goo blog サービス終了のお知らせ 

地場・旬・自給

ホームページ https://sasamura.sakura.ne.jp/

軽減税率をごまかすな。

2013-10-17 04:50:35 | Peace Cafe
政府は消費税導入時には、軽減税率を導入すると説明していた。野党時代の自民党は民主党に軽減税率を主張した。ところが10%になる時に考えればいいのではないかというような、ごまかしを、最近は匂わせ始めている。消費税によって起こる、弱者対策はやらないと決めているようだ。軽減税率をやらないというなら、やらない方法もある。いずれにしても、所得格差対策を考えることは約束のようなものだ。普通に考えれば、食料品の除外である。現在食料品でも5%の消費税は課税されている。この機会に一切の課税を止めてしまえばどうだろうか。食料品は値下がりする。人間が食べる量は限界があるから、平等とは言える。又、一番簡明な手段になると思われる。高級食材がどうなるか。キャビアやトリフまで食料品かという問題である。そんなものは嗜好品であり、食料品とは呼ばない方がいいと考えたらどうか。この線引きは業界からの反発もあり、難しい事ではあるが。政府が格差対策を示すという意味で、明確にラインを引き、法の網の目を細かくする以外にない。

軽減税率をどうするかは、広く議論をすべき重要な政治的課題だ。野党はどうなっているのか、発言が弱い。積極的に案を作り政府に突き付ける必要がある。食品については現状維持より、消費税撤廃の方が分かりやすい。食費は月1人2万円とか言われるが、実態はかなりの幅があり、よくわからない性格のもののようだ。消費税が10%になれば、年間で24000円となる。この分がなくなれば、所得格差対策になる。それでは消費税が不足するというなら、法人税を値下げしないことだ。せめて食品の中の主要品目と決めることはできないか。このあたりの調整を、国会で議論する必要あある。共産党などは消費税反対に傾いて、軽減税率をあまり主張しない。民主党はほとんど消費税論議を避けようとしているかに見える。そのほかの政党も消費税反対にとらわれている。民主主義は自分の主張とは違う政策を受け入れて、少しでも良くするという姿勢がなければならない。

消費税軽減税率の問題は、基本的な国の成り立ちと、連動して考える必要がある。日本の食糧をこの先どう考えるのかという、大議論と結びつける。これは国土保全から、日本の国の経済の方角を定めることでもある。幸い、安倍氏は瑞穂の国、美しい日本という、大きな枠を主張する国家主義的傾向のある人だ。遠慮せず、どんな国が望ましいかの議論を展開してもらいたい。その中では、今後の社会福祉の在り方。食糧生産。国土保全。財政赤字の解決。グローバル企業と法人税の問題。重要な問題が山積している。それらはすべてつながっていることである。総論から議論して行くことで、国民全体にも方角が見えてきて、力を合わせることが可能になる。今、絆とか言われても、どう連帯して行けばいいのか、何がこの国にとって望ましいのか、霧の中にある。

食料品等に対する軽減税率の導入問題 田 具視税務大学校研究部教授が、国税庁のホームページで食料品の導入について、研究を書かれている。ここでも結論として、10%になった場合には、食糧品の軽減税率は必要であると書かれている。複雑化する原因は食料品だけ、5%にとどめる場合である。それよりも、食料品は税対象外にした方が簡素化できる。それに税が足りなくなるのであれば、消費税をさらに上げるほかない。消費税の名前の通り、消費するものに対する税だ。食料は消費しているのではない。土地取引、住宅の貸し付け、学校教育や社会福祉事業等によるサービスの提供、にはかからないはずだ。この考えをもう少し広げれば、食料品の例外措置は、法的な精神からも可能なはずだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

農業の大規模法人化と地域

2013-10-16 04:11:37 | 地域
TPPはよほどのことがない限り締結されると見なければならない。稲作農業はさらに厳しい状況になる。現在大規模化を進めている大規模農業法人は、おおむね地域維持という目的と連動している。地域の農地が放棄されてゆくことを食い止めるために、多様な手法で経営がなされていると言える。地域、地元意識が、集約化されにくい性格のある農地の集約を進めてこれたともいえる。そのためもあり、地元の農業者が中心になり運営される農業法人では、現在でも利益の出にくい稲作を引き受けている。その穴埋めが、補助金であり、畜産や、果樹、花卉、野菜、6次産業化や直売の複合経営で何とか乗り越えてきてきている。こうした地域経営と直結した農業法人と今後進出が予測される、企業的経営の農業企業の進出がどのように競争をしてゆくかである。企業的な進出は、背景にスーパーや食品産業という販売ルートを確保した形の直売方式の可能性が高いだろう。この時地域維持という理念が、農産物の競争原理で、崩れる可能性が高い。

農業分野に、企業としての競争原理を取り入れることは、一面から言えば望ましいことである。しかし、農業が地域の暮らしと連動する形で、維持されてきたこととどのように、調整が図られるかには課題がある。小田原での地域の活動はすでに稲作農業との連動はほとんどない。田植え時期や、稲刈り時期に、地域のお祭りは行われている事からもそのことがうかがえる。たぶんこうした傾向は、今後日本全国に及んでゆくのだろう。本来稲作との慣例で執り行われてきた、地域の祭礼が稲作から離れてゆく。気持ちが稲作から離れ始めてゆくということになる。農業法人の社員が、地域の祭りに出なくなるということが書かれていた。経営とか、経済の動きばかりが重視され、競争原理で動くことになれば、大規模化で地域を守るという地域型農業法人の理念も、見直さざる得なくなる。国際競争力があるというだけが稲作の目的化とされ、不利益な農地を含めて地域の維持のために、農地の請負や、集約をしてきた農業法人は経営困難に陥る。

八郎潟や北海道のような、大規模化に有利な農地において、企業的稲作がおこなわれて、価格の決定がなされる。そのために地域型農業法人が経営困難に至る。そのことを避けるために、補助金がさらに注ぎ込まれることになる。大潟村には大型農家が50軒だけ残るのが適正規模だそうだ。地域としてのコミュニティーが失われる地域で、人が楽しく暮らせるものだろうか。確かに、企業の論理であれば、暮らしの存在など問題外のことになる。とすると、2極化以外にないだろう。生きがい農業とか呼ばれる、兼業稲作農家と。徹底した経営だけを考える生き残る農業企業である。現在、地域を思う有能な農業者が、立ち上げ経営を模索してきた、地域型農業法人は大きな選択を迫られることになる。経営本位になって地域の福祉的な側面を切り捨ててゆくのか、企業農業の進出を阻止するかである。たぶん現在の農業法人経営者たちは、そういう選択をする人たちではない。そして、困難を引き受けるのだろう。

無機的なともいえる、企業農業がどのように日本に根付くのか。果たして可能なのかどうかも考えてみる必要がある。給与さえよければ、農業法人で働く若い人はいるということになっている。果たして、本当にそういうことが続くのだろうか。農業は地域社会や環境の維持と密接に関連して維持されてきた。山が豊かであることは、農業にも漁業にも大切なことだ。しかし、そうしたお金にはならない地域の維持を含めて、今までの農業は存在してきた。しかし、企業が農地を取得し、儲からない部分から、放棄する。あるいは転用しようとする。こうした地域の維持とは、関係のない形で、農業がおこなわれるようになった時に、果たして地域というものが崩壊しないか。瑞穂の国の基盤が揺らがないか。経済だけでなく国土は維持されてきたものだ。TPPが妥結されるこの機会に、この側面を今後どのように考えて行くかを、国民運動として考える必要がある。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2013欠ノ上田んぼ

