蛙と蝸牛

本の感想。ときどき競艇の話。

きみはいい子

2016年08月21日 | 本の感想
きみはいい子(中脇初枝 ポプラ社)

大都市郊外の桜が丘小学校を中心にして、児童虐待をテーマにした連作集。
ネグレクト、遺伝的?虐待(親に虐待された子供が自分が親になった時に子供を虐待してしまう)、しつけ・教育の行き過ぎ、といった様々な形態の虐待を扱う。

それぞれに、悲しく、せつない内容なのだが、特に印象に残ったのはネグレクトを扱った「サンタさんの来ない家」。
主人公の新米小学校教師は、初任年に続いて2年目の担任クラスでも学級崩壊の危機に瀕していた。ために目立たない児童にまで目が届かない。しかし、痩せているのに給食はいつもおかわりし、いつも同じ服を着ている子がいることにある日気づく。その子はどんな時も5時まで校庭にいた。帰っても家にいれてもらえないのだ。主人公はその子の家を訪ねるが、父親はどうみてもその筋の人。何も言えないまま引き揚げる・・・という話。
ありふれた話といえばその通りだし、あざといと言えなくもないけど、学校や父母と子供たちの間に板挟みになった新米教師の心境の変化がうまく絡んでいて、感動を誘った。

「こんにちは、さようなら」は、孤独な老女と、その老女の庭先を通る時、いつも挨拶してくれる小学生の話。
この小学生には障がいがあり、ある日、家の鍵をなくしてしまって老女の家で時間をつぶすことにする・・・という話。この子供がいう仕合せの定義がよかった。「しあわせは、晩ごはんを食べておふろに入ってふとんに入っておかあさんにおやすみを言ってもうらうときの気持ちです」

「うばすて山」は、元教師の母親から厳しく躾けられた主人公が、痴呆症になってしまった母親の介護をする話。虐待を受けた親を介護しなくてはならなくなった時、どうしたらいいのか・・・重い、しかし現代的なテーマだった。
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折れた竜骨

2016年08月19日 | 本の感想
折れた竜骨(米澤穂信 東京創元社)

12世紀終わりのイギリス、北海に浮かぶ小島:ソロン島の領主は、ヴァイキングの部族「呪われたデーン人」の襲撃に備えて傭兵を募っていた。
その領主は何者かに殺されてしまう。
「暗殺騎士」撲滅を目的として各地を巡る騎士ファルクとその弟子:二コラ、領主の娘:アミーナは領主を殺した犯人を捜す。しかし、その前に「呪われたデーン人」たちが島を襲う・・・という話。

魔術が現実であるという特殊な設定にのっとって「領主を殺したのは誰か」を、論理的に推理するミステリ。
そのミステリ部分は確かにロジカルで、最後のドンデン返しもふくめて納得性は高かった。

しかし、小説としては「呪われたデーン人」(首が体か断ち切られるまで何をされても死なない)たちと領主が集めた特殊な能力(青銅の巨人をリモートで操るとか)を持った傭兵たちと戦うシーンの方が面白かった。

続編が期待できるような終わり方なので、今度はジョン王時代のロンドンあたりを舞台にして、獅子心王が魔術で甦って・・・みたいな話だととても面白そうなんだが。
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ザ・万字固め

2016年08月17日 | 本の感想
ザ・万字固め(万城目 学 文春文庫)

著者の小説は一つも読んだことがないのだが、朝日新聞の土曜版に連載されていた食に関するエッセイ連載(本書に収録)がとても面白かったので、本書の前作「ザ・万歩計」を読んでみたところ、これまた良かった(特にモンゴルの旅行記がよかった)ので、本書を購入した。

冒頭の「ナチュラル・ボーン」がいきなり良い。人間の骨に興味を持つ受験生が日本で唯一骨の研究をしている東大に8浪して入学する話。どうも作り話っぽいが、それでも面白かった。

冒頭で述べた新聞連載の中では、特に浜松?での鰻の話とモンゴルでのミルクティーの話がいい。

ギリシャの島々への旅行記(島をカブで走り回る話)は、景色の描写が素晴らしい。

そして、極め付きは「やけどのあと」。著者は配当目当てに東電株を1000万円分くらい買うが、その直後に東日本震災が発生して、東電株は大幅な値下がりを見せる。納得できない著者は株主総会に出席するが、かえって不条理感を強めるだけに終わる・・・という話。うーん、普通の人なら絶対表沙汰にしたくなさそうなこんなプライベートな話までネタにしてしまうなんて・・・作家の業というものでしょうか。
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帳簿の世界史

