蛙と蝸牛

本の感想。ときどき競艇の話。

臆病者のための株入門

2006年04月30日 | 本の感想

臆病者のための株入門(橘玲 文春新書)2006.4.29

橘玲さんが書くノウハウ本は、良心的でファイナンス理論に概ね沿ったことが書いてある。反面、結論は月並みとなりがちなのだが、それでも私が橘さんの新刊が出るとついつい読んでしまうのは、独特のクールで辛辣な言い回しと、たとえ話のうまさにある。

この本でもホリエモンの錬金術を豆の売買に例えた話は、とても分かり易くて、適切だった。

「株式分割は理論上株価形成には何ら影響しないのだから株式分割を材料に買いあがる奴は○○。○○のやることに振り回される奴がすべて○○」といったどこにでもある解説ではなく、

「理論的には株価は上がらないが、現実の市場で十分にありえた」ということをうまく説明していた。

また、見逃されがちな原因である「ライブドアは(制度)信用による空売りができなかった」という点にも言及してあった。

比較的まともな株式投資の指南書の結論は全て同じである。それは「インデックスファンドに投資しなさい」。

この本の結論も同じで「てっとり早く株でもうけたい」という人は読んでも時間の無駄だと思う。(もっともてっとり早く株でもうける方法は存在しないので、どんな本を読んでも時間の無駄であることは同じだが)

この株式投資の極意は数十年前から世界中のほとんどすべての金融・証券関係者が知っている。しかし、世界中の関係者はいつまでも個別銘柄のレポートを書き、それを読み、個別銘柄を推奨し、個別銘柄に投資する。それは(この本で指摘の通り)バイサイドもセルサイドも「そうしないとこの業界が成り立たない」ということを良く知っているからだ。

この本の中では「世の中には金融リテラシーの欠落しているひとが一定数存在する。金融機関の収益機会は、彼らといかに遭遇するかにかかっている。(中略)「投資家教育」の必要性が叫ばれている。だが本当に大事なことは、金融機関は教えてくれない。池に魚がいなくなれば釣りができないように、ネギを背負ったカモがいなくなれば儲けられないからだ。」と表現されている。

人間は誰しも「自分は他人とは違う特別な人間である」と信じているし、そう信じないと生きていくのが難しい。現実に能力や裕福さに明らかな差があっても「あいつはウラでうまくやっただけ」なんて理屈を考え出して「やっぱりオレは特別だ」と自分を納得させる。

だから「世間の奴らはインデックスファンドを買うかもしれないけれど、オレだけはうまく儲けられるはず」といった誤った信念を持ち今日も個別銘柄の注文をPCに入力し続ける人が絶えることはないのだろう。

競輪などのギャンブルで「コロガシ」というのがある。一日10レースの中で堅そうなレースを3つみつくろい、1個目のレースが当たったらその払戻金を1円残らず次に目をつけたレースの投入するというもので、3レース連続で的中すれば相当な儲けになる。

この本で消化されているもう一つの必勝法がこれに似たもので、相場の方向性(上昇トレンドか下降トレンドか)を決めたら、先物の計算上の利益をすべて建玉の上乗せに使うことを繰り返すというもの。

この戦法の弱点は「いつやめるか」を決めるのが難しい、という点にある。「コロガシ」で儲けが一気に拡大するのは3レース目なのだが、2レース連続で当たったりすると、そこで止めてしまったり、逆に「今日はツイてる」と予定外のレースまで買ってしまってすべてを失うこともある。

トレンドの見極めが正しく、どんどん建玉を拡大し、計算上の利益が膨らんでくると、「まあ、これだけ儲かればいいか」とポジションを解消してしまったりする。しかし、本当に儲かるのは建玉が拡大してトレンド転換が近い時期の最後のビッグウエーブなので、解消した直後に深く後悔することになる。

含み損に耐えることより、含み益を実現しないでポジションを持ち続ける方がはるかに忍耐を要する。(損切ができずに挽回不能なほどの含み損を抱えてしまうが、反対に利が乗るとすぐに利食ってしまって、トータルで大損というのが、投機で失敗する人の典型といわれる)

ポジションを解消したら一生二度と先物には手を染めませんというのならいいのだけれど、最後の棒上げ(あるいは暴落)の直前に手仕舞ってしまって地団駄踏んだ人にそれができるわけがない。佐藤正午さんの名言にあるように、ギャンブルをする人は当たろうが、当たるまいが必ず後悔する。後悔するがゆえに、必ず次のレース、次の相場に金を張らないわけにはいかなくなる。

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月ノ浦惣庄公事置書

2006年04月23日 | 本の感想
月ノ浦惣庄公事置書 (岩井三四二 文春文庫)2006.4.23

室町中期の琵琶湖畔の小さな村が隣村と土地所有をめぐって京で公事(裁判)を始めるという話。歴史上の有名人物が全く登場せず、テーマがとても地味であるにもかかわらず、おもしろく最後まで読み進めるのは、著者のストーリーテリングの能力が高いということでしょうか。