2013-10-15 04:35:23 | 稲作


10月14日に最後の脱穀を行い、今年の小田原久野の欠ノ上田んぼの一年が終了した。
1番  2.3畝  104.7kg 45.52 ?
2番  5畝  275.5kg 55.14 △
3番 3.5畝  232kg 66.29 ○
4番 2.8畝  164.6kg 58.79 △
5番 0.5畝  36kg 72.00 ○
6番 0.7畝  43.3kg 61.86 ○
7番 1.4畝  98.6kg 70.43 ○
8番 3.6畝  197.6kg 54.89 △
9番  4畝  256.6kg 64.15 ○
10番 3.4畝 165.2kg 48.59 ?
15741キロの収穫でした。

うるち米面積27.2畝 57.87  今年の収量は9.65俵
11番 1.8畝 77.1kg  42.80 もち米

畝取りは○(1畝で1俵=60kg取れること)は3・5・6・7・9番で、9俵越え△2番、8番
全体では、1畝あたり57kgでした。(昨年46.4kg)
2・3・5・9番は昨年比なんと4割増の収量です。

1反10俵の畝採りにあと一歩のところまで来た。長年の夢を実現した気分だ。今年の田んぼは私の田んぼ技術の集大成のようなものだったと思う。欠ノ上田んぼのメンバーがとても熱心で、私が良いと思いながらも出来なかったことを、実践してくれたおかげだとおもう。グループ田んぼの良さである。今年一年の耕作で、田んぼというものが、どういうものかを少し知ることが出来た。有機農業の3反弱11枚の棚田で、畝取りをする。これは前例が少ないと思う。たぶんないことだと言えるかもしれない。あと一歩まで迫ったのだから、あと一歩に何が足りないかを考えてみたい。

小田原の久野は7俵が一般的な収量の地域である。欠ノ上田んぼは始めて4年目のたんぼである。江戸時代からの棚田であるが、みかん畑になっていた時期が最近の50年以上であった。それを4年前に国の元気回復事業で一部を覆田した。現在も水路や、石積みは壊れていて、修復しながらの田んぼである。昨年は水害で、がけ崩れに巻き込まれた。今年は台風も、イノシシも来たが、何とかかわすことが出来た。

畝採りの一番の原因は苗作りの成功ではないか。苗は辛く育てるのか、すくすく育てるのか。迷っていたことだが、やはりスクスクが良かったという結論のようだ。苗は充分の栄養が行きわたり、滞りなく成長させる。この方が結果が良いようである。5葉期の分げつの始まった大苗にして、田植えをする。苗半作と言うが、それい以上のあと後までの管理に影響してくる。

2つ目が、雑草を取ることこれも収量を上げる大きな要素だ。田んぼの草は在っていいことは一つもない。草がないことが畝採りの条件である。田植え1週間後でコロガシを始める。縦、横、縦、横の拾い草。この間ソバカス抑草を行う。これは日照をさえぎる抑草効果でもあるが、厚いトロトロ層を作り出す要素にもなる。微生物の大量発生である。水が濁るほどのミジンコの発生。これが大事である。

3つ目の要因は腐食の増加。冬の間に田んぼで藁を堆肥化させる。藁はそもまま土にすきこむより、藁に米ぬかなどを混ぜて春までに堆肥にすることで、微生物量を増加できる。長年放棄されていた田んぼを覆田すると、ススキのような稲になる。長年の雑草の累積が腐食の量の増加になっている。堆肥を入れることはいくらでもやりたいことだが、大変なので、せめて藁は田んぼで堆肥化する。

そして4つ目の要素は水管理である。水管理は稲の状態、天候の変化を見ながら、日々細かく進める。一定の法則はないが、初期の8センチ以上の深水、中期の干しのタイミング、そして後半の間断灌水の天候との判断。これを先を読みながら、細やかに行う。田んぼに水のある間は、ついつい日に3回も水を見に行く。

9.65俵と畝取りにあと一歩まで来た。全体であと57.9キロあればということだ。というのは実に微妙な気分で、もう少し研究努力しろと言われているような気がする。10番と11番が湧水のある田んぼで、9月に入って病気が出た。いつまでも沼のようになっていたことが、悪かったと思う。この改善は難しいことだが、冬の間に取り組む必要がある。1番がやはり収量が低いのは、入水口であることと、日陰になる田んぼのせいだと思う。土が良くなれば、ある程度補えるだろう。対岸の木の枝を12月に切りたいと思う。この時併せて、竹伐りも行う。2番は土木工事をやった為に、土におかしい部分があった。これは自然に来年は改善に向かうだろう。4番は苗床後で倒れた。早く水を切る工夫をする。8番は両側の水路から水が湧いてくる。この対応が必要。

来年は一人独立して、農家になることになった。こうして、田んぼの仲間が巣立って行くのは、嬉しいことだ。そこでメンバーに空きが出来た。田んぼ技術を学びたいという人を一名に限り、募集をすることになった。参加費用は、12000円。今年のお米の配布は、120キロ。もち米7.7キロである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

土下座と日本文化

2013-10-14 04:36:07 | 身辺雑記
最近土下座が話題になっている。どうも人気テレビドラマがあってその波及のようだ。そのドラマは見たことがないので、良くわからないところもあるのだが。企業が問題を起こし、責任者が被害者というか、世間に向かって土下座をするという場面はニュースで見たことがある。私の目には、土下座をすることで反省を示しているというより、反省をしていないので、土下座でごまかそうとしている印象があった。ともかく嫌なものを見たという感じだ。最初は不思議な光景だと思ったのだが、謝罪の一形態として、徐々に浸透した感がある。土下座は江戸時代の参勤交代の行列に対する、沿道の庶民の姿勢が時代劇を通して印象付けられた。下に―下にーと先登の奴さんが先触れの発声をし、それにこたえて道路際に座り込み頭を下げる庶民。身分制度の象徴的姿である。私自身の土下座体験と言えば、お寺での5体投地である。仏教に対してすべてをゆだねるという姿勢。この姿勢は謝罪の場合も行われると聞いたことがあった。

古くは邪馬台国でも行われていたらしいから、本来、日本人にしみついた風習のようなものだ。その意味では、仏教で行われる5体投地とは意味が違うようだ。日本独特に発生したものと考えていいものと思われる。一般には、挨拶の時に互いがおこなう儀礼だったのだろう。地面や床に座って暮らしていた日本人が、挨拶をする場合、訪ねてきた人間がその家の主に対して、座って挨拶をする。主もそれに応じて挨拶をする。それが土下座の最初の姿のような気がする。挨拶であって、謝罪の意味は後から加えられたものと考えることが自然だ。むしろ謝罪の意味は、仏教の影響が在る後の時代に始まるような気がする。座って互いに丁寧に挨拶をするということが、日本文化としての土下座の起源ではないか。これは良い姿である。頭を下げる。という言葉に謝罪の意味がある位だから、挨拶と謝罪が連なっているという意味がある。それは敵意がない、無防備の姿勢ということなのだろう。

土下座を供与するということは、相手の人格を蔑み、一段低く見ることで、鬱憤を晴らすということだ。こういう悪習は即刻辞めなければならない。東電などもすぐ頭を下げ、謝罪の言葉を述べる。もちろんこちらは謝罪など要求もしない。賠償と、原因たる原発の廃止を要求した。しかし行動自体は、全く慇懃無礼で何の謝罪とは裏腹で、行動がない。一度小田原に東電は来て説明会をしてくれた。その時確かに謝罪の言葉は述べたが、その後は、会うことも、賠償も進めようとすらしない。もし謝罪の言葉が本心から出たことなら、会って話し合いたいという被害者に対して会いたくないはずがないだろう。個人的には責任を感じていないのか、嫌な思いはしたくないという辺りが、社員の本心である。土下座はそういうすべてを含んだごまかそうという演技である。お金の為、生活の為なら、土下座も厭わないという表れではないか。

