地場・旬・自給

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民主主義の成立の要件

2014-06-12 04:00:44 | Peace Cafe


北海道の湖 10号雪解けで、増水で水が迫っている。草地が水底にある。不思議な景色であった。





どうも民主主義が危うくなってきた気がする。いくつかの要素が重なって、民主主義というものが機能しなくなっているのではないか。民主主義というものは、自分達の暮らし方を、自分が決めるものだと思う。民主主義を絶対善として考えているのではないが、機能していない民主主義を悪用している政治という気がしてならない。選挙も、国会も暮らしと距離がある。この政治の不愉快さ加減が、政治が国民から遊離することになる。お上になるか、勝手にやっている奴らになる。政治が暴走を始めている。まず、いつも書いている繰り返しになるが、小選挙区制というものが、議員を切磋させるチャンスを失わせた。議員は党という上部の顔色を見て、それに会社員のように従うものになることが、党の公認を得るチャンスになる。そして党が公認する候補は、当選しやすい、知名度とか、地盤とか、血縁とか、又利権とかいうものを重視することになる。党の政策から踏み外さないということも、重要な資質になる。その結果世襲議員というものが、増加することになる。こうして議員の理想主義が失われることになる。

民主主義には、互いに肌感覚で掴める範囲ということがあるのではないだろうか。いわゆる直接民主主義が可能な範囲ということである。国会議員の人で直接知っているという感覚の人は、10人くらいは居ると思う。しかし、その人達の人間としてのレベルは、農の会の人達より、劣っていると感じている。到底自分の所属する国家を任せられるような人達ではないと感じている。何故、ああいう人が国会議員になるのかと考えてみると。人品卑しいからだとしか思えない。これは残念なことだが、人格が高潔な人は到底議員にはなれないだろう。全国からそのようなおかしな、いわば目立ちたがりの、名誉欲とか、権力欲とかだけが強い人が、議員になり、日本を動かしている。そんな気がしてならない。あれこれ国会議員のホームページを見て歩くのだが、その思想内容の空っぽな人が大半なので、驚くばかりである。こんなことになったのは、選挙制度が議員を磨くのでなく、悪くして行く仕組みになっているせいではないか。

ではどういう道があるのか。もう道はないと思った。捨て鉢になって山に入ったということもある。一人で勝手にやるしかない。このように30代に感じて、山の中で開墾生活を始めた。社会と隔絶して、一人で生きる道を選ぼうとした。しかし、そのことを達成してみると、自給という同じ思いを持っている人たちの役に立ちたいと考えるようになった。自給自足の技術を知らないばかりに、理想を抱いたにもかかわらず実現できない人を沢山見た。自給自足は技術である。再現できる技術に整理して伝えたいと考えた。私はたまたま、子供の頃からそういう育ち方をしたので、手探りで自給技術に到達出来た。しかし、子供の頃に基礎的な体験を持っていない人ばかりである。自分が探り当てた自給技術を伝えることだけは役割ではないかと考えるようになった。それが山の中に隠遁しようとしたにもかかわらず、小田原に出てきてしまった結果になったのだろう。それが農の会の活動になり、社会とそれなりに接触するようになった。地場・旬・自給の先にあるものに期待するようになった。

接触してみれば見るほど、見えない人を対象にすることはできないものだと思うようになった。志のある者同士で、何らかのネットワークを構築するしかない。それが社会に対してどう距離を持てるか。政治の方がかかわらないでくれるのであればと思うこともあるが、残念ながら、この国の国民として生きてゆくほかないと考えている。努力の隙間はないか、模索を続けてきたのだが、危機的状況に至った。政府や行政が憲法のルールに基づいて居る間は、まだ何とかなる気がした。所が憲法を自分の都合よい解釈変更で、本質を変えてしまおうという、過去まれに見る、悪質な政権が登場した。それをしたり顔で世界情勢がそれを必要にしているなどと、民主主義というものを崩壊してしまい、恐れることを知らない。無知厚顔(厚顔無恥の造語)この上ない。これでは民主主義国家と言えないだろう。

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