蛙と蝸牛

本の感想。ときどき競艇の話。

コンカッション

2017年02月15日 | 映画の感想
コンカッション

ナイジェリア出身の監察医オマル(ウイル・スミス)は、自殺した往年のアメフトのスター選手の検視をするうち、現役時代の(タックル等による)脳へのダメージにより(彼の自殺の引き金となった)頭痛や不眠、せん妄症状が引き起こされたとの結論に至り、論文にして発表する。競技人口の減少を恐れたNFLは、この論文を否定しようと躍起になるが・・・という話。

「コンカッション」は、脳震盪のこと。まさか邦題を「脳震盪」にはできないだろうけど、もうちょっと工夫してもいたいなあ。

まあ、型通り?に面白い映画ではあったけど、実話に基づくこともあって、NFLが、主人公やその上司に対して行う妨害工作等がマトモすぎるというか、あまり映画的迫力がなくてサスペンスが感じられないし、主人公の葛藤に深みがなかったように思う。

現実世界では、このような事件が明るみにでて、時の大統領が(実際には彼には娘しかいないが)「自分の息子がいたらアメフトをさせるのを躊躇するかも」みたいなコメントをしたらしいけど、彼はどっちかというとバスケや野球の方にご執心だったような・・・

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爆撃聖徳太子

2017年02月13日 | 本の感想
爆撃聖徳太子(町井登志夫 PHP文芸文庫)

隋が中国を統一し、近隣の大帝国の出現に脅威を感じた聖徳太子は、臣下の小野妹子を琉球や高句麗に派遣し、自らも暗躍して倭国への攻撃を予防しようとする・・・という話。

1万円・5千円の肖像画はかつて聖徳太子だった、といっても最近の若者にはピンとこないと思うものの、私たちの世代にとって太子の肖像は「ありがたいもの」として意識下に完璧に刷り込まれてしまっていて、おそらく死ぬまで消えないだろう(たとえ認知症になってもあの肖像だけは記憶に残存するように思える)。

そうした太子のイメージを崩壊させかけたのが山岸涼子さんの「日出処の天子」で、太子がエスパーだというのは昔からありがちな設定としても、宿敵であるはずの太子と蝦夷が相思相愛?というのがなんともぶっ飛んでいた。

「日出処の天子」は、遣隋使を派遣するところで終わったが、本書の主要部分はその後日談的な内容。ただし、太子が熱気球に乗って隋軍を爆撃する、などという類のエピソードが頻出するので、歴史ものというよりはSFというのがふさわしく、それもかなりハチャメチャ系という中身になっている。

また、小野妹子が活躍するシーンが圧倒的に多く、太子は添え物みたいな扱いで、太子の能力などのタネも明かされないのがイマイチだったし、蘇我一族がほとんど話にからまないのも残念かな、と思った。

そんな本書ではあるけれど、当時の先進地域である中国・朝鮮の国々と日本のかかわりが濃密(隋に追いやられて北九州に難民?が殺到したとか、倭国の支配層の多くが帰化人系だとか・・・どこまでホントかは??だとしてもありそうな話だと思った)だったんだろうな、と気づかされた点は読んでよかったところだった。
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沈黙

2017年02月12日 | 本の感想
沈黙(遠藤周作 新潮文庫)

子供のころ、近所にキリスト教会がありました。教会といっても、洋館風の建物で屋根の上に十字架がある、みたいな外見ではなくて、普通の和風?の民家だったのですが、玄関の横に「悔い改めよ」的なプロパガンダ?が大きな字で書かれた看板があって、怖くて近づけなかった覚えがあります。

キリスト教関連のもろもろが、子供ごころに怖かったのは、十字架にかかったキリスト像が恐ろしかったからで、どうして人を死刑にしたところを描写した像を拝むのかさっぱり理解できませんでした。そして、もう一つ、中学校時代に読んだ本書で「穴吊り」という究極ともいえる拷問方法を知って、ふたたび恐怖を感じた、という記憶もあります。(こちらはキリスト教そのものを対象にした恐怖ではありませんけど)

キリスト教について学んだり調べたりしたことがないので、どうして磔刑姿を偶像化したのか今でもよくわからないのですが、自分勝手に思うには、それを見る人に原罪意識を想起させるためなんでしょうか??
原罪を背負って生きなければならない浮世は苦しみに満ちていて信仰だけが死後の救済を保証する、というのが原理なのではないかと、これまた勝手に思っているのですが、そこからは本書の主人公がさかんにつぶやく「なぜ全知全能の神は現世で苦しむ私たちを(今すぐ)救済しないのか」という疑問は発生しないように思います。
一見、キリスト教における神を否定しているかに見える本書が、多くの聖職者や寝所に受け入れられている(らしい)のも、信仰によって現実世界における便益を期待してはいけないのだ、ということをうまく説明しているからではないかと感じました。
ただ、主人公(およびその師であるフェレイラ)は強大で厳格な教団のエリートという設定なので、もし、私の考えが正しいのなら、そんなことを理解していないというのはおかしな話で、ということは、やはり私の考えは誤りなのでしょうね。

(これまた怒られてしまうかもしれないのですが)本書の舞台となった時代は島原の乱の直後で、江戸幕府側の視点からすれば、キリスト教団は大規模な内乱を起こす能力があるテロ集団そのものだったでしょう。そして、どれだけ弾圧しても転ばない信者たちは、マインドコントロールから抜け出せない愚者に見えたことでしょうし、マカオから潜入してくる宣教師はテロリストの首魁というふうに見えていたことでしょう。さらに視点を裏返すと、現在の中東地域とかの特定宗教の信者から見ると、西側先進国は当時の江戸幕府と同じように見えるのでは?なんてことも思ってしまいました。

初めて本書を読んだ中学校時代から幾星霜、スコセッシまでが愛読者?だったことを知って(拷問シーンなどを読むのが怖くて)恐る恐る再読してみたのですが、ほとんど寄り道せずに一直線にテーマを語る手法で最初から最後まで緊迫感を保ったとても良い小説でした(そして拷問などの残虐な描写はほとんどありませんでした。記憶というのはいいかげんなものですな)。
凡庸な作家なら、マカオの情勢やロドリゴやフェレイラの昔のエピソードとかを挿入して緊張を途切れさせてしまったのではないかと。

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廃墟に乞う

2017年02月05日 | 本の感想
廃墟に乞う(佐々木譲 文春文庫)

主人公の仙道は北海道警捜査1課の刑事だが、捜査中にPTSDになって休職中。知り合いなどから頼まれて北海道各地で発生した殺人事件等に関わることになるが・・・という内容の短編集。直木賞受賞作。

解説によると、北海道各地の風土を描いてみたい、という動機で書き始めたそうで、確かに仙道の旅行記みたいにも読める内容になっている。特に表題作で描かれる元炭鉱町のさびれ具合や人心の荒廃の描写は印象に残った。

仙道が休職するきっかけになった事件は最終話でやっと明かされるという構成になっているのもなかなかうまい。著者の作品はどれもリーダビリティが高く、それなりに複雑な筋になっていてもすらすら読めるので気持ちよい

このように、本作は秀作ではあると思うけれど、著者の代表作とはいえないだろう。直木賞がベテラン作家への〝ご苦労"賞になっていて、作家そのものを表彰していて、作品そのものを評価していない傾向が最近は特に強いように思われる。まあ、出版社の販促手段の一つなんだと思えばそれも仕方ないが。
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