一点にして下田の絵にすることになる。どの絵も畑の絵である。絵を描くときは畑をやっているような気持でと描いたものだ。車の中から描いたものだ。中判全紙くらいの大きさだと丁度車の中で描きやすい。

同じところを繰り返し描いている。こうして、結局のところ毎年97枚の絵が未発表になってゆく。そして私が死んでどの絵も消えるのだろうと思う。それでいいと言えばいいのだが。今年の100枚を見てみると、今までより自分の絵になったような気がした。そう思うと、昔描いた絵は参考というだけのものだ。これからもしかしたら自分の絵が描けるような気がしている。これは欲なのだろうか。田んぼや畑仕事をする目で描くという事が身についてきたような気がする。そう思って描いてきたのだが、絵がそうなるという事はなかなか至らなかった。それは農的な暮らしを底の方まで深く理解していないという事もあった。分かっていないことを描けるわけがない。いわゆる絵ではなくなってきたことに怖れが無くなった。自分が絵描きではなく、自給生活者であるという現実になじんだ。そういう事も一歩前進だと感じている。結局のところ、絵が表現であろうがあるまいが、描く人の問題なのだ。人まねから始まり絵を描いてきた。好きな絵をまねする喜びで絵を学んできた。やっとこさっと、そこを抜けつつある。

自分としては、自分の絵に到達できないような気がしていたが、諦めたら少し近づけた。やっぱり、諦めるが明らかにするという事。里地里山を描くという事を具体的に言えば、里地里山にあるムーブマンを描くという事になる。眼はすべての状況に動きというものをとらえる。里地里山の景色というものは、人間の暮らしが、自然との調和を改変せず、作り出した暮らしに基づく自然環境である。畑があれば、その動静が出来る。道があればその方角が産まれる。家があれば家という集中が起こる。里地里山特有のムーブマンがある。これをとらえようとしている。ムーブマンさえ捉えられれば、見えているすべてが捉えられるような気がしている。ムーブマンは色でもある。赤であるときと、青に変えた時では動きは全く異なる。線を引けば線の動きが産まれる。点を打てば点のリズムが生ずる。そうしたすべての材料が総合して、その場のムーブマンを生み出している。そのことに少しだけ近づけたような気のする、作品になった。

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10号台風の残したもの

2016-09-03 04:31:49 | 暮らし

10号台風が東北地方に上陸し、日本海に抜けた。この不思議な台風は沖縄の方まで一度南下して再度戻った迷走台風だった。10号台風が南下を始めた頃から、戻って小田原に上陸するだろうと心配していた。今度は12号を心配している。幸いにも10号は相模湾をそれてくれたが、岩手県と北海道で川の氾濫が起こり大変な被害になってしまった。もしこれが人口過密地域であれば、何千人の被害になったかもしれない。まだ行方不明の人が多数いるようだ。沢山の方が無くなられた。悲しい気持ちである。グループホームでの被災では9人もの方が土砂に埋まり無くなられてしまった。良い環境で楽しく暮らされていた結果、こういう自然災害に遭遇するとは思いもよらなかったことだろう。早く非難していれば、被害が防げただろう。しかし、誰も逃げなかった。2階に移動していればと思うと残念でならない。他所にまで逃げるという事は雨の中大変なことだ。危険でもある。せめてその施設で一番安全なところに移動するだけでいい。

他人事だと思わない。避難勧告が出ても家からは逃げないし、自治会長の時に地域の皆さんに聞いたが、避難すると言われた方は一人もいなかった。皆さん家にいた方がましだという考えだ。舟原地区は土砂災害危険地区だ。レッドゾーンに暮らす人も数名おられるし、イエローゾーンには大半が入っている。私の家も入っている。それでも避難勧告が出ても、避難しない。日本全体がそうなっていると思われる。行政はオオカミ少年になってしまったのだ。根拠無く危険地区の指定を行っている。理由を明示し、類似の前例を示すように要求しても、県は事例を示すことができなかった。行政は危険地区を指定していない場所で土砂災害が起きた場合、やり玉にあがる。報道は必ず、行政の対応の非難をする。それでは選挙に勝てないと市長、県知事は考えるので、ともかく一応は危険地区指定を広め広めに行う。危険地区と指定したからと言って何か対応をする訳ではない。指定はするが後は放置である。防災の職員は削減されている。行政を責めるより自分が今どうするかだけを考えた方が良い。