土下座の背景にあるものは、封建時代の身分制度に当たる、金権支配という身分制度である。会社はお金で社員を支配している。社員である間は、個人の尊厳を捨てて給与に従う。嫌なら止めるしかない。武家を止めれば浪人である。上場企業を、上級公務員を止めれば、普通の人であるという不安。身分で生きていて、個人の力で生きている安心のない、金権社会。同時にこの社会は過ちを許さない社会でもある。間違えはどこにもある。間違えを二度と起こさない改善が必要。JR北海道のように人員、経費を削減せざる得ないとし、その結果事故が起こるとすれば、廃止をする他ない。二度と事故がないことが重要なことで、謝罪の問題ではすまない。その経費削減の責任を謝罪でごまかしてしまおうという、様子がうかがえる。報道の側は、謝罪に注目してしまい。原因究明と改善に注意を喚起しない。本来日本人の奥ゆかしく、へりくだる丁寧な気持を表していた、座っての挨拶が、このように誤用され、悪印象にしてしまったことは、実に情けない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

内部被ばくの報告

2013-10-13 04:16:17 | Peace Cafe
内部被ばくについて心配がある。心配があるだけで科学的判断が出来ない。まず現状どうなっているのか、福島の現在の状況報告がある。被ばくおよび被ばく検査に関するQ&A 坪倉正治 / 血液内科放射能に関する報告には、様々な偏向が感じられるものが多く、何を信じたらいいのか不安になることがあるが、この内部被ばく報告は冷静なもので、信頼してよいものだと思う。ここでは低線量被ばくの影響を科学的に述べているのでなく、福島に暮らす人たちの現状をデーターとして示している。結果から何かを判断しているというより、現状分析を示すということになる。ここから、小田原で自給して暮らしている場合の内部被ばくについても、類推して判断が出来る。福島ではキノコ、イノシシの肉、柑橘類、柿、ため池などに住んでいる魚などは、高い値が出るものがあり、出荷制限がかかっている場合がある。小田原のイノシシ10頭の値が出ていたが、40から90ベクレルぐらいのようだ。東北や北関東の一部では、100ベクレルをかなり越えている。こうしたものを継続して食べている人は、高い値が出ているということが書かれている。

内部被ばくの高い値の出ている人の、食生活を調べて原因が特定できるということだろう。例えば水道の放射能の値は、福島でも通常値に戻ったそうだ。そのことは、逆に言えば、沈殿した泥には、高濃度の放射能が蓄積されているということになる。イノシシはそういうところの根などを食べる。この沈殿した泥の高濃度は、東京湾の河口付近には存在するはずだ。この泥の中に居る例えばハゼのような魚は、高濃度になっている可能性が高い。その魚を常に食べていれば、東京に暮らしていたとしても、内部被ばくはかなり高いものになる。このことは、逆に言えば、そういう特別なものを食べなければ、すでに小田原では通常値に戻っていると考えていいということになる。もちろんこれは私の個人的な判断である。他の人もそれぞれに考えるべきことだ。自給で暮らしてゆくということは、この土地で生産される農産物で生きていけるかである。生きていけないなら、土地を放棄するほかない。

小田原と言うという離れた地域でも深刻にそういう判断を迫られた。キロあたり100ベクレルの基準で大丈夫だと私は判断した。自給していれば、大半の食べ物ははるかにこれより低い。食べる物のすべての平均値で考えれば私自身の身体に影響することは考えられない。そして、1年目より2年目は半減し、現在は、4分の一以下になっている。土壌ですらこういう変化をしている。土壌は結合して、減少が少ないが、予想より早い速度で減少している場所が多い。もちろん沈澱して一向に減らない場所もある。しかし、そうい今でも高い値になる場所でも、土壌との結合が強いから、農産物への移行は急速に減少したのだろう。お米でいえば、3回目の測定になる訳だが、2ベクレルの検出限界以下になるところが、大半のはずだ。くどいようだが、だから誰にでもこの考えを押し付けることはできない。農薬でも、重金属でも同じことで、安全というものは、各々が判断する他ない。

安全というものは比較の問題であり、大人と子供が違うように、それぞれの個人差がある。あえて言えば精神の影響という意味では、思想の問題でもある。人間はどこかで死ぬのである。そのことを受け入れられないのが、現代人の一つの特徴である。この痛いところに、放射能汚染が火を付けたのだろう。アレルギー問題と同じで、他人が一般論でどうこう言えることではない。特に低線量の被曝となれば、個人差があるだろう。誰しもがんになった時に、想像をめぐらすはずだ。悔やむかもしれない。いずれにしても、今生きている日本の団塊の世代は、福島原発事故以上の放射能汚染を、南太平洋の原爆実験の影響を受けて育ったと考えている。何らかの影響は間違いなくある。しかし、平均寿命は延びている。すべては総合的な結果である。イノシシは内部被ばくの強い状態で暮らしている。福島のイノシシを分析してみるということはできないものだろうか。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寓話としての動物農場

2013-10-12 04:48:15 | 
「動物農場」ジョージ・オーウェルは、独裁に関する寓話である。この寓話はイギリスで1954年にアニメ化もされ、日本ではスタジオジブリによって公開されている。その予告編はUチューブで見ることが出来る。私がこの本から受けた衝撃とはまるで違う印象である。【動物農莊】という名前では中国語字幕入り版があり、これではすべてみることが出来るようだ。動物倉庫は寓話としても良く出来た本だとは思わない。読み始めると結論がすぐ分かってしまう。しかし、養鶏業をしているものとしては、ちょっと重い内容である。支配というものの性格が、動物に置き換えて書かれている。革命によって、支配を払いのけたものが、新たな支配者になる構図。すべての独裁国家というものの姿である。そして支配される一般の国民というものは、変わらず家畜として生き続ける。悲しい姿である。家畜であるから、革命の理念を理解することすらできない。

独裁国家を笑っているというより、能力差別の問題の方が大きい。日本という国にある、経済支配というものをつい連想する。権力というより金力によって、人間が支配されている。支配というものは、オーウェルが書くように、支配されている人は気付かないものである。誰しも、お金に縛られているなど思わないのだが、実はお金が全ての価値観の根底をなす。そのお金の力で人間という存在全体が支配される。給与をくれるので、存在の誇りを捨てて土下座もする。絵描きであれば、売れるということに支配される。これが商業主義絵画時代の実態である。どのようにしてそこから脱するかと言えば、すべてを趣味にするということだ。実益のない趣味にすることだ。アマチアリズムこそ、金権支配からの離脱。私絵画の主張。自給農業の主張。これは学生時代の美術部の先輩の般若さんから学んだものである。オリンピックでもプロ参加が認められ、金権支配が進行した。

日本では、お金にならない分野では、評価もされなければ仕事もない。博士の資格のある人の就職先が極めて少なく、18万人も職に付けないとNHKで報道していた。この傾向は、さらに進むに違いない。韓国では大学卒業者の4人に1人が、サムスンの就職試験を受けるそうだ。これなど、動物農場を髣髴する事象ではないだろうか。一人ひとりの人間の存在をくっきり尊重するというのが、民主主義である。民主主義は効率も悪いし、お金にならない。一人ひとりが自分の正しさをバラバラに主張し、まとまらないまま、少々不満のある結論で進めなければならない。勢いはつかないし、経済競争に民主主義は適合しない。能力差別を行う方が、経済競争には向いている。理想を述べていても、現実の競争に負けるのでは、話にならないというのが、世界市場の競争ということになる。動物農場でも、生産効率を上げるための独裁ということが進む。この話は寓話というより、まるでドキュメントの様である。

