マリアビートル
「グラスホッパー」の続編という触れ込み。登場人物が一部かぶっていたり、殺し屋どうしが殺しあうという筋立ては共通しているが、ストーリーは全く別物。
舞台は、東北新幹線の東京―盛岡間で、東北のフィクサーの息子(東京で監禁されていた)を救い出し、持って行った身代金はそのまま持ち帰れという仕事を依頼された殺し屋コンビ(名前は檸檬と蜜柑)、そのコンビから身代金を奪うことを依頼された殺し屋(名前は天道虫)、知能と自我が異常に発達した中学生、が主な登場人物で、視点がくるくる入れ替わって彼らが互い違いに物語を語る。
このスタイルはいつもの伊坂作品同様だが、他の作品では視点のズレが一種のトリックになっていることが多い。本作ではそういうひねりはあまりなくて、同じ事象を見方を変えて叙述されているだけと感じられたのが、ちょっと残念。
登場人物の名前(ニックネーム)がヘンテコだったり、殺し屋が「きかんんしゃトーマス」のディープなファンだったり、あっけらかんした殺人が次々起こるといった、不条理な設定・ストーリーなので、結末もやっぱりヘンテコで、いろいろな解釈が可能なものになっているんだろうなあ、と思わせるが、実際はものすごくカタルシスがあるラストになっている(これは「グラスホッパー」も同じ)。
このため、エンタテイメントを楽しく読んでスッキリした結末を迎えて良い気分になりたい、という場合にはすごくはまる作品である。
先入観なく、この作品を読んだら「うわーなんて斬新で、エキサイティングで、楽しい本なんだろう」と思うに違いなにのだけど、伊坂さんの小説を読みなれてしまった者としては「うーん、面白いんだけど、ちょっと二番煎じ気味?」と感じざるを得ない。
パート2ものというのは、パート1が成功していないと普通できないわけで、パート2が相当レベルが高くても(成功作である)パート1を遥かに超えているくらいでないと、観賞側としては、ちょっとがっかりしていまいがちだから、再度成功させるのはなかなか難しい。
しかし、作者にとっては、パート2ものは、基本的設定はできあがっているのだから、ラクチンな面もあるわけで、あまりに多忙だったり、ネタ切れだとどうしてもそっちに走りたくなるんだろうなあ、と想像できる。
本作の終末近く(P454)の次の部分って、もしかして、そんな気分になった忙しすぎる作者の嘆き??
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「七尾君、君、鋭いかもよ。スズメバチって、前に、寺原を始末して一躍有名になったから」と考えを整理するように喋る。「今度は峰岸をやって、また、名を揚げようとしたのかも」
「あの栄光をもう一度ってことかい」
「みんなね、アイディアに困った時は、過去の成功例を追いたくなるんだよ」