
石垣島の田んぼではいよいよ水牛による代掻きが始まった。6月28日夜6時からだ。日本で水牛耕が行われるのはこの石垣島田んぼ勉強会だけだ。代掻きなどやったことが無い水牛が来て、代掻きを練習から始めるというので、出来るのか、嫌がらないのか心配で仕方がなかった。
この水牛は竹富島で牛車を引いていた水牛だそうだ。雌の牛で推定年齢が10歳少しぐらいだそうだ。今種付けがされていて、たぶんお腹に子供が居るらしい。働いて大丈夫なものらしい。子供の生まれた牛もいるのだが、子供が居る親牛は子供が気がかりで、代掻きどころではないそうだ。
先日は可愛い子供を連れて、来てくれた。全部で8頭の水牛を飼われている。水牛の子供はそれはそれは可愛いものだ。ほぼ子供の動物は可愛いものだ。例えばイボイノシシの子供だって可愛い。が、水牛ほど可愛らしいものは居ないのではないかと思う。水牛は特別な家畜である。

紐で水牛に結わえてあるものが、代掻きをする道具で、コロバシャと言う道具である。水牛を引いている。干川さんが自作してくれたものだ。干川さんは40年前に石垣島に入植して、農家になった人だ。そういう人だから、何でも道具は自分で作ることが出来る。
転馬車(ころばしゃ)は木枠の中に、六枚の鉄板が風車のようにが溶接されている。中央の軸が鉄管でそれが回転軸になる。回転軸に15センチ幅で長さ180センチの鉄板が溶接付けされている。制作の難しい道具であるが、よく出来ている。
干川さんの家では四〇年間バイオガス自給生活である。一週に一回、泡盛の絞りかすを届けてくれるそうだ。それを加えてガスの発生を促している。よく出来ているのは、その上に水蓋があって、ガスを完全に閉じ込めているところだ。だから全く匂いがしない。

いよいよ代掻きが始まる。この水牛は鞍をつけたり、ものを引っ張ることは牛車をしていたのでしていたので、訓練されている。ただ水の中を歩くかどうか、それから始めた。水牛はさすがに水が好きだ。何のためらいも無く水の中を歩いてくれた。
次に棒を突けて、引っ張ってみた。これも少しも嫌がること無く引っ張った。ここまでやってくれるなら、コロバシャを付けても大丈夫そうである。頃場所を取り付けて、田んぼに入った。最初重いのでびっくりしたよういないな株に引っかかって動かない。
それでも花紐を力を入れて引くと、思い切って歩き出した。水のあるところが好きなのか。仕事をすることが好きなのか。一生懸命に歩く。かなり多いのに、頑張ってぐんぐん引いて行く。しばらくしたら人よりも先を歩くようになった。

一気に一気にと励ますと歩き出して、動き出せばもう大丈夫。人が精一杯歩く速度ぐらいで、ぐんぐんと進む。止まると、再度動き出すときは力が掛かるようだ。それでも嫌がらずに田んぼを一周してくれた。
田んぼの土の方はどんな状態なるかというと、一度通っただけでは代掻きができたと言うことでは無い。何度も回ってだんだん代掻きの状態になるのでは無いだろうか。しかしこの代掻きは田んぼが充分に耕してあると言うことが条件ではないだろうか。
鋤で耕して、稲株をひっくり返し、そこに水を入れる。石垣の田んぼの土だと、一週間ほど水は入れておかなければならない。充分水が染み込んで柔ら無くなった田んぼを、コロバシャが通り、土の塊を潰して行く。その時にまだ充分に堅い稲株を田んぼの奥に押し込んで行く。


少し水量が多いのだそうだ。それでも徐々に代掻きらしくなっていった。田んぼの泥の中を水牛を引きながら、歩くのはかなり大変なようだ。今日の10時からもういちど水牛の訓練をするので、私も引っ張ってみるつもりだ。
水を多めで初めて、徐々に水位を落として行く。最初はでこぼこが多くて水牛も引けないほどなので、徐々に均されてきたら、田んぼ水位を下げて、平になるように歩かせるのだそうだ。慣れてきたら、今度は後ろに人が居て、コロバシャを脚で押さえながら、高いところは脚で押さえて低くするそうだ。
しかし一人では難しいので、二人でやるといいと言われた。脚が巻き込まれたら大変なので、今回はそれはしないことにした。歩くのに精一杯でとうてい、他の作業どこでは無い。そういうときには回転式で代掻きをやるそうだ。
回転式とは水牛の口輪から長い紐を取り、声をかけて円形に回らせる。自分は動かない。そうして回転を徐々に移動していき、全体の代掻きをするそうだ。そうすれば、人は歩かないで代掻きができると言うことになる。それはよほど水牛が代掻きになれてからのことだろう。

こういう風に鋤起こしで残っている稲株はなかなか埋め込むことが出来ないようだ。繰返し水牛で歩いて貰い、代掻きを頑張ろう。手植えの田んぼであれば、それなりに代掻きが出来ていれば、大丈夫だ。
なかなかおもしろい田んぼになりそうだ。水牛耕は石垣島の伝統農業だ。台湾の人から教えて貰った田んぼのやり方だ。石垣島田んぼの会で、水牛耕が再現できるだけでも意義があるのではないだろうか。
田んぼを始めて見て、やっと石垣島の人間になったような気がする。全く景色が違って見えてくる。見ているのとやってみるのでは大違いである。批評家と実践家の違い。絵を描く以上はやってみなければどうしようも無いことだと分かる。