自由をつくる 自在に生きる(森博嗣 集英社新書)
実物を見たわけではないので、本当かどうかわからないが、著者のエッセイを読んでいると、著者が自分にも他人にもかなり厳しい規律を要求する人らしいことがわかる。
例えば、会合や打合せにわずかでも遅刻することは許しがたいようだし、ゼミの課題消化で睡眠不足になって居眠りする学生は論外のようだ。
私は、(著者が指摘する多くの人と同じように)「自由」という言葉には、例えば「他人との約束ごとに縛られない」「好きなだけ眠る」ということだというイメージがある。
しかし、著者は、このような考え方は、「自由」ではないという。
例えば「好きなだけ眠る」というのは、自分自身の身体に「支配」されているからそうなっているに過ぎないと。
起床して学校や職場に行かなくては、という思いのとおり「自在」に活動できていなのだから「自由」ではないとする。
そして、そういった様々な(多くの人にとっては「支配」とも感じられないようなこともふくめ)「支配」から(自分自身の努力や才覚によって)逃れて、本当に自分がしたいことが必要十分なだけできる状態が、著者が定義する「自由」だという。
著者とその家族が自分の定義した「自由」にかなり近づけた要因は、著作がヒットして印税がはいったからだ、と(有体に)書いているのも、この手の本としてはなかなか良心的だと思った。(この手の本では、カネ、しかも著者自身のカネの話をするのはよろしくない、といった風潮があるように思うので)
実物を見たわけではないので、本当かどうかわからないが、著者のエッセイを読んでいると、著者が自分にも他人にもかなり厳しい規律を要求する人らしいことがわかる。
例えば、会合や打合せにわずかでも遅刻することは許しがたいようだし、ゼミの課題消化で睡眠不足になって居眠りする学生は論外のようだ。
私は、(著者が指摘する多くの人と同じように)「自由」という言葉には、例えば「他人との約束ごとに縛られない」「好きなだけ眠る」ということだというイメージがある。
しかし、著者は、このような考え方は、「自由」ではないという。
例えば「好きなだけ眠る」というのは、自分自身の身体に「支配」されているからそうなっているに過ぎないと。
起床して学校や職場に行かなくては、という思いのとおり「自在」に活動できていなのだから「自由」ではないとする。
そして、そういった様々な(多くの人にとっては「支配」とも感じられないようなこともふくめ)「支配」から(自分自身の努力や才覚によって)逃れて、本当に自分がしたいことが必要十分なだけできる状態が、著者が定義する「自由」だという。
著者とその家族が自分の定義した「自由」にかなり近づけた要因は、著作がヒットして印税がはいったからだ、と(有体に)書いているのも、この手の本としてはなかなか良心的だと思った。(この手の本では、カネ、しかも著者自身のカネの話をするのはよろしくない、といった風潮があるように思うので)
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