この点が、寓話としては物足りない所だ。支配者の豚を独裁者の名前に置き換えるだけで、現実化してしまう。このアニメが中国向けに動物農荘となる所以がそこにある。しかし、アニメというものの限界を感じる。寓話として見た場合、生々し過ぎてどうかと思うものを、デズニーアニメのような動物たちが演ずるとなると、もうこれは寓話とは完全に言えなくなる。猫がネズミを追い回す、デズニ―アニメでは、正義も愛情もほどほどにしか感じられない。やはり、書かれている小説というものの面白さを思う。最近宮沢賢治を読み返している。この人の小説は世界に通用するのではないかと思う。古さというものが全くない。動物農場とは逆で、まるでお話の様に書いているが、寓話なのだと思う。寓話にはとても興味ある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

法人税の減税はおかしい

2013-10-11 04:16:37 | Peace Cafe
法人税の減税が検討されている。到底受け入れがたいことだ。これは大企業優遇以外の何物でもない。法人税の減税の恩恵を受ける企業は儲かっている30%に過ぎない。減税分を賃金の上昇に使ってもらうということだが、これは大企業の社員中心の優遇となる。ますます、中小の利益の出ていない70%の企業にしてみれば、苦しくなるだけだ。何故こういうおかしなことになるかと言えば、安倍政権は国際競争力だけを重視しているからだ。たしかに、世界との競争に勝たなければ、日本の国力も上がらない。しかし、こうして大企業だけが競争力を高めてゆくという構図は、韓国が行って、社会がおかしくなり始めていることだ。韓国の社会のあり方が、望ましいだろうか。韓国の抱えている問題点がどのように深刻化して行くのか、十分に監視し、研究し、反面教師にするべきだ。サムスンの就職試験に大卒の25%が受験するという。そんな偏った社会は耐え難いではないか。多様性の失われた豊かさは魅力がない。

津波被害復興のために、国民広くに特別税が来年まで課されている。やむえない事態だと思う。東北の復興が日本国全体として大切なことだ。ここは辛抱のしどころではないか。絆とか、頑張れ東北とかのキャンペーンは、そういうことを意味しているのではないか。なぜ、大企業だけ友情の輪から外れるのか。そんなグローバル企業は日本から出ていけばいい。留まってもらっても、結局は日本の為にならない企業だ。あの経団連の会長のずうずうしい態度はどこから出てくるのか。もう少し我慢しようというのが、善良な日本人の思いであってほしい。法人税が不当に高いと思うなら、早く日本から出て言ってくれればいい。日本の現状は税不足なのだ。日本の企業であり、日本の為という思いがあるなら、ここは我慢のしどころではないか。企業はお金の為に出来ていると思うのは大間違いだ。資本というものにはそういう性格があるが、人間には幸せになるという命題がある。自分だけ良ければいいという訳に行かないのが人間ではないか。

足るを知る。人間の能力は、競争に勝つためのものではない。能力主義は差別を生む。人間は能力に関係なく、自分の人生を全うしなければならない。私にマチスの才能がないのは、明らかであるが、それでもマチスが私の絵を描くことはできない。他者と比較することなく、自分の十二分に向かって進む以外に生きるということはない。能力というものは一つの要素に過ぎない。何故法人税のことでこんなことを書くかといえば、企業であっても能力があるなら、あるほど、社会に対して還元することを考えるべきだ。国際競争力というものも最終的には、めぐりめぐって、日本社会への貢献度が重要になるはずと思いたい。そうでないとすれば、世界自体が破たんに向かっているということになる。競争に勝つことだけで、他を許さないような存在が、世界に受け入れられ続けることはない。

企業が内部留保を高めているということが言われる。企業の現貯金の額だけで見ると、2008年には200兆円2013年には225兆円になっている。これだけ不景気が言われた間、企業はむしろ貯金を殖やすことが出来た。同時に借金の方も減少している。そして政府の財政は借金が増加する一方である。個人も同様なのだが、こうした結果は不透明な社会であり、有効な設備投資の方向が見つからない状態なのではないか。ある意味、必要なものは十分に出回り、有効な新商品が見つからない。そして社会全体に、貧富の差が広がっている。消費税を増税し、法人税を減税するということは、格差社会をさらに強めてゆくということになる。法人税減税分を賃金上昇に回せというのが、政府の言い方だが、これはおかしな論理だ。法人税の恩恵を受ける企業と、法人税減税がそもそも関係のない企業にとっては、さらに経営が苦しくなるだろう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イノシシ講習会

2013-10-10 04:13:25 | 地域
昨晩は、久野の農協でイノシシ罠猟の講習会があった。農協の2階の会議室が、いっぱいになった。半分位の方は知っている人で、後の若い人たちは、どういう人か分からなかったが、頼もしいことである。50人ぐらいだろうか。女性の方も数名おられた。久野で農業をされている方がみんな集まったような感じだった。小田原では昨年は100頭のイノシシを罠猟で捕まえたそうだ。久野でその半分ぐらいではないだろうか。まず、小田原市の環境課の担当の、横井さんから罠猟の申請や、法的な問題が説明された。一番変わったことは、農協が窓口になったことである。今までは罠で捕まえたとしても、その後の始末を誰かに頼まなければならない。殺すことや、肉にするなり、焼却処分するなりの準備を自分でしなければならなかった。この点を農協で進めてくれるというから、ありがたいことになった。まあ、捕らぬイノシシの皮算用であるが。

神奈川県の獣医師で、害獣駆除を専門にされている。県西地域鳥獣被害防除対策専門員の安富さんという方が見えた。若い女性の方で、かなり猟もされているようだ。若干野生動物に対する感触が違ったのは、研究者であり、山育ちで山暮らしという方ではない故と思われる。アライグマ、タヌキ、アナグマ、ハクビシン、ニホンジカ、イノシシ、ニホンザル、の輪郭の話をしてくれた。狩猟の実際についてもかなり詳しいと思われたが、今回は一般論だけだった。イノシシは匂いや音に鈍感な動物。動きは機敏で危険、昼行性である。私の認識とはだいぶ違っていたので、意外だった。私には鈍い動物という感じで、人間を見たらまず逃げる。確かに昼間も歩いていることもあるが、農業被害を受けるのは、必ず夜のことだ。山で出会うのもほぼ夜だ。又柵で防ぐには150cmの高さが必要と言われていた。しかし、実用的にはそんなに高いものでなくても、向こうが見えないということが重要な気がする。見えないと不安で避ける。アミよりトタンがいい。参考になった意見は、野生動物は常に食料を探しているという見方だ。

その後、石綿さんからイノシシ猟の実際の講習を受けた。沢山の動画入りの説明で、良くわかった。暗視カメラでの、撮影までしている。息子さんとの共同で、さすがによく観察研究されている。参考になる点が多すぎた為消化不良。年齢を経ることでイノシシは、どんどん賢くなる。年寄りイノシシは賢いから、罠猟で捕まるイノシシは若い。イノシシは注意深い。頭の良さは恐ろしいほどだ。罠猟はイノシシとの知恵比べで、よほど観察力がなければ無理なようだ。又、石綿さんの畑のように、広い果樹園なら良い仕掛け場所があるが、田んぼなどでは、場所が極めて困難になる。人家に近いところでは、住民とのトラブルが起こるから、避けた方がいいとも言われていた。捕まったイノシシは死に物狂いで暴れるから、何が起こるか分からない。やはり田んぼでは、田んぼの方を囲んでしまう方が早いようだ。柵をするのは大変なようだが、罠猟はさらに大変である。可能な方法は箱罠である。箱でも観察するどく考えれば可能ということのようだ。

