蛙と蝸牛

本の感想。ときどき競艇の話。

グラントリノ

2010年02月27日 | 映画の感想
グラントリノ

主人公(クリント・イーストウッド)は、長年フォードに工員として勤めて定年退職した。タイトルは、主人公所有のフォードの往年の名車の名前で、主人公の自慢の一つだ。
頑固で一途な性格で、息子たちに嫌われているが、妻が死去してからはますます疎遠になってしまう。朝鮮戦争への出征歴があり、戦争とはいえ人を殺したことがトラウマになっている。

主人公の隣家はアジア系の移民家族で、主人公は小馬鹿にしていたが、パーティに招かれたりしているうち、しっかり者の娘と頼りなげな弟と仲良くなる。姉弟が同民族の不良からいやがらせを受けているのを見た主人公は、弟に男らしく振舞えといい、そのために男らしいとは何なのかを教える(床屋のおやじとの会話が秀逸)。

しかし、不良たちの行動は次第にエスカレートし・・・という話。

主人公が最後にとる行動に説得力があり、ストーリー展開がしっかりしているところは、イーストウッド作品らしさがある。

世間的な評価は「ミリオンダラーベイビー」や「チェンジリング」よりむしろ高いくらいのようだが、キャストが地味なせいか、DVDを途切れ途切れみたせいか、前2者よりはちょっと落ちるかな・・・と感じた。
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ダウト

2010年02月20日 | 映画の感想
ダウト
学校を併設している修道院の神父(副院長クラス? フィリップ・ホフマン)は、牧師らしくない進歩的・開放的な性格で、酒を飲みタバコを喫う。
一方、学校長(メリル・ストリープ)は、修道女としての規律を厳しく守り、部下にも同じことを要求する。
学校の女教師が、件の神父が生徒に性的虐待をしているのではないかと疑い、校長に相談する。校長は神父を問い詰めるが・・・という話。

この疑惑の真相は明らかにされない。虐待されたという子の母親は事態が公になることを嫌い、親切にしてくれた神父には感謝しているという。
校長の告発によって神父は修道院を去るが、それは他の修道院の院長への栄転だった。

この手の話から予想されるのは、神父をひたすら善人・常識人として描き、校長は杓子定規の意地悪として描かれる構図だ。
それが最後にひっくり返って実は・・・という結末が予想されるのだが、キャスティングからも予想されるように、神父も校長も中途半端に善い人だったり悪い人だったりするので、カタルシスがなくてすっきりしない感じだ。
教会のかなりセンシティブな点にふれるストーリーなので、この程度にしておかないと欧米では許されないのだろうか。
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デッドライン仕事術

2010年02月15日 | 本の感想
デッドライン仕事術(吉越浩一郎 祥伝社新書)

仕事ができない(完成しない)から残業するのではなく、残業するから仕事ができない(完成しない)のだ、というのが本書における主張。それは、まあ、もっともだと思った。

みなで仲良く残業、一人だけ早く帰るというのは(仕事が完成していても)気がひける、というのは、日本のどんな会社でも見られることだと思う。おつきあい、ということ以外にも日本の会社の非管理職は残業手当も収入としてあてにしている、ということもあるだろう。(かといって、成果給全面導入というのも、あまりうまくいかないようだが)

すべての仕事に締め切り(デッドライン)を設定して管理することで緊張感を保つというのは仕事の効率をあげる上で重要なことだろうが、著者が経営した会社の業務が効率化した最も大きな要素は、「朝会で社長(著者)につるし上げられるのが嫌だったから」ような気がする。
著者自身が経営者は社員に嫌われて当たり前という主旨のことを書いているように、おそらくその会社では独裁的・恐怖政治的な経営が行われていたのではないか。

また、著者が自慢するようにこの会社で良好なワークライフバランスが保たれていたか(本当に社員が定時以降は自分の“ライフ”をエンジョイしていたか)は、ちょっと疑わしい。

というは、著者の会社のメンバーはおそらく全員がホワイトカラーだったと思われ、紙と鉛筆があればどんな場所でもできる仕事だろうから、定時に会社を追い出された社員は、朝会での著者の罵声を恐れて、家に仕事を持ち帰っていたことは容易に想像できるからだ。
本書の終わりあたりに著者自身が「フロシキ残業」していたと書いているのがその証拠である。
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アスファルトの踏み心地

2010年02月14日 | Weblog
アスファルトの踏み心地

少し前に、日暮里舎人ライナーに乗って舎人公園に行った。

23区内で駅が目の前(というか、駅が公園の中にある)で、施設も充実しているのに、休みの日にいっても、ほとんど人がいない(というか、広すぎて密度が少ない)。変に人気化せずにいつまでもこのままであってほしいと思う。

舎人公園で一番面白いのは、人工芝のゲレンデ(坂)をそりで滑り降りる施設。もちろん無料だが、大人は乗れない(幼児といっしょに乗るときはOK)。

芝生の広場がとても広くて、秋だったので落ち葉も積もっていてふかふかした足ざわり。2時間ほどその広場で子供とボール遊びなどをした後、アスファルトの道路に戻ったとき、
子供が「道路がごつごつしてるね」と言った。
舗装が悪くてデコボコという意味ではなく、柔らかな踏み心地の芝生に慣れてしまったので、普段は気にもしないアスファルトの固さに対する感想。

アスファルトってこんなに固かったんだ・・・と子供に指摘されてはじめて気がついたのだった。
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自由をつくる 自在に生きる

2010年02月13日 | 本の感想
自由をつくる 自在に生きる(森博嗣 集英社新書)

実物を見たわけではないので、本当かどうかわからないが、著者のエッセイを読んでいると、著者が自分にも他人にもかなり厳しい規律を要求する人らしいことがわかる。
例えば、会合や打合せにわずかでも遅刻することは許しがたいようだし、ゼミの課題消化で睡眠不足になって居眠りする学生は論外のようだ。

私は、(著者が指摘する多くの人と同じように)「自由」という言葉には、例えば「他人との約束ごとに縛られない」「好きなだけ眠る」ということだというイメージがある。
しかし、著者は、このような考え方は、「自由」ではないという。

例えば「好きなだけ眠る」というのは、自分自身の身体に「支配」されているからそうなっているに過ぎないと。
起床して学校や職場に行かなくては、という思いのとおり「自在」に活動できていなのだから「自由」ではないとする。

そして、そういった様々な(多くの人にとっては「支配」とも感じられないようなこともふくめ)「支配」から(自分自身の努力や才覚によって)逃れて、本当に自分がしたいことが必要十分なだけできる状態が、著者が定義する「自由」だという。

著者とその家族が自分の定義した「自由」にかなり近づけた要因は、著作がヒットして印税がはいったからだ、と(有体に)書いているのも、この手の本としてはなかなか良心的だと思った。(この手の本では、カネ、しかも著者自身のカネの話をするのはよろしくない、といった風潮があるように思うので)
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