石垣島の人口は現在が過去最高である。
1607年ー慶長12年 5,500人
1706年ー宝永 3年 9,879人
1753年ー宝暦 3年 26,285人
1771年ー明和 8年 19,679人
1885年ー明治18年 13,877人
1920年ー大正 9年 13、674人
1965年ー昭和40年 41315人
1980年ー昭和55年 38750人
2019年9月現在 49714人
現在が石垣島の人口は過去最高数を示している。5万人まであと286名となっている。明治、大正という時代が、石垣島には最悪の時代であったことがうかがえる。人口の推移はそういう時代の姿を反映する。
「八重山の開拓移民」を読む。金城朝夫著 本名は友寄英正氏である。石垣のフリージャーナリストである。石垣を知ろうと思うのであれば、この本を読まなければダメだろう。視点のある本だ。石垣島の位置が見えてくる本である。
最近人口の増加は停滞してきているので、今年中に5万人を超えるのは難しいのかもしれない。なぜ、人口に注目しているのかといえば、人口の増減は島のその時々の様子を反映しているからである。
明和、ここで大津波があった。人工の意外に大きい江戸時代は案外豊かに暮らしていた側面が想像される。人頭税があるとしても。明治大正期の人口の減少は、時代の悪さが想像される。昭和に入っての人口増加はめざましいものがある。人口増加政策と、移民なのだろう。
石垣島の人の成り立ちは、開拓移民が大きく影響している。石垣島が生産性の大きな、可能性の島だった事から来ている。琉球本土から、薩摩から、そして四国各県から、そして台湾の人達。八重山には政策的な開拓移民が繰り返し行われている。
強制移民が繰り返されているのだが、マラリアによって失敗に終わった事例が多い。頑張って身体を酷使して開拓に挑み、体力を消耗させる。しかし十分な栄養がとれない。マラリアに感染したちまち死に至る。
繰り返し開拓移民が行われたにもかかわらず、開拓地ではマラリアにやられることが多かったのだ。それは戦後開拓でも同じようなことが起きている。マラリアが根絶されたのは、1962年昭和37年前後になってのことである。私の父はマラリアの患者だった。キニーネという薬を飲んでいた。
戦後のベビーブームが石垣では少しおくれてあったようだ。しかも、病気が克服され寿命が延びることで1965年ー昭和40年に人口のピークがある。その後、島から若者が出て行くことで人口が減少が起こる。この頃以降開拓移民はなくなっている。
1980年ー昭和55年以降今度は石垣島への移住者が増加が始まる。現在まで人口増加を続けている。石垣島のような、人口の増加する離島は極めて珍しいことと思われる。その背景は様々考えられる。
石垣島が際立って美しい島ということなのだろう。豊かな水があり、生産性の高い島である。病院や学校や商店が充実している。食べ物は美味しい。人間との関わりの頃合いが良い。自然災害や病気を克服したということが一番なのだろう。
石垣島の魅力が世界に知られるようになったことも、移住者の増加につながっているのではないだろうか。石垣島ほど美しい島はないだろう。しかも、現代的な生活をするために何の不自由もない島。なにしろ、有機農産物で生活できるロハスな島なのだ。
農業でいえば、石垣牛にはめざましい人気がある。観光客数の増大がある。その観光客が石垣牛を食べる。この好循環が石垣農業を活性化させて居る。それは漁業や果樹、野菜農家の方々にも好機となっているのだろう。
都会に一度は出ても島に戻り、農業を後継する若者も日本の他の地域より断然多いと思われる。素晴らしい環境の、暮らしやすい島なのだ。仕事があり暮らせるのであれば、石垣島でやって行きたいという気持は当然のことだろう。家族を大切にする思いも深い島だ。
1972年ー昭和47年の本土復帰の影響もあり、昭和40年以降、若者が島を離れる現象が顕著になる。やっと開拓を成功させ、軌道に乗るかに見えた石垣島開拓農民の子供たちが、都会に出て行くと言う予想外の展開になる。このときの開拓者の思いは絶望的なものがあったようだ。
そもそも開拓に石垣島にやってくると言うことは、それまで暮らしていた、沖縄本島やそのほかの島々で暮らせなくなり、まだ開拓の余裕があると考えられた新天地石垣島に来たのだ。そして、想像を絶する困難を乗り越えて、石垣島に定着した。
江戸時代であれば、薩摩藩の年貢を増やすための政策として、石垣に他の島から強制移民が行われる。しかし、そもそもその場所には豊かな土地にもかかわらず人が住んでいなかったということには、理由がある。マラリアがあり住めなかったのだ。
そうした場所に繰り返し、強制移民が行われ、悲しい歴史が繰り返されることになる。戦後開拓が定住できたのは、マラリアの克服が大きかったのだろう。今でも石垣には蚊が少ないのはその結果ではないかと想像している。
石垣島の戦後開拓の背景には沖縄から海外へでていた移民の帰還がある。沖縄本島に引き上げたとしても、農地がなかったのだ。そのことに加え、25万人が昔から住んでいた土地を、米軍によって奪われたのだ。
やんばるに開拓で入った人も多い。海外へ移民した人も多い。そして、マラリアで恐ろしいとしても、石垣へ開拓移民で入ろうということになる。それは、開拓移民の人達にとっては希望であったのだが、政策的には棄民と言われても仕方が無い側面があった。