小泉さん、村田さん、鈴木さん、毎年10頭以上採る名人たちが、皆さん見えていた。石綿さんも言われていたが、子供の頃から、罠猟に関心がある方々で、山を熟知していて、猟のコツを知っているから捕まると言われていた。何百万円かの対策費が県、市、農協から出ているようだが、こういう名人の方にこういう費用を全部使ってもらうのが、一番効果が上がるのではないだろうか。軍事費が不足していては、イノシシとの戦争に負ける。軍備の充実は不可欠とのこと。センサー付きの箱罠が必要と言われていた。箱罠をかなりの数、公的に所有しているとのことだが、有効に使うには、一年中餌を仕掛け、毎日見まわるくらい熱心な人にお願いしなければだめなようだ。片手間でイノシシが捕まるようなことがないことだけは確かだ。手をこまねいていれば、野生動物にやられてしまう。出来ることから取り組みたい。帰りがけにやはり何頭もイノシシを捕まえている穂田さんが、トタンが出るからと言ってくれた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

よく読むネットの記事

2013-10-09 04:15:40 | Peace Cafe
大抵の人が、良く読むネット上の文章をお気に入りに入れているのではないだろうか。ネットを飛びながらいろいろの情報を得る。そして、これはと思えば、お気に入りに入れて置く。そしてあまり読まないようなら、削除する。時間がある時に、それをジャンル別に整理している。フォルダーが8つになっている。農業とか、足柄とか、論壇とか、沖縄、犬と猫、新聞とか、分類しにくいものは、その他という形になっている。フォルダーの中には、100ぐらいのアドレスが記録されている。面白いと思いよく読んでいたが、全く読まなくなっているブログなども多い。新聞は毎日、一通り見る。興味ある記事があれば、すべての新聞でその記事がどのように書かれているかを読む。そんな記事はめったにないが。そのうえで、論壇に入れてある記事で、興味を持った話題に関する意見がどのようなものがあるかをチェックする。

シノドス、JBプレス、現代プレミアブログ、農業政策、日刊ベリタ、ブロゴス、そして、個人のやっているかなりの量のブログなどである。このことなら、この人の意見は読みたい。ということで、さらに他に飛ぶことも多い。話は飛ぶのだが、私の眉間には白い小さなイボのようなものがある。それが徐々に数が増え、10以上あるだろう。時々、ひとから、アレルギーとか、化ぶれたのではないですかなどと言われる。人を批判ばかりしている人には、こういうい美が出るのだという意見もある。良く見ればおかしなものだが、痛いでもかゆいでおないので、見た目を気にする年でもないので、一切ほってあった。それは何か体調の変化が表れているのだという意見があったので、この白いイボを調べてみた。ー―目の下の白いポツポツ「稗粒腫」を自力で治す方法ー―というもので正体が分かった。それでまず一つで実験してみた。確かに問題ないので、5つ取り除いた。見てこれが何かをわかる人は会わなかったが、ネットで調べると簡単に結論が出る。

良く読むのは、TPPに関する記事である。農業の未来がとても気になるからだ。しかし農業の記事は少ない。「農業と環境」「農業政策」「日本農業新聞」「全国農業新聞」「環境農業新聞」「JA新聞」等をよむが、それほど農業政策に関する記事がある訳でもない。具体的な稲作技術は、小学生向きから、専業稲作農家の方が読む情報まで、多様である。環境問題からのアプローチの田んぼの世界も多様に記事がある。しかし、日本の稲作の政策的な観点からの意見は本当に少ない。日本の稲作をどうすればいいのかという前向きな意見はほとんどない。たまに読むことに値する記事があると、経済界からの意見である。農業者の側に立つ良い意見を作り出さないといけない。

沖縄というフォルダーがあるのは、沖縄の問題は日本全体の問題の縮図のようなものだと思うからだ。沖縄の稲作の変化は、日本全体の変化を予見させる。基地問題や領土問題も、アメリカと日本の関係も、沖縄に集約されている。しかも、沖縄は日本で最も魅力的な地域である。沖縄で暮らしてみたいと、よく叶わぬ夢を見る。そういうことは、岡本太郎的な視点で、縄文の日本の原点というもので、沖縄の現状や、暮らしている人の気持ちとは違うのだろうとは思っている。そんな意味もあって、沖縄に移住した人のブログなども時々読む。今は沖縄の難しい地名の、位置関係がおおよそ頭に入っている。島々の位置もおおよそわかるようになった。すべてネットの知識である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インフルエンザワクチンについて

2013-10-08 04:29:41 | Peace Cafe
そろそろインフルエンザの季節である。きっとまた、インフルエンザワクチンの接種について、キャンペーンが行われることだろう。インフルエンザワクチンは無駄の上に、全くの無害のはずもないので、やらない方がいいと考えている。インフルエンザワクチンほど今の世の中のおかしさを象徴しているものはない。結論から書いてしまえば、インフルエンザワクチンは、製薬会社の陰謀のようなものである。こんなものが有効であるのは宝くじに当たるようなものだ。高病原性の鳥インフルエンザが起きた時から、ワクチンの有効性と、ワクチンの問題点を勉強してきた。そして、WHOというものがどれほどおかしな情報を流しているのか、痛感した。その後の経過は、当初私の予測した通りの経過をたどっている。どれほど無駄な費用が使われたのか、そしてそのお金の流れを起こすために、賄賂と、収賄と、言うような犯罪が起きている。

2009年6月11日WHOはパンディミック宣言を出した。「2009年風邪によって全人類に危機が迫っている。」はたしてそんなことはあっただろうか。判断のまちがえだった。この判断に影響ある人間の3人に1人は、製薬会社からの資金援助を受けていることが分かっている。ワクチンを接種した人の死亡率は、新型インフルエンザに有効であったかと言えば、データー的には、ワクチンをしなかった人と同じという結果が出ている。医療というものが、金権主義に汚染されているのが現実である。しかも、その汚染は、テレビ、新聞、政府と、一体になってキャンペーンを行っている。今度の子宮頚癌のワクチン事件も疑問のある経過だ。医療というものは、完全なものはあり得ない。ワクチンも同様のものなのだ。ポリオにかかるより良いとして、そのリスクを知った上で使うべきものだ。そのほか、麻疹とか、天然痘とか、ウイルスが変化しないタイプのものは、ワクチンは有効なものだ。しかし、インフルエンザワクチンは全く意味が違う。ウイルスが常に変異するから、有効性がないのだ。

インフルエンザウイルスは、常に変貌をしている。高病原性の鳥インフルエンザが明日にでも人間の感染すると、大騒ぎをしたが、人間への感染拡大はなかったし、今後も起きない。当初から私が予測したように、鳥のウイルスが、直接人間に感染を広げるようなことは、極めて特殊なことだ。それくらい、人間と鶏は異なる生き物だ。間に豚を介在すると、話が少し違う。アヒルと豚とを1か所に大量に飼育する。すると、ウイルスは感染を繰り返しながら、豚の中に新しい人間が感染しやすいウイルスの大変異を起こす場合がある。そのウイルスは新しい感染経験のないウイルスの為に、一気に社会に広がってゆく。よく言われる、ペスト以上の被害をもたらしたという、スペイン風邪がこれである。こうしたパンディミックがまた起こるようにWHOは不安をあおっている。その不安が、ワクチンの無駄な生産と国家備蓄という、とんでもない無駄遣いを広めた。新しいウイルスだから、広がる可能性はある。しかし、新しいウイルスに対して、ワクチンの備蓄準備など出来るはずもない。

