
永瀬9段が将棋世界という雑誌のインタビューで自分はASDだと告白した。という記事があった。将棋世界を毎月読んでいた時代があった。50年前のあの頃は将棋の勝敗は、雑誌の将棋世界を待って知った。将棋世界の次の一手に応募を続けて5段になった。6段はなかったので、将棋世界の購入を止めた。
ASDというのは自閉症傾向ということだ。永瀬9段の人柄を見ていると、かなり軽度のものか、普通に立派な方だと思う。マスク事件の時にいくらか違和感は感じたが。将棋に必死になりすぎて、マスクを外した対局者を、違反だから負けだと主張した。確かにルールはルールである。
案外に発達障害的な傾向は将棋棋士なら、存在する可能性は高いだろうと思う。将棋の棋士は尋常な人の能力だけではないと思う。普通の記憶力や努力ではプロの棋士になることは不可能だと思う。特別な才能を持った人だけがプロの将棋指しになれるのだと思う。
はやり天才という言葉がふさわしいと思う。安易に天才という分類をを使うのはいやだが、他の言葉が見つからない。多分その道の最高水準の人は、どこか人並み外れているものだろう。人並み外れると言うことは、良くも悪くも社会性に欠落した側面があるのも、普通のことだと思える。
発達障害という病名が悪い。政府は「発達障害てなんだろう。」という政府の広報がある。むしろ人間すべての人がそれぞれに、特徴があると考えた方が適合する気がする。共通な特徴が多いので、普通の人と言われるに過ぎないのではないか。
発達障害は脳の機能障害だと言われるが、脳の特徴だといった方がいい。人間の脳の能力を知能指数で計るような考え方がおかしいと思う。100m10秒で走れる身体能力は特徴なのだ。特徴が人と違う人が、発達障害の人と考えておいた方がいい。能力を高低で考えない方がいい。
アスペルガー症候群の傾向がある。自分のことばかりの傾向である。そもそもこのブログにもそういう傾向があるので、自分の発達障害がわかる。自分の絵を描きたいという固執もそういうことになる。相手もアスペルガーの似たような人だと、互いに自分のことをしゃべり続けておかしな会話になる。
笹村の話は面白いといわれたことが頭に残った。話術の達人がいると本で読んで、話術の達人になりたいと思ったものだ。子供の頃甘い大人に褒められたことがどこかに残っている気がする。その人の書いたものよりも、話を聞くと奥深く、話術の芸術家である人がいるというのだ。
話術カニはなれなかったが、黙っていることが出来ないのは確かだ。沈黙に耐えられない。つい話し出してしまう。話し出すと切りなく自分の興味のあることを説明し続けてしまう。気をつけているが、時々自分事ばかりしゃべっていて、自己嫌悪に陥ることがある。修正され切らない部分だと思わざる得ない。
注意欠陥多動性障害はすぐ忘れてしまう障害である。まさに私はこれで苦労してきた。忘れてしまうだけでなく、覚えるという能力も明らかに低い傾向にある。「話は上手で難しいことを知っているが、一方的に話すことが多い。おしゃべりだが、保育士や指導員の指示が伝わりにくい。」とあり、まさにこれだと確認した。
学習障害は、全般的な知的発達に遅れはないのに、聞く、話す、読む、書く、計算する、推論するなどの特定の能力を学んだり、行ったりすることに著しい困難を示すさまざまな状態をいいます。 一つのことに没頭すると話しかけても聞いていない。落ち着きがない、集中力がない、いつもぼんやりとしている。忘れ物が多い、毎日のことなのに支度や片づけができない。
発達障害にもいろいろの傾向があることがわかるが、子供の私は正直いくつか当てはまっていた気がする。99が覚えられなかった。漢字が覚えられなかった。覚えられる人が不思議な人に見えた。つながりのない理由のないことの暗記と言うことが、不可能だった。今は老人のぼけが入ってきたので、判別がつかない。
ずいぶん改善できたと自分では思っているが。障害を自覚することで脳の修正が効くような気がする。今でも自分のことを語ろうとして自制する。軽度のものだったのだろうか。小学生3年生の頃、会計係というものを当てられて、パニックに陥り、めちゃくちゃになったことがあった。なんとか親に取り繕ってもらった。
今思えば、小学生3年生がお金集めを出来る方が不思議ではないかと思う。子供にお金集めを任せるという、当時の小学校はめちゃくちゃなものだったのかとびっくりする。今は生徒がお金を集めるなどと言うことはないのだろう。先生が面倒くさいから生徒任せにしていたと言うことだったのか。
ネットで「小学校のクラスで会計係というものがあったか。」と言うことを調べてみたが、出てこない。みんな忘れたのだろうか。興味がないと言うことか。これは不都合な真実の一つではないか。考えてみれば明治の教育の中で、教育のために作られた係だったかもしれない。今はお金集めを生徒がするというのはないだろう。
発達障害について自覚をしたのは、ある意味大人になり自分を客観的に見れるようになってからだ。発達障害者支援法が制定されて20年とあるから、その頃に自分もまさに、子供の頃の様々なとんちんかんは、発達障害の傾向だと気づいた。なぜ人と異なるかがわからなかった。脳の機能障害と言われてみて、少し自分のことが理解できた。
今でも自分にこだわりすぎてしまうとか、記憶することが苦手だとか、問題がないわけではない。しかし、そういうものだと理解していれば、ある程度調整がきく。人の名前はなかなか覚えられないが、その人の判別はついてはいる。失礼になることが多い訳だが、今は老人だからしょうがないと思われているからまだいい。
自分にこだわりすぎる傾向は、受け入れて突き詰めことにしている。それが絵を描くことだと思うからだ。のぼたん農園も開くまで自分を突き詰めている。みんなのためと言いながら、自分のやりたいことをやり尽くしたいと言うことだ。
障害と言われればそうなのかと認めざる得ないが、今更直すと言うことも無理だろう。永瀬9段がその障害を自覚して、将棋で自分を極めようとしていることから学びたいと思う。大変だったに違いないが、永瀬九段は確かに乗り越えている。その生き方は素晴らしいと思う。
その前に藤井7冠が立ちはだかったと言うことも、一つの物語だ。藤井7冠や羽生永世7冠は、将棋が際立って強い上に人間的にも全くゆがみのない、健全で爽やかな人柄だ。天が2物を与えたといえるのだろうが。天から何ももらえないからと言って、悲しむことはない。