米軍は軍事基地を拡張するために、土地を強制収容を続けた。そのことで土地を失い、石垣島へ政策的移住が勧められた。しかし、政策移住はどこの開拓移民地でも、約束の条件が満たされたところはなかったようだ。
石垣島には多良間田んぼというものが残っている。江戸時代多良間島から出作りをしていたというのだ。今では誰も住んでいない。そうした今は廃村になって、誰も住んでいないという地区は、北部にはかなりある。
石垣島は常に開拓移民がやってくる島であった。かなりの人が住むことができる島なのだ。現在も農地の造成がかなり広範囲で行われている。農業でやって行くという意欲は強く存在する島なのだ。農地で若い人が働いているのが普通のことだ。
人口密度でいうと、一キロ㎡当たり207人である。これは神奈川県の足柄上郡と同じくらいである。箱根町よりはかなり密度が高く、倍くらいである。
出生率は沖縄県は全国一で1,94。日本で唯一健全な状態ということだろう。石垣島はさらに高く、2,06となっている。それでも石垣でも地域差があり、島北部などには人口減少地域もある。私の住んでいる中心市街地では、人口増加地域であり、出生率も一番高い地域である。子供の居る環境というのは良いものである。
石垣には住民登録していない、隠れ人口がかなりあるとみられている。別荘として利用している人や、石垣島でアルバイト的に働いている人である。季節労働者と言っても良いのかもしれない。人口の1割ぐらいはそういう人が居る感じがする。そうであれば、実際には5万5千人が実質の人口かもしれない。
いずれにしても、石垣島自由開拓移民の時代が来ているということなのかもしれない。田んぼや畑が放棄されている地域はまだかなりある。一年中温暖で作物を作ることができる。自給自足で暮らすとすれば、これほど恵まれた場所はないのかもしれない。
人口推計の様々な予測を見ると、全国の流れと同様に人口は減少に入るとされていた。ところが、人口は減少をせず微増を続けている。4万7500人がピークと予測されていたにもかかわらず、5万人が間近になっている。人口推計機関の予測を裏切っている。
予測できなかった新しい石垣島への移住の流れが起きていると考えていいのだろう。私もその一人であるが、今起きている移住は石垣の魅力が、新しい住民を惹きつけているということであろう。
観光客が増大することで、仕事も増えている。職場も増えている。その結果島内消費が増大して、農業も漁業も活性化している。特に石垣牛のブランド化は放牧地の整備につながっているのではないだろうか。
それでも開拓移民が多かった、北部地区は未だ人口減少傾向にある。ある意味新しい自由開拓移民が起こる可能性もあるのではないだろうか。道路も整備され、インターネット環境も整備されている。義務教育機関も整備されている。医療機関も車でなら、1時間以内である。
石垣に来た台湾人の開拓移民の方々がいる。初期はずいぶん差別を受け苦労されたということである。しかし、現在ではむしろ尊敬をされている。困難であった名蔵方面の開拓を成功させた功績である。パインや水牛を石垣にもたらし恩恵にをもたらした。その意味の重さを良く理解しているのが、石垣の人達である。
台湾の人達はマラリアにやられないために、栄養を充分にとったそうだ。体力を付け、マラリアにかかっても軽く済むように頑張ったという。そうして、日本人がなかなかできなかった開拓に成功したのだ。
石垣島には江戸時代から繰り返された、開拓移民の歴史がある。それを受け入れ、何とか融和した歴史がある。これが石垣島気質を作っている。だから、これからの新規就農者、そうした暖かさで受け入れてくれるはずだ。
時々新しく来た人らしい姿を見る。そういう畑を見る。自給的開墾をやっているのではないかと思われる人が居るようである。良くは分からないが、そういう可能性がかなりある石垣島なのだ。
自給自足的農業を行うには可能性がかなり高い場所である。若い頃石垣島を知れば、来ていたかもしれなかったと思う。残念ながら今からもう一度開拓というわけにも行かない。
もちろん石垣島は南海のパラダイスではない。この本はそのことを教えてくれている。開拓や移民はユートピアを求めるものでもない。暮らしを作るという事の意味を、ドキュメントとして石垣の開拓移民の報告の中で教えてくれている。もしこれから、自給生活を考えている人には是非一度読んで貰いたい本である。
そんなことを思っていたらどうしてもやりたくなり、お隣にお願いして小さな畑をやらせて貰うことになった。「八重山開拓移民」金城朝夫著を読んだおかげである。この方は本名が友寄英正氏である。
友寄せさんは私が絵をいつも描かせていただいている、開南に住まわれていたこともあるらしい。いま、自衛隊基地が作られている隣接地である。開拓移民が開いた場所である。琉球放送に関わるジャーナリスであった。
この開拓で開かれた土地を自衛隊基地にしてしまおうという、間違った道を石垣島が歩んではならないと思う。友寄さんが生きていたら、どれほど力になってくれただろうかと思う。この本を読んで、改めて自衛隊基地を作ってはならない。それが開拓民の魂だと思った。