断言するが、スペイン風邪のようなことは絶対に置きない。自然に感染し出来た免疫の方が、ワクチンより有効なのだ。それは、感染してできた自然免疫力は変異をし続けるウイルスに対して、変異をしながら対応することが可能である。インフルエンザワクチンはコンポーネントワクチンと言って、ワクチンの一部だけを使って作られている、不活性化ワクチンである。このワクチンでは対応力がない。もう一つの問題点は、特効薬と言われるタミフルである。インルルエンザに感染後すぐに使えばわずかに有効性があると言う薬である。タミフルの世界の使用量の70%が日本で使用される。リスクの高い薬だから、止した方がいいというのが、世界の傾向である。そんな薬を大量に保存するのは、製薬会社と政府の陰謀としか私には思えない。スペイン風邪が起きた時代と、現代とは全く栄養、衛生状況が異なる。医療も進歩している。特別な対策をしないとしても、それほどのパンディミックは起こらない。ワクチンをしない、タミフルを飲まない。私はそう決めている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

TTP交渉の矛盾

2013-10-07 04:06:06 | Peace Cafe
TTP交渉は相変わらず内容が見えない。気を付けてみているつもりだが、興味のあるお米についてどうなっているのかがわからない。難しい話の付きにくいことは先送りしているようなことを言っているが、たぶん嘘だと思う。嘘のまま、何故か年内決着とか言われている。TTPに入るかどうかがまだ揉めていた頃、よく言われたもっともらしい意見に「交渉に入る前から、決めつけないで、交渉してみてダメならよせばいいのだから」こういう意見が出ていた。上手い説得の言葉だ。「そうだ、そうだ、やりもしない内から、ダメと決めつけるのはおかしい。」という機運が高まったと思う。果たして今交渉から離脱は出来るだろうか。止められる訳がない。そういう筋書きである。結局は、農業分野は大きな打撃を受ける。そのことが、日本という国の成り立ちを揺るがすおそれがある。経済だけで見れば、日本は農業を一切やめてしまうという方向もある。しかし、総合的に日本の未来を考えれば、それでは国のかたちに無理が生じるだろう。というのも多くの人が感じているところだ。

安倍氏の瑞穂の国美しい日本論のような、曖昧なよさそうな空気だけで、その犠牲が地方の農業者にかぶってきている。さらに荒廃する。農業を止めるなら止めるで、そう決めた上で方向を示すのが政治だ。続けるということの根拠が、訳のわからない、国際競争力のある農産物論を持ち出してくる。日本の農業と言うが、瑞穂の国であり、問題は稲作をどうするかに尽きる。このことは、中山間地の農村地域をどうするかの問題でもある。これもまた、放棄するというならそうはっきり決めればいい。ところが、曖昧に地方の時代と、ごまかしているから、そこに暮らす多くの良心的な人が、犠牲になっている。イノシシやシカが出てきて農業が出来ない。対応してくれているのは、良心的な地域に暮らす人だ。国や公共が対応してくれる訳ではない。経済とは別に、地域を守るためにはありとあらゆる膨大な仕事がある。そういうことは、誰かに押しつけて、国際競争力のある農産物と言っても、犠牲部分に目が行かない。

稲作をどうするか。具体的に議論すべきだ。国際競争力のある稲作が出来る場所では、大規模化し、機械化し、大いにやってもらえばいい。その軌道に乗せるためには、補助金ではなく基盤整備だ。問題は競争力はないが、地域の維持のために、環境保全のために、やらざる得ない水田をどうするかである。水田を止めた後、その地域をどのように維持するのは、放棄するのか。明確な地域の位置づけが必要である。自給的農家の意味も明確にすべきだ。迷惑だから止めろというなら、はっきりそう決めればいい。農家の戸別補償など、じり貧を待つような、真綿首は何にもならない。補助金農政ではだめだ。必要な業として可能な体制を作らなければ、後継者などでる訳がない。TTPは良い機会である。何故肝心な農業に関する論議を封鎖しているのか。

食料の安全保障と農業の関係。今後の世界の食糧事情の変化に対する見通し。農業と中山間地域との関係をどう考えるか。農業と環境保全の考え方。国際競争力の可能性のある地域をまず、指定して機械化のための徹底した基盤整備を行う。高品質な農産物が生産できるように、水の汚染や農薬の使用に関しても、世界に類を見ない厳格な基準を打ち出さなければだめだろう。国際競争力という意味では、日本の大半の中山間地は希望はない。しかし、地域の維持や環境維持には農業は欠かせない。中山間地へのインフラ整備。自給農業を行う人が、生きていける条件を作る。通信や寄宿教育。緊急医療。情報網。条件さえ整備すれば、どんな山の中でも生きていける可能性がある。それぞれが生き方を選択できる、条件を国は整えてゆく。直接の補助金ではなく、周辺環境の整備を行う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小泉脱原発論

2013-10-06 04:12:35 | Peace Cafe
小泉元首相が脱原発論を主張している。時代感覚をとらえているし、ごく常識的な意見である。安倍自民党政権が、何故こんなに単純なことが分からないのかが、不思議でならない。原発のように、国策として進めてきた事業から転換することは、どこの国でも難しいことだ。しかし、日本は福島で深刻な原発事故を抱えている。今政府が方針を転換するとしても、大きな間違いとして国民も受け入れることが出来るだろう。早く方針を転換すれば、まだ日本は間に合う。今から原発推進をしようなどという国がまだあるのは、核保有が軍事バランスに重要と考えるからだろう。日本にはすでに十分過ぎるプルトニュームが存在する。むしろ廃棄もできない困難な状況である。その意味で、日本は核保有と、原発とは連動していない。もちろん核武装は、論外だがともかく議論の外のことになる。コストに置いて、相変わらず原子力は安い発電方法だという主張がある。しかし、すでに明らかなことだが、原子炉の廃棄や使用済み燃料の保管費用などを入れない場合の計算である。

原子力発電が本当は一番コストがかかるものだということは、政府には充分分っている。核廃棄物処分は、方法も場所も極めて困難である。このごまかしの延長戦にあるのが、もんじゅである。その昔、未来の夢のエネルギーとして語られたものだ。エネルギーを使いながら、エネルギーを産み出すような、高速増殖原型原子炉は技術的に可能性がほとんどない。核燃料サイクルは実現不可能な技術だったというほかない。資源小国日本としては、この技術の可能性にかけようとしたのは、やむえない側面もあったのだろう。しかし、可能性が極めて低いということが分かった以上。方針を早急に転換することが、現状の選択としては、最善の判断になっている。しかし、国策として今まで進めてきたために、原子力村の利権は、政治と結びつきがんじがらめになっている。簡単に転換できないということも想像に難くない。しかし、どこかでけりをつけなければ、日本はさらなる泥沼にさまようことになる。

原発推進論の政府は、2つのことを明確に示す義務がある。一つは安いという計算の根拠だ。簡単なことだ、計算を示すだけでいい。もう一つは、核廃棄物の処理法を具体化する。この二つについての材料が示した上で、国民全体で議論を行う。それをやらないとすれば、それは見通しが嘘だということになる。ずーと気にして待っているのだが、政府から説明を聞いたことはない。こんな基礎的なことが示せないということは、見通しがないと考えざる得ないではないか。あるいはもう一つの考え方がある。確かに原発はコストはかかるが、一応使える間は使うべきだという考えがある。すでに使えるものが存在しているのだから、このまま廃棄するよりはましだという意見だ。この場合も、なし崩しに方針なく進めるのでなく、将来の廃棄時期を含め、冷静な議論を進めるべきだ。

