蛙と蝸牛

本の感想。ときどき競艇の話。

喜嶋先生の静かな世界

2013年11月01日 | 本の感想
喜嶋先生の静かな世界(森博嗣 講談社文庫)

数学と物理は得意だが、固有名詞を覚えるのが苦手の主人公は、大学にはいっても熱中できるものを見つけられない。
しかし、卒論の作成過程で研究の楽しさに気づき、修士課程、博士課程の指導者になった喜嶋助手との交流を通じて研究を極めようと、一日のほとんどの時間を大学で過ごすようになる・・・という著者の自伝的小説。

研究の内容にはふれずに、研究の面白さを読者にわからせるのはとても難しいはずだが、そこはかとなく伝わってきた。

著者が考える意味での“研究”の世界は、本当にごく限られた天才だけが理解でき、参加できるもので、しかしその世界に入り込んでしまえば、そこは、静かで平和で楽しみに満ちて、浮世に戻りたくなくなるような楽園のようなところらしい。

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「なんという平和だろう、と気づいた。いつまでもこんな静かな生活が続けば良いな、これが幸せというやつでは、と思った。これは、僕が大学にいるから、こんな調子なのではないだろうか。彼女みたいに働いていたら、毎日はこんなにのんびりしていられないはず。人間関係に揉まれて、余計なことを考えなくてはいけなくなる。自分の領域だけに籠っていることはできなくなるのだ。
喜嶋先生なんか、僕よりも十年も多く、きっともうずっとこんな静かな生活をされている。数式や数値計算の中に、すべての冒険、すべての興奮がある。それに比べると、実生活の毎日は、ほとんど変化がない。寝て、起きて、食べて、を繰り返すだけ。今の質素な生活で充分生きていけるのだし、生きていさえすれば研究ができる。ほかに必要なものがあるだろうか?」(P308-309)
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しかし、この楽園世界は天才にしか開かれていない。そうでない大半の人々には理解することも存在を認識することもできない。だから、あまりにも長い期間その世界にいすぎて実生活を欠かしていると、当然そこに深刻な歪みが生じることになる。例えると、パチンコ中毒で子供をほったらかして朝からいりびたる主婦(例えが下品ですな)みたいなものだろうか。

この小説も、事件や波乱もなく平和で静かに進行するのだが、最後のページに至って、“研究”という楽園の恐ろしい一面を垣間見させる。というか、最後のページを読むと「喜嶋先生の静かな世界」という、何てこともないタイトルが、とても怖いものに思えてきた。

著者のエッセイは大好きでほとんど読んだが、(スカイ・クロラシリーズを除いて)小説は、どうも、どこが面白いのか理解できなかった。しかし、本書はとてもいい。私がイメージするところの「小説かくあるべし」という小説だった。

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