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冒険は意欲の泉

2024-05-30 04:44:33 | 楽観農園


 歳を取ることで一番恐ろしいことは意欲を失うことである。好奇心がなくなることである。若い頃は何もかもが新しい体験になる。まだ世界は未知の領域ばかりである。未知の世界に踏み込むことは、新鮮であり、自分がドキドキしながら活性化されて行くことが分る。

 所が歳を重ねると、だいたいのことは想像できるものになってしまう。事実はそうではないのだが、世間はこんなものだと、狭いところで納得してしまう。そして、新しい事に挑戦する面白さを忘れてしまう。人間の行動範囲など、世界の広さから考えれば、1%にも満たない。

 知らない街を歩いてみたい。知らない人と出会いたい。知らない世界にであって見たい。未知に対する好奇心を失うことが、人間の衰えなのだと思う。石垣島で、色々の人とまだまだ出会いたい。人間ほどおもしろいものはない。確か明日家に来てくれる人が居る。小田原から石垣に移住する人らしい。

 先日は情熱クラブという組織の人達が、50人でのぼたん農園を訪ねてくれた。水牛のクルバシャーの体験会をした。小さな子供が、水牛の紐を持って、水牛を扱ったのだ。きっと石垣島の良い思い出になったことと思う。水牛のワカバは賢いので、子供だと思い、ゆっくり歩いていた。宮良小学校の黒糖絞りで子供の作業には慣れているのだ。

 この後何年生きるのか分らない。新しい人間の出会いがあれば、これほどの喜びはない。人間がであえるのかどうかは随分微妙なところがある。学生の頃であった人と、今でも心の中ではそこに居るような気分で居る。そういう人間の出会いが自分を作っている。生きる事の素晴らしさだ。

 絵を描くことでも過去の絵の世界を引きずって絵を描くのであれば、それは絵を描く面白さの半分しか分っていないことになる。未だかつてない世界を描いてみようと言うことが、絵を描く面白さなのだ。分らないから描いてみる。描くことで新しい絵の世界に踏み入る。

 絵を描く面白さは正に、日々の新世界を垣間見ることである。こんな絵もあるのか、自分の中にはこんなものもあるのかと、発見できることが絵を描くことなのだ。生き方を自由無碍なものに出来ることは、絵を描くことから始まる。昨日の自分を自己否定できること、新しい自分にであうことが絵を描くことだ。

 だから絵を描いていれば、好奇心を失うことがない。新しい冒険心が衰えることがない。あれもやってみたい、これもやってみたい、そういう生きる好奇心が尽きることがなくなる。ここで大切なことは、やってみたいと言うことを、実際に始めることだ。

 今石垣島の自給農業を探求しているのも、絵を描いてきたから出来ることなのだと思う。石垣島に写生旅行できては何度も絵を描かせて貰った崎枝の石垣牛の自然放牧の牧場で、まさかのぼたん農園を始めるとは思いもしなかった。場所との出会いに従うことになった。

 今行っている最後の冒険は、石垣島の自給農業の探求である。自給農業は自然に従う農業である。石垣島では有機稲作の事例が極めて少ない。自分でやってみて、確認して行くほかない。一般の農業とはかなり違う。最も合理的に自分が食べるものを得る方法である。

 いくつかの条件がある。できる限り外からものを持ち込まない農法である。永続性のある循環して行く農業である。化石燃料はできるだけ使わない。条件としては一日1時間程度の労働で、100坪の面積で、食糧自給の可能な方法である。そうでなければ自給にはならないからだ。

 そして、この冒険には時間的制約がある。今は何とか普通に身体が動いて、農作業が出来るが、80歳までに完成しなければ、動けなくなると考えている。あと6年が残された時間である。農業は実践しない事は無意味だと考えている。農業の理屈などたいした意味がないのだ。農業では理論上可能でも出来ないことが普通のことだ。

 科学的な思考を繰り返すことが必要だが、それを何度も実践してみて、試行錯誤して、農業技術にまで高めなければならない。始めて農業をする人でも可能な、再現性のある単純明快なものにまで洗練させなければならない。それが出来ないような農法は、農業技術ではないと考えている。

 最近、自然農業分野ではかなり怪しげな、非科学的な農法がはやりだしている。トンデモ科学農法である。祈れば何でも解決するような農法である。時代が行き詰まり始めているので、変なスピリチュアル系の農法がはやりだしているようだ。それにハマル人が多くて情けない限りである。

 農業は自然科学だ。自然は膨大だから、確かに不思議なことはいくらでも出てくる。この不思議を実践の中で確認しながら、農業技術にして行く事が大切なことなのだ。正しい科学的精神こそ、冒険の羅針盤である。だからこそ冒険が次の冒険へと活力の再生産になるのだ。

 小田原では自給農業技術は一定完成できたと考えている。今度は石垣島で自給農業技術を完成させたい。亜熱帯ではその方法はかなり異なる。方針は見えてきた。「あかうきくさ農法」「ひこばえ農法」である。この農法の確立のことを思うと、あれこれやりたくて仕方がなくなる。

 まだ分らないことばかりだ。しかし、今までの経験から、何とか解決の糸口はありそうだ。もしこの自給農法が確立できれば、どれほどの飢餓の時代が来ようとも、自給をやる気さえあれば、安心立命してやりたいことをやって、生き延びることが出来る。

 自分の好奇心が、人間の未来に貢献できるかも知れないと思える。日本人の次の時代の生き方の参考になると思っている。そのことを思うと、どれほど大変でも、自分の気持ちを前向きなものに出来る。原爆の開発などに携わる人は、自分の心を滅ぼしてしまうだろう。

 正しい目標に向かい、全力で日々を生きる事ができれば、これほどの喜びはない。それを支えているのは、絵を描くことである。絵を描くことには、終わりがない。自分の探求には終わりがない。探求して行く日々がおもしろいのだと思う。

 19日に3番田んぼでは稲刈りをした。品種はミルキーサマーである。ミルキーサマーがひこばえ農法向きの品種であるかの試験栽培である。稲刈りした翌日から、見事にひこばえが出始めた。この発芽状態は過去最高の発芽だ。すこしづつひこばえ農法が見えてきている。

 アカウキクサを肥料にするという大きな方針は間違えがない。アカウキクサの発生をコントロール出来なければ農業技術ではない。どうやってアカウキクサを必要なときに発生させることができるかである。まだまだ分らないことが山ほどある。分らないからおもしろいとも言える。
 
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