何にしても、今後の経営の計算を示してほしい。一番問題になっていることは、ぐずぐず曖昧なまま、なし崩しで行くという政府のやり方だ。確かに国民は時間がたてば、忘れるし、疲れて諦める可能性もある。しかし、小泉氏の主張のように、新しいエネルギーへの方向転換という大切なことがおざなりになる。小泉劇場はもう願い下げだが、国に勢いがつくためには、方向を示さなければだめだという点では、賛成である。民主主義で行くということは、様々な異なる議論は当然ある。その議論を無視するのではなく、十分に議論するということが大切だ。その結果双方に、不満な結論になるのかもしれない。それでも方向さえ合意できれば、再出発が出来るだろう。原発推進派は、十分納得のゆく説明をしなければならない。原発反対派は代替エネルギーの計画や、エネルギーを消費しない暮らしを提案して行く義務がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

才能と夢

2013-10-05 04:59:49 | 身辺雑記
夢を持ってやってきた。今でも夢を抱いて暮らしている。自分がやりたいようにやるということは貫いてこれた。夢をもつことは自分勝手なものだし、才能があるかないかということになれば、他と比較することになる。昨日引退したヤクルトの宮本選手は「野球を楽しいと思ってやったことは一度もないと、練習をもうやらないでいいと思うとホッとする。」引退のあいさつをしていた。何か、とても寂しい感じがした。プロ野球の選手なら、ファーンに対して野球を、我慢して努力していたなどいうべきでない。努力は人に見せてはならない。逆説であるにしても、好きではなかったなどと挨拶はしない方がいい。たしかに草野球をやることのほうが、楽しくて生きがいになるのかもしれない。違いは収入があるかないかであるとすれば、お金のために我慢して生きる人生など、くだらないではないか。ゴッホもセザンヌも評価されない絵描きであったが、あの素晴らしい絵を残してくれた。

才能があるということは、好きなことを見つけられるかだろう。好きなことが見つかれば、後は何とでもやりぬける。何故、好きなことを貫けないかと言えば、好きさ加減がその程度であるからだとおもってきた。ではなぜ好きであることが強くなるのかと言えば、始めてみるからである。好きか嫌いかなどやってみなければわからない。やって見れるかどうかには、3つの壁がある。1、食べれないかもしれない不安。2、才能がないかもしれない不安。3、好きかどうかがよくわからない不安。この3つの不安を取り除くことが、好きなことをやって生きてゆけるかになる。お前なんかには無理だよ。食べていけるわけがないよ。こういう止める気持ちが働く。抑性が働いて普通だ。自分には才能がないかもしれないという気持ちは、当たり前のものだ。生きてゆくことに他人と比較する才能など関係がない。結果から判断しないことだ。一番困るのは、好きなのかどうかがはっきりしないことだ。好きかどうかは、やってみなければわからない。宮本選手の本音は好きだったんだと思う。好きであっても練習は辛いということ。

どんなことでも食べれないということはない。野球が好きであるとしても、普通はプロ野球には入れない。絵が好きでも絵が売れて食べていけるというようなことはない。でも、草野球は出来るし、絵を描き続けるぐらいのことならできる。好きであれば、絵を売って暮らそうと、他の何かをしながら絵を描くのであるにしても、全く同じである。宮本選手より、草野球の選手の方が楽しいのかもしれないぐらいだ。収入があるとかないとかで、好きなことを止めるぐらいの好きさ加減では、どうせダメということだ。本当に好きではないから、食べれないかもしれないということは、自分の日々を、確実に生きるということの大切さから見れば、小さいなことだ。大抵の人に、いわゆる天才の才能などない。誰しもモーツアルトではないのだ。

一番困るのが、好きなのかどうかがわからないということなのだ。好きなことを見つけられない。これも普通のことだ。私自身何がやりたいのか、いまでも自問している。絵をやる以外ないという現実もある。絵を描いていれば安心ということもある。手ごたえのようなものもいくらかある。好きなことを見つけるには、好きかもしれないことをやってみるほかない。やりもしない内に、好きなのかは分からない。やらない内から、才能など考えてみても始まらない。たまたまやり始めたことがどんどん面白くなるというのが普通だろう。つまり、大抵のことはやりつくせば面白いのだ。自分に合うかどうかもあるが、合わないことを無理に続けることなど出来ないのだから、続けられるということは、合っているということだろう。問題は他と比較して、才能がないと思い込むことだ。そういうことは自分の人生に全く関係がない。私は後20年、絵を描いてどこまで進めるのかが楽しみで、生きている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

15回水彩人展の絵について

2013-10-04 04:05:46 | 水彩画
水彩人展は、昨日終了した。充実したとても楽しい展覧会だった。それぞれが言いたい放題言い合うことになっている会だから、私もずいぶん迷惑をかけたのかもしれないと思う。嫌な思いもさせたのだろう。今回もとても良い指摘をいただいた。面と線の関係について、サムホールがろうの方の意見が、ああそういうことかと思い当たることがあった。線に引きづられること。面で構成すること。そういうことが、私の見るということと、とても関係していると感じた。絵を描く目で見るということは、視覚的にみる。5体を通して感じる。それを頭があれこれ考えてよりわけながら見ている。それを画面の上で、どのように作り上げればいいか、線と面と色で、新たに作り出してゆく作業。線に引きづられる感じは、自分の感情的な思いを、画面に乗せようとしている。自分の絵を進めてゆく上で、重要な機会になっている。

水彩人同人18名の絵が水彩画にふさわしいものと考えていたが、そうとも言えないなと今回の絵を見ながら、今は考えている。水彩画の限界に位置するような作品もある。しかし、この限界に位置するようなものも水彩画の一部なのかもしれない、そう思いながら考えてみている。水彩という手法の限界を排除することはないが、水彩という材料を生かした制作を考えてみる必要はあると思っている。水彩の中に異質なものがあると、悪い形で存在が目立つということがある。目立ちたいから、水彩らしくないことをあえて特徴とする、という精神が現われてくる場合すらある。水彩人同人には、約束がある。そのことは水彩人の宣言文にある。そして、絵を見て、感じたことは率直に口にする。たとえ言いにくいことでも、無理をしても話す。同人には互いにそれが出来る、人間的信頼関係がある。

感想というか、会場でのメモである。

昆野さんの絵3点は水彩の色使い深さが、情感の豊かさの表現になっている。水彩の色彩の美しというのは、こういうものだろう。とても学ぶものがあった。

相川さんの絵も、水彩の色の美しさに目を見張った。このように薄い塗で、絵画になっている。この薄い色調を支えているもの、精神的な緊張感のようなものを画面に感じた。

畔上さんの抽象表現は、水彩の抽象らしい作品で、柔らかな線の集積が絵になってゆく過程を見せている。線が集まり空間を作り出していく。その純粋化した仕事。絵はこういうものなのかもしれないと思った。この姿勢には教えられる。

井上澄子さんの2点は、今回の展覧会で最も注目された絵だろう。10号ぐらいの半具象の絵なのだが、水彩画が大きさとは全く関係がないということが良くわかる。あの船の赤の色は今も脳裏に浮かんでくる。その時に、画面の大きさなど全く消えている。大きな色面の使い方と、抑制的な気持と。絵の精神がしっかりと表現されている。