日本の気象が変わってきた。巨大台風が起こるように荒々しくかわった。地殻は変動期に入り、繰り返し大規模地震が起こる状態になっている。現実に、日本では年に何度も多数の死者の出る大災害が起こっている。人間の増加と住宅地の氾濫原への広がり。海岸の港のそば、谷の出口や氾濫原に人は暮らすようになった。それは縄文時代から大きな変わりはない。ただ人口が数千倍になったという事だ。日々の暮らしに便利なところに住む。災害にあう可能性よりも、日々の暮らしの便利さや、快適さを私を含めて普通に選択する。そして災害に繰り返し遭遇してきた。大多数の日本人が、生涯に一度は命の危険と言えるような、自然災害の危機に遭遇する確立の中に生きている。それでも日本人が日本列島を離れなかったのは、それほど素晴らしい自然環境でもあったからだ。暮らしやすい地域だった。私も日本を離れようなどと考えたこともない。

自分の身は自分で守るしかないという事である。危ないなと思われる日だけでいい、家の中で一番安全なところで寝るだけでもずいぶん違うはずだ。私はそうしている。避難所に移動するのはハードルが高いが、家の中で最も安全なところに避難するだけで、ずいぶん違うはずだ。2階にいた人が助かったという事例は多いい。子供の頃、伊勢湾台風に遭遇した。お寺に中の人が避難した。雨戸を釘で打ち付け、あらゆるところを板でふさいだ。一晩じっと耐えた。お寺自体が船のようにきしみ揺れた。朝になって風が納まり、外に出てみると中の家が軒並み飛ばされていた。大半の家の屋根がなかった。お滝の森の巨木が軒並み倒され、明るくなっていた。ぼろ寺だったが、普通の民家よりましだったのだ。ともかくみんなの協力で人的被害はなかった。台風はトラウマになった。

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9月1日の田んぼ

2016-09-02 04:14:31 | 稲作

11番田んぼ、ひどいことに喜寿糯とサトジマンの苗を間違えていた。何故間違えていたか、理由はよく分からないが、苗床で種を蒔くときにすでに舞い違えていたようだ。私のずさんな管理の結果で申し訳がない。

10番はきれいにできている。10番は全体に出来が良くないと見えていた。出来が悪いぐらいだと、倒れる不安はない。

9番は乱れてきている。病気の不安がある。昨年病気が出た場所だ。同じような兆候が見える。下葉枯れが他より多い。しかし、稲穂の大きさや、穂の数からいうとここが一番の出来である。

8番は状態がよさそうである。昨年より安定している。

7番は水口が乱れている。水口の代掻きが深かったのかもしれない。

6番、5番、2番と見えるが、何処もそれなりに良さそう。特に2番の状態はいいようだ。対岸の木を切ったことが影響している。

4番は乱れてきている。緑肥の影響がありそう。出来過ぎか。少し醜い写真だが、4番の南側が倒れかけている。原因は代掻きにもあるようだ。深すぎる代かきをして、干しをしなければ、どうしても田んぼが緩くなる。

3番はなんとほとんどが喜寿糯である。捕植程度がサトジマンである。先にサトジマンを刈り取り、後から喜寿糯を刈ることにしたい。どこで何を間違えたのか。私の責任である。

水路の慈姑。今年は出来がよさそうだがどうだろうか。肥料を慈姑の為に2度ソバカスを入れた。そのソバカスは解けて、一番田んぼに出ていると思う。一番田んぼが今年良いのはそのせいかもしれない。一番たんぼ日照条件の悪い田んぼなので、例年出来は良くない。今年はどうかと考えていたが、対岸を伐採して明るくなったことが良い結果になっている。

 全体の出来は悪くないと思う。何もなければ畝取りまでゆきそうな状態である。ただ、田植えを24センチ角から29センチ角に変えたために、収量にどういう影響が起こるかはまだ見えない。稲自体は現段階では良くできていると思う。田んぼの管理は間断灌水をしている。水を入れて、満杯にしたら止める。水は2,3日入れないと満水にならないこともあるし、半日で満水になることもある。入水量の違い、天候の違いだ。いずれにしても満杯にして、水が無くなるのを待つ。これも天候次第なのだが、3日ぐらいでなくなる。1番固めたい田んぼが3番と4番なので、ここは辛めの水管理にしたいのだが、水口の田んぼなのでそこが難しい。

