あるきメデス

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山陽路3日間の旅③ 周防大島 宮本常一ゆかりの地を訪ねる(山口)

2014-05-17 18:42:15 | 国内旅行
 2014年5月9日(金)
 == 周防大島で宮本常一ゆかりの地を巡る ==

 宿泊した周防大島町(すおうおおしまちよう)西方(にしかた)のかわい寿し旅館で起
床後、3階の窓を開けて周辺を眺める。


 南側間近に下田(したた)八幡宮の森が望まれる。




 北側には国道437号を隔てて、瀬戸内海をイメージしたというブルー色トラックの
陸上競技場、隣接する総合体育館、近くの小島、我島などが目に入る。




 7時半からの朝食を済ませ、荷物を預けて8時半過ぎに宿を出た。今日も4時間ほどで、
この町出身の民俗学者、宮本常一(みやもとつねいち)ゆかりの地を訪ねる予定である。

 ちなみに、周防大島は山口県の東南部に位置し、地形図では「屋代島」となっている。
全島が周防大島町。瀬戸内海の島では淡路島、小豆島に次き、面積は約138㎢ある。

 東西に直線で約28㎞、南北の最長部で約13㎞あるが、大畠駅から宿のある西方まで
は、国道距離では約24㎞になる。

 比較的温暖な気候から、島全域でみかんの栽培が盛ん。瀬戸内海の魚介類の収穫も多く、
観光客は年間約90万人訪れるという。宿泊した西方は金魚のような形をしたこの島の、
尻尾の上部つけ根の辺りになる。

 宮本常一は、宿と同じ旧家室西方(かむろにしがた)村で明治40年(1907)に生
まれた。学生時代に柳田国男の研究に関心を示し、その後渋沢敬三に見込まれ本格的に民
俗学の研究を行い、1930年代から亡くなる昭和56年(1981)まで日本各地を訪
ね、歩いた距離は地球4周分の約16万㎞といわれている。

 宮本は、単なる民俗学者としての活動に止まらず、農業技術の指導者として、あるいは
離島振興に情熱を傾け、埋もれた地域芸能の発掘と育成などで地域の活性化を図るプロデ
ューサーとして、さらに、既成概念にとらわれない手づくりの組織で、若者たちに生きが
いを植え付ける教育者としても尽力している。

 宮本の足跡を追った佐野眞一著「宮本常一がみた日本」で、宿泊したこの西方が出身地
と分かっていたので、前夜、宿のおかみさん聞いていた生家の場所をまずは訪ねることに
する。

 国道の南を並行する旧道を少し西進する。大島特産のサツマイモ、「大島あんのう」と
「東和きんとき」の無人スタンドがあった。
    
 ここが宮本常一の生家らしいが、平屋の建物は当時のものではなさそう。狭い庭先に、
サツマイモを洗うのに使う箱がたくさん積んであった。


 すぐ先に下田八幡宮の石鳥居があり、石段を上がった境内は豊富な広葉樹林に覆われ、
「下田八幡宮樹林」は山口県の「自然記念物」に指定されている。

 宮本常一は少年時代、この森が遊び場だったようで、当時は小学校も下田八幡宮にあっ
たという。


 権現造りの社殿は予想以上に大きく、背後の本殿には精巧な木彫が施されている。
        

 拝殿に貼られた最近の奉納金者の中に、宮本の三男、光さんの名も見られた。

 東側に下り、国道にへ移行する旧道を次の平野集落に向かう。東和中前を過ぎ、長崎集
落が終わると旧道は国道437号に合する。


 瀬戸内海に沿って走る国道からは、島内の嵩山(618.m)や、昨日バスで通過した
島の北西部の展望が広がる。国道は海と反対側に幅広い歩道があり、車の交通量も少なく
安心して歩ける。

 平野集落に入ると再び国道に平行する旧道がある。JAの前を過ぎ、集落の中心部の
国道際に二つの建物が見えてきた。「星野哲郎記念館」と「周防大島文化交流センター」
である。


 最初に、手前にある近代的な造りの星野哲郎記念館(入館料510円)に入る。
    

 星野哲郎は大正14年(1925)に現在の周防大島町和佐に生まれ、高等商船学校
(現・東京海洋大)を卒業後、日魯漁業(現・ニチロ)のトロール船に乗る。

 腎臓結核の闘病を経て作詞家の道に入り、島倉千代子の「思い出さん今日は」、畠山
みどりの「恋は神代の昔から」、水前寺清子の「三百六十五歩のマーチ」、小林旭の
「昔の名前で出ています」、北島三郎の「風雪流れ旅」、鳥羽一郎の「兄弟船」美空
ひばりの「乱れ髪」など、多くの歌手のヒット曲を世に送り出した。