宇都宮さんの絵は不思議な空気がある。この人は4点の絵を出品して、この1点が飾られたのだが、2点を選択できなかったのは、選ぶ人たちの力不足である。自分の世界の色を持っているということがすごい。水彩人の仲間としては、はじめての登場で、こういう素晴らしい仲間が出してくれるというところに、公募展化して開催した良さがある。

金田美智子さんの「アマリリス」も頭に残っている。色彩というものは一番心に残る。アマリリスの優しい色調は忘れ難い。素直な当たり前の表現の中に、豊かなものが潜んでいる。

斎藤さん「まどろみ」の人物も魅力がある。水彩で人物を描くことはとても難しいことだが。実に良く描けている。体重を感じさせる。こんな技量がうらやましい。小さな画面で、のびのびとした絵画世界を表している。

関さんの風景2点はどちらも、世界を持っている。押しつけがましくなく。感じて描いている。感じる力がすごい。又視点がいい。この場所を描こうという意識に魅力を感じた。空間を見る目が世界観につながってゆく、過程を見せてもらえた。私にとっては一番の勉強になる絵だった。こういう絵と並べることが出来るから、展覧会はやる必要がある。

高木さんの「夏の訪れ」色彩も、深い味わいがある。こんなに柔らかで、澄んでいて、のびのびと豊か。水彩以外では絶対に不可能な表現である。私絵画の方向を示しているのかもしれない。

伊達さんの「五月の風」の白の美しさも参考になる。紙の白と、水彩の白。実にこのハーモニーが素晴らしい。画面全体を表現として把握している。

松波さんはいつも実験的である。消して、消して、残りきる痕跡を絵とすると言っていた。残るもの。痕跡。消せない記憶のようなものか。これも普通の水彩の描法ではない。昔から博士というあだ名だったそうだ。今回、松波さんが水彩人の講習会を担当した。松波さんの話は、なかなか良かった。違うことを結び付けて、その間に存在する言葉にしにくいことを、上手く話していた。つまり詩の様な水彩の講義である。あの話のような、絵になればすごいと思う。話なしのような絵を見たいものだ。

青木さんや、郡司さん、松田さんの抽象の世界は精神的な世界を強く感じる。疋田さんもここに割り込んできている。最近の水彩人の動き出している傾向かもしれない。こうした抽象的方法は、各人の心の有様を直接に伝えてくるような世界で、水彩的表現の得意とするところと言えるのかもしれない。抽象ではないと松田さんは主張しているが、見る側から言えば具象的形の意味は、かなり小さくなっている。水墨的な線とか、にじみの意味も抽象に行かされている。私絵画の一つの入り口の世だ。その意味では抽象というくくり方が悪いのであり、新しい言葉を考えるしかないのだろう。

磯貝さん、橘さん、佐瀬さん、大原さん、三橋さん、栗原さん、この6人の絵が当初目指した水彩人の主張する、宣言文にある、素朴に内に向かって描く水彩画に向かっている。技法的にも、絵画性に置いても、水彩の持つ特徴を最も生かそうとして制作をしている。

特に栗原さんの作品は、水彩人の水彩画と言い切れると思う。画格が高いというのは栗原さんの絵だ。実にうらやましい。別格だと思う。

入江さんの絵は油彩画のようである。何故水彩画でなければならないのだろうか。これも不思議な気がする。しかし、いわゆる水彩画家として評価されている中西利雄の作品にもこういう調子に近いものがある。日本独特の水彩表現が潜んでいるのかもしれない。それを明るい色調でやろうというところに、入江さんらしい試みがあるのだろう。黒をあえて使わないのかもしれないが、このあたりが、気になる。

北野さんの絵は絵本的な世界を感じさせる。面白い調子や暗示的なというか、寓話的な世界の匂いで絵を作ろうとしている。文学的であると言う事、詩的であること。そういうことは悪いことではないし、これも水彩の仕事の重要なところだ。どう展開して行くのだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

財政再建は、出来る訳がない。

2013-10-03 04:15:04 | Peace Cafe
消費税は上がることに決まった。それは必要なことだし、待ったなしである。消費税を社会保障目的税化して、社会保障の充実をはかると、一応は言われているが、これは消費税を上げるための理由にすぎない。今度消費税が3%上がり、8%になるが、5兆円くらい税収が増えるだろうということだ。それくらいでは、どうにもならないほど、今のままの社会保障制度を続けるには足りない。年金制度が作られた時の感じでは、月々1万円の積み立てをしておけば、年をとって10万円くらいの年金がもらえるということだった。ところがいよいよ年金を払わる時代になってみると、月の積み立てが、5万円くらいないと無理ということが見えてきた。その増加分を若い世代に積み立ててください。とお願いしている状態なのだろう。払わない人が増えるのもうなづける。今の年金世代は、大儲けしているのである。もちろん私も入れてである。票田になる世代は優遇される。団塊の世代はあれやこれや得をしてきたのだ。

同時に財政再建もすると主張している。でたらめと言えるほど、ほど遠いい話だ。社会保障費で足りなくなるのに、どうしたって、借金を減らせ訳がない。消費税を上げれば、何とか息が付けるというくらいのことと考えるしかない。道は1つしかない。社会保障全体を抜本見直しをして、もっと減額するほかない。今の社会保障のまま行くなら、消費税は30%にしなければならないという、経済状態なのだ。もう一つの道は、他の税収を増やすことだ。共産党なら、大企業から取れというところだろうが、自民党政権だから、むしろ法人税の減額が検討されている。財政再建どころではない。選挙お礼の大盤振る舞いのようなものだろう。国民全体で、東北の復興にまい進しようという時に、復興に充てる特別税を前倒しで、下げなければ日本から出てゆくと、経団連から脅かされているのだ。そんな連中には早く出て行ってもらった方が、日本の将来のためだ。

企業の景気が良くなり、税収も増加する。こういうことを安倍政権は考えている節がある。それもあってほしいことだが。日本の企業が独り勝ちできないのは、当たり前のことなのだ。世界経済は世界中の企業の競争で行われる。これは全く平等ではない競争である。敗戦後の日本は、あらゆる有利さを生かして、いち早く、競争に勝利した。主たる要因はすべての分野で、良く働き、良く頭を使った。日本人の江戸時代からの蓄積のすべてを注ぎ込むことが出来た。勤勉とか、観察能力が高いとかだ。協調性があり、自己犠牲の精神があった。しかし、日本人が田んぼから離れるに従い、そういう能力は失われた。後発グループもそれぞれの有利さを生かしつつ、追いつき追い越してゆく。当たり前のことだろう。民族間で能力差を考えるなどおかしなことだ。現状では競争に勝ち始めたのは、極端な能力主義の国である。1万人を犠牲にしても、一人の天才を生かそうという国である。

日本が国としてやるべきことは、どこに行くのかを決めることだ。運転の仕方ばかりが議論されて、どこに行くのか目的地が決まっていない。何となく、北欧型福祉国家にあこがれがあった訳だが、どうも日本人には上手く行かないようだ。日本の伝統的地域社会が1年ごとに、失われている。それを再構築しようという機運がない。公という考え方が、個人主義、能力本位によって、失われた。又それでなければ、国際競争に勝てないと考えているようだ。こういう基盤が崩れ始めている国家の状態の中では、良い人間関係が作りにくい。すべての組織の内部では、そういう人間劣化が目立つはずだ。JR北海道の状態は、日本中に蔓延していると考えた方がいい。瑞穂の国の公の復活は、もう不可能なのだ。日本の行く先が定まらないままに、競争だけに目を向ければ、個人と公が遊離する。阿倍氏の方針では、財政はさらに悪化してゆく。企業が良くなれば、国民の暮らし全般に波及するというのは、全くのウソだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする