蛙と蝸牛

本の感想。ときどき競艇の話。

グーグーだって猫である(映画)

2009年08月30日 | 映画の感想
グーグーだって猫である(映画)

大家といっていいマンガ家が主人公(小泉今日子)。
長年いっしょに暮らしてきた猫(サバ)が死んで落ち込んでいた主人公だったが、あたらしい猫(グーグーという名前)を飼うことにし、ちょっと気に入った男もできて立ち直る。しかし、彼女はガンに冒されていた。
主人公のアシスタント(上野樹里)は、絵画の勉強をするため留学を考えていたが、同棲している歌手の卵の男との関係をどうしようか、と悩んでいた。

気だるい感じの小泉さんが、功成り名遂げたマンガ家(でも心が通じていると感じられるのは猫だけ)の目標喪失感とか、孤独感とうまくマッチしてリアリティが感じられた。

上野さんは、(この映画でもそうであるように)天然系のキャラばかりが目立つのだけれど、本当にその路線でいいのでしょうか。美人・シリアス路線でも十分一流どころになれる天分があると思うんだけど。
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ハッピーフライト

2009年08月29日 | 映画の感想
ハッピーフライト

羽田発ホノルル行きの全日空機の、搭乗から出発、機体異常で羽田へ引き返すまでを、搭乗員、空港関係者を中心にドキュメンタリーっぽく、かつ、コメディタッチで描いた映画。

作り方によっては、面白くもなんともないようなものになりそうなのですが、脚本がいいのか、監督の腕なのか、とにかく最後まで楽しく見られました。細かいことを説明しすぎず、観客には雰囲気だけを味わってもらおうという作りが好印象の原因かも。

関係者の失敗とか、本音っぽい裏話があって、全日空の名前を全面的に出せたのがちょっと不思議(もちろん、本質的に全日空にとってまずい場面はありません)。

こういうのって誰が最終的にOKだすんでしょうか?部長レベルじゃないよねえ。やっぱり社長決裁?映画が公開になってからOBや株主が「何だあれ!」みたいなことになりかねないものね。
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激しく、速やかな死

2009年08月28日 | 本の感想
激しく、速やかな死(佐藤亜紀 文藝春秋)

フランス革命後の、貴族達の話を中心とした短編集。実際の書簡などから取材したもので、本歌取りのもとが巻末に「解題」として掲載されている。

「荒地」がよかった。
フランスの司教が革命政権に愛想をつかしてアメリカへ渡る。
すでにそこには土地や新規事業のもうけ話が氾濫していたが、「文化」とか「世間」とかといったものを見出すことができず、荒れ果てた原野があるだけに見えた、みたいな話。

「どの村もほとんど同じに見えることはもっと神経にこたえる。だが、一番こたえるのは、そこで生まれ、育ち、年老いた人間がいないことだ。老人に見える男も、働き盛りの男も、その土地では同じく十年しか過ごした事がない」

「世界はわたしが生まれる以前から続いており、わたしが死んだ後も続いて行く。そしておそらくは年若い友人たちや、弟の子供たちや、わたしの知り合いの昔話を耳にした見知らぬ若者たちを通して、わたしのしぐさや口癖や、やったことややらなかったことは暫く空に漂い、それから驚くほどやすらかに、世界のまどろみに溶け込んでしまう筈だった。」

前の引用がアメリカのことで、後の引用が主人公の郷里の話。
アメリカ化、あるいは、荒地化していく日本になぞらえたものだろうか。

後半の引用の続き。
「人間がそんな死に方をすることは二度とない。わたしたちが世界を包んでおいた穏やかな幕は裂けて落ちた。剥き出しになった荒地では、人は並ばされ、指差され、殺される。誰が、にも、いつ、にも意味はない。」
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モノレールねこ

2009年08月23日 | 本の感想
モノレールねこ(加納朋子 文春文庫)

日常の謎系のミステリ短編集。

「マイ・フーリシュ・アンクル」は、
父・母・祖父母が海外旅行中に事故で亡くなってしまった女子中学生の話。
この中学生は(祖母の具合が悪くなってから家族で)父の実家で暮らしていたが、そこには長年居候状態の父の年の離れた弟がいた。この弟は就学も就職もしていないいわゆるニート状態なのだが、家事も一切できず、ヘマばかりしている。
しかし、やがてこの弟がなぜロクデナシ状態になっていたのかが判明する。この謎解きが(リアリティはないけれど)意外感があり(かつ、伏線も十分にあったのに気がつかなかったので)面白かった。

「セイムタイム・ネクストイヤー」は、
5歳の娘を亡くして人生に絶望した母親が、娘の誕生日にあるホテルに泊まる。
するとそこに娘の亡霊が現れる。母親は来年も同じ日にホテルを予約し、そしてその日にはちょうど1年分年をとった亡霊が母親を迎えてくれる。
何年か同じことが続いた。母親は気づいていた。亡霊は娘によく似た子供を(夫に頼まれて)ホテルが差し向けていることを・・・
とここまでは(浅田次郎風の)何てことない筋なのだが、ある年、ホテル側は、“亡霊”が現れるのは今年で最後になると言う。
それはなぜか?という種明かしが、一ひねりしてあって、これも「作者にしてやられた」って感じだった
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酔って候

2009年08月16日 | 本の感想

酔って候(司馬遼太郎 文春文庫)

幕末に活躍した藩主四人(山内容堂、島津久光、伊達宗城、鍋島閑叟)を描いた短編集。

「竜馬がゆく」の感想でも書いたけれど、司馬さんは物語の登場人物への好き嫌いを、おそらく意識的に前面に出しているような気がする。

山内容堂と島津久光って、業績や人物の器にさして差がないように思えるけれど、本書においては、容堂は酒と詩を愛す英雄として描かれ、久光は(後嗣の人達が読んだら気を悪くしそうなほど)くそみそな扱いになっている。

二人が接触する場面として、京都での四賢侯の会議で旗色を鮮明にしない久光の態度にしびれを切らした容堂が久光を投げ飛ばすというのがある。
このシーンが容堂編でも久光編でも描かれている(「竜馬がゆく」にも出てくる)のだけど、これだって久光は戦略的にぐずを演じていたわけで、解釈のしようによっては容堂が単細胞な暴れん坊で久光は思慮深い人と、言えなくもないと思うのである。


さて、四編の中で小説として面白かったのは、「伊達の黒船」。主人公は宗城ではなくて宗城に蒸気機関の製造を命じられた市井の職人で、その苦労話なのだが、主人公の卑屈とも言える態度と、半面で工作に対する異常な執念との対比が、コントラスト豊かに描かれている。

歴史的知識として興味深かったのは「肥前の妖怪」で、これまで鍋島閑叟についての知識が全くなかったので、現代からタイムスリップしたかのような先見性と英明を持ち合わせた人がいたということに驚いた。
もっとも、そんな天才にもやっぱり欠点はあって、閑叟の場合は潔癖症がそれに当たる。トイレの後などの手水を何度も使わないと気がすまなかったそうで、正妻との初夜の後、何度も手を洗って妻に嫌われたというエピソードは笑えた。

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