2016年08月17日 | 本の感想
帳簿の世界史(ジェイコブ・ソール 文芸春秋)

複式簿記が、企業会計のみならず、国家財政の記録と財政状態の把握に果たした役割を様々な例をあげて検証する内容。

「会計が文化の中に組み込まれていた社会は繁栄する、ということである。ルネサンス期のイタリアの都市ジェノヴァやフィレンツェ。黄金時代のオランダ。18世紀から19世紀にかけてのイギリスとアメリカ。本書で取り上げたこれらの社会では、会計が教育に取り入れられ、宗教や倫理思想に根付き、芸術や哲学や政治思想にも反映されていた。」(334P)
というのが本書の主張。

本書の中核である“複式簿記の利点“の説明がほとんどないのがイマイチかな、と思った。多分、ある程度会計知識がある読者を想定しているためだろうが。

以下は、ど素人の個人的意見。
複式簿記の利点は(本書でも少々言及されているように)期間利益がある程度迅速・正確に把握できることにあると思うが、もう一つ、資本的支出と費用的支出の分別もあると思う。
そしていくら正確に帳面をつけていても、期間利益、支出の分別についての解釈に規律(保守性)がないと役に立たないどころか様々な害悪をもたらすこともある。

本書で紹介されたエピソードで印象に残ったのは、次の2点。
・スペイン全盛期の王:フェリペ2世は「その広大な領土に遠征することはほとんどなく、エル・エスコリアル宮殿に閉じこもって政務に精を出した。その執務室には膨大な量の書類や報告が運び込まれ、フェリペ2世は「書類王」と呼ばれたほどである。王は世界中から送られてくる報告書を読み、返事を書こうと努めたものの、書類の数は年間10万通以上にもおよび、とても人間業で処理できる量ではなかった。」(P117-118)

・2000年代、アメリカの大手会計事務所では(利益のあがる)コンサルティング部門が幅をきかせ、本来業務の監査は軽視されがちだった。これがエンロンやリーマンといったその後の様々な不祥事につながった。
「シカゴにあるアーサー・アンダーセンの本社を訪れた人は、監査部門が相変わらず冴えない地味なオフィスで仕事をしているのに対し、コンサルティング部門は立派な家具を据え付けた豪華なオフィスで働いているのを見て衝撃を受けたにちがいない。」(P324)
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電車に忘れ物

2016年08月15日 | Weblog
電車に忘れ物

今までに電車に忘れ物をしたことが4回ある。
1回目は読みかけの本がはいった小さなカバン(大阪の地下鉄)
2回目はスラックス。サイズ直しをしてもらって出来上がったばかりのものを網棚に置き忘れた(南海)
3回目はジャンパー。暖房がききすぎていて暑かったので脱いで網棚にのせておいたら忘れた(JR東)
4回目はお弁当。朝、会社に行く途中で置き忘れた(JR東)

1~3回目までは探したりしなかったが、4回目は奥さんに怒られそうだったので、会社について鉄道会社の問い合わせセンターへ電話した。そこでは不明とのことだったが、乗っていた電車が上野止まりの電車だったので、上野駅へ電話したら確保しているとのことで、昼休みに取りに行った。

家族では、息子が携帯電話を忘れたことがあり、これもセンターへ電話したら不明だったが、乗っていた電車の終着駅(千葉)に電話したところ、駅で確保しているとのことで、そこへ取りに行かせた。

多分、駅で一定期間確保して申し出がなければセンターに回送することになっていて、回送前に役に電話したために、上記のような結果になったと思う。
2回探したら2回とも見つかった(しかも両方とも終着駅で駅員さんがピックしてくれたと思われる)ので、「東京(日本)ではおカネがはいった財布を落としてもそのまま戻ってくる」という売り文句?はまんざらウソではないのだろう。

冒頭に記した4回の忘れ物はいずれも通勤途上でのできごとだが、約30年くらい電車通勤していて4回というのは、多いのか少ないのか?(というか、書いていて思ったのだが、30年も電車通勤をしているということ自体が、お迎えの車が来るような地位になれていないという意味で情けないことであるなあ)
私が平均的な通勤客と仮定すると、8年に1回くらい全通勤客が忘れ物することになり、電車会社が確保する忘れ物の量はものすごいことになりそうだし、保管・管理するには莫大な労働力が必要になりそうだ。
ターミナル駅で「お忘れ物がないか今一度ご確認ください」と何度も連呼されるアナウンスは、単なる定型のご挨拶なんではなくて、実は切実なお願いなんだ、と思えてきた。
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