近年(といってももう30年くらい前からでしょうか)中世の農村における日常生活を考察する研究を、一般人にもわかりやすくやさしく説いた本が多く出版されるようになり、私も何冊か読んだことがあります。
“中世”という言葉には(西洋史ばかり習ったせいでしょうか)“暗黒時代”というニュアンスが感じられるのですが、社会制度自体は現代とほとんど変わっていない面が多かったようです。

この本で描かれた裁判制度も、証拠能力の扱いとか再審制度、法の専門職を代理人として使える等、現代とほとんど変わらないように感じました。農民の暮らしも明るく描かれています。

裁判で争うそれぞれの村の中心人物のエピソードが交互に描かれるのですが、どちらかというと裁判を提起した側からの視点が多くなっています。これは底本とした史料が提訴側が書いたものであることの影響でしょうか。相手方の“悪代官”のキャラクタの方がはるかに魅力的なので、こちらを主役にしても良かったかと思いました。史料に縛られたキャラクタより、著者の創造した人物の方が活躍する余地が大きくなってしまうのは、どんな時代小説でも同じかもしれませんが。
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ウルトラ・ダラー

2006年04月22日 | 本の感想
ウルトラ・ダラー (手嶋龍一 新潮社)2006.4.22

北朝鮮の偽札作りの作成プロセスと偽札で得た資金で買おうとしたものをめぐって、BBC記者をカバーとするイギリスのスパイが(とても優雅な生活を日本で送りつつ)活躍するという話。

先日、ある新聞の書評で、この主人公には実在のモデルがいて、BBC記者という設定どころか、名前まで小説の中のそれと同じだったと、著者と旧知の芸者さんが書いていました。
本のカバーにも「これを小説と言っているのは著者だけだ」と書いてあって、かなり実話に近いことを強調しています。

この本の中では、日本側のもぐら(裏切り者)は外務省の高官なのですが、この本のモデルが誰かであるかは、あまりにも明白にわかるように書いてあり、かつ、あまり同情の余地のないワルモノとして設定されています。「いくら小説という前提とはいえ、ここまで書いていいのか」と心配になるくらいでした。

たくさんの情報をもりこもうとし、さらに上流階級のスノッブな日常の描写もたくさんあって、やや散漫な感じは否めません。ここに書かれている情報のクオリティの高さは読む人が読めばわかるのかもしれませんが、元NHK記者の著者の情報源はそれなりに格上の階層のはずで、情報の確度が高いことの裏返しとして「公表しても全く問題ないこと」しか書かれていないような気もします。
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三菱が先か 東京が先か

2006年04月17日 | Weblog
かつて東京三菱銀行と呼ばれていた銀行を利用している人に聞いてみたいことがある。
UFJ銀行と合併した後、銀行振込先を書類に書く場合などに、「新行名は東京が先だったかな、三菱が先だったかな?」と迷ったりしませんでしたか?
私は、先日合併後初めて振込先を書く時、ちょっと迷って念のためホームページを見て確認しました。日本人がこうなのだから、(東京銀行の流れで)それなりに利用者が多いはずの外国人にとっては、この長い名前を書いたり覚えたりするのはさぞ大変だろう。
海外の銀行の場合、名を捨て実を取るというのか、飲み込まれた方(弱い立場の方)の行名が伝統があったり利用者になじみ深ければ、あっさり飲み込まれた方の行名を新銀行名にしたりするから、この日本の風習にはうんざりするのではなかろうか。

和を以って貴しとでもいうのか、日本の場合、いつまでもいつまでも合併前の名前を引きずり続けている銀行もある。ここ10年くらい合併があいついだせいで定着した暗黙のルールがある。日本語表記の場合は飲み込まれた方の社名を先にして飲み込んだ方(強い立場の方)を後にする(例:三井住友銀行)。英語表記の場合はその逆(例:Sumitomo Mitsui Bank)。
このルールに従うと東京三菱銀行とUFJ銀行の併合後の行名はUFJ東京三菱銀行となるはずが、実際はその逆となってしまった。さすがに三番目に甘んじることは三菱出身の経営者には耐えがたかったのだろうか。それにしても利用者のことを考えるならせめて東京三菱UFJ銀行にしてほしかった。
三菱銀行系のエゴが出たともいえる新行名だが、あえて今さら「東京」を残したところにえもいわれぬ情緒を感じる。単にいまだに三菱と東京の融合がすすんでいないだけかもしれないが・・・

将来、もし、三菱東京UFJ銀行と三井住友銀行が合併するなんてことになったら、行名はどうなるんだろう。「三菱住友東京三井UFJ銀行」? はたまた(さくら銀行が住友銀行とくっつくときにちゃっかり「三井」を復活させたように)先祖がえりして「三菱住友東京三井太陽神戸三和東海銀行」うーんまさに寿限無 寿限無・・・の世界だな。
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