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環境省3分間で、発言制止は何故起きたのか。

2024-05-13 04:05:15 | 暮らし


 今月1日、水俣病の犠牲者を追悼する慰霊式のあと、患者や被害者でつくる8つの団体の代表が伊藤環境大臣と懇談する場で、団体のメンバーが国への要望などをマイクで発言している途中、環境省の職員がマイクを切ってしまった。この映像がテレビで流れた。

 悲しみと怒りがこみ上げてきた。同席した熊本県知事によるとあれはつるし上げの場だとの認識。いつまで経っても変らないのだ。人間は情けないものだ。環境省の優秀なはずの官僚が、公害の被害者に対してこんな機械的な態度を行う。この気持ちの悪い感触。上級国民。階層社会。人間の喪失。ああ、クソッタレ、、、

 熊本県の木村敬知事が10日、同席していた知事自身の対応について説明する際、紛糾した懇談の様子を「事実上、つるし上げになっていた。大臣も環境省も」と表現した。知事も患者側に立たずに、まさかの環境省目線でいるのだ。国も、市も、水俣病問題を根本から学んで欲しい。患者の苦しみに思いを寄せて貰いたい。悲しくなる。この知事や大臣には苦海浄土を読んで貰いたい。

 環境省は各団体に発言時間は3分と事前に通知していた。制限時間になったらマイクを切ると係の人が決めていたという。水俣病被害者に対して、何故こんな発想をしてしまったのだろうか。今回、2つの団体の代表が制限時間を超えたことからマイクを切られてしまった。

 8組織が、3分ずつで24分が制限時間と言うことらしい。環境大臣の気持ちを忖度して、上手く懇談を40分程度に、まとめる筋書を立てたのだろう。それが有能な官僚の役割と自覚。あくまで大臣という上の方だけを見て、考えている官僚の姿。それが出世をする心得。知事の吊るし上げだ発言を見ればよく分る。

 3分に話をまとめるなど出来るだろうか。感情が高ぶり、長くなることがある。国会の議論だって延びがちである。お年寄りに、3分だけ大臣に意見を申し上げても良いというような、発想が何故出てきたのか。この行政職員のまとめれば良いという、傲慢さが悲しくなったのだ。

 自分たちは国の環境省の役人様であると言う意識が、こんなところで出てしまったのだ。公僕とは言わないが、患者の苦しんできた歴史を考えれば、3分だけなどという発想が出てくるはずがないだろう。大臣や知事に十分の時間を取って貰うように担当者は、むしろお願いすべきだろう。たしかにそんな担当者は出世は無理なのかもしれないが。

 水俣病の歴史は長い。日本窒素肥料によって、1932年から有機水銀の垂れ流しが続いてきた結果起きた事件だ。日本の公害事件の原点とも成り、それによって、環境省が出来たとも言われているようなものである。100年近く続いた事件が、未だに全面解決には至っていないのだ。

 最初の水俣病の患者が存在したのが、昭和16年1941年まで遡ることになる。しかし、国も窒素肥料も、患者を水俣病と認めるまでに27年後の1968年になってである。この長い期間の患者の苦しみと怒りは続いたのだ。未だにその苦しみが継続しているのが水俣病の恐ろしさだ。

 水俣病問題は終わったわけではない。今も、水俣病認定を求めて裁判が行われている。裁判には様々な判決が出ているが、発病まで行かない人であっても、水銀が遠因となる健康被害は無限にあるだろう。窒素によって垂れ流された膨大な量の水銀は、地域の人全体の健康を脅かし続けてきたのだ。

 例え、水俣病と認定されたとしても、すでに発病から10年が経過している場合は、請求権が消滅されているというような判決も出ている。加えて、認定された患者以上に、その瀬戸際にいる被害者が多いはずである。こんな悲惨な公害を何十年も否定して、見逃してきた責任の大きさを、国は忘れたのだろうか。

 そして、水俣病と証明できない患者がまだ何百人もいる状態なのだ。こうした状況で、患者に寄り添うべき環境省が、水俣病患者の皆さんの問題を、忘れてしまいたい、他人事のような感覚になったのではないか。もしそんな気分がいくらかでもあるなら、環境省を辞めて他に移動してもらった方が良い。

 患者は誰を信頼し、頼れば良いのか。国ではないのか。環境省ではないのか。国は3分だけしゃべらせてやるというような、冷たい対応では、敵対するものに対するような、心ない対応になっている。この嫌な感覚がテレビの画面から伝わってきて、耐えがたかった。

 今回は報道が懇談会会場を撮影していたからこのひどさがに世界に公開された。しかし、多くの場合見えない場面で似たようなことが行われている。私も第2東名高速道路の公聴会で、時間制限で発言できなかった体験がある。

 そして行政は忖度の時代になった。出世するためには、上の顔色ばかりを見ているのだ。3分制限を企画した職員を、なんてことをするのだというような、県知事であり、環境大臣でなければならない。選挙で選ばれた人は有権者の代表であって、別段上級国民では無い。

 言いたいことを押し殺し合う人間関係。仮面対応しか不可能な社会に成りつつある。だんだん社会の感触が悪くなって行く。能力主義の結果と考えて良いのだろう。要領よく上の階層にのし上がって行く人間が、はびこり評価される時代。

 人間らしい社会が一年一年失われて行くようだ。感情を捨てロボット化すことで耐えている社会。能力差別の時代。能力がないのだから仕方がないだろうと差別され、底辺で生きろという社会。能力があるから権力を振るって良いという社会になりつつある。

 弱者はしおらしく、従えという権力の意識。確かに足をすくわれないように、慇懃無礼で卒はないが、心もない。おとなしく要領よく立ち回れば悪いようにはしない。上の方の社会にこんな空気が蔓延してきた気がして成らない。こんな社会にしたのは、アベだ。

 アベが人事で人を動かし、良いなりになる人間だけを優遇したのだ。学術会議問題も結局、人事の撤回をしない。これを曲げれば、学術会議を自由に操れないと考えているからだ。裁判官の人事で司法に圧力をかけるなど、トランプのやり方と日本も同じになってきた。

 上の方はどうももうだめそうだから、自分たちの回りだけでも、人間の社会にしたい。一人はみんなのために、みんなは一人のために。これは農協を作った人の言葉だ。戦後社会は理想主義がどこかにはあったのだ。もう一度原点に立ち返り、人間らしい社会を作ることだ。
 
 のぼたん農園がそういう物でありたい。助け合うことで暮らせる社会。弱者も強者も、能力の高い人も、能力の低いものも、変らない関係である仲間。一人が大切にされ、回りのみんなのことが配慮できるような関係性。人を責めたりしないなかま。補い合い、助け合える仲間でい無ければ成らない。

 効率など無視して良い。ゆっくりとそれぞれの早さで進むことで、食糧自給は可能なのだ。仲間が助け合えば、だれでもが食糧を自給して生きて行けるのだ。そんな自分のことだけではない場にのぼたん農園をしなければならない。心して、のぼたん農園の冒険を進んで行くつもりだ。

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