あと1か月大雨と台風が来ないことだ。それを祈るしかない。9号と10号で経験したことは欠ノ上田んぼでは、台風が通り過ぎて、2,3時間してから西風が吹いてくる風邪がかなり強いという事だ。明星岳の方から風が吹きおろしてくる。海の方からの風ではなく、山の方からの風が強い。

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9月の自給作業

2016-09-01 04:47:35 | 自給

家の畑の大豆

9月は玉ねぎの準備である。長年考えていたタマネギの会の開始である。4日に苗土作りを行い。18日に種まきの予定である。品種はネオアースに決めて、すでに購入した。セルトレー用の苗土は作って袋に入れておく。セルトレーは持ち帰り、それぞれに水やりをしてみたらどうかという意見が出ている。確かにそれが良いかもしれない。失敗する人もいるだろうと思うが、それもまたいいかもしれない。以前大豆を苗箱で蒔いて持ち帰って管理してもらったら、上手く行かない人が続出した。今年は一年目だから、様々な結果があった方が良いので、持ち帰ってみてもらうのも悪くない。土の上に置かなければならないだろう。水のやりすぎが心配だ。土がない人の場合はどうしたらいいのだろうか。苗箱の上に置き2段にしたらどうだろうか。苗床は硬く踏みしめるというようなことを言われていたが、このあたりのやり方は経験のある太田さんと近藤さんにお任せしたい。いずれ一度苗床の土もふるいにかけておきたい

大豆の会のなぜかダメな場所

大豆畑の2回目の草取りがある。大豆は花が咲き始めているが、良いのか悪いのか判断がつかなくなっている。昨年は今頃はこれは結構取れると思っていたのに収穫してみたら散々の結果だった。花が咲き始めたのは昨年と同じで、雨が良く降っているので、実にならないという事もないだろう。昨年もそうだった。問題はどのくらい実がつくかである。大豆は畑の状態でずいぶん変わるようだ。肥料がありすぎるのも足りないのもダメなようだ。連作障害もよくあるらしい。早く蒔いた枝豆用の大豆が葉が茂って実をつけないだろうと思っていたものが、今になって実をつけ始めている。これもどうなるか観察しているのだが。田んぼの休耕地で作るのが一番良いようだ。高畝にして以前は作っていた。もう一度田んぼで作ることを考えてみたい。

一番田んぼの倒れたところ

田んぼはいよいよ難しいところに来ている。間断灌水を続けている。水を完全に抜くというのもなかなか難しいものだ。土を固めたい場所が水が抜けにくいところである。そこが乾くまで待つと、乾き過ぎの不安になる。一体結実する時期、水が必要というがどの程度水を必要とするのだろうか。この辺がまだつかめないが、案外乾燥状態でも大丈夫と考え、3日水を入れて3日水を止めるくらいの状態を繰り返している。これで分かったのは、以前より水のタテ浸透が減った。減水深が9センチの田んぼの水が3日かかって抜けるという事は、蒸散を考えると、減水深20ミリ以下という事になっている。田んぼの土として良くなっているという事か。以前は60ミリというような忽ち抜ける田んぼだった。みかん畑から田んぼに戻した時は、一時的にそういう状態だったという事か。緑肥や藁を大量に戻していることが、減水深を改善したのか。

水路の慈姑

家の畑では、今になってピーマンとオクラが元気になっている。えひめアイをかけている効果が出たのだろうか。涼しくなったおかげか。自然に出てきたカボチャが良い実をつけた。露地栽培のトマトが細々なっている。草の中で意外に成長しているのが、長ネギである。毎日食べるくらいで来ている。草を取らなければと思いながら手が回らないでいる。大豆を広くやっているのだが、何とか草取りを続けて、収穫まで持ってゆきたい。ハトに食べられてしまい、3分の1になってしまったのだが、少しでも足しになればと頑張るつもりだ。ハウスのトマトは今年はすでに片付けた。ハウスの中に、鶏の餌用の回転発酵器を設置したためだ。やはりハウスにトマトがないのはさみしい来年はまた考えたいと思う。大根やこかぶもそろそろ種まきである。カボチャや夏野菜を片付けて、種まきの準備をしたいが、時間が取れるだろうか。

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