 平屋建てガラス張りの細長い館内は、星野劇場、ギャラリー、収蔵庫、星野工房、星
野歌酒場などに分かれ、星野作曲の歌を聴いたり歌ったり、星野の年表やレコード大賞
ほかの受賞楯などが観覧できるが、写真撮影は禁止だった。入口の右手には、周防大島
町東和総合支所のエリアもある。




 建物の突端から「山のテラス」と呼ぶ芝生広場に出ると、瀬戸内海や周防大島北西部、
近くの島々などの気持ちよい展望が広がる。


 予定以上の50分ほど観覧して退館した。




 隣接する周防大島文化交流センターの建物前には、大きな樽や小舟が展示されている。
建物に入り、受付で入館料(星野哲郎記念館入館者割引200円)を払う。館内は撮影
禁止だが申請すれば撮影可能なので、撮影許可書に記入して許可をもらった。

 左手の展示室に、周防大島に来た主目的である宮本常一関係の展示がある。手前のロ
ビーには、機織り機が並んでいた。
    

    
 展示室の最初は、周防大島東部の生産用具のコーナー。宮本常一の指導で昭和51年
(1976)から地元有志が収集した民具は2万点にのぼるとか。

    
 それらの中から農耕、養蚕、運搬、漁労用具約200点が展示されていた。これらの
多くは国の重要有形民俗文化財に指定されているという。

    
 宮本常一が旅に持ち歩いた、愛用の遺品も展示されていた。
    

    
 壁面の両側はパネル展示。左手は「写真でつづる宮本常一」で、周防大島での青小年
時代から、渋沢敬三との出合いやアチックミュージアム研究員の時代に全国を巡った写
真、武蔵野美大や日本観光文化研修所での後進の育成時代などの写真や年表が並ぶ。
    
 右手は企画展示「宮本常一、島へのまなざし」。宮本が尽力して制定された離島振興
法制定から60年を記念したもので、宮本が生涯にわたり訪ね歩いた、日本の島々に暮
らす人々の営みを撮った、貴重な写真が展示されていた。

 奥のコーナーには宮本の著書、関連の文献や資料の書庫があり、手にとって傍らのテ
ーブルで自由に閲覧でき、宮本が日本各地で撮った約8万9千枚に及ぶという写真も、
横の専用パソコンで閲覧できる。
    

 壁面展示の反対側は、長州大工のコーナー。江戸時代以降、主に四国の伊予、土佐の
神社の宮大工として腕を振るった周防大島出身の大工の建築した、神社の足跡や写真な
どの説明パネルがあり、先ほど見た下田八幡宮の見事な彫刻も、地元長州大工の作品と
知れる。
    
 パネルの下には木組みの実物がたくさん並び、長州大工の伝統的な木造建築で用いた
「木組み」の技法が、手にとり分解して理解できるようになっていた。
    

 別のコーナーでは、宮本常一の生涯を紹介した岩波書店制作のフイルムを上映してい
た。45分間にわたる映像を見て、宮本の生い立ちや偉大な業績を再確認した。

 11時近くに入館し、ゆっくり観覧して12時40分頃、周防大島文化センターを出
た。

        
 館の前の広場に、初めて見たクワ科の亜熱帯植物・アコウ(榕、赤榕、赤秀、雀榕な
どと書く)が実り、傍らにピンクの花がたくさん咲いていた。
    

 帰りのバスまで1時間となったので、急ぎ国道を宿に向かって戻る。宿のそばの道の
駅の手前に、りっぱな日本家屋が見えた。

 町指定文化財「服部屋敷」で、旧東和町西方にあった屋敷を移築、復元したもの。東
和町は長州大工の拠点で、その大工たちの代表作の一つとか。江戸末期や明治中期に建
設された主屋、土蔵、土蔵などがあるようだが、時間が無いので道路側から眺めるに留
めた。


 「道の駅サザンセトとうわ」に入り、急ぎ周防大島産品の中から目についた何品かを
求める。
    

    

 食堂もあったが昼食の時間は無い。パンも買い、宿に戻って預けた荷物を受け取り、
そばの周防長崎バス停で待つ。間もなく来た13時39分発の防長バスに乗る。



 車中で昼食代わりのパンを口に入れ、往路の国道を戻って14時21分にJR大畠駅
に着いた。

 大畠駅発14時42分の山陽本線上り電車で岩国駅まで行き、乗り継いで広島駅へ。
広島駅発16時17分さくら558号を、新大阪駅でひかり532号に乗り継ぎ、東京
駅には21時10分に着いた。帰宅したのは22時45分に近かった。

(天気 晴、距離 4㎞、地図 2万5千分の1・安下庄(あげのしよう)、パンフレ
 ット「周防大島遊び場ナビ」地図、歩行地 山口県周防大島町)

 3日間とも現地観光の時間は半日足らずだったが、予想以上の見聞や思いがけぬ出合
い、素晴らしい新緑と瀬戸内の景観、そして天候にも恵まれ、充実の3日間だった。




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